2021年02月17日
マダガスカル島現代人の起源
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_18.html
マダガスカル島現代人の起源に関する研究(Heiske et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。何世紀にもわたって、マダガスカル島集団の起源は謎めいたままでした。この問題に関する歴史的文献は豊富で、少なくとも16世紀のポルトガル船員によるマダガスカル島への到来までさかのぼれます。マダガスカル島はアフリカ東部沿岸から400km未満、他の海岸線から1000〜数千km離れた場所に位置しますが、マダガスカル島への古代人の到来に関しては、アジアやインドやメラネシアやアラビア半島やペルシアやセム語派の集団が提案されてきました。しかし20世紀まで、マダガスカル島集団の起源に関する合意はなく、最も議論された問題の一つは、アフリカ人系統の重要性でした。本論文は遺伝的結果によりマダガスカル島集団の起源に関する歴史的な問題がどの程度解決したのか、評価することを目的とします。まず、なぜ多くの起源集団が提案されてきたのか、調べます。次に、20世紀の遺伝的結果を再調査します。最後に、最新の結果に基づいて、マダガスカル島集団の起源に関する理解しにくい問題への「現時点」での回答を提示します。
●起源に関する歴史的要素と理論
マダガスカル島人類集団の起源に関する最古かもしれない文献は、ムハンマド・アル=イドリースィーが12世紀に残した記録で、シュリーヴィジャヤ王国と関連した「Komr(コモロ諸島)」とあり、イブン・サイード・マグリビーが13世紀に残した記録では、「中国人」と関連した個体群が見えます。しかし、古代ギリシア・ローマ世界やアラブや中国の人々によるインド洋の記録には不確実性があります。早くも1604年には、マダガスカル島は古代の宇宙地理学者に本当に知られていたのか、それとも「最近発見された」のか、その結果として、マダガスカル島を「古代世界」と「新世界」のどちらに分類すべきなのか、問題にされていました。
16世紀の変わり目に、マダガスカル島沿岸へ最初に行ったポルトガル艦隊の報告では、2つの集団が報告されました。一方は、アフリカ人集団と関連した濃い肌の色の個体群で、もう一方はアラブ人移住者で構成された海辺の都市に住む集団です。1559年、ポルトガルの船員の報告では、マダガスカル島の個体群はジャワ人のような外見と言語で、マダガスカル島東部はジャワ人集団により入植されたかもしれない、と結論づけられました。1611年の報告には、マダガスカル島は中国人により入植され、住民の顔はその顔色を除いて中国人と似ていると「言われている」、とありました。1614年、イエズス会の司祭は、マダガスカル島北西部沿岸地域に住んでいた、モザンビークとマリンディ出身の集団を報告しました。しかしイエズス会の司祭には、マダガスカル島内陸部全域では、マレー語とひじょうに類似した言語が話されているように見えました。したがってイエズス会の司祭は、マダガスカル島最初の住民はマラッカの港から来た、と結論づけました。
これらの報告に加えて、マダガスカル島南部の住民はオランダの船員に、祖先の一部はポルトガルやマンガルール(Mangalore)やメッカから来た、と説明しました。1655年、宗教的慣習の研究に基づいて、マダガスカル島集団の一部がアブラハムの系統に属していると示唆されましたが、ペルシアのイスラム教徒の子孫との推測もありました。1781年には、言語の類似性に基づいて、マダガスカル島に古代フェニキアの交易所があった、との見解も提示されました。
これらマダガスカル島人類集団の起源に関するさまざまな物語は19世紀に議論され、1908年には、少なくとも50人の著者が異なる起源を仮定しました。当時、マダガスカル島中央高地の人々は最近到来したマレー語話者集団の子孫で、より濃い顔色の海岸部の人々は、アフリカのバンツー語族話者集団の古い移民の子孫である、との見解が優勢でした。これに加えて、アラブ人やインド人やヨーロッパ人による後の到来と限定的な寄与が想定されました。口頭伝承に基づいて、ヴァジンバ・キモジー(Vazimba/Kimosy)のような、後の移民により置換されたかもしれない、オーストロネシア人もしくはアフリカのピグミーのどちらかと関連した、未知の起源集団のより早期の存在も主張されました。1927年、デュボアはマダガスカル島集団の起源に関する5つの独立した理論を特定しました。そのうちの1つはグランディディエ父子により提案され、マダガスカル島沿岸部集団はアフリカ人の子孫ではなく、むしろパプア人・メラネシア人の子孫だ、というものでした。この仮説は、現在のマダガスカル島集団へのアフリカ人とオーストロネシア人の寄与に関する問題を活発な論争に変えました。
20世紀には、言語学と考古学の進歩が議論を支えました。資料の不足にも関わらず、考古学的研究ではマダガスカル島における古代の人類の存在が示唆されました。じっさいマダガスカル島では、1万年以上前の大型鳥であるエピオルニス(Aepyornis maximus)の骨の人為的痕跡が報告されています(関連記事)。しかし現在まで、こうした古い時代の居住者の起源に関するさらなる兆候はありません。対照的に、言語学的分析では、マダガスカル語は南ボルネオ島で話されているマニャーン語(Ma’anjan)と密接に関連している、と示されてきました。言語の借用に基づく年代測定からは、紀元後千年紀内の他のインドネシア集団からの先マダガスカル島集団の最近の分岐が示唆されます。現代のマダガスカル語へのアフリカ人の寄与はひじょうに限定的と考えられていました。
●アフリカ人とアジア人の祖先の割合の推定
20世紀初頭以来、遺伝学により目に見える表現型の特徴に基づいた考察を超えることが可能になりました。マダガスカル島における、ABO式血液型のB型アレル(対立遺伝子)頻度に基づいて、パプア人・メラネシア人集団にはそれが欠けていることから、20世紀前半にパプア人・メラネシア人集団からの大きな影響は除外され、代わりにインドやジャワ島からの推定上の系統が提案されました。さらに1957年に、マダガスカル島のハプロタイプで観察されたRh血液型の頻度を得るために必要な、バンツー語族集団とジャワ島集団との間のアレル比率を計算すると、遺伝的にマダガスカル島集団はアフリカ人2集団およびアジア人1集団と仮定されました。マダガスカル島集団におけるヘモグロビンS型の存在は、これがアフリカとインドとアラビア半島のどれに由来するのか、という議論を惹起しました。インド・アラビア半島起源説では、人類集団がマダガスカル島に移住する前に、ボルネオ島とスラウェシ島の船乗りたちがインド南部の集団と混合した、と想定されました。この仮説では、マダガスカル島住民系統へのアフリカ人集団の寄与は限定的と示唆されました。
1990年代半ばに、DNAに基づいた証拠を有する最初の研究が刊行されました。この新たな分子的手法を用いて、マダガスカル島集団に存在するヘモグロビンS型はバンツー語族話者集団に由来すると示され、インド・アラビア半島起源説と矛盾しました。さらに、マダガスカル島集団でも確認されているアフリカ西部とポルトガルに存在する血液型が特定されました。これは、16世紀にヨーロッパの船員がおそらくアフリカ西部の奴隷とともに到来した現象と関連づけられました。さらに、変異していない型の分析から、アジア東部およびオセアニアとアフリカからの混合の寄与が示唆されました。対照的に、2つの研究では、アジア東部からの顕著な寄与と、アフリカからのわずかな兆候が特定されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の9塩基対欠失の分析に基づいて、マダガスカル島の280個体標本の18%でポリネシア人の塩基配列が特定されました。別の分子研究では、HLAクラスIIハプロタイプ分析と、中央高地の農村共同体の55個体に由来するデータに基づいて、マダガスカル島住民とジャワ島住民との間の集団類似性の分子証拠が示されました。
いくつかの要因により、20世紀のさまざまな遺伝学的研究により提示された、マダガスカル島集団の遺伝的構成へのアジア人とアフリカ人の寄与の程度に関する、明らかに矛盾する結果を説明できます。たとえば、創始者効果の影響や、単一の遺伝標識の進化史がゲノムを表していないかもしれない、という事実を考慮に入れる必要があります。また、標本構成の関連性についてほとんど議論されていませんが、特定の遺伝標識の頻度は、研究対象の集団によりかなり異なる可能性があります。たとえば、標本抽出された個体の大半は、「メリナ(Merina)」と呼ばれる「部族」に分類されましたが、「メリナ」はじっさいには、マダガスカル島の中心部を指す地理的用語です。じつさい、集団分類は不適切である場合が多く、特定の表現型や祖先、文化的特異性、推定上の利益、出生地もしくは現時点での居住地に基づいているので、取り扱いには注意が必要です。
21世紀の変わり目に、一連の研究により、マダガスカル島集団におけるアフリカ人とオーストロネシア人両方の構成要素の存在が確認されました。しかし、両者の相対的な寄与を定量化しようとする分析は、依然としてさまざまな結果を示します。たとえば、67個体の15ヶ所の常染色体縦列型反復配列(STR)特性に基づくと、アフリカ人系統が66.3%と推定されました。一方、いくつかの系統分析では、mtDNAとY染色体の系統分析により、混合比が推定されました。ただ、mtDNAとY染色体はそれぞれ母系と父系を表しており、系統全体を代表しているわけではありません。マダガスカル島中央高地集団に関する研究では、mtDNA系統の38%、Y染色体系統の51%がアフリカ人に由来する、と推定されました。中央高地集団と南東部集団との比較により、地域的違いと性的に偏った混合の兆候が見つかり、Y染色体系統では73%、mtDNA系統では38%がアフリカ人に由来する、と推定されました。
逆に、同様のデータセットの異なる分析では、母系でのアフリカ人の寄与がわずか7%に限定されている、と示唆されました。これは、マダガスカル島集団で高頻度であるものの、推定上の起源集団(ボルネオ島)では欠けている、固有のmtDNA系統の以前の発見に基づいていました。シミュレーションでは、これは93%のアジア系子孫の女性のひじょうに限定された人数によるマダガスカル島の定住の結果かもしれない、と示唆されました。しかし、このモデルは他のパラメータ(現在の混合比や包括的なmtDNA多様性など)を考慮しておらず、代替仮説(複数集団の到来)を調べませんでした。
2017年に、マダガスカル島全域の住民の包括的なゲノム研究が公表され、遺伝的多様性の観点からの広範な見解が提示されました(関連記事)。この研究ではマダガスカル島全域の300ヶ所の村で標本抽出され、10年間の集中的研究により包括的な分析が可能となりました。マダガスカル島のような大規模な地域のゲノム多様性が、ゲノミクスと言語学と民族誌を組み合わせた体系的な現地研究手法により標本抽出されたわけです。
マダガスカル島全域におけるアフリカ人とアジア人両系統の存在は、各個体(地域系統)のゲノム断片の起源の評価と、ゲノム全体の独立した何千もの多型に基づく類似の計算手法の適用により、示されました。平均して、アフリカ人系統は59%、アジア人系統は37%、ユーラシア西部人系統はわずか4%でした。興味深いことに、系統の割合は全染色体で同一ではありませんでした。じっさい、マダガスカル島集団のゲノムは、現代人で報告された最近の選択の最も強い兆候の一つを示しました。アフリカ人起源のアレルは、1番染色体の1/4以上(約6000万塩基対)で選択されてきました。この選択の最も可能性が高い候補は、ダフィーヌル血液型です。この遺伝子型は、アフリカには存在しない寄生虫である三日熱マラリア原虫(Plasmodium vivax)に対する耐性を提供します。注目すべきは、この寄生虫がマダガスカル島にアジア人集団によりもたらされた可能性がある一方で、保護変異(ダフィーヌル血液型)はアフリカ人集団により導入された、と示唆されることです。
さらに、集団の遺伝的構造とマダガスカル島の鳥との間の相関関係が検出されました。いくつかの遺伝的クラスタは、混合年代と割合の点で同一です。これは、マダガスカル島における自然地理や王国の形成のような外的要因がマダガスカル島集団のゲノム景観に影響を及ぼし、おそらくは人口移動や交流による影響を受けた、と示唆します。それにも関わらず、アフリカ人系統とアジア人系統の相対的な割合には著しい地域差があり(図1および図2)、これは局所的な標本抽出に基づく起源に関する以前の結論が、マダガスカル島集団を全体として推定できなかった理由を説明します。興味深いことに、最大のアフリカ人系統を有する集団はマダガスカル島北東部、とくに17世紀の記録でアフリカの言語(マダガスカル島の他地域とは対照的です)を話していた集団が居住していた、と報告されている地域で見つかった一方で、最大のアジア人系統を有する集団は、中央高地で見つかったことです。以下、本論文の図1(常染色体ゲノム規模の、aはアジア人系統、bはアフリカ人系統の割合)および図2(アジア人系統の、aは母系、bは父系の割合)です。
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●具体的な起源集団と移住年代の特定
系統の割合に加えて、DNAに基づく研究では、マダガスカル島への移住につながるシナリオの理解に焦点が当てられてきました。ゲノム規模分析により、マダガスカル島の個体群はアフリカのバンツー語族話者集団およびアジアのオーストロネシア語話者集団と強い遺伝的つながりを共有している、と判明し、どちらかの子孫の個体群による移住が示唆されています。これらの分析は、インドやアフリカの角やメラネシアの現在の住民と関連した集団による大きな寄与を提案する仮説に異議を唱えます。さらに、マダガスカル島集団を狩猟採集生計戦略のアフリカ人集団と関連づける証拠はありません。とくに、ミケア(Mikea)の森に居住しているマダガスカル島の狩猟採集民集団に関しては、異なる起源が推測されています。しかし、ゲノム規模分析では、ミケアの森の狩猟採集民集団はマダガスカル島の他の現代人と同じ系統を共有している、と示されており、最近の文化的「復帰」が示唆されます。それにも関わらず、ユーラシア西部由来の系統のような、マダガスカル島集団の系統で特定されてきた他の小さな系統構成があります。これはとくに、アラビア文字のソラベの使用のような、アラブ・イスラム教的側面を組み入れているように見える、特定のマダガスカル島集団に関連しています。しかし恐らく、マダガスカル島集団系統のこれらユーラシア西部構成要素は、ヨーロッパからのもっと最近の寄与にも由来しているかもしれません。しかし、これに関してはさらなる分析を通じて明らかにする必要があります。
言語学的研究と一致して、片親性(母系のmtDNAと父系のY染色体)およびゲノム規模分析により、マダガスカル島集団に最も近い集団はアフリカ東部のバンツー語族話者集団と、マカッサル海峡周辺のオーストロネシア語族話者集団である、と判明しました。しかし、片親性遺伝標識の詳細に関しては、アジア側に難問があります。Y染色体の多様性は、マカッサル海峡の西側の集団と類似しているものの、mtDNAの多様性は、さらに東方の集団と近いように見えます(ポリネシア塩基配列の存在)。これは、移住過程(さまざまな集団に由来する個体群や、創始者効果など)もしくはマダガスカル島における人口統計学的事象を反映しているかもしれません。さらに、マダガスカル島集団の祖先がインドネシアを去って以降に起きたかもしれない変異が、役割を果たした可能性があります。別の理由としては、インドネシアの不充分な遺伝的標本抽出に起因するかもしれません。インドネシアの古代DNA分析は、アジア側の起源集団についてより詳しい情報を提供し、この謎の解決に役立つでしょう。
驚くべきことに、バンツー語族話者集団とオーストロネシア語族話者集団との関連性は、マダガスカル島集団の祖先の最近のマダガスカル島への到来という理論を裏づけます。とくに、アフリカ東部沿岸のバンツー語族話者集団の到来はより最近の現象です。片親性遺伝標識に基づいた分析と全ゲノム分析を通じて、過去2000年におけるオーストロネシア語族話者集団との混合を年代測定できました。一部のアジア東部人系統の証拠も、コモロやアフリカ東部やアラビア半島の個体群で特定されました。興味深いことに、コモロ諸島のアンジュアン島で起きた混合は、マダガスカル島よりも古い可能性があります。しかし、計算方法もしくはパラメータのセットを変更した場合、この結果は再現されませんでした。
マダガスカル島集団のアジア人の祖先と比較して、アフリカ人の祖先は、ずっと最近各起源集団と分岐したようです。アフリカのバンツー語族話者集団とマダガスカル島集団との間のより最近のつながりに加えて、アフリカ人の父系の過剰出現は、すでにオーストロネシア語族話者集団が居住していた領域へのバンツー語族話者集団の後の到来、という仮説につながりました。この仮定的シナリオを裏づけるのは、アラブ人作家の証言と、マダガスカル島にかつてアジア人が居住していた、という記述です。さらに、1575年に報告された奴隷の証言では、マダガスカル島全域の既存の村や都市を襲った大暴風と津波の組み合わせが述べられています。この大惨事の生存者は、高台に逃げた人々だけだったでしょう。
荒廃した領土とわずかな生存者に直面して、アフリカの2つの王国(ソファラとモザンビーク)は、3000〜4000人を再定住のためにマダガスカル島に送ったかもしれません。この物語に喚起されたキリスト教の王国は、混合のゲノムに基づく推定年代、バンツー語族話者集団の移動、インド洋の津波の証拠と一致する年代を示唆します。しかし、これは既知の唯一の引用で、全ての既存の仮説を考慮すると、ゲノムの結果に一致するものを見つけるのは驚くべきことではありません。ゲノミクスと考古学を組み合わせたより多くの研究が、このシナリオのさらなる調査を可能にするはずです。遺伝学は現代の集団の直接的祖先に関する情報しか提供できないので、マダガスカル島の最初の居住者に関する情報は提供できないことにも、注意する必要があります。
●まとめ
マダガスカル島現代人集団アフリカ人とアジア人の祖先の寄与に関する理解への探求は、隠された動機のない真っ直ぐな道ではありませんでした。1957年には、全てのフランスとマダガスカル島の作家の記事に、マダガスカル島集団のアフリカ人起源の可能性について、いくぶん汚名があるようだ、と批判されています。その後のDNA配列決定は、予想されるほど急速には論争を解決しませんでした。現在では、割合の小さいユーラシア西部構成要素に加えて、アフリカ人とアジア人両方の寄与が証明されています。それにも関わらず、マダガスカル島における定住の歴史はまだほとんど不明で、過去に提起された他の寄与の程度を理解するには、さらなる調査が必要です。
ヒトの遺伝的情報の利用は、研究者が文化的要因(つまり言語)とヒト(個体群)との間の起源と拡散に関する問題を区別できるようになったので、この分野に混乱を引き起こしました。現在の課題は、マダガスカル島の定住につながった定住現象の包括的見解の形成です。これには、マダガスカル島の歴史の文化的および生物学的側面が組み込まれます。今後数十年にわたって、現代および過去の標本に基づくヒトや動物や植物のDNAを研究することで、マダガスカル島の歴史に関する予期せぬ新たな洞察が得られるはずです。
参考文献:
Heiske M. et al.(2021): Genetic evidence and historical theories of the Asian and African origins of the present Malagasy population . Human Molecular Genetics.
https://doi.org/10.1093/hmg/ddab018
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_18.html
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