麻薬王 岸信介 2020年11月18日
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麻薬王といえば、中国・満州・ch ouse n で莫大な麻薬を密売し、巨額の利益を日本軍の戦費として調達したといわれる里見甫・二反長音蔵・岸信介があげられる。
岸信介とアヘン王の関係を追う〜密売で儲けた「数兆円」はどこに消えた? 魚住 昭
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49375
安倍首相が心酔するおじいちゃん・岸信介の戦争犯罪! アヘン取引でブラックマネーを集め戦争を遂行 リテラ2015年8月16日
https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_1396/
以下全文引用
後世の歴史家たちはこの2015年という年をどう評価するだろう。「戦後70年」という節目の年に、先の大戦でA級戦犯の容疑がかけられた人物の孫が内閣総理大臣を務め、その孫は再び日本を"戦争のできる国"にしようとしていることを、だ。
そう、今さら説明するまでもないが、安倍首相の母方の祖父は、昭和の妖怪と呼ばれた岸信介元首相だ。安倍首相は日ごろからこの祖父について、敬愛の思いを隠さず、"おじいちゃんコンプレックス"ともいえるほどの心酔ぶりを示している。
安倍首相が集団的自衛権行使と改憲に向かってひた走っているのも、激しい反対の中、日米安保条約改定を断行したおじいちゃんを見習い、そしておじいちゃんのやり残した仕事をなしとげようとしていることが最大の動機になっているのは間違いない。
だが、そのおじいちゃんは、戦後、内閣総理大臣をつとめただけの人物ではない。戦時中、東条英機首相(当時)率いる内閣の閣僚として戦争遂行の一翼を担い、一時は「A級戦犯」容疑者として拘留されていた戦争犯罪者でもある。
いったい岸信介とはどんな人物だったのか。戦時中、何をしたのか。終戦から70年、もう一度、おさらいしてみよう。
岸信介は日清戦争が終わった翌1896年、山口県に生まれた。元首相の佐藤栄作は実弟だ。兄弟の父は岸家の人だが長州藩士に連なる佐藤家の娘と結婚したため、佐藤家の分家の形で佐藤姓を名乗った。中学生のときに岸が父の実家である岸家に養子入りして、「岸信介」が誕生する。
地元の高等小学校を卒業した後、名門岡山中学から山口中学に転校し、いずれも首席を続けた。東京帝国大学入学後も、後に民法学の大家となる我妻栄と首席を分け合う秀才ぶりだったという。
卒業後の岸は商工省の革新官僚として統制経済(経済・産業を国家の統制下に置こうとする社会主義的政策)の旗手となるが、それは国粋主義を唱える大学の恩師、上杉慎吉と大アジア主義(日本を盟主とするアジア諸民族連帯の思想)の大川周明、国家社会主義の北一輝の強い影響だったと言われている。
若手官僚として頭角を現した岸を一気に飛躍させたのが1936(昭和11)年に満州官僚へ転出したことだった。満州国という実験国家を自らの「作品」と呼び、実質的な最高首脳の一人としてソ連の計画経済を模した統制経済(産業開発5カ年計画)を強力に推進することになる。同時にそれは、岸が戦争に手を染めるきっかけにもなっていった。
わずか3年の在任だったが岸は満州で3つの"財産"を手に入れている。統制経済による国家経営のノウハウ、東条英機(当時、関東憲兵隊司令官)を筆頭とする関東軍人脈、そして湯水のごとく使える金脈だ。岸に関する評伝、研究書は数多あるが、いずれも明確に指摘しているのが、後に東条英機を宰相にまで持ち上げたのは岸の資金力があったからだ、という事実だ。
〈のちに東京に帰った東条が陸軍次官、陸相、総理へと中央の階段を昇り詰めていくにつれ、今度は岸が集金力にものをいわせて、東条に莫大な政治献金をした〉(太田尚樹『満州裏史』講談社文庫)
岸と東条は満州時代に公私に絆を深めていく。毎日新聞記者の岩見隆夫氏が書いた『昭和の妖怪 岸信介』(中公文庫)には、満州事情通の小坂正則の次のような証言が紹介されている。
「岸さんは日本に帰ってきてから、ずいぶんと東条さんのために政治資金をつくってやった。翼賛選挙でも莫大な選挙資金を必要とするのに、首相である東条さんはああいう男だからカネがない。そこで岸さんが鮎川に頼んだ。鮎川は日産の株を満州投資証券へ譲渡する時、七千万円、確かな数字ではないが、そのぐらいを浮かせて鮎川の財団である義済会にプールしてあった。このうち三千万円ほど抜いて岸さんに渡し、岸さんはこれを東条に回してやったりした」
ここで出てくる「鮎川」というのは日本産業(日産)財閥の総帥で岸の遠縁に当たる長州出身の鮎川義介のことだ。岸は日産を満州に誘致し、南満州鉄道(満鉄)に対抗する満州重工業開発(満業)を設立させた。
一方、当時の満鉄総裁は岸の母方の叔父に当たる松岡洋右(後の外相)で、このふたりが表向きのスポンサーだったと言われているが、実はそれだけでは説明がつかない。
岸に長時間インタビューをした岸研究の第一人者、東京国際大学名誉教授の原彬久氏は『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書)でこう書いている。
岸は同僚官吏はもとより、民間人、それもいわゆる満州浪人、無頼漢に至るまで彼のそばに来るものには惜しげもなくカネを与えていたといわれる〉
資金の源は何だったのか。多くの研究者やジャーナリストが指摘するのがアヘン取引による利益である。
当時の満州国は表向きはアヘン吸飲を禁じていたが、満州専売局を通して登録者に販売できるシステムを採っていた。事実上、野放しだ。にもかかわらず一方で売買が禁止されているため、価格は吊り上げ放題で、巨額の利益が上がる仕組みになっていた。
満州を抑える関東軍はこの収入に目をつけ満州国の西隣りに接する中国熱河省へ侵略の兵を進めた(熱河作戦)。熱河にはアヘンの原料となるケシ畑が広がっていたからだ。「満州の背後を固める」というのは口実で、アヘンを求めての進軍だったというのである。消費地も満州国内だけでなく北京、上海、広東、厦門へと拡大していった。
こうして得た莫大なアヘンマネーを岸ら首脳陣は、国家経営や戦争遂行、謀略工作に回す一方、一部を私的に着服していったという。
近衛文磨の女婿で細川家の当主に当たる細川護貞氏(細川護煕元首相の父)が戦時中、裏の政治情報を日記の形で残していて、岸関連の書物にたびたび引用されている。1944(昭和19)年9月4日付の記述はきわめて示唆的だ。岸に関する部分を抜粋する。
〈岸は在任中、数千万円、少し誇大に云えば億を以って数える金を受け取りたる由、然もその参謀は皆鮎川(義介)にて、星野(直樹)も是に参画しあり。結局此の二人の利益配分がうまく行かぬことが、(東条)内閣瓦解の一つの原因であった〉(『細川日記』中央公論新社)
星野直樹は大蔵省から満州に派遣された官僚で岸の上司に当たる人物だ。当時の数千万円といえば、いまの数百億円に匹敵する。これだけでも驚くが、同年10月16日付の箇所にはこんなことも書かれている。
〈朝、K君を訪問、談たまたま東条に及びたるに、彼は昨年中華航空にて現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直ちに重役以下釈放となりたることあり。是はその金が東条のものなりしを以ってなりとのことにて、以前より里見某なるアヘン密売者が、東条にしばしば金品を送りたるを知り居るも、おそらく是ならんと〉(同)
要は、アヘン利権を巡って岸や東条を始めとする満州人脈が複雑に絡み合い、時には利益分配で揉め事も起きていたということである。そして、岸はそこから少なく見積もっても数千万円、"少し誇大にいえば"億単位のカネを手にしたというわけだ。
ところで10月16日付の『細川日記』に出てくる「里見某」は、里見甫という元新聞記者で、中国に渡って里見機関という特務機関を率いていた。実態は、陸軍の依頼でアヘン取引を扱うブローカーだ。中国では「アヘン王」の異名で知られていた。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/691.html