被差別部落民と在日韓人 −社会経済史的視点−
河 明生(かわ めいせい 社会経済史、経営史)
友常 勉(聞き手=ともつね つとむ・地域研究
(『現代思想 特集 部落民とは誰か』第27巻第2号所収、平成11年2月、青土社)
http://www.jita.jp/kawa/text/hyouron-1.html
<友常> 従来、韓人が住居を被差別部落や、その周辺に定着したことはよく知られていましたが、それも韓人の特性とみなしてよいのでしょうか。
<河> はい。一般の日本人下層労働者は、被差別部落には定住しなかったと思います。住所が被差別部落やその近隣だと部落民とみなされ差別される可能性があるからです。ただ、移民間もない韓人の場合は事情が異なります。日本の社会事情に疎いというか、被差別部落がどういう状況におかれているのかを知りませんでした。被差別部落やその周辺に定着することについて、一般の日本人よりも、抵抗感が少なかったと思います。たとえば、中央融和事業協会が、1925年から1935年まで、大阪府内の九ヶ所の被差別部落への新規移住者・約1千2百人の出身地を調査したところ、その七割強が朝鮮でした。
被差別部落に移住した韓人古老に対して聞き取り調査を行ったのですが、自分は被差別部落だとは知らないで住んでしまった、気付いてみたら白丁がたくさん周りに住んでいた、というんですね。認識に若干ずれがありますが。(笑)だからといってそこを離れるわけではありません。その古老も、今日まで60年以上、そこに定住しています。
被差別部落には、韓人を新規の住民として呼び寄せる理由がありました。低廉な家賃です。日雇い労働に一日従事すれば払っていける額でした。しかも権利金も保証人もいりませんでした。被差別部落には、又借りや又貸しの習慣がありました。たとえば、六畳一間の賃貸物件を借りている部落民が、その中の三畳だけを他人に貸したり、納戸を貸していたのです。それは正常な労働市場から疎外されていた部落民が、低額所得者であったことと関係があります。部落民は又貸しすることにより家賃支出を軽減したのです。権利金や保証金が要求されなかったのはそのためです。また、被差別部落に住んでみるとスラムとは異なり食料品の物価が安いのも韓人にとっては魅力でした。商業者が部落民の低所得に合わせたからでしょう。味噌、醤油、塩などの小売の量も低く設定されていたようです。さらに、被差別部落の周辺に屠場がある場合、日本人が食べなかった牛や豚の内臓をただ同然で譲ってもらえたと考えます。焼き肉のホルモンの語源が、ほおるもん、つまり捨てるものからきているという説もあります。このような経緯により韓人は被差別部落に移住しました。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/515.html