ローマ人の起源
2019年11月09日
長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_21.html
長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷に関する研究(Antonio et al., 2019)が報道されました。日本語の解説記事もあります。紀元前8世紀、ローマはイタリア半島の多くの都市国家の一つでした。1000年も経たないうちに、ローマは地中海全域を中心とする古代世界最大の帝国の首都となる大都市に成長しました。イタリア半島の一部として、ローマは独特な地理的位置を占めています。北はアルプス山脈により部分的に隔てられ、言語・文化・人々の移動にとって自然の障壁となります。またローマは、とくに青銅器時代の航海の大きな発展後は、地中海市周辺地域と密接につながるようになりました。ローマの歴史は広く研究されてきましたが、古代ローマの遺伝学的研究は限られています。
本論文は、ローマの住民の遺伝的構成とその変遷の解明のため、ローマおよびイタリア中央部の29ヶ所の考古学的遺跡から127人の全ゲノムデータを生成しました。年代の推定は、直接的な放射性炭素年代測定法(33人)と考古学的文脈(94人)により得られました。DNAは内耳錐体骨の蝸牛部から抽出されました。内耳錐体骨には大量のDNAが含まれています。ゲノム規模解析の網羅率は平均1.05倍(0.4〜4.0倍)です。この個体群は時系列的には、中石器時代の狩猟採集民、新石器時代〜銅器時代農耕民、鉄器時代〜現代の個体群という遺伝的に異なる3クラスタに分類されます。
より詳細な時代区分では、紀元前10000〜紀元前6000年頃となる中石器時代が3人、紀元前6000〜紀元前3500年頃となる新石器時代が10人、紀元前3500〜紀元前2300年頃となる銅器時代が3人、紀元前900〜紀元前27年となる鉄器時代が11人、紀元前27年〜紀元後300年となる帝政期が48人、紀元後300〜紀元後700年頃となる古代末期が24人、紀元後700〜紀元後1800年頃となる中世〜近世が28人、現代が50人です。なお、紀元前2300〜紀元前900年頃となる青銅器時代の標本はありません。
歴史時代の個体群は、地中海およびヨーロッパの現代人集団(人口)と近似します。129人のうち最古の個体は紀元前10000〜紀元前7000年頃となる、中石器時代のアペニン山脈のコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)狩猟採集民3人です。この3人は、同時代のヨーロッパの他地域の狩猟採集民(ヨーロッパ西部狩猟採集民、WHG)と遺伝的に近接しています。この3人はヘテロ接合性が近世イタリア中央部集団より30%低く、以前のWHGに関する推定と一致します。人口が少なく、遺伝的多様性が低かったことを反映しているのでしょう。この後、新石器時代にヘテロ接合性は急増し、その後は小さく増加していき、2000年前頃には現代人の水準に達します。
ローマおよびイタリア中央部住民の最初の主要な遺伝的構成の変化は紀元前7000〜紀元前6000年頃に起き、新石器時代の開始と一致します。ヨーロッパの他地域の初期農耕民と同様に、イタリア中央部の新石器時代集団はアナトリア半島農耕民と遺伝的に近接しています。しかし、イタリア中央部新石器時代集団には、アナトリア半島北西部農耕民系統だけではなく、新石器時代イラン農耕民系統とコーカサス狩猟採集民系統(CHG)も少ないながら見られ、前者はやや高い割合になっています。これは、おもにアナトリア半島北西部系統を有する同時代のヨーロッパ中央部およびイベリア半島集団とは対照的です。さらに、新石器時代イタリア農耕民集団は、5%程度の在来狩猟採集民と、追加のコーカサス狩猟採集民系統(CHG)もしくは新石器時代イラン農耕民系統を有する95%程度のアナトリア半島もしくはギリシア北部新石器時代農耕民系統との混合としてモデル化できます。これらの知見は、ヨーロッパ中央部および西部と比較して、イタリアの新石器時代移行に関する異なるもしくは追加の集団を指摘します。後期新石器時代および銅器時代には、低い割合ながらWHG系統が次第に増加していき、同時期のヨーロッパ他地域と同じ傾向が見られます(関連記事)。これは、新石器時代にもWHG系統を高水準で有し続けた集団との混合を反映しているかもしれません。
ローマおよびイタリア中央部住民の第二の主要な遺伝的構成の変化は紀元前2900〜紀元前900年頃に起きましたが、青銅器時代の標本が得られておらず、空白期間があるため、その正確な年代は特定できません。この期間に、主要な技術的発展により集団の移動性が増加しました。近東およびポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の戦車(チャリオット)と馬車の発展により、陸上での移動が可能となりました。また青銅器時代には航海技術が発展し、地中海全域の航海がより容易になって航海を促進し、後期青銅器時代と鉄器時代には、地中海を越えてギリシア・フェニキア(カルタゴ)植民地が拡大していきました。
紀元前900〜紀元前200年となる共和政期を含む鉄器時代では11人のゲノムデータが得られました。鉄器時代の個体群の遺伝的構成は銅器時代と明らかに異なっており、草原地帯系統の追加と、新石器時代イラン農耕民系統の増加として解釈されます。青銅器時代〜鉄器時代にかけて、イタリア中央部集団は、ポントス-カスピ海草原起源の遊牧民集団より30〜40%程度の遺伝的影響を受けたとモデル化でき、これはヨーロッパの多くの青銅器時代集団と類似しています。鉄器時代のイタリアの草原地帯関連系統の存在は、直接的な草原地帯起源集団の遺伝的影響ではなく、中間的集団との遺伝的交換を通じて起きた可能性があります。さらに、複数の起源集団が、鉄器時代以前の遺伝的構成の変化に、同時にまたはその後に影響を及ぼしたかもしれません。遅くとも紀元前900年までに、イタリア中央部集団は現代の地中海集団と遺伝的に近接し始めました。
国家としてのローマの起源に関する直接的な歴史学的もしくは遺伝学的情報はありませんが、考古学的証拠からは、ローマは前期鉄器時代には近隣のエトルリア人やラテン人の諸勢力の間に位置する小規模な都市国家だった、と示唆されます。ローマとギリシアやフェニキア(カルタゴ)の植民地との接触は、象牙・琥珀・ダチョウの卵殻など地元では入手できない物質や、ライオンなど地元には存在しない動物のデザインからも明らかです。鉄器時代の11人はひじょうに多様な系統を示し、鉄器時代にイタリア中央部へ移住してきた複数の起源集団を示唆します。この11人のうち8人は銅器時代イタリア中央部集団と草原地帯関連集団(24〜38%)の混合としてモデル化できますが、他の3人には当てはまりません。この3人のうちラテン人の遺跡の2人は、在来集団と古代近東集団(最良のモデルは青銅器時代アルメニア集団もしくは鉄器時代アナトリア半島集団)との混合としてモデル化されます。エトルリア遺跡の1人は、顕著なアフリカ系統を有し、それは後期新石器時代モロッコ集団から53%程度の影響を受けている、とモデル化できます。
これは、エトルリア人(3人)とラテン人(6人)の間のかなりの遺伝的異質性を示唆します。ただ、F統計(単一の多型を対象に、複数集団で検証する解析手法)では、以前もしくは同時代のあらゆる集団と共有するエトルリア人とラテン人のアレル(対立遺伝子)の間の顕著な遺伝的違いは見られませんでした。しかし、小規模な標本では微妙な遺伝的違いの検出には限界があります。先史時代の個体群とは対照的に、鉄器時代個体群は現代のヨーロッパおよび地中海の個体群と遺伝的に類似しており、イタリア中央部が交易・植民地・紛争の新たなネットワークを通じて遠距離共同体とますます接続するようになるにつれて、多様な系統を示します。
紀元前509〜紀元前27年の共和政の後、ローマは帝政に移行します。本論文は、紀元前27年〜紀元後300年までを帝政期とし、その後は700年までを古代末期(関連記事)としています。ローマの海外拡大は、紀元前264〜紀元前146年のポエニ戦争に始まります。この拡大はその後300年の大半にわたって続き、ブリタニア・モロッコ・エジプト・アッシリアにまで及びました。ローマ市の人口は100万人を超え、ローマ帝国全体の人口は5000万〜9000万人と推定されています。ローマ帝国は、交易ネットワーク・新たな道路・軍事作戦・奴隷を通じて、人々の移動と相互作用を促進しました。ローマ帝国は、領域外のヨーロッパ北部・サハラ砂漠以南のアフリカ・インド・アジア全域との長距離交易も行ないました。これらの史料はよく残っていますが、その遺伝的影響についてはほとんど知られていません。
帝政期48人の最も顕著な傾向は、地中海東部系統への移行と、ヨーロッパ西部系統の少ない個体群が存在することです。帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります。この移行には新石器時代イラン農耕民系統の割合のさらなる増加が伴います。鉄器時代個体群と比較して、帝政期個体群は青銅器時代ヨルダン人とより多くのアレルを共有しており、青銅器時代レバノン人や鉄器時代イラン人と同様に、帝政期個体群では混合の顕著な遺伝子移入兆候が示されます。帝政期の個体群は、前代の集団と他集団との単純な混合としてモデル化されるよりも、まだ特定もしくは研究されていない起源集団を含む複雑な混合事象だった、と示唆されます。
帝政期の48人に関しては多様な系統が明らかになり、おもに異なる5クラスタに分類されます。鉄器時代の11人のうち8人が分類されるヨーロッパクラスタには、帝政期の48人のうち2人しか分類されません。一方、約2/3となる31人は、地中海東部および中部クラスタに分類されます。約1/4となる13人は、帝政期よりも前には存在しない近東クラスタに分類されます。主成分分析では、このクラスタ内の一部はレバノンの同時代(紀元後240〜630年)の4人と重なります。さらに48人のうち2人は、アフリカ北部クラスタに分類され、アフリカ北部系統を30〜50%有するとモデル化できます。
平均的な系統の移行と遺伝的構成における複雑さの増大は、ローマ帝国の地中海全体への領域拡大に続いています。これにより、ローマは地中海全体とつながりましたが、本論文のデータは、帝国内でも他地域より地中海東部からの遺伝的影響がかなり大きい、と示します。これは、考古学的記録とも一致します。ローマの碑文の言語は、ラテン語に次いでギリシア語が多く、アラム語やヘブライ語といったローマ帝国東部の言語も使われました。また、碑文に見える出生地も、移民が一般的に帝国東部出身と示しています。帝国東部となるギリシアやフリギアやシリアやエジプトの宗教施設もローマでは一般的でしたし、ヨーロッパ最古となる既知のシナゴーグはローマの港町であるオスティア(Ostia)にあります。
一方、ローマと帝国西部との関係についての証拠も豊富に報告されています。たとえば、帝国拡大に続いて、新たな征服地からローマへと奴隷が連れて来られました。ローマはガリアとイベリア半島からワインやオリーブオイル、アフリカ北部西方から穀物や塩など大量の物資を輸入しました。しかし、地中海西部集団と強い遺伝的類似性を有する帝政期の個体は48人のうち2人だけで、帝国西部からの移民は比較的限定的だった、と示唆されます。この理由として、地中海西部よりも東部の方が人口密度は高い、ということが考えられます。アテナイ・アンティオキア・アレクサンドリアなど、帝国東部には大都市が存在しました。また、直接的な移民に加えて、東方系統は、ギリシア・フェニキア(およびカルタゴ)のローマ帝国拡大前の地中海全域への拡散により間接的にもたらされた、とも考えられます。
ローマに到来する人や物資の大半は海上経由で、ローマの主要港の居住者はイソラサクラ(Isola Sacra)墓地に埋葬されました。本論文で分析対象となったイソラサクラ遺跡の9人は、近東系の遺伝的影響と個人間の多様性の両方を表しています。この9人のうち、4人は近東クラスタ、4人は地中海東部クラスタ、1人はヨーロッパクラスタに分類されます。酸素同位体分析では、この9人全員が地元育ちだと示され、ローマにおける多様な系統を有する人々の長期的居住が示唆されます。ただ本論文は、類似した同位体比の他地域出身の可能性も除外できない、とも指摘しています。
本論文では紀元後300年頃からとされている古代末期に、ローマ帝国西方は衰退・崩壊していき、帝国の比重はローマからビザンティウム(コンスタンティノープル、イスタンブール)へと移っていきます。古代末期の24人の平均的な系統は近東系から現代のヨーロッパ中央部集団へと移行していきます。具体的には、帝政期の住民とバイエルンもしくは現代バスクの個体群からの後期帝政期個体群(38〜41%)との混合としてモデル化できます。ただ、ほとんどの同時代の古代集団のデータが欠如しているため、起源集団と混合の正確な識別は断定的に述べられません。
こうした系統の変化は、近東クラスタの大幅な減少、地中海東部および中央部クラスタの維持、ヨーロッパクラスタの顕著な拡大に反映されています。この移行は、紛争や伝染病によるローマの人口の劇的な減少(100万人以上から10万人未満)により促進された、地中海東部との接触の減少と、ヨーロッパからの遺伝子流動により起きたかもしれません。以前にはローマへと集約されていた交易や統治のネットワークはコンスタンティノープルにおいて再編され、人々の移動に影響を及ぼしました。さらに、いわゆる大移動の時代には、ヨーロッパ北部からイタリア半島へと集団が到来し、イタリア半島を征服しました。こうした人口減少や人々の移動経路の変化が、古代末期におけるローマの遺伝的構成の変容をもたらした、と考えられます。
帝政期におけるローマの高度な個人間の異質性は古代末期でも続きます。古代末期の個体群は、地中海東部および中央部とヨーロッパのクラスタにほぼ三等分されます。一方で、遺伝的にサルデーニャ人に類似している1個体と、現代ヨーロッパ人と重なる2個体も確認されました。古代末期にも続くローマの遺伝的多様性は、継続する地中海西部との交易や大移動とともに、帝国期の交易・移住・奴隷・征服を含むいくつかの起源の結果かもしれません。この時期のイタリア北部のランゴバルド人のゲノムはすでに解析されていますが(関連記事)、本論文は、ランゴバルド人の影響がローマに及んだ可能性を指摘しています。本論文で調査対象とされた、ランゴバルド人関連の装飾品の発見された墓地では、7人のうち5人がヨーロッパクラスタに分類され、先行する帝政期の集団と、イタリア北部のランゴバルド人関連墓地の個体群との混合としてモデル化できます。
中世と近世のローマおよびイタリア中央部住民においては、主主成分分析ではヨーロッパ中央部および北部系統への移行が観察され、近東および地中海東部クラスタが消滅します。中世の集団はほぼ現代のイタリア中央部集団に重なります。中世と近世のおよびイタリア中央部住民は、ローマの古代末期集団とヨーロッパの追加集団の双方向の組み合わせとしてモデル化でき、ヨーロッパ中央部および北部の多くの集団を含む潜在的な起源が推定されます。その候補として、ハンガリーのランゴバルド人、イングランドのサクソン人、スウェーデンのヴァイキングなどが挙げられます。
この移行は、中世のローマとヨーロッパ本土との間の関係の進展と一致します。ローマはヨーロッパ中央部および西部の大半にまたがる神聖ローマ帝国に組み込まれました。ノルマン人はフランス北部から多くの地域へと拡大し、その中にはシチリア島やイタリア半島南部も含まれ、1084年にローマは略奪されました。さらに、ローマは神聖ローマ帝国と時には敵対しつつ密接な関係を維持し、カトリック教会の中心的位置としてのローマの役割は、ヨーロッパ全体、さらにはヨーロッパを越えた地域からイタリアへの人々の流入をもたらしました。ローマおよびイタリア中央部住民の遺伝的構成の変化は
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イタリア中央部集団は、農耕を導入した新石器時代と、鉄器時代以前(銅器時代〜鉄器時代の間)の2回、遺伝的構成が大きく変化し、その後に現代の地中海集団と近似し始めました。過去3000年、帝政期における近東からの遺伝子流動や、古代末期以降のヨーロッパからの遺伝子流動は、ローマの政治的立場の変化を反映しています。さらに、各期間内で、個体群は近東・ヨーロッパ・アフリカ北部など多様な系統を示しました。これら高水準の系統多様性はローマ建国前に始まり、帝国の興亡を通じて続き、ヨーロッパと地中海の人々の遺伝的十字路としてのローマの地位を示しています。
参考文献:
Antonio ML. et al.(2019): Ancient Rome: A genetic crossroads of Europe and the Mediterranean. Science, 366, 6466, 708–714.
https://doi.org/10.1126/science.aay6826
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_21.html
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2019年09月15日
イタリア半島の人口史
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_38.html
イタリア半島の人口史に関する研究(Raveane et al., 2019)が公表されました。現代ヨーロッパ人は、旧石器時代〜中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民、アナトリア半島起源の新石器時代農耕民、青銅器時代にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきたヤムナヤ(Yamnaya)文化集団を代表とする遊牧民集団の混合により形成されました
(関連記事)青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動
https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html
この草原集団は、ヨーロッパ東部およびコーカサスの狩猟採集民とイラン新石器時代農耕民系統の混合として説明されてきました。しかし、ヨーロッパ南東部の古代DNA分析では、コーカサス集団からの追加の遺伝的影響の存在が識別され、ヨーロッパ人のより複雑な系統構成を示唆します。イタリア半島のような地理的交差点の人口集団は、大陸の多様性を要約すると予想されますが、これまで体系的には研究されてきませんでした。そこで本論文は、イタリアの全20行政区から1616人と、140以上の世界規模の人口集団からの5192人の現代人標本で構成される包括的な一塩基多型データセットを分析し、それに古代人の利用可能なゲノムデータを追加して比較しました。
現代イタリア人は遺伝的に大きく、サルデーニャ島と北部(北部および中央部北部)と南部(南部および中央部南部とシチリア島)の3集団に区分されます。現代イタリア人は、複数の古代系統の混合です。その基礎的な古代系統はおもに、アナトリア半島新石器時代農耕民(AN)・ヨーロッパ西方狩猟採集民(WHG)・ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)・コーカサス狩猟採集民(CHG)・イラン新石器時代農耕民(IN)です。これらの基礎系統の混合の結果、より新しい派生的古代系統である、ヨーロッパ早期新石器時代集団(EEN)、青銅器時代草原地帯集団(SBA)、青銅器時代アナトリア半島集団(ABA)が形成されます。現代イタリア人に占める基礎的な古代系統では、ANがおおむね56〜72%と最多の比率を占め、サルデーニャ島では80%以上の高い比率を示します。ANの比率はイタリア南部よりも北部の方で高くなっており、AN以外はおおむねWHG・CHG・EHGで占められます。INはイタリア南部のみで検出されました。
派生的な古代系統では、イタリア南部および北部で高い比率のABAとSBAが検出されました。ABAは南部で、SBAは北部で高い傾向を示します。この南北の違いについて、古代DNAから形成過程が推測されました。紀元前3400〜紀元前2800年頃となるイタリアの人類のうち、レメデッロ(Remedello)個体といわゆるアイスマンは、それぞれANが85%と74%を占めていました。イタリア北部の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化集団の紀元前2200〜紀元前1930年頃の個体群は、ABAおよびANとSBAおよびWHGの混合としてモデル化されます。一方、シチリア島(南部集団)の鐘状ビーカー文化集団の紀元前2500〜紀元前1900年頃の個体群は、SBAが5%未満で、ほぼABAで占められるとモデル化されました。イタリア半島南北のABAとSBAの比率の違いは、青銅器時代にまでさかのぼる、と推測されます。こうした古代の混合が起きた推定年代は、イタリアではおもに2000〜1000年前頃で、ヨーロッパの他地域では2500年前頃です。
本論文は、現代イタリア人におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺伝的影響も検証しました。非アフリカ系現代人のゲノムにはおおむね同じような比率でネアンデルタール人由来の領域が見られますが、地域による違いもあり、アジア東部はヨーロッパよりも有意に高い、と明らかになっています。さらに、ヨーロッパ内でも有意な違いが報告されており、北部は南部よりも高い、と示されています。シチリア島(イタリア南部集団)で確認されているように、ヨーロッパ南部では北部よりも強いアフリカからの遺伝的影響が見られるので、それがネアンデルタール人の遺伝的影響の違いに反映されているのかもしれません。しかし、アフリカ系統を有する個体群の除外後も、この点に関してイタリアとヨーロッパの他地域との違いが確認されました。この一因として、ネアンデルタール人の遺伝的影響を全くあるいは殆ど受けなかった出アフリカ系現生人類集団である、「基底部ユーラシア人」の遺伝的影響が指摘されています(関連記事)。本論文の再検証でも、基底部ユーラシア人の遺伝的影響の可能性が依然として示唆されました。
本論文は、表現型との関連でもネアンデルタール人の影響を検証しています。ネアンデルタール人の遺伝子の中には、表現型との関連が明らかなものもあります。たとえば、精巣や日光暴露の遺伝子発現量の増加関連遺伝子(IP6K3とITPR3)や、心血管と腎臓疾患の感受性関連遺伝子(AGTR1)や、脆弱角膜症候群関連遺伝子(PRDM5)などです。これらの中には、一部の現代人に継承されているものもあり、ホスホリパーゼA2受容体と関連しているPLA2R1遺伝子では、ネアンデルタール人由来のハプロタイプの比率が、ヨーロッパ北部で少なくとも43%、ヨーロッパ南部ではほぼ35%となります。全体として、ネアンデルタール人由来のハプロタイプの比率には地域的な違いが見られ、たとえば、アジア東部で低くヨーロッパで高いものがあります。またヨーロッパ内部では、北部で高く南部で低いものや、その逆もあります。これは、何らかの選択が作用した可能性を示唆します。
上述のように、現代イタリア人の間の遺伝的な地理的パターンは、南部・北部・サルデーニャ島で3区分され、その遺伝的構造はヨーロッパの他地域と同様に、先史時代以来の人口集団移動に続く孤立と、歴史時代のヨーロッパ他地域からの混合を反映しています。古代および現代の遺伝的データの分析からは、イタリア人集団では、CHGとEHGに関連する系統が少なくとも2つの起源から派生している、と示唆されます。その一方はSBA系統で、ポントス-カスピ海草原からの遊牧民集団と関連していま。上述の鐘状ビーカー文化集団の事例で示されているように、SBA系統はヨーロッパ本土からイタリア半島に、遅くとも青銅器時代には到達していました。
他方はCHG系統と関連しており、おもにイタリア半島南部に影響を及ぼしています。CHG系統の起源はまだ不明ですが、イタリア南部において青銅器時代に存在した可能性があります。CHGの比率はサルデーニャ島とイタリアの古い個体群でたいへん低いのですが、現代のイタリア南部集団で見られることから、相互に排他的ではない複数の可能性が想定されます。それは、イタリアの早期狩猟採集民において、CHGとの遺伝的類似性の異なる集団が複数存在した可能性や、新石器時代にイタリア半島に遺伝的影響を及ぼした複数の集団でCHG系統の比率が異なっていた可能性や、新石器時代以後にCHG系統が増加した可能性や、歴史時代のヨーロッパ南東部からイタリアへの人類集団の移動に影響を受けた可能性です。CHG系統がアナトリア半島とヨーロッパ南東部において後期新石器時代から青銅器時代にかけて一時的に出現することから、本論文は新石器時代以後の流入を示唆しますが、これは古代DNA標本の追加分析により明らかにされる問題だ、とも指摘します。
歴史時代では、ローマ帝国末期の「大移動」期と、1300〜1200年前頃となる、アラブ勢力のヨーロッパ南部への拡大が、イタリア半島の人口構造形成に役割を果たした、と本論文は推測します。とくにアフリカからの流入は、イタリア南部とサルデーニャ島において検出された多様性に寄与したかもれません。サルデーニャ島はヨーロッパの早期農耕民と遺伝的に最も密接に関連する人口集団と確認されているにも関わらず、両集団の間の単一の遺伝的継続性の証拠はありません。サルデーニャ島集団は完全には孤立しておらず、イタリアの他地域のように、遺伝子流動の歴史的事象を経験し、古代の系統とアフリカ系も含む他の構成要素の影響を受けた、と本論文は推測します。
非アフリカ系現代人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響の地域的違いの理由については、ユーラシア西部集団における上述の基底部ユーラシア人の影響や、アジア東部系現代人の祖先集団とネアンデルタール人との追加の交雑などが提示されています。本論文は、ネアンデルタール人由来のハプロタイプの頻度に地域差があることから、何らかの選択が生じた可能性を指摘します。この問題も、今後の古代DNA研究の進展により解明されていくのではないか、と期待されます。
ポントス-カスピ海草原からヨーロッパへの青銅器時代の遊牧民の移住は、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの到来と関連しています。本論文は、おそらく青銅器時代に到達したイタリアにおける追加の系統を識別し、ヨーロッパ大陸へのインド・ヨーロッパ語族集団による複数の移住の波の可能性を提示します。これと関連して本論文は、たとえばエトルリア語のようなイタリアにおける非インド・ヨーロッパ語族が歴史時代にも存続したいたのは、イタリア半島におけるSBA系統比率の減少と関連しているかもしれない、と指摘します。ただ、これらの関連性は魅力的ではあるものの、適切な調査と検証には専門的で学際的な方法が必要になる、本論文は指摘します。
参考文献:
Raveane A. et al.(2019): Population structure of modern-day Italians reveals patterns of ancient and archaic ancestries in Southern Europe. Science Advances, 5, 9, eaaw3492.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw3492