外交評論家の岡本行夫氏が死去 ! 新型コロナウイルスに感染 !
岡本行夫氏のプロフィールとは ?
(www3.nhk.or.jp:2020年5月7日 23時13分)
「外交評論家」で、小泉内閣や橋本内閣で「内閣総理大臣補佐官」を務めた岡本行夫氏が、新型コロナウイルスに感染し、亡くなっていたことが、外務省関係者への取材でわかりました。74 歳でした。
岡本行夫氏は、外務省の北米第一課長などを歴任したあと、外交評論家になり、当時の橋本内閣で沖縄問題担当の総理大臣補佐官を務めました。
その後、小泉内閣でも総理大臣補佐官に任命され、イラク戦争が終結したあとの復興に向けた政府の支援策の検討にあたりました。
総理大臣補佐官を退任したあとは、外交評論家としてテレビに出演するなど活動していましたが、外務省関係者によりますと、新型コロナウイルスに感染し、先月下旬、亡くなったということです。
◆菅官房長官:「突然で驚いている」
菅官房長官は8日の記者会見で、「突然の訃報に大変驚いている。岡本氏のこれまでのご功績に深い敬意を表し、ご遺族に心から哀悼の意をささげるとともに、岡本氏のご冥福をお祈り申し上げる」と述べました。
河野防衛相「懇意にしている方でショック」
河野防衛大臣は記者会見で「沖縄の件で、さまざまな提言をいただいたこともあったし、『また食事に行きましょう』と話をしていたので驚いた。本当に懇意にしている方が、新型コロナウイルスで亡くなられたのはショックだ。ご冥福をお祈り申し上げたい」と述べました。
アーミテージ元国務副長官「日米関係の巨人」
アメリカで知日派として知られ、岡本行夫氏と親交のあったアーミテージ元国務副長官は、「岡本行夫氏は、日米関係の巨人だった。彼は国のために最善と思ったことを常に行った。それゆえ、私の目から見れば、彼は真の愛国者だった。お祈り申し上げます」というコメントを発表しました。
◆ジョセフ・ナイ教授:「日米関係と同盟の擁護者」
アメリカのクリントン政権で国防次官補を務め、沖縄の基地問題など日米関係に深く関わってきたハーバード大学のジョセフ・ナイ教授は、「岡本行夫氏は、個人的な良い友人で、日米関係とわれわれの同盟のすばらしい擁護者だった。彼を失ったことに心から悲しんでいる。ひどいウイルスの悲劇的な犠牲だ」というコメントを発表しました。
◆ジェームズ・アワー名誉教授:「知的で品のある人」
国防総省の日本部長を務め、30年以上にわたり岡本氏と親交のあったバンダービルト大学のジェームズ・アワー名誉教授は、NHKの取材に対し、「岡本氏は非常に知的で品のある人だった。
めったにないことだったが、互いに意見が異なる時でも彼は常に私の意見に耳を傾け、私は彼を尊重した。最後に会ったのは2016年の12月で、彼は私が大統領選挙でトランプ氏に票を投じたと知って大変驚いていた」と振り返りました。そのうえで「新型コロナウイルスは世界の深刻な問題で、日本とアメリカが連携して早期に解決策を見つけることを期待する」と述べました。
◆米国元高官:「同盟築いた巨人だった」
アメリカのブッシュ政権でホワイトハウスのアジア上級部長を務め、岡本氏と30年以上親交のあったマイケル・グリーン氏は「衝撃的で悲しいニュースだ。岡本氏は、911の同時多発テロ事件のあとの困難な日々に小泉内閣と私のいたブッシュ政権にとってなくてはならない助言者だった。同盟は彼のような人物によって築かれている。岡本氏は真の巨人だった」と悼みました。
(参考資料)
外交評論家の岡本行夫のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
岡本行夫(おかもと・ゆきお、1945年11月23日生まれ、74歳。2020年4月24日死亡)は、日本の外交評論家、実業家。元外交官。内閣総理大臣補佐官(イラク担当・沖縄担当)、科学技術庁参与、内閣官房参与、内閣総理大臣外交顧問等を経て、マサチューセッツ工科大学国際研究センターシニアフェロー、立命館大学客員教授、青山学院大学特別招聘教授。
◆来歴・人物:
神奈川県生まれ。鎌倉市及び藤沢市で育つ。父親は農林省職員。父親の仕事の関係で、中学時代は2年間クアラルンプールに滞在。神奈川県立湘南高等学校を経て、1968年に一橋大学経済学部を卒業し、外務省入省。鈴木典比古(国際基督教大学学長・国際教養大学学長)とはゼミの同期。三幣利夫(中東住友商事社長・敬愛大学学長)も大学の同級生である[1]。外務省同期に東郷和彦、馬渕睦夫ら。
在アメリカ合衆国日本国大使館参事官、北米局安全保障課長、同北米第一課長など日米外交の有力ポストを歴任し、将来を嘱望される存在だったが、1991年に辞職した。管理職となって現場に関われなくなることに不満があったという[2]。
外務省退官後はコンサルタント会社を経営しながら、親米派の外交評論家として活動。一方で、第1次橋本内閣、第2次橋本内閣で内閣総理大臣補佐官、小渕内閣で科学技術庁参与、第1次小泉内閣で内閣官房参与、第2次小泉内閣で内閣総理大臣補佐官、第3次小泉内閣で内閣総理大臣外交顧問、福田康夫内閣で外交政策勉強会メンバーを務める等、政府要職を数多く歴任している。
特に橋本内閣においては、沖縄問題担当として60回以上に渡り沖縄入りして現地との信頼関係を築きながら、普天間基地の返還・代替地移設問題や沖縄振興策策定の最前線で活動したとされる[3]。
2009年12月には、鳩山由紀夫内閣の普天間基地移設問題への対応で日米関係が悪化する中、鳩山由紀夫首相と総理大臣官邸で面会。知米派の岡本が個人的な立場から外交面で協力するとの合意をしたと報じられた[4]。
実業家としては、2000年に梅田望夫及びインド人、アメリカ人と4人でシリコンバレーのパロアルトにベンチャーキャピタル「パシフィカファンド」を設立し、ITベンチャーを支援。このほかアサヒビール取締役、三菱自動車監査役、三菱マテリアル取締役、日本郵船取締役、NTTデータ取締役等も歴任する。
2002年9月からは立命館大学客員教授として後進の指導にもあたっている。2005年からは立命館大学で「国際社会で活躍する人材養成特別プログラム」を立ち上げ、宮家邦彦立命館大学客員教授とともにスーパーバイザーを務め、外交官や国家公務員、多国籍企業など難関進路を志望する成績優秀な学生を全学から選抜し、講義、ゼミナール指導、岡本行夫奨学金による海外研修などを実施している[5][6]。
2012 年、NPO法人新現役ネット理事長などの職を退任し、渡米、マサチューセッツ工科大学国際研究センターシニアフェローに就任。2018年青山学院大学特別招聘教授の称号を受けた[7]。
2020年4月24日に新型コロナウイルス感染症のため死去し、5月7日に報じられた[8][9]。74歳没。
◆略歴
1961 年3月 藤沢市立鵠沼中学校卒業、1964年3月 神奈川県立湘南高等学校卒業
1968 年3月 一橋大学経済学部卒業(板垣与一ゼミ)、1968年4月 外務省入省
1969 年 英語研修(米国スワースモア大学)、1971年 経済協力開発機構日本政府代表部
1973 年 経済局国際経済課事務官、1975年 経済局国際機関第一課事務官(貿易交渉担当)
1978 年 北米局北米第一課首席事務官、1981年 在エジプト日本国大使館一等書記官(中東和平担当)
1983 年 在アメリカ合衆国日本国大使館参事官(政務担当)、1985年8月 北米局安全保障課長
1988 年7月 北米局北米第一課長、1991年1月 退官、同年 株式会社岡本アソシエイツ設立、同代表取締役就任
1991 年 - 国際交流基金参与、1996年11月 - 1998年3月10日 内閣総理大臣補佐官(非常勤・沖縄担当)
1998 年7月 - 2000年6月 科学技術庁参与、2000年3月30日 - 2008年3月26日 アサヒビール株式会社取締役
2000 年6月 三菱マテリアル株式会社取締役、
2000 年7月 パシフィカ・ネオ・ベンチャーズ・エル・エル・シー設立、同共同代表就任
2001 年9月 - 2003年 内閣官房参与
2002 年9月 立命館大学客員教授(国際社会で活躍する人材養成特別プログラム)
2003 年4月 - 2004年4月 内閣総理大臣補佐官(非常勤・イラク担当)、2004年4月 内閣総理大臣外交顧問