『白痴』の現代的リメイクをめぐって
望 月 哲 男
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/49/mochizuki.pdf
はじめに
本論は、現代ロシアにおける古典作品の改作(リメイク)の事例研究の一環として、ドストエフスキーの長編『白痴』の現代版を検討しようとするものである。
作家が自国や他国の文学遺産を創作に利用することは、あらゆる時代と地域に見られる普遍的現象であるが、文化環境の一大変化を経験した現代ロシアにおいては、そうした古典の再利用が、一種の文化的流行現象になっていると観察される。後に概観するように、主として19 世紀ロシア文学の古典が、演劇や文学のジャンルで、もじり、改作、パロディの対象とされているのである。
このような現象には、単なる個々の作家の意図やスタイルの問題を越えた、特殊現代ロシア的な意味を読みとることができると思われる。まずそこには、ロシア社会の文化的アイデンティティ危機の反映が想定される。つまり古典との対話や格闘のあり方が、革命前の文化への関心や郷愁、あるいは伝統の断絶を繰り返してきたロシア社会の根無し草的性格に対する反省意識といったものを、様々に屈折したかたちで表しているという見方である。また同じ問題を、ロシアの表現文化のパラダイム変化と結びつけて考えることもできる。すなわち創作におけるオリジナリティへの懐疑や、現実と虚構の相対性、自己の言葉と他者の言葉の入れ子構造などに関するポストモダニズム的意識が優勢になった結果、リメイクやパロディという他者の言説を介した虚構の方法が、従来にもましてアクチュアルなものになったという観点である。
もちろんこの現象を、ロシアにおける文学の特殊なステイタスを抜きにして語ることはできない。かつて社会論、文化論、人生論の論壇であった19世紀ロシア文学は、イデオロギー的啓蒙のバイアスを加えられながら、20 世紀を通じて教育や表現文化の場に臨在し続けてきた。そのような古典を加工や改作の対象にすることは、いわば現代人の精神の原記憶への直接的な働きかけである。したがって、その作業の文化論的な意味においても、またそれが作者と読者に対して持つ心理的な効果においても、非常に大きな可能性が想定されるのである。以上のような意味から、古典の現代的な加工の中に、作家たちのロシア社会文化観に関する様々な情報を読みとることができると思われる。
本論はこのような現代文学と古典の対話のうち、ドストエフスキーの『白痴』に関わる
ケースを取り上げる。それは後にも触れるように、ドストエフスキー作品の中でもとりわけこの長編が現代的ロシア文化意識の展開に応用可能な要素を多く含んでいると思われるからであり、また実際に複数の現代作家がこの作家の作品の応用・加工を試みているからである。
本論の筆者は、これまでにも現代ロシア文学作品におけるドストエフスキー・イメージの諸相を観察しながら、現代作家の創作意識や自国文化観の特徴を捉え、同時にロシア論にとってのドストエフスキー文学の意味や応用可能性を考えるという作業を試みてきた
(1)。その際、筆者は考察の指標として、検討対象となる作品群を、ドストエフスキー・イメージの扱い方に応じて3種類に分類した。すなわち、(1)ドストエフスキーの作品の主題を現代の文脈で新たに展開しているもの(ユーリー・マムレーエフ『ある個人主義者の手帳』、ヴラジーミル・マカーニン『アンダーグラウンドあるいは現代の英雄』、チンギス・アイトマートフ『処刑台』、ドミートリー・ガルコフスキー『果てしない袋小路』など)、
(2)ドストエフスキーをめぐる議論や彼のイメージ自体を作品のテーマとしたもの(フリードリヒ・ゴーレンシテイン『ドストエフスキー論争』、ユーリー・クワルディン『戦場はドストエフスキー』、ヴャチェスラフ・ピエツフ『新モスクワ哲学』、ドミートリー・プリゴフ『文学と芸術の諸法則』など)、
(3)ドストエフスキーの文体模写やパロディを作品構成の重要な要素として含むもの(ヴァレリヤ・ナルビコワ『第一人物の場と第二人物の場』、アリーナ・ヴィトゥフノフスカヤ『ロシア文学最後の金貸しの老婆』、ヴィクトル・ペレーヴィン『チャパーエフとプストタ』、ヴラジーミル・ソローキン『ドストエフスキー・トリップ』『青脂』など)、という分け方である。これらは必ずしも明確な分類概念ではないが、素材とした作品群の性格に照らして、便宜的なガイドラインとしたものである。
本論考は上述の研究の継続にあたるが、ここで検討材料とする作品は上記の分類枠をはみ出すような性格をもっているので、
(4)小説のリメイクという、もう一つのカテゴリーを追加して考えたい。すなわち作家が既存作品を自作の一部に利用するのではなく、現代版として全面的に改編しているケースである。こうした作品は上記の(3)や(1)の作品群と類似の側面を持ちながら、同時に別種の可能性や問題を提起しているように思われる。
本稿の検討の中心対象となるのは、フョードル・ミハイロフという作家によるドストエフスキーの長編の現代的改作『白痴』(ザハロフ社:2001)(2)である。この小説は、作品規模としてはドストエフスキーによる原作の5分の3ほどに縮められているが、内容的には原作のプロット構造をそっくり残したまま、時空間設定、社会的背景、固有名詞や語彙といった様々な要素を20 世紀末ロシアに適合するように改変した、精巧なリメイクである。原作の電子テクストに逐文的に手を加えるというその手法も、また出版と並行してインターネット上に全文が掲載される(3)という流通のあり方も含め、きわめて「現代的」な背景を持っている。
なお比較検討の素材として、本論ではイワン・オフロブィスティンによる映画シナリオ
『ダウン・ハウス』(2000)も取り上げたい。これも同じくドストエフスキーの小説『白痴』の現代版であり、流通の形態もミハイロフの小説と多少類似している。すなわちオフロブィスティンの作品は2000 年からロマン・カチャノフ監督によって撮影され、2001 年3月に映画として完成したが(4)、映画化のプロセスと並行してインターネットでシナリオの全文が公開されてきた(5)。後述のようにこの作品は、古典モチーフの卑俗化という点で興味深い発想や工夫をみせ、現代社会論としては面白い素材であるが、ここでは副次的な検討対象にとどめたい。それは一つには、映画シナリオというジャンルの性格上(圧縮、省略、場面設定等々の手法上の問題や、映像言語の解釈や効果の問題などを含め)、直接に原作小説と対比するにそぐわない点があると思われるからである。この作品の意味は、ドストエフスキー作品の映画化の歴史というコンテクストで詳論されるべきであろう(6)。またジャンルの問題を別にしても、オフロブィスティンのシナリオは、原作の情報を大胆に取捨選択しながら全体をグロテスクな祝祭空間へと編成し直している点で、かなり自由度の高い加工であり、先述のドストエフスキー加工文学分類のうち(3)「ドストエフスキーの文体模写やパロディを作品構成の重要な要素として含むもの」に属するものとの類比で論じられるべきところが多い。実際、注1の拙論で取り上げたV. ソローキンの戯曲『ドストエフスキー・トリップ』(7)は、同じ『白痴』の一シーンを自在に展開してロシアにおける文学中心主義を風刺したものだが、この場合、加工作品のアイデンティティの枠が原作を大きく逸脱し、リメイクと呼ぶにはふさわしくないものになっている。オフロブイスティンのシナリオも、部分的にそのような性格を共有している。以上の理由から、本論ではミハイロフの作品を中心主題とする。
なお作品検討に先だって、現代ロシアにおける古典の受容や加工にまつわる一般的な雰囲気、およびここでモデルとして登場するドストエフスキー作『白痴』という作品の特徴について、簡単に概観してみたい。
1 現代文芸と『白痴』
1-1 古典のもじりブームについて
古典へのこだわりと、古典の改変やもじりへの志向の同居──必然とも皮肉とも見えるそうした現象を、現代ロシア文芸との関連で観察することができる。
一つの顕著なジャンルは演劇である。演劇は本来、脚本、演出およびその他の諸要素が全体としてその都度「作品」形成に関与するジャンルであり、たとえば演出者の脚本解釈について、まともな解釈か曲解かという議論を立てること自体が困難な場合が多い。もし原作が別個にある場合には、脚本作家の原作解釈についても同じことが言える。しかし些末な境界論を無視するなら、それぞれの局面において、原作の諸要素に忠実であろうとする姿勢、原作の諸側面を取捨選択して一定方向のメッセージを際だたせようとする姿勢、原作をあえて解体し、別のコンテクストで再利用(あるいは再構築)する姿勢、といった態度の差異は明瞭である。現代演劇の意欲作の多くは、おおむね第2、第3のカテゴリーに属し、いわゆる
5 Иван Охлобыстин. Даун Хаус (сценарий кинофильма по мотивам романа Ф.М. Достоевского <Идиот>).
http: //www.ezhe.ru/data/vgik/oi-dh.html
6 ちなみに『白痴』の映画化としては次のものが知られている。『人生の裏窓』(佐々木恒治郎監督、松竹キネマ、1929);『白痴』(ジョルジュ・ランパン監督、フランス、1946);『白痴』(黒沢明監督、松竹、1951);
『白痴』(イワン・プイリエフ監督、ソ連、1958);『若者のすべて』(ルキノ・ヴィスコンティ監督、イタリア・フランス、1960);『狂気の愛』(アンジェイ・ズラウスキー監督、フランス、1985);『ナスターシャ』
(アンジェイ・ワイダ監督、ポーランド・日本、1994)
7 Владимир Сорокин. Dostoevsky-Trip. М.: Obscuri Viri, 1997. (上演はベリャコーヴィチ演出、ユーゴ・ザパドナヤ劇場)
大胆な演出の成果をみせている。
たとえばV. ミルゾエフの『フ・レスタコフ(Х. Лестаков)』(スタニスラフスキー劇場)は、ゴーゴリの偽検察官フレスタコフの怪物的な側面を極度に強調することによって、K・ギンカスの『罪のK.I.(К.И. из преступления)』(モスクワ青年劇場)は、ドストエフスキーの『罪と罰』を副人物マルメラードフ夫人カチェリーナ・イワーノヴナの狂乱のモノローグに集約することによって、それぞれ原作イメージに独自のアクセントをつけている。
『死せる魂』(ゴーゴリ)の主人公チチコフが外国帰りの企業家で、魔女と恋をするというM. ザハロフ演出『ミスティフィケーション(Мистификация)』(N. サドゥール脚本、レンコム劇場)に至っては、幾分第3の、原作の解体に足を踏み入れている。この延長線上にある一つの例が、人気探偵小説作家B. アクーニン作の戯曲『かもめ』(8)で、作者はチェーホフの原作で最後に自殺するトレープレフが実は殺されたのだという設定で、にわか探偵の医師ドールンがおこなう謎解きのヴァリエーションに合わせ、8通りの異なった第2幕を書いている(チェーホフの原作と背中合わせに合冊した、凝った出版でも話題を呼んだ:上演はヨシフ・ライヘリガウズ演出、現代戯曲派劇場)。ジャンル的には喜劇から笑劇への書き換えといえるだろう。
もじりの流行は、文学の世界にも広くおよんでいる。一つの典型的な指標は、インター
ネットを舞台としたもじりの品評会ともいうべき現象である。たとえば文芸批評家ヴャチェスラフ・クーリツィンのホームページに含まれた『青脂-II』(9)というサイトには、プーシキン、ゴーゴリからソルジェニーツィンやソローキンまで、様々なロシア作家の文体模写が複数の作者から寄せられている。このサイトの構想自体、クローンが諸作家の文体模写をするという奇抜なプロットを含むV.ソローキンの小説『青脂』(1999)のパロディになっている。
現代的もじり遊びには、パソコンが便利な環境を提供している。たとえば上記のサイトに『罪と罰』の1シーンのもじりを2種類掲示しているレオニード・ガガノフは、自らのページでDIALOG.COM なるオリジナル・プログラムを宣伝している(10)。これは任意のテクストを俗語や卑語の混じったブロークンな現代語テクストに変えてしまうという、奇抜で不謹慎なプログラムである。このような特殊な例は別にしても、インターネットを通して得られる作品の電子テキストが、過去には考えられなかった形でのリメイクを可能にしているケースは多い。本稿で検討するフョードル・ミハイロフも、あるサイトに『白痴』の全テクストを発見したことがきっかけでリメイクを決心し、3年間ほどをかけて一文一文書き換えていったのだと紹介されている(11)。電子情報という存在形式が文章加工を技術的に容易にすると同時に、改作者と原テキストの間の心理的な壁をも乗り越えやすくしていることが推測される。
このような状況を背景に、様々な文学加工──パロディ、自由な続編作り、全面的なリメイク──の結果が登場している。作家ヴャチェスラフ・ピエツフは、すでに1989 年に『近代と現代におけるグルーポフ町の歴史』というタイトルで、サルトィコフ=シチェドリンの『ある町の歴史』をもじりながら、スターリン、ブレジネフ、ゴルバチョフへの風刺を含んだ作品を書いているが、2000 年には『この十年のグルーポフ町』というタイトルの「続編の続編」を書いた(12)。A. ゾロチコの短編『アンナ・カレーニナ2』(2000)(13)は、アンナ・カレーニナの遺児であるもう一人のアンナの半生をアネクドートのように描いた、滑稽な続編の典型で、ラスコーリニコフ、ヴロンスキー、カテリーナ・マスロワ(『復活』)といった架空の人物群と、トルストイ、レーニン、チャパーエフなど歴史上の人物がともに登場する。
古典の続編には他に、ヴァシーリー・スタールィ作『ピエールとナターシャ』(『戦争と平和』の続編)、ヴィターリー・ルチンスキー作『ヴォーランドの帰還、あるいは新たなる悪魔物語』(『巨匠とマルガリータ』の続編)、ボリス・レオンチエフ作『オスタップ・ベンデルの新しい冒険』、アレクセイ・ホルンジー作『オー、リオ、リオ、あるいはO. ベンデルの新しい冒険』、アリベルト・アコピャン/ヴラディスラフ・グーリン作『金羊毛勲章拝受者』
(『十二の椅子』『黄金の仔牛』の続編)などが知られる(14)。
古典作品の滑稽版や続編はしばしば偽名の作者に帰せられる。われわれが話題にする作家フョードル・ミハイロフも、ドストエフスキーの名前と父称フョードル・ミハイロヴィチを
もじったペンネームである(本名はアンドレイ・アンドレーエフで、34 歳の若手作家)。彼
の出版者ザハロフは、同じ発想でイワン・セルゲーエフ著『父と子』、レフ・ニコラーエフ
著『アンナ・カレーニナ』といったリメイクの作品を出版している(15)。
なおリメイクとはオリジナル作品の改編を広く指すことのできる概念であるが、ここでは
主としてオリジナル作品と改作された作品が(内容の変質にも関わらず)アイデンティティ
の対応関係を持つ(つまり作品として1対1対応している)場合を考えたい。したがってソ
ローキンの作品のように、モデル作品の加工を一部に含みながら別個の輪郭をもった作品を
作る場合には、特定の原作のリメイクと見なすのは不適当であろう。本稿で扱う作品はその
ような問題を喚起しない(リメイクの機能については本稿第3章で改めて触れる)。パロ
ディもしくはもじりという用語の原義は、既存の作品の諸要素をまねて喜劇的なおかしさや
風刺などの効果を出す文芸作品(あるいはその行為)であるが、この概念に関しても、オリ
ジナリティということに関する意識のあり方、モデル作品のイメージの明確さ、モデルが作
品を支配する(あるいは作者がオリジナル作品を顧慮する)度合い、滑稽さや風刺の性格や
程度といった指標に応じて、様々な下位分類や並列概念が存在しうる(16)。本稿ではそのような問題をめぐって厳密なターミノロジーに分け入ることは回避し、個々の具体的な現象をパロディ(もじり)という行為の諸相として説明したい。文体模写とは、様式模写(スティリザーツィヤ)という一般概念の文芸版で、個人の文体からあるジャンルの定型まで、特定
の文章形式を意識して作られる文章(あるいはその行為)を示す概念であり、とりわけ滑稽さや風刺を前提とするものに限定されない。
1-2 『白痴』とはどんな小説か
1-2-1 構成
『白痴』はドストエフスキーの長編小説の中でも、とりわけ多様な解釈を誘う作品である。
主人公レフ・ムィシキンは26 歳の公爵家の末裔。てんかん症に似た神経病の治療で4年
間をスイスの病院で過ごした後、1860年代のペテルブルグに戻ってくる。彼はその直後、資
産家貴族トーツキーの囲い者だった没落貴族の孤児ナスターシャ・バラシコヴァと出会い、
商家の息子パルフョン・ラゴージン、実業家エパンチン将軍家の娘アグラーヤ等とともに、
複雑な愛憎関係に巻き込まれていく。
物語の構成は、主人公の帰国第1日の出来事が描かれる第1部と、半年後以降の経緯が語
られる第2〜4部では、いささか異なっている。すなわち第1部の出来事は次のように劇に
似たシーン割りで構成されている。(行末カッコ内は作品の部−章数)
1) ペテルブルグ=ワルシャワ鉄道での両男性主人公の出会い=(1-1)
2) エパンチン家将軍の書斎での会見(エパンチン、トーツキー、野心家ガヴリーラ・イ
ヴォルギンのナスターシャをめぐる陰謀が明らかになる)=(1-2,3,4)
3) 同家におけるエパンチン夫人および3人娘との出会い(主人公の体験や思想が語ら
れ、エヴゲーニーとアグラーヤの交渉に主人公が関与する)=(1-5,6,7)
4) イヴォルギン将軍家でのエピソード(同将軍はじめ副人物が登場、ナスターシャと
ラゴージンがその場に闖入し、最初のスキャンダルを起こす)=(1-8,9,10)
5) イヴォルギンと主人公の彷徨=(1-12)
6) ナスターシャの家での夜会(登場人物が一堂に会する中、ムィシキンが莫大な遺産
を受けることが明かされ、ナスターシャの運命の選択が行われる)=(1-13,14,15)
モスクワに去った主人公たちが首都に戻ってくる6ヶ月後を描いた第2〜4部は、上の
ように単純な劇的構成をとっていない。出来事を時間軸に沿って要約すれば、以下のよう
になる。
第1日目(6月初旬):ムィシキンがペテルブルグのレーベジェフ、ラゴージンの家を訪
問。ラゴージンに襲われた主人公がてんかんの発作を起こす(2-1 〜 5)。
2日後:パーヴロフスクの別荘。病後の主人公がエパンチン一家と再会、アグラーヤとの
新しい関係が始まる。遺産の分け前を要求するブルドフスキー、結核で死期の近い青年イッ
ポリートなどのエピソードが展開。この夜ナスターシャが出現し、アグラーヤの求婚者エヴ
ゲーニーを誹謗する(2-6 〜 10)。
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『白痴』の現代的リメイクをめぐって
3日後:パーヴロフスク。アグラーヤをめぐる主人公とエヴゲーニーの曖昧なライバル関
係が展開。再び現れたナスターシャがエヴゲーニーをスキャンダラスに挑発する。深夜、主
人公の誕生パーティでイッポリートが自殺を試み、失敗(2-11 〜 3-7)。
翌日:同所。ナスターシャがアグラーヤに送った手紙をめぐり、二人のヒロインの複雑な
ライバル心理が浮かび上がる。レーベジェフの金が盗まれるという副次的事件。同夜ナス
ターシャが主人公の前に現れ、最後の別れを告げる(3-8 〜 10)。
1週間ほど後の数日間:父イヴォルギンが窃盗への呵責から発作を起こす。主人公がアグ
ラーヤに求婚する。アグラーヤとナスターシャの間に文通があることが明らかになる。エパ
ンチン家の別荘での夜会で、お披露目の花婿ムィシキンが一大スピーチのあと発作を起こ
す。(4-1 〜 7)。
翌日:アグラーヤとムィシキンがナスターシャの住処を訪問、ラゴージンを含む4者対決
の後、傷ついたアグラーヤが去り、ムィシキンはナスターシャのもとに残る(4-8)。
2週間後:エヴゲーニーとムィシキンの対談と状況整理。ムィシキンとナスターシャの結
婚話が進行(4-9)。
約1週間後:結婚式直前に、ナスターシャがラゴージンと逃亡(4-10)。
翌日:ペテルブルグへラゴージンとナスターシャを追跡。ラゴージン宅で殺害されたナス
ターシャを発見(4-11)。
後日:スイスの病院にいるムィシキンを始め、関連者の身の上が点描される(4-12)。
以上のような事件の連鎖は、数々の特異な細部情報や独立したエピソードをまとって展開
されており、そうした要素が作品のイメージに決定的な役割を果たしている。たとえばムィ
シキンが繰り返す死刑囚の経験の分析的描写(1-2;1-5)、ナスターシャの生い立ち話(1-4)
とその寓話版のようなスイスの女性マリーの話(1-6)、ナスターシャが暖炉に10 万ルーブ
リをくべるエピソード(1-16)、ラゴージンの家にあるホルバイン・ジュニア作『墓の中の
キリスト』の絵(2-4,3-6)、ムィシキンを追跡するラゴージンの目とナイフのイメージ(2-2
〜5)、ナスターシャの死体の置かれた部屋にいる一匹のハエ(4-11)等々といった要素であ
る。
『白痴』は小説の形式面においても独自性を持っている。叙述の様式について言えば、そ
こには「聖人伝」風のスタイル、家庭小説風のスタイル、新聞記事風のスタイル、心理小説
や怪奇小説のスタイルといった多様な要素が交代して現れる。また語り手のイメージという
点でも、あたかも随所に遍在して具体的人格を持たぬかのような第1部の全知の語り手か
ら、自己の認識力や語る能力への懐疑を抱くきわめて自意識的な第2部以降の語り手への、
不思議な変貌が生じている。見方によれば、これはコミュニケーションの危機を扱った小説
(R. ミラー)(17)であり、あるいは叙述の方法や叙述者の意識が主題になっている、自己言及的なメタ・フィクション(M. フィンケ)(18)である。
『白痴』のリメイクとは、具体的には、上述のような
(1)人物、場、時、事件などを含めた物語の骨組み、
(2)シンボリックな細部情報、
(3)語り手像、文体、語彙といった叙述の属性のそれぞれについて、取捨や改変を行っていくことに他ならない。
1-2-2 作品の時代背景とテーマの現代性
『白痴』は再婚を機に生活の一新を図って国外へ出たドストエフスキーが、1867年から69年にかけてジュネーヴ、ヴヴェー、イタリア各地を点々としながら構想し、書いた作品で、キリストやドン・キホーテをモデルに美しい人間を描こうという理想主義的な構想の背後には、当時の作者の精神生活や社会観レベルでの不安と危機感が隠されている。平均3週間に1度の頻度で起こったてんかんの発作、絶えざる金銭上の苦労と賭博熱、在外ロシア人社会での軋轢、生後3ヶ月の長女の死亡(68年5月)といった個人生活上の不穏事に加えて、67年8月バーゼルでみたハンス・ホルバインの『墓の中のキリスト』の印象や、第1回自由平和連盟国際会議前後のバクーニン等亡命革命家たちとの出会い(67 年9月)など、彼の終末論的危機意識をあおる出来事は多かった。外地で読むロシア語新聞の事件欄も、功利主義、利己主義、信仰喪失、道徳的シニシズムの蔓延の指標として、彼の危機感を刺激した。
67年3月に起こったモスクワの商人マズーリンによる宝石商殺害事件もそうした不吉な指
標の一つで、ドストエフスキーはラゴージンによるナスターシャ殺害場面に、そのディテールを利用している。大改革後のロシアは資本主義社会、都市社会の矛盾を病んでいるが、その病自体の中にロシアの独自性と可能性の芽が現れており、それは(たとえば『けむり』の作者ツルゲーネフのように)外地から外国的基準に立って遠望するのではなく、ロシア的なものの内に分け入ろうとする目にしか見いだしえない ── これはこの外国生活後彼が一貫して取ろうとした思考と創作の基本姿勢である。ここに現れるような、変動期ロシアへの終末論的危機意識、およびその根本にある西欧的価値とロシア的価値の対比という要素は、積極的に捉えるにせよ消極的に捉えるにせよ、ドストエフスキーの作品の「現代的」読解を促す重要なポイントとなっている。
個別のテーマを見ても、『白痴』のロシアが1990年代ロシアを連想させる要素は多い。精神的・道徳的価値と金銭的価値の対立(資産家の貴族と商人の息子が没落貴族の子女の運命決定権を金で競り合うという設定)、テクノロジーの発達(主人公を運んでくるペテルブルグ= ワルシャワ鉄道は、1863 年に完成されたばかりのモダンな交通機関であった)、社会の階層構造の崩壊(零落した貴族や軍人たちと新興ブルジョアジーの共存)、暴露的ジャーナリズムの流行、世代間の意識の断絶、戦争の記憶、暴力や猟奇的犯罪の横行、病み傷つく弱者の存在 ── このような要素はそれぞれ現代ロシアに対応物を見いだすことができる。この作品が今日パロディを生む一因は、そのような背景の一致にあると言えるだろう。些末なことを付言すれば、「白痴」「馬鹿」「不具」といった「政治的に正しくない」差別語や卑語の類が言論界で許容されることも、この種の作品の流通条件であるが、その点でも現代ロシアは十分におおらかである。
ちなみに日本版のリメイクとして高い評価を得た黒沢明の映画『白痴』が制作されたの
も、日本社会が戦後の継続で大規模な体質変化を経験しつつあった1951 年のことである。
ムィシキンにあたる亀田欽司は戦犯として処刑されかかった沖縄からの帰還兵として、青函
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『白痴』の現代的リメイクをめぐって
連絡船と汽車で戦後の札幌を訪れ、商人の子赤間伝吉(ラゴージン)、資産家東畑(トーツ
キー)の囲い者那須妙子(ナスターシャ)、銀行家大野(エパンチン)の娘綾子(アグラー
ヤ)などと出会うという設定であった。石川淳の『焼け跡のイエス』や坂口安吾の『白痴』
(ともに1946年)などとともに、原初的混沌に戻った社会を読み解く超越的な論理を「被差
別者」「病者」「愚者」といった「外部の目」に求める志向の反映として、現代ロシアの『白
痴』への関心と重ねあわすことができるだろう。
1-2-3 作品解釈の複雑さ
主人公ムィシキンは、退廃の淵にある社会に帰還する義人もしくは救済者のイメージを与
えられているが、じっさいの人物造形は単純なものではない。その善なる側面は、イコンの
キリストを偲ばせる彼の風貌、単純さ、謙遜、洞察力、弱者や子供への共感、他人の運命に
関わることへの使命感などとして描かれている。しかし他方でこの人物には、単に良き意志
や知恵の体現者としてだけでは語りきれない弱者、道化、病者あるいは優柔不断な者の側面
があり、それがこの人物の性格と機能の「現代的」な解釈を複雑なものにしている。たとえ
ば彼の寛容で謙遜な言動は、ある種の人物の敵意を和らげるどころか、相手を苛立たせ怒り
を誘ってしまう。彼はこの意味で、自己の攻撃衝動を抑圧して他者の攻撃性を誘発する「悪
への避雷針」(E. ダルトン)(19)として、心理学者がマゾヒズムのカテゴリーに含めるような
行動様式を取っている。またあるレベルでは、ムィシキンの寛大な優しさは「残酷な」効果
を発揮する(S. レッサー)(20)。たとえば自らの運命を悔いや罪意識を持って読解し、潜在的
な贖罪願望に駆られているナスターシャやイヴォルギンは、ムィシキンに無条件の許しを与
えられることで主体性の危機に陥ってしまう。またアグラーヤへの恋情とナスターシャへの
同情を最後まで両立させようとする姿勢は、前者の世俗的なプライドを決定的に傷つけてし
まう。
ダルトンやレッサーのようなフロイト主義者は、自己に責任のない他者の経験に対して罪
意識や恐怖を覚えたり、他者の内に洞察した攻撃心や怒りの要素を必死に否定したりする
ムィシキンの心的傾向の中に、超自我(理想や価値意識にてらした自己)の肥大に対する自
我(現実原則にてらした自己)の未熟さ、イド(自我の本能的部分)の抑圧という、精神病
理学的現象を見ようとしている。
ムィシキンはまた『地下室の手記』の主人公に通ずる悲劇的な自意識の主体でもある。そ
の内省の中には、自殺志願者イッポリートと同じような、宇宙の秩序からの疎外感、メラン
コリー、現実逃避の欲求、思考の二重性の感覚が現れる。このような一連の内的矛盾は、情
欲や暴力のイメージと去勢のイメージを持つラゴージン、純潔と堕落の両イメージを持つナ
スターシャ、純真な虚言者イヴォルギンなど、多くの人物に共有されている。
総じてこの小説における個々人の行動は、かつてスカフトゥイモフ(21)が分析したような内面的動機や、特定の時代や社会に特徴的な行動様式に帰すことのできる因果関係の他に、神話や寓話などの普遍的モデルを媒介にして説明せざるを得ない要素を含んでおり、読者はしばしば多重の読解コードを用意することを強いられる。たとえばV. イワノフ(22)は、この作品の読解に天上性と地上性という二つの原理を導入しているし、K. モチューリスキー(23)は経験的な世界(1860年代末ロシアの夢想的貴族の物語)と観念的もしくは形而上的世界(カオスに来臨した真実美しい人間の物語)の両レベルで読みとっている。またG. コックスは文化人類学的な概念を読解に応用して、この作品中の弱者や死者の形象の中に、原始部族において集団の犠牲者が弱者故に持っていたとされる逆説的な力(フロイトの概念におけるマナ)の存在を見ようとしている(24)。R. コックス(25)を代表とする多くの読者は、『白痴』の構造とイデーの双方のモデルをヨハネの黙示録に見いだそうとしているし、また聖者伝から『ドン・キホーテ』などの世俗文学にまで広がる聖なる愚者や賢い愚者のイメージに類比を求める者も多い。
このような曖昧さや複雑さが、『白痴』を現代的な小説にしているもう一つの要因である(26)。
物語構造、シンボリックな細部、叙述様式といった各レベルでのリメイクは、必然的にここに略述したようなメッセージ読解の領域における選択やアクセントの置き換えをともなうことになる。そしてリメイクという作業の一般的な帰結として、作品は単独としては完結しない。つまり取捨選択や改変の結果としての作品のみが読者の前に残るのではなく、モデル作品の記憶およびそれとの「ずれ」の意識を含めたトータルなものが、作品の受容のあり方を決定するのである。『白痴』そのものが聖人伝文学から家庭小説やゴシック・ロマンスに至る様々な文学ジャンルの伝統に依拠していることを考慮するなら、この作品の現代版が担っている文化的記憶はきわめて大きいと言えるだろう。
2 『白痴』の現代的リメイク
2-1 『ダウン・ハウス』の例
およそ130年前に書かれた『白痴』の諸要素がどの程度現代風の加工やアダプテーション
を許容するかということの一例として、まずイワン・オフロブィスティンのシナリオ『ダウ
ン・ハウス』を概観したい。
2-1-1 背景
一部既述のように、この作品はロマン・カチャーノフ監督によって2000 年4月から2001
年3月にかけて制作され、すでに公開されている。ジャンルはコメディ、時間は100分の作
品である。シナリオは2000年(おそらく6月)からロシア全連邦国立映画大学(ВГИК)の
22 Vyacheslav Ivanov, Freedom and the Tragic Life: A Study in Dostoevsky (New York, 1971).
23 Константин Мочульский. Достоевский: Жизнь и творчество. Paris: YMCA, 1947.
24 Gary D. Cox, Tyrant and Victim in Dostoevsky (Slavica : Columbus, 1983), p.84.
25 Roger L. Cox, “Myshkin’s Apocalyptic Vision,” in his Between Earth and Heaven: Shakespeare, Dostoevsky, and
the Meaning of Christian Tragedy (New York, 1970).
26 『白痴』解釈の多様性については拙稿「パラドクスの様態:『白痴』論へのアプローチ」『Russistika』No.10、
1993 年、161-186 頁を参照されたい。
− 121 −
『白痴』の現代的リメイクをめぐって
ホームページ(注5)に掲載されている。筆者が依拠したのもこの電子テキストおよび同作
品のビデオ版である。なおシナリオ作者のオフロブィスティンは俳優でもあり、映画ではマ
フィア・ビジネスマンに変身した副主人公ラゴージンを演じている。
この作者自身がフィルムスタディオというサイトで制作の経緯を文章化しているが、皮肉
な韜晦を含んだその筆致が彼の創作姿勢を反映していると思われるので、以下一部引用す
る。
「……(原作から)何百年かたって、有名な映画監督ロマン・ロマノヴィチ・カチャーノフが、競
争意識で逆上したドストエフスキーの頭脳による不朽の作品を映画化しようと決心した。この有名
映画監督はその目的のために、唯一人自由なジャンルで働いているシナリオライター、いやそもそ
も一人しかいないシナリオライターのイワン・イワノヴィチ・オフロブィスティンを呼び寄せた。
すると相手はたちまちこの大部の作品をスキャニングし、手当たり次第に切り縮めてプリントアウ
トすると、ロマン・ロマノヴィチに何ドルかで売り渡したのである……」(27)
作者は冒頭に、『ダウン・ハウス』の「ダウン」はダウン症患者からの転義で「白痴(иди-
от)」を意味する俗語、「ハウス」は「20 世紀末に流行ったダンス音楽の一ジャンル」を示
す、という注をつけているが、この作品に入り込むためには、この種のシニカルで挑発的で
さえある言語感覚への態度をひとまず保留してかからなくてはならない。
2-1-2 あらすじ
現代風の改変を強調しながら物語を要約すると、おおむね以下のようになる(下線部は目
立つ改変部分。原典が電子テクストのため、言及の出所は<s25>のようにシーン数のみを記
す)。
現代(映画の設定では2005 年)のモスクワ。第一次亡命世代の孫にあたる25 歳のムィシ
キン公爵が、チューリッヒ=モスクワの国際バスで初めて祖父母の故国を訪問する。早くに
孤児となった彼は神経の病気で8年をスイスの病院で過ごした後、叔父が残したある鉱山の
権利(月額40 億相当)を相続に来たのである。ちなみにこの作品のムィシキンは現代風の
奇抜なファッションのコンピュータ・プログラマー。
彼はバスの中で足にギプスをしたビジネスマンのラゴージンと知り合い、相手の意中の女
ナスターシャ・フィリッポヴナのことを知る。保安委員会書記トーツキーの囲い者である身
長2メートル近いこのモデルに惚れ込んだラゴージンは、相手にパン屋をそっくりプレゼン
トし、父親にばれて国外逃亡したが、このたび死んだ父の遺産を相続に戻ったのである。(帰
国したラゴージンはもう一人の相続者である兄に命をねらわれ、相手を病院行きの目に遭わ
せる)<s1-16>
遠縁のエパンチン夫人を訪れたムィシキンは、夫の将軍と秘書ガヴリーラ・イヴォルギン
から、ナスターシャをめぐる陰謀を知る。エパンチンは長女アレクサンドラとトーツキーを
結婚させてビジネスの繁栄をねらい、ナスターシャを引き取るガヴリーラは、報酬に貨車3台分の肉の缶詰とゴルフ・クラブを受け取るというもの。エパンチン夫人と娘たちに対して、ムィシキンは浮浪者や子供に金をばらまいたあげく電子レンジで卵料理をして爆死したスイスの銀行員マリアの話、擬似処刑の体験をインターネットで伝えた中国作家の話をする。ナスターシャとアグラーヤを両天秤にかけようとするガヴリーラに対し、ムィシキンは誰とも結婚するなと忠告する。<s17-26>
イヴォルギン家への道中、ガヴリーラがムィシキンに、かつて政府高官トーツキーが地方の党書記の遺子ナスターシャ・フィリッポヴナを誘惑した顛末を語る。<s18-32>
寄宿先にしたイヴォルギン家、息子の結婚話を憂慮するコーカサス戦線帰りの父将軍らの前に、ナスターシャおよびラゴージンの一行が闖入、騒動になるが、ムィシキンがダンスを始めることでこれを収める。ラゴージンはナスターシャに晩のパーティにバケツいっぱいの金を持っていくと約束。この後ムィシキンは軍時代の父親を知っているというイヴォルギン将軍によって、サダム・フセインからもらったという高級車で引き回される。<s33-42>
ムィシキンがモスクワ郊外のペレデルキノにあるナスターシャの家のパーティに駆けつけると、恥を告白する「自己中傷ごっこ」が始まる。フェルディシチェンコ、エパンチン将軍が、それぞれ殺人者をだまして叔母を殺させ、アパートを手に入れた話、戦友の妻に届けるべき遺書をトイレット・ペーパー代わりに使ってしまった話をする。その後ナスターシャの結婚話が展開。彼女はガヴリーラの求婚を拒絶し、ラゴージンとムィシキンが求婚者として名乗りを上げる。ムィシキンの受ける巨額の遺産が明らかになる。ナスターシャは結局ラゴージンと行動をともにするが、その際彼の持ってきた金の包みを暖炉に投げてガヴリーラを挑発する。<s43-60>
その晩担当役人をたたき起こして婚姻登録を行おうとしたラゴージンの前からナスター
シャが逃亡。ムィシキンとラゴージンはレストランで会見し、お互いのナスターシャ観を話し合った後、十字架を交換しあう。ラゴージンはムィシキンにナスターシャを譲ると言うが、その後一転して車椅子に乗ったままピストルでムィシキンを襲う。ムィシキンは通りかかったアグラーヤのバイクに便乗して難を逃れる。襲撃に失敗したラゴージンが、闇市「ゴルブーシカ」で買った欠陥手榴弾で自殺に失敗した知人イッポリートを回想する。<s61-72>
モスクワ川を望む高台で小便をし、ビールで乾杯したムィシキンとアグラーヤが話し合
う。アグラーヤは結婚の動機は恋愛か打算しかあり得ないと、ムィシキンの同情精神を批
判、ムィシキンは世界秩序を制御するコンピュータ・プログラムの異常について思いをめぐらす。結婚にはセックス体験が必要だというアグラーヤの提案で高層ビルの屋上で結ばれた二人は、愛し合っていることに気づき結婚を決心。アグラーヤは早速父親に掛け合って、持参金代わりに貨車5台分の医薬品を約束させる。資産授受の事務手続きのためコンピュータに向かったムィシキンがサイバー・ワールドに没頭しているうちに結婚式場に行く時間となっている。<s73-79>
結婚式場の入り口、二人の前にラゴージンのリムジンでナスターシャが登場し、二人の女性の掛け合いが始まる。結局傷ついたナスターシャへの同情に駆られたムィシキンは、改めて彼女と結婚しようとするが、ナスターシャは再び去る。ムィシキンはガヴリーラたちと麻薬によるトリップを経験する。<s80-83>
晩にラゴージンがムィシキンを、ナスターシャの家でのフランス料理の会食に招待。食卓で彼は、ナスターシャを殺害した(ピストルで頭を半分吹き飛ばした)ことを告白する。死体をみて「足はどうした」と問うムィシキンに、彼は「今我々が食っているものは何だと思う?」と問い返す。ショックを受けながらガヴリーラにも同じ料理を分けてやろうと持ち帰るムィシキン。遠い光に向かって歩むその顔は、なぜか無垢な子供のように輝いている。頭の中ではナスターシャの「美は世界を救う」という声が響いている。<s84-92>
2-1-3 オフロブィスティンのリメイク手法
オフロブィスティンのリメイクの特徴は、以下の点に要約できそうである。
a) 物語の単純化:物語の時間は原作の7ヶ月強から数日間に、場面はモスクワとペレデルキノに圧縮され、一連の人物や事件は省略されている。すなわちジェラール・ジュネッ
トが縮小方向の第二次加工文学の一般的属性とした「切除」、「簡潔化」、「凝縮」、主人公への物語言語の「焦点化」といった現象が起こっている(28)。
省略部分のうち恋愛のストーリーに直接関係するものとしては、両ヒロインの文通、アグラーヤの求婚者エヴゲーニー・ラドームスキーにまつわるエピソード等々、関係しないものとしては、レーベジェフやイヴォルギンをめぐる一連の事件などがあげられる。もちろんこうした事件の単純化と時間の圧縮とは深く関係している(シナリオには事実上、謎の文通や第3第4の求婚者が出てくる時間的余地がない)。省略の結果、行為主体や動機付けを奪われたいくつかのエピソードは、別のコンテクストに写されている。たとえばイッポリートの自殺未遂はラゴージンの回想の中に現れる。
人物造形も同じくステロタイプ化されており、全体として物語構造がきわめて単純になっている。
b) 物語の卑俗化:文章語の規範を逸脱する語彙(俗語、卑語、差別語……)の使用、および暴力、性行為、排泄行為、人肉嗜食、物欲などへのあからさまな言及が、作品をきわめて形而下的で猥雑・下品なものにしている。
上記のような人物像の単純化も、一貫して卑俗な側面の強調という方向で行われる。ムィシキンについては、その奇人的側面が極度に強調される。彼は右耳に4つの銀のリングをつけ、肩に乗せたプレーヤーで「ハウス」を聞き、踊ることを好むコンピュータ・プログラマーで、コンピュータに向かうと寝食を忘れて没頭してしまう。エパンチン夫人はムィシキン家の全員が麻薬中毒症だと評する。このほかラゴージンにおいては暴力性が、ナスターシャにおいては捨て鉢で優柔不断な性格が、アグラーヤにおいてはじゃじゃ馬娘的放埒さが、選択的に強調されている。ムィシキンが語るスイスの銀行員マリーのエピソード、ラゴージンの語るイッポリートの自殺談なども、悲劇性を取り払われたナンセンスな物語に変貌している。
c) 「内面」の抑圧:上記の2つの要素に関連して、人物の感情、思考、行為の内的動機といった「内面」の表現が単純化され、事実上人物に感情移入する可能性が失われている。
たとえばラゴージンは父親の世界観を次のように語る。
「死んだ親父が言っていたものだ。『世間を研究するにはいろいろやり方があって、頭でやる奴も、信心でやる奴も、胃袋でやる奴もいるのさ。だが間違いがないのは最後の奴だけだ。たとえばバスは食えないが運転手は食える。ほらはっきりしてるだろう』」<s63>
同じくアグラーヤの結婚観表明も直裁である。
「結婚なんて、恋愛でするかそれともガヴリーラのように純粋に経済的打算でするかしかないわよ。ただ単に結婚しようなんて、ろくでもないわ」<s73>
このような論理は人物の行為選択を一義化するので、結果として曖昧な行動は説明の言葉を持たないことになる。原作から持ち越されたこの作品の一番曖昧な部分、すなわちムィシキンとナスターシャがなぜ相互に関心をもつのかという点については、次のような説明的会話の断片が与えられるのみである。
「公爵、どうしても分からないわ、どうして私があなたに必要なの? ひょっとしたら、あなた本
当に病気なんじゃないの? 横になる?」
「いやいや」公爵は手を振る。「それどころか、僕にはあなたの方が自失してらっしゃるようにみ
えます。そのままじゃ危険ですよ。僕の方は正直に言って、あなたと一緒にいるとなにか馴染みの
ない喜びを覚えるのです」
「無理よ…… 今更そんな……」<s60>
ただしシナリオとしての性格上、作品は別様の内面表現や論理表現を持っている。ひとつ
は音楽と踊りであり、ムィシキンが自己と他者を癒し武装解除するこの手法の意味と効果
は、テキスト分析だけでは把握できない。もうひとつはコンピュータ・グラフィックによっ
て表現される異次元的世界のイメージであり、作者は原作のムィシキンの非日常的な感覚経
験や神秘的な内面生活の一部をこの手法で取り上げている。たとえば次のような一節は彼の
正体の怪しさを滑稽に表現している。
……「僕はさんざん治療を受けて、ようやく治ったのです」ムィシキンは悲しげにそう言った……
バスの窓の外を飛んでいく牝牛を眺めながら。<c11-13>
またたとえばムィシキンはアグラーヤとの会話の途中で、星空の変容を意識する。
……ムィシキンはアグラーヤに反論しようとしたができなかった……なぜならば空の星たちがそ
の定位置を離れ、勝手に数字や文字を描き出したからである。そしてすぐに一定の組み合わせが読
みとられるようになった。といっても知らない人間には何の意味もないことだが、公爵は理解した
のだ ── システムにエラーが混入したのであり、基本ディスクの破砕を回避して再ローディング
した方が良いということを。<c73-73A>
− 125 −
『白痴』の現代的リメイクをめぐって
しかしきわめて圧縮、単純化された作品構造は、こうした内面描写らしきものと行為との
因果関係が成熟していく余裕を与えず、結果として行為も事件も自動化している。
上記のことはこの作品のもじりの性格を物語っている。すなわちこのリメイク作品の人物
像、人間関係、彼らの行為の基本的な部分は、原作『白痴』の表層を模倣しているが、ただ
し原作の宗教的・形而上的論理や動機付けの部分(キリスト的人間の理想、霊的愛と肉的愛
の関係論など)は抜き取られている。というよりもむしろ、作者は設定を現代風にし、事件
の進行スピードを極端に速め、言説を卑俗化・単純化することで、聖人伝風、家庭小説風、
心理小説風、ゴシックノヴェル風といった原作の様々な論理を、ナンセンス・コミック風の
脱論理や超論理にすり替えている。彼はまた部分と全体の整合性や完結度といった問題にも
責任を持たず、好きな部分を肥大させ、好きな時点で終わることができる(最後の「美は世
界を救う」というリフレーンの唐突性)。そうした遊びからでてくる突飛なエピソード展開
(たとえばアグラーヤとムィシキンの性行為、ラゴージンがナスターシャの足を料理してし
まうこと)も含めて、改作者はロマンティク・リアリズムともファンタスティク・リアリズ
ムとも呼ばれるドストエフスキーのスタイルを、サイケデリック・フィクションとでも呼ぶ
べきスタイルへと転換しようとしているようにみえる。そしてこの意外な物語展開が、人物
名も含めてまさに原作のシンボル体系をふまえて行われている故に、それは単なるグロテス
クな物語という以上の、一種聖物冒瀆的な性格を帯びているのである。
この作品の効果や機能に関しては少し先で再考するとして、次にミハイロフのリメイクを
観察してみたい。ミハイロフの作品は、全体のプロットから文のレベルにまでわたる包括的
な改作として、オフロブィスティンのものとは対照的な作品であり、できばえの評価は別に
しても、より多くの論点を提供するものである。
2-2 フョードル・ミハイロフ『白痴』のリメイクのポイント
オフロブィスティンの大胆な原作改造とは異なって、ミハイロフの作品は筋立ての骨子か
ら部分の配置まで、原作の基本要素をすべて取り込んだ上でのリメイクであり、部や章の立
て方も原作に従っている。外国帰りの青年をめぐる四角関係の形成と組み替え、殺人事件と
国外脱出という事件展開も原作通りである。あらすじの紹介は地名や人物名などの固有名詞
類をのぞいて1-2-1 で行った原作の要約とほぼ重なるので、ここでは省略し、以下主な改作
点に沿って作品の特徴を描写してみたい。
a) 叙述
物語の叙述という点で目立った変更点の一つは、原作にない章題の類を付けたことで、た
とえば第1部のタイトルが「アメリカの患者」、同第1章「革ジャンの百万長者」、第2章
「リュックの中味は何?」……となっている。これは作品に冒険小説や少年読み物のような、
軽いジャンルの印象を与えている。ちなみに必ずしも内容にそぐわない「不気味な軽さ」の
印象は、「新ロシア・ロマン(Новый русский роман)」という副題を含めた表紙のデザイン
全体にも感じられる。
叙述に関しては、テクストの総量が原作の半分強ほどに減っていることが表すように、省略・短縮・圧縮・単純化という、基本的にオフロブィスティンの改作と同じ原理が働いている。ただし叙述のまとまった省略が行われるのは人物や事件の描写ではなく、第3部や第4部の冒頭など、語り手の評論的言辞や自己反省の混じった、いわゆる「抒情的逸脱」の部分に集中している。他の箇所では、3文のメッセージを1文にまとめる類の、細かな単位の単純化や圧縮が行われている。オフロブィスティンの作品がリアリズム絵画から漫画への描き換えを連想させるとすれば、ミハイロフの仕事は、あたかも風景画の細部を一定の方針に沿って線単位で間引きした模造画のような印象がある。
なお改作者と出版者はこの仕事を「プロジェクト」という名前で呼んでいるが、おそらくその言葉は、明確な方針と一貫した手法に基づくシステマティックな作業というニュアンスを伝えている。
b) 人物像と名付け
オフロブィスティンが原作の人物名をそっくり踏襲しているのに対し、ミハイロフは中心人物の固有名詞から加工している。
原作の主人公ムィシキン(レフ・ニコラエヴィチ)にあたる人物はガガーリン(アレクサンドル・セルゲーヴィチ)。作家トルストイと同じだった名前と父称が、詩人プーシキンと同じになり、ライオン(лев)という名とは対照的な小ネズミ (мышка) を連想させたもとの姓が、ソ連期の宇宙飛行士を思い起こさせるものに替えられている。じっさいこの人物は(帝政時代の同姓の貴族とは無関係だが)、ソ連の宇宙飛行士の遠縁にあたり、父親も対空防衛施設の飛行士だったという設定である。早くして孤児となり篤志家パヴリシチェフ(原作通りの姓)の庇護を受けるが、発作を頻発する病気で「オリゴフレン=精神薄弱」状態となり、脳・精神医学の権威シネイデル(同前)の病院で治療を受ける。普通教育は受けていないが、本はかなり読んでいる。莫大な遺産の相続人。
原作のラゴージン(パルフョン・セミョーノヴィチ)にあたるのはバルィギン(マカー
ル・セミョーノヴィチ)。モスクワのロゴーシスコエ旧教徒墓地 (Рогожское кладвище) を連想させる姓から、故買人 (барыга) めいた姓への変更。いくつもの市場を仕切ってきたマフィア・ビジネスマンの息子。父が殺されて、大きな遺産を受け取りに帰る。
ヒロインのバラシコヴァ(ナスターシャ・フィリッポヴナ)は、姓は変わらず名と父称がナデジダ・キリーロヴナに。父称に『悪霊』の自殺哲学者キリーロフへの連想がこめられているとしたら、名のナデジダ(Надежда= 希望)とアンバランスをなす(姓は元々「仔羊(барашек)= 犠牲」の連想を持つ)。24 歳のモデル。
15 年ほど前から彼女の面倒をみて目下もてあましているのは、ソ連官界出身で裕福なトロイツキー(アファナーシー・イワノヴィチ)。原作のトーツキー(ドイツ語のTod= 死のイメージありという江川卓説がある(29))よりも宗教的連想 (троица=聖三位一体) のある古風な名前。
29 江川卓『謎とき『白痴』』新潮選書、1994 年、23-24 頁。
『白痴』の現代的リメイクをめぐって
もう一人のヒロインの家族はエパンチンならぬパンチン家。家長イヴァン・フョードロ
ヴィチは共産党中央委員会直属の機関出身の銀行家で、いくつかの堅実な企業に投資している。原作でみなAのイニシャルで始まっていた3人娘(アレクサンドラ、アデライーダ、アグラーヤ)は、改作ではВ (=V)で統一されたヴァレンチーナ、ヴィクトリヤ、ヴェーラとなる。末娘の名の含意は「信」あるいは「信仰」。チェルヌィシェフスキーの女主人公ヴェーラ・パーヴロヴナやヴェーラ・ザスーリチなど、自立的・反逆的女性たちへの連想も働いていると想像される(30)。
このほかに作者はイヴォルギン家の兄妹ガヴリーラ(ガーニャ)とヴァルヴァーラ
(ヴァーリャ)をそれぞれダニイラ(ダーニャ)とエッラ、道化役フェルディシチェンコをヘラシチェンコ(хер= 男性器への連想か?)と改名するなど、細かな改作を行っている。
c) 時空間
物語は現代(おそらく20 世紀末)の出来事。主な事件の時間設定は原作と同じ11 月から翌年夏までで、間に半年の空白があるのも同じ。
小説は原作と同じ4部構成。オフロブィスティンの場合と同じく、事件の場は原作のペテルブルグからモスクワに移されており、第1部は主としてモスクワ中心部を、第2〜4部は主として別荘地ペレデルキノを舞台としている。作者は細かなロケーションへの言及に熱心で、たとえば銀行家パンチンは旧アルバート街の一戸建てオフィス兼住宅に、イヴォルギン将軍一家は市内の巨大な「スターリン式」アパートの3階に、モデルのナデジダは新アルバート街界隈のマンションに住む。バルィギンの家は地下鉄のトゥルゲーネフスカヤ駅からほど近い「重苦しい、灰色の、暗い」スターリン式建築の3階で、1階には「外貨交換」の看板が下がっている。
ミハイロフの独自性は物語の後景にヨーロッパではなくアメリカを配したところで、主人公ガガーリンが4年以上を過ごした治療院は(スイスではなく)コロラドにある。従ってパンチン家での彼の話に登場する被差別女性は、スイスのマリーではなくコロラドのメアリー、画題として言及される処刑の話も、フランス風ギロチン刑からアメリカ式電気椅子刑に変わっている。一連の事件後、主人公はまたアメリカの病院に帰ることになる。またバルィギンが父の怒りを買って逃亡するのもシカゴ経由ラスベガスであり、エピローグで紹介されるパンチンの妻や娘たちの移住先もアメリカである。ガガーリンと結婚しかかった末娘ヴェーラは、結局ハーヴァード大学留学中にチェチェンの名家の出というふれこみの曖昧な青年と結婚することになる。
d) 交通・コミュニケーション
時空間の設定変化に応じて交通や通信手段も変わっている。男性主人公同士が出会うのは30 作品名自体に関しては、作者は本来「精神薄弱」を意味する<Олигофрен>という題名を考えていたが(遠藤周作風『おバカさん』というニュアンスか)、出版者の強引な主張により原作と同じ題名に換えざるを得なかったという。「そのような『スキャンダラス』なやり方は、おそらく商業的には正しいだろうが、プロジェクト全体の作者である私をいささか失望させた」と作者は筆者への私信の中で述べている。真意は
推測するしかないが、同義でも反意でもない曖昧な類義性の中で遊ぶという精神が人物の名付けにも現れているので、モデルと改作を直接に重ねるような同一題名は、本人にとっては不本意だったのだろう。
ペテルブルグ= ワルシャワ鉄道ではなく、ニューヨーク発モスクワ行きのSU316 便のエコ
ノミー・クラス客室。二代目マフィア・ビジネスマンのバルィギンはシェレメチエヴォ空港から高価な外車を連ねて町へ向かい、ガガーリンは水たまりの道を511号バスの停留所まで行くことになる。乗り物が人物の個性や格を表すという大衆文学的シンボリズムが応用されており、野心家の秘書イヴォルギンはアウディに、モデルのナデジダ・バラシコヴァは白のランボルギーニに、バルィギンはニッサンに乗っている。取り分けニッサンは、物語の後半でバルィギン=ナデジダ組がガガーリン=ヴェーラ組の前に姿を現すときの換喩的表示記号として働いている。
通信手段も現代化されている。ガガーリンは(オフロブィスティンのシナリオとの数少ない共通点だが)コンピュータ・プログラミングの初歩を学んでいて、最初のパンチン訪問の際、相手のパソコンに中世の修道士の署名をアレンジしたスクリーンセイバーをインストールする。これは原作のムィシキンが能書家で、いろいろな書体を再現できるというエピソードに対応する。この後の場面でヴェーラが結婚問題で二またをかけようとした父の秘書イヴォルギンに、「この件で取引はいたしません」のメッセージを発するのも、パソコンをめぐるガガーリンとの会話の中である。電子メールも大切なメディアで、第2部のはじめに言及されるガガーリンからヴェーラへの「妹宛の手紙」も、後にヴェーラとナデジダが交わすダブル・メッセージを含んだ文通も、電子媒体で行われる。
この発展する電子通信網は、ドストエフスキー時代の技術・産業発展のシンボルである鉄道網に対応している。したがって原作で鉄道(および科学技術の精神)を世に災厄をもたら
す「ニガヨモギの星」にたとえた黙示録学者のレーベジェフが、現代版ではインターネット
(およびこの何百年かの科学技術的精神)こそが「生命の泉を濁らす疫病のもと」であると
主張するのである。<258>(31)
e) 経済
小説の経済的側面を扱う改作者の方針は明瞭で、基本的には1860年代の金の動きを金額
はそのままに受け継ぎ、ただ単位だけをルーブリからドルに置き換える(ただし一部半端な
数字は丸い数字に直す)というものである。
こうしてマフィアのバルィギンが受け取る父の遺産が100万ドル、第1部でガガーリンが
受け取ると見込まれる遺産が150ないし200万ドル(後の展開でこれよりはるかに少なかっ
たといわれるのも原作通り)、諸事件の後に彼の手元に残るのが13万5千ドル、細かいとこ
ろでは、無一物で帰国したガガーリンがパンチンから当座の生活費として提供され、後にイ
ヴォルギン父に寸借されるのが50 ドル(原作では25 ルーブリ)、同じパンチンがガガーリ
ンの当面の月収として保証しようとするのが100 ドル(同35 ルーブリ)、イヴォルギンが
レーベジェフから盗んだ財布に入っていたのが400ドル、といった金の動きが展開される。
経済全体の規模が違うので原作の時代との比較は困難としても、これは1990年代ロシア
の出来事として突飛なアナクロニズムとは感じられない(32)。むしろ作者は単純な単位の置き
31 以下引用・言及に際してはФедор Михайлов. Идиот. М.: Захаров, 2001 のページ数を示す。
32 ただしこの作品の政治的話題は1993-94 年のセンスなのに物価は98 年並だ、という細かい批評もある。
А. Вознесенский. Корректура «Идиота» // Exlibris, Независимая газета. 8 февраля 2001. С.6.
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『白痴』の現代的リメイクをめぐって
換えにより、ドストエフスキーの作品が含む近代資本主義的な葛藤を、巧みに現代風に再
現している。こうしてナデジダがトロイツキーの手切れ金に当たる7万5千ドルと贅沢なマ
ンション生活を振り捨て、さらにバルィギンの持参した10 万ドルを暖炉にくべて、零落し
た将軍イヴォルギンの息子の経済的野心を嘲笑してみせるという、破滅的なプライド誇示の
ドラマが展開される。
f) ソ連の記憶
過渡期の時代を描く手法の一つとして、作者はソ連の記憶を随所に盛り込んでいる。中心
をなす家庭群も、ソ連崩壊をうまく乗り切った組(パンチン、トロイツキー)と国家ととも
に没落した組(イヴォルギン、テレンチェヴァ)、一貫して闇の世界にいた組(バルィギン)
といった風に分類される。ただしガガーリンの恩人パヴリシチェフは、どれにも属さぬ曖昧
派で、ある旧ソ連エリートの情報によると、この人物はソ連大統領府の国家保安委員会委員
の一歩手前までいったにもかかわらず、「インテリジェント・サーヴィス」(英国の諜報機
関)を介して突然亡命し、アメリカ国籍を取ったという。
ソ連に最もノスタルジーを感じているのは、半ばアルコール依存症のイヴォルギン退役将
軍で、彼の自慢話には良きソ連的環境が必須である。
「……わが胸には13発の銃弾が入っている……信じられますか? なんといってもこの私の手術を
するための目的で、アメリカからかのデベイキが飛んできて、スヴャトスラフ・フョードロフとア
クチューリンが助手をしたのです(まだ学生でしたから)。このことは誰も知りません。みんな当局
のラインで手配されたことで、冷戦、すなわち2つの体制が対抗していた時代ですから。ブレジネ
フご自身も私を知っていて、『ああ、あの弾を13 持っているイヴォルギンか』とおっしゃったそう
な……」<90>
この人物が最後の発作の前に行う奇妙なほら話には、1942 年に10 歳のピオネール(共産
少年団員)だった彼が、ウクライナの被占領地ヴィンニツァでヒットラーの副官として振る
舞い、祖国を救ったエピソードが含まれる。それによれば、ヒトラーはたまたま被占領地で
目を留めたこの少年に自分を好きかと問い、「本物のピオネールはたとえソ連の大敵の内に
も偉大な人間の印を見分ける」という返答が気に入って副官格に待遇することになった。そ
うして少年はこの「偉大なる悪人」の夜々の呻吟を聞く身となり、「ヨシフ・ヴィッサリオ
ノヴィチに許しを請いなさい」と進言し続ける。あるときヒトラーは少年に「もし余がソ連
共産党に加入して、貴国のコルホーズ員たちに土地を私有財産として分配したら、ロシア国
民は余に従うか否か?」と問うが、「断じて否」の返答に「この少年の光る目の中に、余は
全ソ連国民の意見を読みとった」と、企画をあきらめる……<338-344>。これは1812 年の祖
国戦争とナポレオンを材料にした原作のほら話のソ連版である。
主人公ガガーリン自身にもイデオロギーを別にした素朴なソ連文化へのノスタルジーが染
みついていて、たとえばコロラドのメアリーをともに看取った少年たちを、彼はソ連のガイ
ダルの小説から生まれた銃後の少年組織「チムール隊」にたとえている<49>。彼はコロラ
ドから「USSR に戻る」つもりで帰国したのであり、パンチンは彼の素朴な気の良さを「まるでピオネール並に『いつでも準備万端』だね」<21>と評する。彼の上流社会へのデビューとして企画されたパンチン家のパーティは、貴族社会の代表者ならぬソ連的エリートの集まりとなり、初老のアカデミシャン=財政家、もと共産党中央委員会機関の長、ビジネスマン兼国会議員、有名なテレビ・コメンテーターといった人々を見た彼は興奮状態に陥る。そこで彼が展開する独りよがりの演説を、作者は原作のトーンを生かしながら、しかし明らかにソ連後の世界論に変貌させている。
「西側の考え方はわが国の鈍い共産主義的無神論よりもまだ悪いものです。無神論は少なくとも正直で、何も伝道しようとしない、というか無を伝道しているのです。ところがあちら側の宗教ときたら、ただ道を示す振りをしているだけなのです。ああしたテレビ説教師とか、クリシュナといったものは……。でもそれは逆向きの道です。地獄行きの道です。全世界国家の権力などなくとも地上に秩序はあり得るということを、彼らは信じようとしません。西側の文明はもはや自分を国家から分別できないのです。世界の官僚機構が地球を占拠しています。そうして従わない者たちを爆撃しています。彼らは虚偽、狡猾、詐術、狂信、迷信、悪行を恣にしています。マスコミを利用して彼らは諸国民の最も神聖な、正しい、素朴な燃えるごとき感情をもてあそび、金のため、卑俗な地上的権力のためには何でも譲り渡す覚悟なのです。それはまだ西ローマ帝国の時代から、バチカンが全世界的権力を握っていた時代からのことです。これが行き詰まりでなくて何でしょう? そこから無神論が生まれるのも当然ではないでしょうか? 無神論、唯物論、マルクス主義はそこからカトリックへの反抗として発生したのです……」<373>
g) 言語その他
このほか言語レベルでのアダプテーションには1990年代の俗語がふんだんに使われてい
る。
たとえば第1部第1章のバルィギンのうち明け話から。
「……いや本当に俺はナージカ・バラシコヴァのことで親父をかりかりさせちまったんで(батю
довел до белого каления)、それはそのとおりさ。実際、気が狂っちまったのさ(крыша поехала)」
<10>
「だって、死んだ親父は1万ドル(десять кусков)どころか10 ドル(десять баксов)のことで人を
あの世に送ってきた人間だからな」<11>
同じ第1部のナデジダ・バラシコヴァも俗語使用が堂に入っている。
「あたしは娼婦(блядь)だけれど、あんたはもっと悪いわ。……あの人とはもう何年も寝てない
(не спала)けれど、お金はもらって、それでいいと思っていたの。……このダーネチカよりもう少
しましな(покруче)人がいたら、とっくに結婚していても良かったんだけど……」<110>
「ほら、あたしもなかなかやるわね(крутая)。100 万ドルもくそ食らえ(на фиг)、宇宙飛行士の夫
もくそ食らえ(на фиг)! こんなんじゃまさかあんたのお嫁さんにはなれないでしょ? アファナー
シー・イワノヴィチ、あたし本当に100 万ドルを捨ててやったわよ(похерила)!」<115-116>
− 131 −
『白痴』の現代的リメイクをめぐって
このほか現代的加工のツールとして、上記の交通や通信機器関連の用語、経済・政治用語
(ショック・セラピー、マクロ経済……)、ファッション、音楽、薬物等々の語彙が混入して
いる。読書に縁のないバルィギンがナデジダの影響で読み始めるのが『ロシア連邦刑法注
解』およびソロヴィヨフの『歴史』、彼のガガーリン襲撃やナデジダ殺害は、原作のナイフ
ではなくピストルで行われ、ヒロインの死体は防臭剤と一緒にビニールでくるまれ、アメリ
カのスコッチ・テープで止められることになる(原作ではモデルとした事件に従い油布とジ
ダーノフ防腐液が用いられた)。
130年の時間差を最も端的に反映している語彙変化として、自殺志願者イッポリートの病
気が結核からエイズに変わっていることがあげられる。
現代風リメイクは主人公たちの経験の一部をヴァーチャルなものにするが、これについて
は後述する。
3 リメイクの機能
3-1 リメイクとインターテクスチュアリティ
以上のようなリメイク作品の意味や効果とは何だろうか。
リメイクとは現代文芸学でインターテクスチュアリティ(相互テクスト性)という用語で
呼ばれている現象の極端な形であり、意図的な演出である。この概念の原義は、文章が単独
で自己完結的に何かを意味するのではなく、他の文章への連想の総合体として作用すること
である。広義に用いられる場合、文化のコンテクストの中で見た個々の文章は、書く者の意
図に関わらず、多元的なインターテクスチュアリティの外部には出られないという考えが成
り立つ。単語も文も題名も固有名も様式もジャンルも、広い文化の記憶や連想を背負ってい
るからである。創作のオリジナリティを強調する見方とは反対のベクトルを持つものとし
て、この概念は作品を文化的コンテクストとの相互作用や対話という位相で作り、解釈する
ことを促す。リメイクとはこのインターテクスチュアリティの明示的かつ限定的な実践の形
であると理解できる(33)。明示的というのは、テクストはすでに書かれてあるテクスト群との
関係において存在する(すなわち創作とは他者のテクストとの対話である)という意識を表
に出し、明確に認識されうる原作との掛け合いの形で作品を作り上げていく作業だからであ
る。限定的というのは、本来無数にある他者のテクスト、無限定の広がりを持つ文化的コン
テクストを、限定された1作品(もしくは作品群)で代表し、もっぱらそれのみを模写や加
工の対象として作品を作るからである。
このような行為の意味、質、機能等々については、焼き直しやもじりや模倣といったいわ
ゆる二次加工の文芸の歴史と、フォルマリズムからポストモダニズムに至る現代文芸論にお
けるパロディ論や模倣観といった問題をふまえながら、広い文脈で語ることができる。だが
本稿では、ドストエフスキーと現代ロシア文化という限られた問題設定の中で、ここに紹介
した作品が果たしていると思われる機能や効果という問題について論じたい。
33 ジェラール・ジュネットのターミノロジーではここでいうインターテクスト性は超テクスト性、リメイクなど具体的下敷きを持つ文学の性質はイペルテクスト(ハイパーテクスト)性という概念に分類される。
ジュネット『パランプセスト』15-24 頁。
本稿で紹介したような作品の機能は、リメイクという行為の二重性(二方向性)という性格を出発点に考えることができるだろう。作者は古典を現代風に改作すると同時に、現代社会を古典の枠組を通じて描写している。この作業を行う改作者の方針、改作が古典のイメージと現代社会の解釈にそれぞれもたらす影響力、および作品が全体として生み出す印象や効果を論じることで、こうした作品の機能が推測されそうである。
3-2 リメイクの機能──オフロブィスティンの場合
われわれが比較の目的で検討したオフロブィスティンのシナリオでは、作者の原作加工の方針は、単純化、圧縮、卑小化、内面性の抑圧、自動化といった概念群に沿って整理するこ
とができた。作者は主人公における見者、知者の側面を希薄にし、音楽やコンピュータのマ
ニアで奇矯な振る舞いをする病者の側面を強調した。このムィシキンと、性欲、嫉妬、暴力
をイメージ化したようなラゴージン、復讐心と翻意の権化のようなナスターシャ、快楽主義
のアグラーヤが構成する四角関係は、同情と愛、生の衝動と死の衝動、聖性と狂気といった
多重の二項対立を含む原作のテーマ構造と比べると、きわめて単純で浅薄なものにみえる。
さらにこの種のパターン化された人物造形と、早送りのフィルムのように圧縮された展開
が、行為と内的動機との関係を描く余地を奪っている。人はあたかもロボットのように、決
められた運命をたどるのである。
ただしこの作品の主人公は、ドストエフスキーのムィシキンとは別の形で、福音書のイエ
スのイメージにさかのぼることのできる属性を持っている。つまり近代文学の中で内面心理
を読み込まれ、悲劇化されたイエスの諸側面ではなくて、文化のコードを破り奇矯な振る舞
いをする荒々しい異人としてのイエス、石川淳が戦後の焼け跡に膿みにまみれた暴力的少年
として描いたようなイエス(『焼け跡のイエス』)の属性である。また熱愛の対象を殺したラ
ゴージンとムィシキンによる人肉食の野蛮な行為にも、パンと葡萄酒を救世主の肉と血とし
て体内に受けるキリスト教文化の反響を聞きとることができる(ラゴージンは肉をつまみな
がら「なんにせよ、彼女は結局人の役に立ったんだ。しかも一番近い連中のな」<c86> と言
う)。しかしそのような祭礼的要素も、ここではキリスト教の神秘的シンボリズムに読み替
えられる以前の、犠牲奉献の儀式や豊饒祭風の、暴力的でエロチックで下世話なコンテクス
トにおかれているのだが。
このような連想を媒介としながら、この作品が原作との関係で果たす役割を積極的に捉
えるとしたら、たとえばミハイル・バフチンがカーニヴァル文学という概念に盛り込んだ
諸機能が想起される。すなわち、価値や良識の転倒、ちぐはぐなもの同士の組み合わせ、
聖物冒瀆、食欲、性欲、排泄に関わる下品な言葉遣いや地口、偽の戴冠と奪還、死と再生
の儀式といった様々な手法で行われる、規範からの解放と文化のダイナミズムの回復という
機能である(34)。ドストエフスキーは古代の「真面目な笑話」といったジャンルに淵源を持つ
カーニヴァル文学の伝統を近代に持ち込み、近代小説のきまじめな一義性をポリフォニック
34 М. Бахтин. Проблемы поэтики Достоевского, 2-я редакция. М., 1963. (邦訳)ミハイル・バフチン(望
月・鈴木訳)『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫、1995 年、第4章 ドストエフスキーの作品の
ジャンルおよびプロット構成の諸特徴、参照。
− 133 −
『白痴』の現代的リメイクをめぐって
な多元性で乗り越えようとした ── これがバフチンのドストエフスキー観の骨子であった。
オフロブィスティンの行っていることは、バフチン流ドストエフスキー理解の安直な展開
とも見える。改作者はプロットを簡略化し、登場人物の内面を単純化し、下品でセクシュア
ルな記号を細部にちりばめながら、聖なる愚者の遍歴の物語を、卑俗化した犠牲奉献とグロ
テスクな聖餐を連想させる結末に導いた。そうすることによって聖人伝を模した近代的個人
の悲劇の背後から、犠牲を介した社会の再生を暗示する祝祭劇の要素を取り出し、それを漫
画風のタッチで演出してみせた。この祝祭劇は、バフチンの説くような祭りの広場の活気と
共同体的意味を失っているが、それは映画(あるいはテレビ、インターネット)という日常
化してしまった祝祭空間に見合っている。現代流に小さく再生産されたドストエフスキー風
カーニヴァル ── それがこのシナリオ作品の性格の最も積極的な解釈かもしれない。
3-3 リメイクの機能──ミハイロフの場合
a) ずらしの二重効果
ミハイロフの作品では、オフロブィスティンの場合のような、原作の根幹的部分の改編
(あるいは無視や省略)はなされていない。作者は原作の聖人伝的要素、家庭小説的要素、
怪奇小説的要素……といった雑多なものを、相互の葛藤も含めてそっくり残している。人
物像や事件の矛盾をはらんだ複雑さも原作に準じている。一見して作者は、叙述の簡略化、
文体の平明化、および諸設定の現代化という明快な方針を徹底することで、原作を平易な現
代版へとずらしてみせただけのように思える。この作品を古典の現代的普及の一形態として
歓迎する向きがあるのも、また独創性のない剽窃に近いものとして軽視する声があるのも、
ともに頷けるところがある(35)。
しかし、おそらくはそのような単純な「ずらし」が丹念に行われているせいで、この作品
は相矛盾する2方向の驚きを喚起する。ひとつは19 世紀風小説のスタイルと現代風俗との
間のずれ、あるいはドストエフスキーの文学の記憶と語られている世界とのずれが呼び起こ
す、不気味さやおかしさを伴う驚きである。これはオフロブィスティンのような大胆な改作
ではかえって薄れてしまう、手の込んだもじり文学にのみ特有の効果である。それは次のよ
うなこの作品の冒頭をみるだけで明らかであろう。
11月の寒い朝、ニューヨーク発モスクワ行きSU316 便の機上、夜間飛行に疲れた乗客たちは、機
外の照明の向こうにたゆたう厚い灰色の雲をとおして、近づいてくる大地を見分けようとむなしい
努力をしていた。エコノミー・クラスの客室に2 人の若い男性が並んで座っていた。一方はみたと
ころ25歳ほど、背が低くがっしりとした体つきで、頭はハリネズミ風坊主刈り、小さい灰色の目に
粘り着くような眼光をたたえているという、いささか悪党めいた風采であった。頬骨の張った顔に
35 この作品はいまだ客観的・包括的な文芸批評の対象になっていないので受容論にわたることは避けるが、
これまでの主な論及には以下のものがある: Новый русский Идиотъ (http://www.polit.ru/printable/
401272.html);
平たく広がった鼻をのせ、絶えず人を見くびったような、幾分意地悪そうな薄笑いを浮かべている。
男は地味だが着心地の良さそうな黒の革ジャンを着ていた。これに対して隣の乗客は、袖無しのくせにフードつきという変なデザインの、やけに薄手で不便なジャケット姿で、それを脱いではまた冷えて着込むということをずっと繰り返してへとへとになっていた。
こちらはやせたブロンドの若者で、同じく20と少しといった年格好。その大きなブルーの目には
なにかしら静かな重苦しいものが感じられた。専門家ならこの目を見ただけで、この人物の頭には
若干問題があるなと推察したであろう。もっとも若者の顔はたいそう好感の持てる顔で、かなり使
い込んだグレーの小ぶりのリュックサックを両手に抱えている。履いているのは突飛な格好の、ひ
どく履き古した厚底のバスケットシューズだった。
坊主頭は長いこと隣人をじろじろ眺めていたが、ついに我慢しきれなくなって薄笑いを浮かべて
尋ねた。
「どうした、寒いかい?」
「ええ、とても」相手は丁寧にこたえる。「ロシアの飛行機の中はこんなに風が吹くってことを忘
れていましたよ。久しぶりですから」
「なんだい、アメリカぼけかい!」坊主頭は笑い出す。
こうして会話が始まった。ブロンドの若者はすすんであらゆる質問に答える。それによると、も
う4年以上ロシアを留守にして、アメリカの精神病院で治療を受けていたらしい。坊主頭は終始に
やにやしていたが、「どうだい、病気は治ったかい?」という問いにブロンドが否という風に首を振
ると、たちまちげらげらと笑いだした。
「金の無駄遣いってやつだろう! 西側で治療しましょうなんて、うたい文句ばっかりでな!」
<5-6>
また上のこととは逆に、この作品は原作の世界と現代の世相の構造的類似を明示するとと
もに、ドストエフスキー作品の諸属性(テーマ、プロット、文体……)が持つ高度な現代応
用性を実証するという点でも、驚くべき効果を上げている。1-2-2 で略述したような『白痴』
の時代のロシアと現代の対応 ── 道徳的価値の衰退、新しいテクノロジーの発達、社会の階
層構造の崩壊、暴露的ジャーナリズムの横行、世代間の意識の断絶等々といった共通項 ──
を、作者は正確に押さえているようにみえる。出身階層、羽振り、信条において様々に異
なった者同士の意外な接触が起こる「野蛮な資本主義」都市の恋愛劇において、野心、金銭
欲、嫉妬、プライド、心理的外傷といった要素がいかに奇怪な役割を演ずるか、また金銭が
人間的価値の補助尺度としていかに皮肉な働きをするかといった問題の位相で、ドストエフ
スキーのプロットが現代に応用可能であることを作者は示した。無一文の名門の末裔が一夜
にして長者となる一方で、同じく零落した旧家の孤児の運命が競りにかけられるという19
世紀のドラマが、ルーブリ→ドルの読み替えだけで現代に通ずるという作者の発見は、一見
した以上に気の利いたものである。
改作者はドストエフスキー風文体の現代への応用可能性という点でも、多くの発見を与え
てくれる。以下はガガーリンの受けた遺産の係争者ブルドフスキーの取り巻きたちが、慈善
家パヴリシチェフに関して書いた暴露文で、作者は少しの修正によってドストエフスキーの
戯文が現代ゴシップ新聞風記事に変貌することを示している。
− 135 −
『白痴』の現代的リメイクをめぐって
愚鈍な百万長者、もしくは誰にロシアが住み良いか
本紙はすでに3回にわたって、かの偉大なる宇宙飛行士ガガーリンが事故で死んだのではなく、
KGBの指令によって精神病院に幽閉されていたのだということを、決定的に証明する資料を公表し
てきた。今回、我々はまたもや同じ問題に立ち戻ることとなったのだが、ただし視点はいささか異
なっている。
党官僚の父親たちが着服したものをことごとく飲み代とし、浪費してしまった、いわゆる「ゴー
ルデン・ヤング」世代の代表者たちは、だいたいが悪党か麻薬中毒か売春婦になるものだが、もち
ろんすでに子供の頃から全くの愚鈍であるという場合は例外である。偉大なる宇宙飛行士ガガーリ
ンの遠縁の一人も、この例外のケースであった。ちなみにこれは、我々が発見したセンセーショナ
ルな事実の傍証ともなっている。つまりどうやらガガーリン家のメンバーは、遺伝的に精神病の因
子を持っていたのである。
このガガーリンの係累は、ほぼ半年前の冬、不格好なバスケットシューズに袖無しの(ただしフー
ド付きの)間の抜けたヤッケという出で立ちで、精神薄弱の治療を受けていたアメリカからロシア
へと帰ってきたのである。しかし馬鹿は幸運なりとはよく言ったものだ。我らが主人公(仮にG と
呼ぼう)は、ごく幼少の頃からツキに恵まれていた。天涯孤独であった我らのG は(軍人だった彼
の父親は、汚職もしくは部下への残忍な打擲の容疑で裁判待ちの状態のまま、拘置所で死亡してい
た)その当時すでに斯界の有力者であった人物(P と略称する)によって養育される身となったの
である。当時国外へ出かける権利を持つ人間はごく限られていた(今となってはそういう時代が
あったとは信じがたいことであるが、実際あったのだし、しかもそんなに遠い昔ではないのであ
る)。我らが大物Pもこの限られた「渡航可能者」組に含まれていたのだが、彼はKGB 筋に近かっ
たこともあって、単に頻繁に渡航するに留まらず、いわば行ったきり状態となり、訪問地のカジノ
や売春窟で巨額の国民の金をひたすら蕩尽していたのである。彼が一晩にパリのストリップ・ダン
サーたちに払った金で、コルホーズ農民の100 家族が何年も暮らすことができただろう。
その国民の金の一部を、P は我らが孤児のために遣ったのである。たとえば女性家庭教師(もち
ろん美人)の給料その他という形で。だが全ては無駄であった。つまりG は生来のテイノウのまま
に留まったのである。美人家庭教師たちの努力もむなしく、Gはようやく20歳近くになって口が利
けるようになるという状態であった。
そうしているうちに「ペレストロイカ」がスタートし、ソ連邦が崩壊し、受難者国民は何度も身
ぐるみ剥がれる悲哀を味わった。だがこの間に財界の巨頭(下世話な表現をお許しいただきたいが)
におさまっていたP は、いっこうに羽振りが衰えなかった。彼は国産のものすべてを蔑視するあま
り、なんとアメリカでなら哀れなGの低脳症が治療できるだろうと妄想したのである。おそらくは
何でも金で売り買いできる現金王国アメリカなら、知恵も金で買えると思ったのだろう。ところで
アメリカの精神科医の強欲さとしつこさは誰もが知るところである。彼らはいわば徒党を組んで、
5年がかりでこの愚鈍児にあれこれ手を加え、養育者から何十万ドルもの金を巻き上げたのであっ
た。むろんこの精神薄弱者は賢くはならなかったが、少しは人間並みになってきたらしい。そこへ
突然P が死ぬ。我らが低脳児G はたった一人でアメリカに残されることになった。だが愚鈍ながら
もこの人物は、おめでたい精神科医たち、とりわけ一人の年輩の教授をまんまと煙に巻き、さらに
2 年ほどもスポンサーの死を隠し通したのであった。だが結局はこの教授も馬鹿ではなかった。25歳にもなる寄食者のとりとめもない空約束と旺盛な食欲に辟易したこの教授は、とうとう彼に不格好なバスケットシューズと間の抜けたヤッケを着せ、アエロフロートの格安チケットで、「バック・イン・USSR」とばかりに尻を蹴立てて追い払ったわけである。(以下延々と続く)<182-183>
b) 風刺の効果
原作世界と現代風俗の間にあるこの種の親和性と、先に触れたような両者の差異が生む違和感との共存は、世相風刺という機能にとって好適な条件を提供する。ミハイロフの改作は
ドストエフスキーの小説が本来持っていた(そして今日の目からはしばしば見えにくくなっ
ている)風刺的機能を際だたせている。すなわち異人や被差別者の視点に託した、同時代の
良識批判という機能である。その際、改作者は、ドストエフスキーの文学自体が内包してい
たイデオロギー的、人種的、階層的偏見や差別意識も明示的にすくい上げ、風刺という行為
の自己暴露性をも描き出している。
たとえば小説の結末は次のようである。
ヴェーラ・パンチナは全く意外にも、親族全員の意向に唾を吐きかけるようにして、合衆国に定
住する金持ちで名門のチェチェン人と結婚してしまった。(中略)
(半年後、アメリカのガガーリンの入院先で再会した人々の間で=望月)ヴェーラについての話は
あまり弾まなかった。(中略)どうやら例の名門チェチェン人というのは、実は名門でも何でもな
く、おまけにほとんどチェチェン人ですらなくて、何かしら曖昧な過去をもったふつうの亡命者
だったらしい。彼はハーヴァードで学んでいたヴェーラを、祖国の運命への思いに苛まれる精神の
並々ならぬ高貴さでもって魅了したのであったが、ヴェーラは相手に惹かれるあまり、まだ結婚す
る前から何とかいうチェチェン独立支援国外委員会の活動家となり、おまけにイスラムに入信した
のであった(どうやらスーフィズムの寛容な宗派に入ったらしいが、入信は本気であり、ただパラ
ンジャを身につけないばかりであった)。チェチェン人の夫の巨万の富の話はフィクションであっ
た。これに加えて、結婚後半年ほどの間に、このチェチェン人と友人たちは、ヴェーラと家族を決
定的に仲違いさせてしまったのであった。
哀れなエリザヴェータ・プロコフィエヴナはすでに久しく故郷へ、ロシアへ帰ることを願い、もは
やまったく開けっぴろげにあらゆる外国のものを批判していた。彼女の愚痴は次のようだった ──
「まったくパンも満足に焼けやしないし、子供はまるで豚のように太らせるんだから……。せめてこ
こじゃ、このかわいそうな病人のために、ロシア語で泣いてあげようね」
サーシャ(発狂した主人公ガガーリン= 望月)は以前通り誰の顔も見分けられなかった。
「もうたくさん」パンチナ夫人は叫んだ。「そろそろすこしは頭を働かせるときだよ。この外国も、
お前さん方のアメリカも、こんなものみんな空想の産物さ。そして外国にいる私たちもみんな、同
じように架空のものだよ……。私のいったことを覚えておいてちょうだい、今に分かるから……。」
彼女はエヴゲーニーに別れを告げながら、ほとんど怒ったような顔でそう締めくくった。<428-429>
上の引用におけるヴェーラ(原作のアグラーヤ)の運命の記述とパンチン夫人の発言の部
分で、「チェチェン」を「ポーランド」に、「イスラム」を「カトリック」に「アメリカ」を
「ヨーロッパ」に置き換えれば、ほぼ原作に戻る。19世紀ロシアの西欧化に伴う社会の精神的
− 137 −
『白痴』の現代的リメイクをめぐって
退廃への危機感とカトリック国ポーランドへの差別意識とがない交ぜになったドストエフス
キーの小説の心理構造が、現代社会の「良識」に含まれる反アメリカニズムとイスラム文化
差別とに移し替えられているのである。改作者はこのような形で、ドストエフスキーの文章
における世相批評(風刺)的機能と自己暴露(人種的・思想的先入観の露呈)機能との結び
つきを示しながら、それが現代にもアクチュアルな二重効果を発揮することを実演している。
なおドストエフスキーのスタイルを応用したソ連後ロシアへの批判的コメントで、この
作品中最も直接的効果を発揮しているのは、最年少の登場人物の一人コーリャ・イヴォル
ギンがガガーリンに向かって発する次の言葉である。これも下線部分の置き換えでほぼ原
文に戻る。
「……ここには誠実な人間が恐ろしく少なくて、全く尊敬する相手などいないのです。だからどう
しても人を見下すようになりますが、相手はそれでも尊敬を要求するのです。うちのエルカなどが
その典型です。それにあなたも気がついたでしょう──周りの連中がいかに山師ばかりかって。ど
うしてこんなことになってしまったのか、さっぱり分かりません。あんなに盤石に見えたソ連が、
いまではこんなになってしまった、というわけで。みんながそのことを話題にし、書きまくってい
るじゃありませんか。つまり暴露というやつです。この国ではみんなが暴露に熱中しているのです。
親たちが真っ先に退歩的になって、かつての自分たちのコミュニスト的モラルを恥じている始末で
すから。この間もテレビで見たのですが、ペテルブルグのある父親が息子に向かって、金儲けのた
めには何事にもひるんではだめだと教え込んでいる。事実上犯罪を教唆しているわけです……」
<94>
c) ヴァーチャル世界批評
上に引いたような半ば自動的・機械的なアダプテーションとは異なって、ミハイロフがド
ストエフスキーの思想を独自に展開した結果、模造文学中のオリジナルな象眼とでも言うべ
き効果を上げている部分がある。そのうち最も明白で意味深いと思われるのはヴァーチャ
ル・リアリティ論と呼ぶべき部分で、これは小説に取り込まれた文化論であると同時に、こ
の作品の自己解説にもなっていると思われる。本稿の最後にその点に言及しておきたい。
小説の細部のアダプテーションの過程で、改作者は主人公たちの経験に仮想現実体験や擬
似的体験の要素を持ち込んでいる。たとえばガガーリンは、彼の心理的トラウマになってい
る処刑のシーンを、原作のように実際に目撃するのではなく、病院の医師からビデオ・カ
セットの記録で見せられるという設定になっている。彼は死刑囚最後の日の全てを逆算タイ
マー表示つきの画面で観察しながら、「これをみんなが見るんだ。連中は処刑されないのに、
俺は処刑されるんだ」という囚人の絶望に感情移入する。処刑を無感情に記録し疑似体験さ
せる行為のシニシズムは、処刑そのものの残酷さと同じほど、彼に驚きを与える。そうした
疑似体験を語った後に、電気椅子のスイッチが入る「百万分の一秒の音」を聞き漏らすまい
と身構えている囚人の姿を絵に描くよう、パンチンの令嬢の一人に提案するのである。<43-45>
ビデオというこの「驚くべき」記録・伝達媒体は、主人公たちが文通に用いる電子メールとともに、ドストエフスキーが当時の鉄道に代表させた、ニヒリズムを伝播する悪しき科学技術の現代版としてここに選ばれているようだ。ただしドストエフスキーの言う鉄道網が、物質主義的価値観による精神的価値の駆逐を暗示していたのに対し、この作品における科学技術批判は、擬似現実による現実操作、対象への距離感が生む心理的シニシズム、あるいは生の実感の喪失といったものに対する総合的な危機意識を背景としている。原作通り黙示録の解説者として登場するレーベジェフが、「生命の泉を枯らす疫病の元」である「何百年間かの科学技術的精神」の代名詞として(鉄道にかわって)インターネットをあげるのも、そのような含意からのものと推測される。
この疑似現実批判論は、自殺論者イッポリートが遺書代わりに朗読する『わが意志の記
録』(原作では『わが不可欠な弁明』)という論考の一部で、より広範な文化批判へと発展する。
彼の論議のきっかけとなるのは、バルィギン(原作のラゴージン)の家に飾られたひとつ
の絵のエピソードである。そもそも原作では、暗く威圧的なラゴージンの家の玄関に、作家
自身が『白痴』執筆の前にバーゼルの美術館で見て非常な衝撃を受けたハンス・ホルバイ
ン・ジュニアの『墓の中のキリスト』(1521)の複製(図A参照)が飾られていた。墓に横た
わるイエスの死体をきわめて写実的な筆致で描いたこの絵は、原作のムィシキンにもイッポ
リートにも非常なショックを与える。ムィシキンは「あの絵を見ていると、中には信仰をな
くす人さえあるかも知れない」(36)と述懐し、イッポリートは次のようにその感慨を展開する。
この絵には、たったいま十字架からおろされたばかりのキリストが描かれてあった。画家がキリ
ストを描くときには、十字架にのっているのでも、十字架からおろされたのでも、どちらも同じよ
うに、顔面に異常な美の影をとどめるのが常套手段となっているようである。彼らはキリストが最
も恐ろしい苦痛を受けているときでも、この美を保存しようと努めている。ところが、ラゴージン
の家にある絵は、美なんてことはおくびにも出していない。これは十字架にのぼるまでにも、十字
架を背負ったり、十字架の下になって倒れたり、傷や拷問や番人の鞭や愚民の打擲を受けたりした
あげく、最後に6時間の十字架の苦しみ(少なくとも僕の勘定ではそれぐらいになる)を忍んだ、
一個の人間の死骸のあからさまな描写である。それにじっさい、たったいま十字架からおろされた
ばかりの、まだ生きた温かみを多分に保っている人間の顔である。まだどの部分も硬直していない
から、いまでもまだ死骸の感じている苦痛が、この顔にのぞいているようにさえ見える(この感じ
図A ハンス・ボルバイン・ジュニア 墓の中のキリスト 1521 板絵 30.5 × 200cm バーゼル美術館
36 Ф.М. Достоевский. Полное собрание сочинений в 30-и томах. Том 8. Ленинград: Наука, 1973. С.182.
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『白痴』の現代的リメイクをめぐって
は画家によってたくみにつかまれていた)。そのかわり、顔は寸毫の容赦もなしに描かれてある。そ
こには自然があるのみだ。まったくどんな人にもせよ、ああした苦しみのあとでは、あんなふうに
なったに相違ない。(中略)もしちょうどこれと同じような死骸を(中略)キリストの弟子一同や、未
来の主なる使徒たちや、キリストをしたって十字架のそばに立っていた女たちや、その他全て彼を
信じ崇拝した人々が見たとしたら、現在、こんな死骸を目の前に控えながら、どうしてこの殉教者
が復活するなどと、信ずることができようか? もし死がかように恐ろしく、また自然の法則がか
ように強いものならば、どうしてそれを征服することができるだろう、こういう想念がひとりでに
浮かんでくるはずだ。(中略)この絵を見ているうちに、自然というものが何かしら巨大な、貪婪あく
なき唖の獣のように感じられる。いや、それよりももっと正確な──ちょっと妙ないいかただが、
はるかに正確なたとえがある。ほかでもない、最新式の大きな機械が、無限に貴く偉大な創造物を、
無意味にひっつかんで、こなごなに打ち砕き、なんの感動もなしににぶい表情でのみこんでしまっ
た、というような感じが、この絵に現れた自然である。ああ、この創造物こそは自然ぜんたいにも、
その法則ぜんたいにも、地球ぜんたいにも換えがたいものなのである。いや、かえって地球はただ
ただこの創造物の出現のためにのみ、作られたのかも知れない。この絵によって表現されているも
のは、つまり、いまいったようないっさいのものを征服しつくす、暗愚にして傲慢な、無意味にし
て永久な力の観念であるらしい……。< Ф.М. Достоевский. ПСС. Том 8. С.338-340:米川正夫訳
による、強調は引用者>
イッポリートにとってホルバインの絵は、いっさいの理念的・形而上的なものを否定する
純粋唯物論的世界観の表象であり、その意味でやがて肉としての存在を失おうとしている彼
を恐怖に落とし込んでいるのである。
興味深いことに、原作において死の不可避性や無意味さのシンボルとなっていたこの有名
な絵を、改作者はサルヴァドール・ダリの『最後の晩餐』(1955、図B参照)に置き換えている。宗教的なモチーフに時空間の多元性や相対性のイメージを持ち込んだこのシュール・レアリストの後期の絵を、現代版『白痴』のイッポリートは次のように論評する。
図B サルヴァドール・ダリ 最後の晩餐
その絵には最後の晩餐が描かれていた。白いクロースが敷かれた長いテーブルの上に、ワインの注がれたグラスと二つに割ったパンが置かれている。テーブルの周りには12人の使徒が頭を垂れて座っている。顔を見せている者は誰一人いない。その代わり、中央に座っているキリストの顔ははっきりと見える。だが見ない方がましなのだ……。もっとも一見したところはなにも特別なものはない。当たり前の顔で、きわめて美しく、整った顔立ちをしている。ただ髭がなく、髪がブロンドになっているだけだ……。だがその顔の表情ときたら! 人の目を惹きつけて、二度と放さないような表情である。さめた、静かな、抑制された侮蔑の念、秘められた憎しみがそこににじんでいるのだ。
苦しみを、受難をほのめかすものは何一つない──ただしイエスが指さす上方には、磔刑にされた彼の身体が、両手を広げた形で幻のように浮かんでいる。もっとも頭が絵の上端でちぎれているので、そこからまた中央の、この意地悪な神の顔に視線を戻すことになるのだが、すると彼はこちらの視線を避ける。つまりふつうの聖像画(イコン)の場合のようにみる者の心を覗き込んでくるのではなくて、キリストがその美しい意地悪な目を背けてしまうのだ。だから勢い、「彼は実在するのだろうか?」という疑問が浮かんでくる。日差しが彼の体を突き抜けて、テーブル上のワインの入ったグラスやパンを照らしている。彼の半ば透き通った胸を通して、水面に浮かぶ小舟が見える……。
そして五角形の窓とも壁ともつかぬものに囲まれたその空間全体が、なにかしらコンピュータ・ゲームの舞台のように非現実的なのだ。
私の知るところでは、キリスト教の教会はすでに古い昔において、キリストの十字架上の苦しみは絵空事ではなくて実際のことだと決定した。だがこの絵においては、苦しみどころかキリスト自身が、なにかしら仮想のもので、本物ではないようにみえる。実に美しいが本物ではなく、生命のない、人間離れしたもののようなのだ。そしてもし神がこのようなものだとしたら、彼が苦しむ者を助け、その祈りに答えてくれるなどということは信じがたいだろう……。この神は単に世界という巨大なコンピュータ・ゲームの邪悪な主人公にすぎない。そしてわれわれはすべて、その同じゲームの脇役であり端役なのだ。巨大コンピュータはこの仮想世界の架空人物たちには何の用もない。
ただ計算し、自らのプログラムを実行するだけだ。それが計算機のつとめなのだから。自分の役割に従って着々と計算し、われわれのすべてを、全世界を粉砕していく、巨大で超現代的な、疲れを知らぬ無感覚な機械。われわれを食い尽くすこの自動機械は、鈍感で傍若無人で無意味なほど永続的であり、それがすべてを支配しているのである。生命なき神──バルィギンの絵から私が思い浮かべたのはそんな忌まわしい考えだった。使徒たちがなぜ顔を隠しているのかにも私は思い至った。
彼らも同じく恐怖に捉えられたのだ……。 <277-278、強調は引用者>
いずれの論考においても、世界は無感覚な機械にたとえられる。ただしドストエフス
キーの機械があらゆるものを物理法則に従って破壊する巨大粉砕器のようなものだとした
ら、ミハイロフの機械はプログラムされた仮想世界のゲームをひたすら実行する巨大コン
ピュータである。後者においては神の子も人間も、救済や復活の理念を奪われるだけでな
く、肉としての存在そのものをヴァーチャルなものとして否定されてしまうのである。こ
れはドストエフスキーの思想への現代的応答として、きわめて合理的な議論と言えるので
はないだろうか。
ミハイロフによるこのようなテーマ展開は、古典の改作という遊戯的でもある作業の核に
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『白痴』の現代的リメイクをめぐって
時代思想の柱を打ち込むような、有意義で効果的なものと思える。リメイクとは単なる剽窃
的加工ではなく、作者の構想の対話的表現であるということの、雄弁な証明であろう。
さらにこのヴァーチャル・リアリティ論は、リメイク小説に内装された自己言及的言説と
して考えてもおもしろい意味を持っている。つまりダリの絵の論評にある、実体を失ってイ
メージのコラージュと化したキリストや、コンピュータ・ゲームのように非現実的な空間と
は、原作の記憶の上に様々な意匠を加えて書き直されるリメイク作品の人物や空間を評した
言葉と読むことも可能である。少なくとも、『白痴』の電子テクストを加工している作者が、
ふとみずからの仕事をダリの画業に引き比べてみたということは、十分ありそうなことでは
ある。そうした前提で読むとき、主人公の一人によるダリの絵の論評は、現代文学における
作者の死を論じたものとさえ聞こえてくる。だとすればこの改作者は、ドストエフスキーの
テクストを遊戯的に再生しただけではなく、それを行う自身の姿と、想定される読者の反応
まで、リメイク作品に描き込んだのである。
むすび
以上、オフロブィスティンのシナリオとミハイロフの小説を題材に、ドストエフスキーの
長編小説の現代的リメイクの手法と効果について考察した。その際、『白痴』を大胆に改編
したオフロブィスティンの作品については(ジャンルの違いもあって不十分な形ながら)原
作の祝祭論的な読み替えという側面を積極的に読みとった。一方ミハイロフの作品に関して
は、古典の緻密な書き換えが喚起する驚きを土台とした現代風刺の機能と、ヴァーチャル・
リアリティ批判という側面を主に観察した。
いずれの場合も、リメイクという作業が持つ根本的な二重性──古典にもたれかかりなが
ら古典の権威剥奪をねらい、原作を換骨奪胎しながらその潜在的可能性をすくい上げ、過去
と現代の類似と差異を同時に表現し、模倣の表層の下で自己表現を行う、といった二重性
を、きわめて雄弁に語るものである。
本論はドストエフスキー文学の現代的受容という議論の継続という性格上、これ以上の一
般論にわたることを避けるが、ここで検討したような作品の性格付けにはもっと広いコンテ
クストが必要なことは言うまでもない。ひとつには創作と模倣、まじめなジャンルとパロ
ディのジャンルが手に手を取って存在してきた文芸史のコンテクストである。たとえばジェ
ラール・ジュネットはその超テクスト論を、ヴェルギリウスとジェイムス・ジョイスにおけ
るホメロスの模倣の差異という議論で始めている。近代文芸の中にも、リメイクへの奇怪な
情熱を物語るものが多く、有名なホルヘ・ルイス・ボルヘスの『『ドン・キホーテ』の著者、
ピエール・メナール』(1939)のように、様々な世界観上の意味転換をこめつつ、結局原作
とまったく同じ文を書くという、狂気のようなリメイク作者の話も存在する。ちなみにこの純粋な改作者は「キリストを大通りに、ハムレットをキャンヌビエールに、ドン・キホーテをウォール・ストリートにおく」ような手法で、「アナクロニズムの下卑た楽しみを呼び起こしたり(中略)全ての時代はまったく同じだとか、みな違うとかいう初歩的な観念でわれわれを惹き付けたりする」類の「寄生的な本」を憎んだと書かれている(37)。この尊敬すべき
保守派はもちろん、われわれが現代版ドストエフスキーに読みとった現実風刺的機能や
ヴァーチャル・リアリティ論を軽蔑するだろうが、ボルヘスの作品自体は、そのような古典崇拝と改作願望の併存を戯画化したメタ・リメイク作品である。スラブ圏にもこのジャンルの強い伝統があるが、とりわけトリッキーな例は、架空の書物の序文集とか存在しない書物の書評とかいう偽作/ 戯作の枠組みで創作したスタニスワフ・レムであろう(『完全なる真空』(1970);『虚数』(1973))。
もう一つ踏まえるべきは現代文化のコンテクストである。ジュリア・クリステヴァ風のインターテクスチュアリティ理論やポストモダニズムの創作論から導き出される、作品と世界の相互内包関係の意識、あるいはまた創作とは引用や模倣の集積であり、自分の言葉と他者の言葉の関係の解明に他ならないという意識 ── こうした考えは現代ロシア文芸思想の一部を形成している(38)。このような思潮と、文芸の規範や創作・流通環境の急激な変化による遊戯的あるいは自己批評的なジャンルの隆盛、およびロシアにおける文学の人気(ポピュラリティ)の伝統的な高さといった要素が、ここに通観したような古典のリメイクやパロディの流行の下地となっていることは十分想像できる。もちろんミハイロフの場合が示すようにインターネットのような新しい媒体も、この種の創作を技術的、心理的に補助している。プルーストやボードレールが用いたパランプセスト(palimpseste=羊皮紙への重ね書きのように下敷きになったテクストを透かし見せるような作法)という表現法が、今日では電子テクストの更新という手法で行われるのである。状況を低い水準でとらえるなら、1-1 で言及したガガノフの場合のような自動文体変換ソフトによる生産物を作品と呼ぶべきかどうかといった問題に、社会はすでに直面しているのだろう。下品で冒瀆的な作品加工に対する倫理的な問題提起も同様に予想される。
このような背景に照らした場合、ミハイロフやオフロブィスティンの作品が文芸手法上
文化論上どのような意味を持つか ── それについては他の素材や資料ともあわせて、また別のコンテクストで検討したい。
38 これについては拙稿「ポストモダンと現代ロシア文学」『「スラブ・ユーラシアの変動」領域研究報告輯
No.16 ロシア文学の変容』スラブ研究センター、1996 年、72 頁参照。
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/49/mochizuki.pdf
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/514.html