オバマもヒラリーもイランの核問題を話し合いで解決する意思は希薄だった
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2020.01.26 櫻井ジャーナル
NPT(核兵器不拡散条約)に基づき、核を平和利用する権利をイランに認めたJCPOA(包括的共同作業計画)が合意されたのは2015年7月のことだが、その5年前の5月、イランが保有する濃縮ウランをトルコへ運び出し、イラン国外で加工されたウラン燃料を運び込むことでイラン、ブラジル、トルコは合意している。
この交渉で中心的な役割を果たしたのはブラジル大統領だったルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルバ。イランのマフムード・アフマディネジャド大統領を説得して合意に到達したのだが、交渉の前にバラク・オバマ米大統領から合意に成功すればアメリカ政府も署名するという手紙を受け取っていたという。その約束は守られず、イランに対する制裁は強化された。
シルバに手紙を渡したオバマは、ヒラリー・クリントン国務長官と同じように、シルバがイラン政府と接触しないよう各国首脳に協力を求めていたという。後にオバマの手紙について知らされたクリントンは激怒したとシルバは語っている。
オバマ政権は2010年8月、ムスリム同胞団を使って中東から北アフリカにかけての地域からアメリカにとって目障りな体制を倒すプロジェクトを始める。そのために承認されたのがPSD-11。そして「アラブの春」が幕を開ける。
2011年春にはリビアとシリアへムスリム同胞団やサラフィ主義者を中心とするジハード傭兵を送り込み、戦争を始めた。イラク、シリア、そしてイランを殲滅するのはネオコンが1980年代から主張していた戦略で、「アラブの春」もイランの体制転覆を目指していただろう。
シルバがイランの核問題を話し合いで解決しようと動いたいた当時、アメリカは暴力的に中東から北アフリカにかけての地域を作り替えようとしていた。オバマ大統領が個人的にどう考えていたかは不明だが、政府としては戦争に向かって動き始めていた時期だ。その先頭に立っていたのがヒラリー・クリントンだと言えるだろう。ちなみに、彼女の側近中の側近、ヒューマ・アベディンはムスリム同胞団と関係が深い。
JCPOAが合意された2015年にオバマ大統領はシリアでリビアと同じような空爆を実施する準備を進めていた。NATO軍かアメリカ主導軍が空から攻撃、地上ではジハード傭兵というコンビネーションだ。その先にはイランの体制転覆という目標がある。
ジハード傭兵を支援するというオバマ政権の政策に反対していたマイケル・フリンは2014年8月にDIA局長を解任されてCIA出身のデイビッド・シェドへ交代、国防長官は戦争に消極的だったチャック・ヘイゲルからアシュトン・カーターへ、統合参謀本部議長はジハード傭兵を危険だと考えていたマーチン・デンプシーから好戦的なジョセフ・ダンフォードへ交代した。
こうした交代が進んでいた時点ではロシア軍の介入をオバマ政権は想定していなかったように見える。1990年から91年にかけての湾岸戦争でネオコンはロシア/ソ連軍がアメリカへ軍事的に刃向かうことはないと信じ、シリアへの軍事介入もそうした前提で動いていたはずだ。
しかし、ロシア政府はシリア政府の要請で軍事介入、シリアの戦況を一変させる。その結果、ジハード傭兵は敗走し、ロシア軍の強さを世界に知らせることになった。ジハード傭兵が支配していた地域へはクルドの部隊が入り、今ではアメリカ軍が占領の中核になっている。