日本人が西洋音楽をやっても物真似しかできない理由
2019年10月19日
「音楽は世界共通の言葉」という通説が間違っていた可能性
https://gigazine.net/news/20191019-musical-pitch-perception-cultures/
音楽は文化や言語の違いを超えて親しまれることからよく「音楽は世界共通の言葉」だといわれています。しかし、アマゾン奥地の先住民の音の聞こえ方を調べた研究により、音楽の聞こえ方にも文化の影響が確かに存在する可能性が示されました。
Universal and Non-universal Features of Musical Pitch Perception Revealed by Singing: Current Biology
https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(19)31036-X
Perception of musical pitch varies across cultures | Cosmos
https://cosmosmagazine.com/biology/perception-of-musical-pitch-varies-across-cultures
南米に位置するボリビアの熱帯雨林に住むチマネ族は、西洋文化とは隔絶された自給自足の生活を貫いていることから、これまで生活習慣と健康の関係を調べる研究などにより注目を集めてきました。
そんな中、マサチューセッツ工科大学で認知科学について研究しているジョッシュ・マクダーモット氏は、チマネ族とアメリカ人を対象に「シンセサイザーで合成した音を声で再現してもらう実験」を実施。チマネ族とアメリカ人の音楽的な感性には、文化を背景にした違いと、生物学的な共通点に根差した普遍性の両方が存在することを突き止めました。
マクダーモット氏らはまず、アメリカ人を対象に異なる音域で発せられた2つの音を聞かせてから、それを声で再現してもらう実験を行いました。すると、アメリカ人の対象者は、2つの音がオクターブ単位で正確にずらした音ではなかったにもかかわらず、オクターブごとにずらした音を声で再現する傾向にあったとのこと。この傾向は、一般のアメリカ人よりも、音楽の訓練を経験したミュージシャンの場合でより顕著でした。
研究グループは、この結果にはオクターブの等価性が関係しているとみています。オクターブの等価性とは、「別の音であっても、オクターブの整数倍の音程だけ離れていれば同じ音として知覚される」という現象のこと。これは、裏を返せば「同じ音に聞こえる2つの音はオクターブの整数倍の音程だけ離れた音である」ということなので、経験豊かなミュージシャンほどオクターブの差を意識してしまうのだと推測されます。
チマネ族に同様の実験を行ったところ、特にオクターブにこだわることなく音の響きを重視した再現を行ったとのことです。この結果からマクダーモット氏は「オクターブの等価性は文化的背景によるものであり、オクターブを基本単位とした西洋音楽に触れていない人には無関係なようです」と述べています。
一方、マクダーモット氏は文化を超えた共通性も発見しています。大半の西洋人は音が約4000Hz以上になると音の違いがほとんど分からなくなることが知られており、これは「ピアノなど西洋音楽で使われる楽器のほとんどが約4000Hzを高音の上限としてきたからだ」とされてきました。
しかし、チマネ族が使う楽器の音の上限は4000Hzよりもかなり低いものが多いにもかかわらず、チマネ族も西洋人と同様に約4000Hzまでは正確に聞き取れた一方で、それ以上になると音の違いが分からなくなってしまったとのこと。
この結果についてマクダーモット氏は「音が4000Hzを超えると、脳のニューロンの反応性が低下し、音の違いを判別することが困難になるのではないでしょうか」との推論を述べて、人間の音感の限界は文化ではなく生物学的な制限に起因したものだとの見方を示しました。
https://gigazine.net/news/20191019-musical-pitch-perception-cultures/
▲△▽▼
耳トレ!
耳トレ!-こちら難聴・耳鳴り外来です。 – 2011/10/3 中川雅文 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E8%80%B3%E3%83%88%E3%83%AC-%E3%81%93%E3%81%A1%E3%82%89%E9%9B%A3%E8%81%B4%E3%83%BB%E8%80%B3%E9%B3%B4%E3%82%8A%E5%A4%96%E6%9D%A5%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82-%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E9%9B%85%E6%96%87/dp/476781202X
大学教授で現役のお医者さんが書いたこの本には「耳の健康」に対する情報が満載で実に”ため”になる本だった。
☆ 日本語は世界一「難聴者」にやさしい言語
どの国の言語にもそれぞれ固有の周波数帯というものがあり、母国の言語を繰り返し聞いて育つうちにその周波数帯以外の音を言語として聞き取る脳の感受性が失われていく。
そのため生後11歳くらいまでには母国語を聞いたり発音する能力に特化した脳が出来上がる。
日本語で頻繁に使われる周波数帯は125〜1500ヘルツで、英語は200〜12000ヘルツと随分と違う。日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。
したがって、英語民族は高齢になると早い段階で高い音が聞き取りにくくなって不自由を感じるが、日本人はすぐには不自由を感じない。その点で日本語は世界一難聴者にやさしい言語である。
※ これは一人で二か国の言語を操るバイリンガルの「臨界期」が10歳前後と言われる所以でもある。また、英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多いが、これで謎の一端が解けたような気がする。その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がる。
☆ 聴力の限界とは
音の高い・低いを表す単位がヘルツなら、音の強さや大きさ(=音圧レベル)は「デシベル(dB)」であらわす。
人間が耳で聞き取ることのできる周波数の範囲は「20〜2万ヘルツ(空気中の1秒間の振動が20回〜2万回)」の間とされているが、イルカやコウモリなどは耳の形や構造が違うのでこの範囲外の超音波でさえ簡単に聞き取れる。
ただし人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。
※ 人間の耳は一人ひとりその形も構造も微妙に違うし、音を認知する脳の中味だって生まれつき違う。したがって同じオーディオ装置の音を聴いたとしても各人によって受け止め方が千差万別というのが改めてよくわかる。
自分でいくら「いい音だ」と思ってみても、他人にとっては「それほどでもない」という日常茶飯事のように起こる悲劇(?)もこれで一応説明がつくが、音に光や色彩感覚があるように感じるのは超高音域のせいだったのだ!
☆ 音が脳に伝わるまでの流れ
耳から入った空気の振動は外耳道と呼ばれる耳の穴を通り、アナログ的に増幅されて鼓膜に伝わり、アブミ骨などの小さな骨に伝わってリンパ液のプールである蝸牛へ。そこで有毛細胞によって振動が電気信号に変換され、聴神経から脳に伝わる。これで耳の中の伝達経路はひとまず終了。
この電気信号が言語や感情と結びついた「意味のある音」として認識されるまでにはもう少し脳内での旅が続く。
電気信号が聴神経や脳幹を経て脳内に入ると、まず、大脳の中心部にある「視床」に送られる。ここは、脳内の情報伝達の玄関口となっている。視覚、聴覚、皮膚感覚などあらゆる感覚情報が必ず通る場所で、単純に音だけを聴いているつもりでも、様々な感覚情報とクロスオーバーしている。
また「視床」を通過すると音の伝達経路は「言語系ルート」と「感情系ルート」の二つに大きく分かれる。前者は最終的に「言語野」に到達するが、後者は大脳の一次聴覚野を通らず、いきなり「扁桃体」に直結していて「イヤな音」「うれしい音」というように音を直感的・情緒的に受け止める。
※ 音楽を聴くときにカーテンなどでスピーカーを隠してしまったり、あるいは目を瞑って聴いたりすると、機器の存在を意識しないでより一層音楽に集中できるのは経験上よく分かる。
さらに、直感的なイメージとしてオーディオマニアが音楽を聴くときには主として「感覚系ルート」がはたらき、それ以外の人たちが(音楽を)聴くときには主として「言語系ルート」が働いているように思うが果たしてどうだろうか・・・。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c85e3a32c3aca5331dd2fb7adaf73d2a
▲△▽▼
絶対音感のカラクリ〜「ド」は「ド」(其の三)
音感の正体
前回の
「絶対音感は1つ1つの音高を記憶している」
と言う説では実はもう1つ、
絶対音感保持者が音高を特定する際に
音名は正しいがオクターブを間違える、
いわゆる
「オクターブエラー」
と呼ばれる現象の説明がつきません。
もし絶対音感が1つ1つの音高を記憶しているのであれば、
明らかに高さの違う2つの音を間違えるはずがありません。
「ドレミファ〜」と徐々に音を高くしていくと、
「〜ソラシド」と再び「ド」の音に戻ってきた感覚になります。
このとき、最初の「ド」と最後の「ド」の音は
高さと言う概念で考えれば、
「周波数が異なる明らかに別の音」
であるにもかかわらず、
不思議なことに人間には音の高さが違っても
どちらも当たり前のように「ド」の音として認知されます。
これを
「オクターブ等価」
と言いますが、このとき2つの「ド」の音は
周波数比が1:2(周波数が2倍)の関係にあります。
なお、絶対音感保持者が原曲キーで唄えなくても
オクターブ違いなら唄える仕組みは、
「オクターブエラーと同じ原理」
だと私は考えています。
http://raykawamoto.hatenablog.com/entry/2014/11/18/204324
▲△▽▼
音がわかる=「オクターブエラー」する のが一流音楽家
音がわからない= 「オクターブエラー」しない のが三流音楽家
絶対音感保持者でないとこういう芸当はできない:
若きブラームスが完璧なピアノ・テクニックを象徴する有名な逸話。
巡業先で半音高く調律されたピアノに遭遇したヴァイオリニストのレメーニは、
弦が切れるのを怖れて調弦を上げられない。そこでブラームスは、
《クロイチェル・ソナタ》のピアノ・パートを公開演奏の場で、
瞬時に半音低く移調して弾いた。[※半音高くと移調したという説もある]
移調できるとかできないという次元の問題ではなく、
《クロイチェル・ソナタイ長調》とは全く異なる《クロイチェル・ソナタ変イ長調》用に、
指の準備が即刻できてしまう能力を持っていた。
この他に、メイの伝記中、ハ短調を半音上げて弾いた話があり、こちらの方が有名。
さらにこの回想録シリーズの第2巻でも、似たような移調演奏のエピソードがある。
http://kimamalove.blog94.fc2.com/blog-entry-1992.html?sp
▲△▽▼
カクテルパーティー効果 2016/08/25
音が身体に及ぼす影響というテーマの
中でカクテルパーティー効果について
述べました。
大勢の人が会話を楽しんでいる、大きな
騒音が満ちているパーティー会場の中でも、
例えばあなたの名前がどこかで囁かれた
とすると、その音はちゃんと聞こえて
きてしまうのです。それは名前だけでなく
いつも頭から離れない関心の強い何か、
かも知れません。
この効果(?)を最大限に活用している
のがフルオーケストラを指揮している
指揮者だと言えるかも知れません。
第二ヴァイオリンの奏者の一人が一音
フラットしてしまったことも聞き逃さない
のは、プロの指揮者としては当たり前の
技能かも知れませんが、オーケストラ
全体の音量と第二ヴァイオリンの
一奏者の音量を比べると、それは驚異的
な能力と言わざるを得ません。
絶対音感の持ち主でもある世界的な
指揮者、佐渡裕さんが若かりし頃、
そう小澤征爾さんがいきなり優勝してしまった
あの若手指揮者の登竜門と呼ばれている
ブザンソン音楽祭のファイナルで、
こんなテストを受けたそうです。
オーケストラの間違い探し!課題曲を
オーケストラが譜面通りに演奏しているか
否かを指揮しながら指摘していくという
ものです。いくつも仕掛けられた罠を
見事に指摘し、エンディングを迎えるとき
何か『違和感』を覚えたそうです。
音の違いではないし、何かがおかしい?
オーボエとクラリネットが入れ替わり
互いのパートを吹いていたそうです。
佐渡さんはその違和感に気づき、この
間違え探しのテストにも満点で合格。
結局、その年の優勝者に選ばれました。
意識を向けることによって、大音量の
中の小さな音を捉え分析することが
出来るのです。世界的な指揮者に与え
られた才能でもあるし、もっと身近な、
宴会の中の噂話が聞こえてきてしまう
という誰にでもある経験のように、
ヒトの聴覚がもっている特徴とも言える
能力です。
これほど繊細な聴覚にこれからどんな
音を与えていくか。
新しい選択が生まれました。エムズ
システムのスピーカーが奏でる音は
自然で、そこに音楽が生まれた瞬間の
空気感が生まれます。
ぜひ一度ご体感ください。
http://mssystem.co.jp/article/detail.php/722/314325
▲△▽▼
職人たちの超感覚。 科学の忘れもの
http://www.abiroh.com/jp/sensitive-human/1065.html
ミクロン単位の誤差を指先で感知するレンズ研磨職人、玉鋼の加熱状態を秒単位で制御する刀匠、数千数万の匂いを嗅ぎ分ける香水調合師……職人たちの繊細な感覚技術のそれぞれの要素はいま、科学技術によって置き換えることが可能になりつつあります。しかし職人たちが感じているのは、誤差や温度や匂いだけではありません。そのときどきの気候や、対象が発する光や音に応じて、彼らの技はコントロールされています。さらには想定外、つまりは不測の事態に即座に対応できることも、名工であるための必要条件です。按配し臨機応変する能力の裡にこそ、職人たちの真骨頂があるのです。
◉現代では職人といえば、主に手工業に携わる人々を指しますが、もともとは特殊な技能を持っている者のことでした。古代では鉄器鍛冶や庭師がその代表です。中世になると貨幣経済と物流が発展したことと相まって、多様な職人たちが登場します。そして近世までの「職人」は、単にモノを生産する人を意味したわけではありません。連歌師や白拍子、勧進聖や神主などコトにかかわる者、つまり芸能者や宗教者たちも、職人と呼ばれていました。市や街道は、そんな職人たちによるモノやコトが交換される場所だったのです。
◉才能という言葉があります。才と能は別の意味を持ちつつ、切り離すことができません。かつて才は「ざえ」と読み、人間の側ではなく素材の側に備わっているものとされていました。木や石、場合によっては風景や気象の才に感応し、これを引き出す人間の力が能であり、それはマジカルな力であるとも考えられていました。漢字の「職」が耳につけられた呪術的なしるしをあらわしているように、職人とは、常人には聞くことのできない自然や神仏の声を聞く能力を持つ人々だったのです。もちろんここで言う「聞く」は音響だけに対応するわけではありません。
◉中世には職人を題材とした「職人歌合」が流行しました。歌合は歌の優劣を競う遊びですが、職人歌合は、朝廷や貴族に従属する職人を描写することによって、怨霊や祟りを鎮めることが目的とされていたといいます。江戸時代には、三味線の名手の原武太夫が、弦の音色がいつもと違っているのを聞き、津波を予見して仲間の命を救ったというエピソードも残されています。
◉レンズや金属加工の領域でミクロン単位の対象の変化を触知するというような単純な物理量をめぐる感覚は、確かに超絶的ではありますが、テクノロジーによって置き換えることが可能となりつつあります。しかし琴の音色で、それがナイロン弦なのか絹糸製であるのかはもちろん、絹糸をつくった蚕の飼育方法や飼料の変化を聞き分けたり、墨の匂いで古文書の書写年代を嗅ぎ当てたりといったことは、コンピュータでは代替できそうにはありません。また、調香師になるためには最低600以上の匂いを正確に記憶しなくてはなりません。それ自体は物質分析の領域ですが、調香師の本領はそこから先、つまり未知の香料や香水をつくり出すことにあり、ときには好き嫌いのような感覚にも深くかかわる以上、テクノロジーでは単純には代替できません。そもそも人間の感覚は気分や体調によって大きく左右され、そのこと自体が例外的な感覚に結びついていたりもします。少なくともいまのところ、スーパーコンピュータを駆使した天気予報でさえ、経験豊富な漁師たちの感覚や勘には、まだまだ及びもつかないようです。
◉人間は成長にしたがって感覚が発達し、肉体の成熟とともに感覚の能力もピークに達するといいます。その後は経験とトレーニングによって感覚は磨かれますが、基本的な能力は減衰する一方です。確かに言語をめぐる感覚や、渋味や苦味などを味わう感覚は、成人の方が豊かであるようにも見えます。しかし絶対音感は生来のもの、あるいは幼児期に獲得できるものであり、外国語の習得もスタートが早い方が有利であるともされています。ちなみに絶対音感は、必ずしも「絶対的」な音感ではなく、また環境音まで西洋音楽の十二平均律に「翻訳」してしまう傾向があるなど、一概に音楽的に優れた能力であるとは言えないようです。また母語習得前に外国語を学ぶことへの弊害も指摘されています。
◉我々は、たとえば日本人ならば同じアジア人であっても、インドの人々の顔だちは皆、同じように見えてしまいます。逆にインド人にとっては、日本人の顔は似たり寄ったりに見えているはずです。最近では多くのメディアによって欧米人の顔に馴染んでいるため、欧米の俳優や政治家の顔の区別はできるようになっていますが、江戸時代の日本人にとっては、白人は一様に、赤ら顔の鼻の極端に尖った人たちに見えていました。また動物園の猿山のニホンザルをその顔で区別できる人は、当の飼育員でない限りほとんどいないと言っていいでしょう。かろうじて毛色や大きさや傷の有無などで判別できるくらいです。ところが多くの幼児は、この猿山の猿たちの顔を見分けることができます。この例では、成長にしたがって、すなわち人間社会に馴染み、言葉によるコミュニケーションに習熟するにしたがって、猿の個性が見分けられなくなっていくわけです。どうやら我々の一般的な感覚は、本来の能力にフィルターをかけることによって成立しているようです。いちばんのフィルターは、言葉です。職人たちの超絶的な感覚は、収斂によって研ぎすまされるのと同時に、このフィルターをあらためて剥ぎ取ることで獲得されているのかもしれません。
◉確かに言葉は、脳に保存されている膨大な感覚の記憶をプログラムし、オペレーションするための有効な道具でした。それによって人類は文明を獲得したと言うこともできます。しかし言葉の獲得に続いて文字が発明されると、我々の感覚にはさらに強力な拘束がかかり、同時に感覚の中で視覚が圧倒的な優位に立つことにもなりました。もしかすると絶対音階、あるいは平均律も聴覚への何らかの拘束になっているのかもしれません。犬や猫、鳥や魚などの動物たちがときに地震や天候の変化を予知することができるのに、人間がそれを苦手とするようになってしまったのは、言葉によって生来の感覚に蓋をされてしまったためなのでしょう。方向感覚や時間感覚も、文明や科学技術によって鈍化している可能性があります。
http://www.abiroh.com/jp/sensitive-human/1065.html
▲△▽▼
音がわかる=「オクターブエラー」する のが一流音楽家
音がわからない= 「オクターブエラー」しない のが三流音楽家
絶対音感保持者でないとこういう芸当はできない:
若きブラームスが完璧なピアノ・テクニックを象徴する有名な逸話。
巡業先で半音高く調律されたピアノに遭遇したヴァイオリニストのレメーニは、
弦が切れるのを怖れて調弦を上げられない。そこでブラームスは、
《クロイチェル・ソナタ》のピアノ・パートを公開演奏の場で、
瞬時に半音低く移調して弾いた。[※半音高くと移調したという説もある]
移調できるとかできないという次元の問題ではなく、
《クロイチェル・ソナタイ長調》とは全く異なる《クロイチェル・ソナタ変イ長調》用に、
指の準備が即刻できてしまう能力を持っていた。
この他に、メイの伝記中、ハ短調を半音上げて弾いた話があり、こちらの方が有名。
さらにこの回想録シリーズの第2巻でも、似たような移調演奏のエピソードがある。
http://kimamalove.blog94.fc2.com/blog-entry-1992.html?sp
▲△▽▼
「クララ・シューマンの弟子たちの回想録 その一 私のブラームス回想録(1905年) フローレンス・メイ」
フローレンス・メイは、ロンドンでクララ・シューマンのレッスンを受けた後、ドイツのバーデンバーデン近郊にあるリヒテンタールの別荘で、クララのレッスンを受けるようになった。クララが演奏活動でスイスへ行っている間、メイはブラームスのレッスンを受けることになる。
ブラームスのひととなり
当時、ブラームスは38歳。身長はやや低めで体格はがっしり。後年の肥満の傾向は全くなし。
理知的な額を有する堂々たる頭部と頭脳の明晰さを表わす青い瞳。挙動には気取りがなく、社交性と慎み深さが同居する、親しみのもてる人という印象だった。
ブラームスは自分について話すのを極端に嫌っており、自分の作品について話すことはめったになく、集まりではどんなに頼んでも、絶対に演奏しなかった。
ブラームスは極端な気分屋で、演奏しろといわれるのが嫌いなうえに、演奏する彼自身のムードと演奏される側、つまり作品の雰囲気がぴったり合わないと、全くだめだった。
ご機嫌なのは先生(クララ・シューマン)たちと一緒の時で、彼女にはいつも下僕のように使え、態度には尊敬の念が表れていた。それは息子が母に持つ愛情と、芸術家同士の共感とがないまぜになったような感覚−弟子のメイにはそう思えた。
ブラームスは大の散歩好きで、自然への愛着もひとしお。夏の間は4時か5時には起き、自分でコーヒーをいれ、それから朝のおいしい空気と鳥の歌を満喫しに、森へ出かけるのが日課だったという。
ブラームスのピアノ指導法
クララは「ブラームスは最高のピアノ教師」だと言っていた。実際、メイがブラームスのレッスンを受けると、「何一つ欠点のない、全ての資質を備えた理想的なピアノ教師」だった。
ブラームスの頭の中には、技術的な修練方法が、細かなことまで全て入っており、しかもそれをきわめて短時間で教えることができた。
メイがテクニックの弱点を説明して、クレメンティの《グラドゥス・アド・パルナッスム》を弾き始めると、その指をほぐして均等にする作業に取り掛かった。
レッスン初日から、目的に達するにはどうするのが一番なのかの解説付きで、音階、分散和音、トリル、重音奏法、オクターヴといった技術訓練を次々と与えていった。
レッスン中ブラームスは椅子に腰かけ、弟子の指を見ながら、誤った動きを指摘し、自分の手の動きで正しい形を見せながら、夢中で指導していたという。
ブラームスは、通常行われる五本指のエクセサイズがメイに有効だとは思わず、もっぱら一般の作品や練習曲を使い、自ら習得した、困難なパッセージを克服するための練習法をメイにも教えた。
メイの手首も、聞いたこともないブラームス独自の方法で、ほとんど苦労しないまま二週間ですっかりほぐれ、指の付け根の固い出っぱりが、大方消え失せた。
ブラームスは、指づかいには特にうるさかった。特定の指に頼らず、全ての指をできるかぎり均等に働かせるよう注意した。
バッハの楽譜はメイがイギリスから持ち込んだもの。指使いが書かれていなかったので、ブラームスはツェルニー版の運指を使うように(それ以外の書き込みには従わないように)指導した。
当初、レッスンの大半はバッハの《平均律》か《イギリス組曲》。メイの技術が向上すると、レパートリーも音楽の本質を学ぶ時間も少しづつ増えていった。
ブラームスは、曲の細部に至るまで厳しく気を配れと注意する一方、「フレージング」はできるだけゆったりととるように言った。繊細な詩集の外側を縫い進み、飾り付けていくように、フレーズのアウトラインを大きく一筆書きするのである。音楽の陰影を使って、フレーズをつなげたりもした。
音色、フレーズ、感覚など、ブラームスのイメージが音になるまで、バッハの一部分を十回でも二十回でも演奏させた。
ブラームスは些細なことまで信じられないほど誠実で、生徒に向かって物知りぶったり、イライラしたり貶したりしなかった。趣味はほめることで、どんな曲でもまず好みどおりに演奏すると「いいねえ、言うことなし」で、「そこはこう変えて」とはならなかった。
ブラームスのピアノ演奏法
レッスンの終わりに、メイに頼まれてブラームスが自らピアノを弾くようになったが、一番多く取り上げたのはバッハ。
《48の前奏曲とフーガ》(平均律)を解説付きで、1曲か2曲、暗譜で弾き、その後は気分によって楽譜集から曲を選んで弾き続けた。
ブラームスは、著名なバッハ信奉者達のように、「バッハはただ流れるように演奏すべし」などとは思っておらず、彼のバッハ解釈は型破りで、伝統的な理論に捉われていない。
ブラームスが弾く《前奏曲》は躍動感溢れる力強い演奏で、濃淡と明確なコントラストがついて、まるで詩のようだったという。
バッハの音符一つ一つは感性あふれるメロディを作ってゆく。たとえば深い哀感、気楽なお遊び、浮かれ騒ぎ、爆発するエネルギー、えもいわれぬ優美さ。しかし、情緒は欠けておらず、決して無味乾燥ではない。情緒(センチメント)と感傷(センチメンタリズム)は別物なのだ。組曲では、音色とタッチを様々に変え、テンポも伸縮自在だった。
彼はバッハの掛留音をこよなく愛していた。「絶対にきこえなければならんのはここだ」と言いながら、タイのかかった音符を指し、「その後ろの音符で最高の不協和音効果が得られるように[前の音符を]打鍵すべし、でも、準備音が強くならないように」と強調した。
激しさも要求する一方、「もっとやさしく、もっと柔らかく」が、レッスン中のブラームスの口癖だった。
ブラームスは、バッハ、スカルラッティ、モーツァルトなどの「小奇麗な演奏」を認めなかった。巧みで均一で、正確かつ完全な指づかいは求めたが、多様で繊細な表現が絶対条件、いうならば呼吸のようなものだった。
作曲家が何世紀の人間であろうが、聴く人に作品を伝えるために、ブラームスはモダン・ピアノの力をためらうことなく利用した。
ブラームスは「安手の表情」をつけるのを好まず、特に嫌がったのは、作曲家の指示がないのに和音を分散させること。
メイがそんなことをすると必ず「アルペッジョじゃない。」と注意した。
ブラームスは音の強弱に関係なく、スラーのかかった二つの音符の醸しだす効果に重きを置き、それを強調したため、メイは、「こういった記譜部分は、彼自身の作品でこそ特別な意味を持つことが飲み込めた」と書いている。[※これは、ブラームスが多用していたヘミオラのこと?]
メイが聴いたブラームスの演奏は、「刺激的かつ独特で、到底忘れることはできない。名人芸を自由に操るといっても、それはいわゆるヴィルトゥオーゾ的演奏ではなかった。どんな作品でも、うわべの効果は決して狙わず、細部を明らかにし、深い部分を表現しながら、音楽の内部に入り込んでいるようだった。」
メイが、ブラームスの作品を練習させてほしいと頼むと、「僕の曲は、強い筋力と手の強い掴みが必要なので、今の君には向かないだろう」。自分が書いたピアノ曲は、女性には向いていないと思っていたらしい。
「どうしてピアノ用に、とんでもなく難しい曲ばかり作曲なさるのですか」とメイが詰め寄ると、ブラームスが言うには「(そういう音楽が)勝手にこちらにやってくるんだ。さもなきゃ、作曲なんかできないよ(I kann nicht anders)。」
「クララ・シューマンの弟子たちの回想録 そのニ 私のブラームス回想録(1905年) アデリーナ・デ・ララ」
クララ・シューマンのレッスンで、ブラームスの《スケルツォOp.4》の一部分を弾き終えたとき、ブラームスが突然部屋に入ってきて、「今弾いた所をもう一度」。
最初のフレーズを弾き終わると、「違う違う、はやすぎる。ここはがっちり提示するんだ。ゆっくりと、このように」。
ブラームスが自ら演奏。鍵盤の上でゆったりとくつろいでいるようにしか見えないのに、それが豊かで深みのある音を、そして雲の上にいるようなデリケートなppを紡ぎだす。あのスケルツォのオクターブを一つも外さず、ものすごいリズム感で演奏するのだ。
ブラームスは生徒が自分の作品の低音(ベース・ライン)を弱く弾こうものなら、烈火のごとく怒った。その作品はきわめて深い音で、そして左手は決然と弾かなくてはならない。ブラームスは先生[クララ・シューマン]と同じで感傷的な演奏を嫌い、「決してセンチメンタルにならず、ガイスティック(精神的)でなくてはならない。」
日常生活では全く飾らず、ユーモアの感覚にあふれ、冗談を飛ばす。こんな人が真に偉大な巨匠だなんて、思い出すのも難しいほど。最初に会ったとき、ブラームスは40歳だったと思う。
「クララ・シューマンの弟子たちの回想録 その三 ブラームスはこう弾いた ファニー・デイヴィス」
ブラームスの演奏を文字で書き表すことは、非常に難しい。それは孤高の天才が、作品を作ってゆく過程を論じるようなものだからだ。
巨匠の演奏に向かう姿勢は自由かつしなやかで、余裕があり、しかもつねにバランスがとれていた。たとえば耳に聞こえてくるリズムの下には、いつでも基本となるリズムがあった。特筆すべきは、彼が叙情的なパッセージで見せるフレージングだ。そこでブラームスがメトロノームどおりに演奏することはありえず、反対に堅牢なリズムで表現すべきパッセージで、焦ったり走ったりすることも考えられなかった。下書きのようなザッとした演奏をするときも、その背後には楽派的奏法がはっきり見てとれた。推進力、力強く幻想的な浮遊感、堂々たる静けさ、感傷を拝した深みのある優しさ、デリカシー、気まぐれなユーモア、誠実さ、気高い情熱、ブラームスが演奏すれば、作曲家が何を伝えたいのか、聴き手は正確に知ることになったのだ。
タッチは温かく深く豊かだった。フォルテは雄大で、フォルティシモでも棘々しくならない。ピアノにもつねに力感と丸みがあり、一滴の露のごとく透明で、レガートは筆舌に尽くしがたかった。
"良いフレーズに始まり良いフレーズに終る"−ドイツ/オーストリア楽派に根ざした奏法だ。(アーティキュレーションによって生じる)前のフレーズの終わりと、次のフレーズの間の大きなスペースが、隙間なしにつながるのだ。演奏からは、ブラームスが内声部のハーモニーを聴かせようとしていること、そして、もちろん、低音部をがっちり強調していることがよくわかった。
ブラームスはベートーヴェンのように、非常に制限された表情記号で、音楽の内面の意味を伝えようとした。誠実さや温かさを表現したいときに使う <> は、音だけでなくリズムにも応用された。ブラームスは音楽の美しさから去りがたいかのごとく、楽想全体にたたずむ。しかし一個の音符でのんびりすることはなかった。また、彼は、メトロノーム的拍節でフレーズ感を台なしにするのを避けるために、小節やフレーズを長くとるのも好きだった。
若きブラームスが完璧なピアノ・テクニックを象徴する有名な逸話。
巡業先で半音高く調律されたピアノに遭遇したヴァイオリニストのレメーニは、弦が切れるのを怖れて調弦を上げられない。そこでブラームスは、《クロイチェル・ソナタ》のピアノ・パートを公開演奏の場で、瞬時に半音低く移調して弾いた。[※半音高くと移調したという説もある]
移調できるとかできないという次元の問題ではなく、《クロイチェル・ソナタイ長調》とは全く異なる《クロイチェル・ソナタ変イ長調》用に、指の準備が即刻できてしまう能力を持っていた。
この他に、メイの伝記中、ハ短調を半音上げて弾いた話があり、こちらの方が有名。さらにこの回想録シリーズの第2巻でも、似たような移調演奏のエピソードがある。
http://kimamalove.blog94.fc2.com/blog-entry-1992.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/682.html