何もかも壊れてゆく社会のなかで…… 2019年10月16日
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1974年、多摩川の狛江町で、大水害が発生し、数十軒の住宅が増水した多摩川に呑み込まれた。
このときの映像は映画化されて、人々を圧倒し、記憶に刻まれた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E5%AE%B3
https://www.youtube.com/watch?v=9rfbsEDWWkk
この事件は、長い時間をかけて、二転三転の訴訟になったが、結局、住民側の勝訴に終わった。
時代は、総評や社会党をはじめとする革新側の力が強く、個人的権利を守る世論が住民を後押ししたからである。
だが、もし同じ訴訟が今、起きたなら、自民党=国家権力の独裁、暴政を守る仕組みに変えられてしまった司法が、同じように住民を守る判決を出すとはとても思えない。
昨年7月に起きた、肱川大水害、野呂川ダム水害、2015年、9月の常総市鬼怒川水害、今回起きた台風19号による千曲川大水害、東北のたくさんの河川水害の光景を見ながら、何よりも74年、多摩川水害を思い起こした人が多かったと思う。
昨日のブログに書いたように、近年の大水害の原因には、自然災害とはいえない、人為的な要素が多く、むしろ「開発災害」とでもいうべき金儲け最優先思想による人命や個人的権利の軽視、蹂躙によるものが多く含まれている。
もっとも基本的な視点でいうと、1980年代から、日本政府は、林野庁による森林自然保護の色彩の強い政策を廃棄して、降雨災害における保水力の主役になっていた手つかずの原生林や、広葉樹林=照葉樹林帯を大規模に皆伐し、カネになるスギや檜の針葉樹林帯に変えていった。
このことで、保水力を失った山岳地帯が降雨によって荒廃し、大水害が頻繁に発生するようになった。
また、昨日のダム問題でも書いたように、本来、何よりも住民の命と財産を守るという人権優先思想が、金儲け最優先の新自由主義思想によって壊されてしまって、管理者が著しく劣化しているのである。
ダム水利利用者の利権を住民の権利よりも上位に置くという信じがたい国交省や、電力企業の姿勢によって、肱川大水害が起きたことが明らかであり、今回、台風19号が起こしたたくさんの水害のうちの相当部分にも、水利利権優先によって起こされた無責任なダム放流管理による洪水災害が起きている疑いがある。
これらを見るに、私は、一言でいって、「政治家と官僚=役人の思想的劣化」と断言せざるをえない。
劣化する前の官僚=役人といえば、日本における為政官の水準は、半世紀前、世界的に極めて高いもので、知恵もあり、使命感・責任感もあり、住民=国民を守ろうとする意思が強く感じられた。安心して、あらゆる施政を役人に任せることができた時代があったのだ。
私は、伊勢湾台風の夜、我が家に、全身ずぶ濡れになって「堤防が切れるかもしれない、準備を」と伝えに来た行政官の姿を忘れることができない。
この本質的な理由は、何よりも役人たちが共有する人生観・社会観の根底に「人情を守る」という不動の価値観があったからである。
すべての行動基準、価値観の根底に「人情」があり、警察の取締だって、現場の警察官の主体的な判断として「人情」が大きかった。
行政もまた、何よりも「人情」を最優先しなければ社会に受け入れられない時代だったのだ。
なぜ、人情が尊ばれたかといえば、それは戦争の凄まじい地獄を経験させられたからである。
財産も家族も、地位も、あらゆるものを奪われ、失う戦争を経験させられた人々は、もはや「失うものもない」人間存在のギリギリの原点に置かれ、人生と社会に本当に大切なものこそ「人情」だと思い知らされていたからだ。
当時の、こうした価値観に照らして、大水害が予想されながら、放流後の賠償を怖れて事後放流に任せた結果、多数の人命と財産を奪い去った肱川大水害は、まさに「人情を喪失した」行為であったと断罪することができよう。
我々は、再び、一人一人の心に立脚した「人情社会」に戻らなければならないのだが、75年前と同様の、何もかも奪われる悲惨で残酷な運命に翻弄されないかぎり、「人情の支配する社会」に戻ることは難しいのかもしれない。
今、我々は台風15号、19号の凄惨な被害を見て「いったい何が間違っていたのか?」を理解する必要がある。
この惨禍を繰り返さないために「何が必要なのか」を知る必要がある。
今回の台風による洪水被害を見ていると、すべてのメディアに、河川上流の森林地帯の変貌、保水力の喪失に触れる視点は皆無だった。
安倍晋三が導入した「森林破壊法」が何をもたらすのか? この災害の向こう側に見ようとする視点も皆無だった。
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私は、政治家も役人も、メディアも体制批判派も、誰一人、日本の森林管理政策が間違っていたことで、この災厄が起きていることを指摘していないことに絶望している。
役人や政治家だけではない、日本国民のすべてが劣化しているのだと思い知るしかなかったのだ。
みんな新自由主義の洗脳に犯され、「人間社会が持続してゆくうえで本当に大切なことは何か? 」という視点を完全に見失っている。
資本主義社会は、人間同士の競争と、個人的利権を尊重する社会を生み出した。フリードマンが提唱した新自由主義は、人間社会の価値観の根底に「個人的金儲け」を置くものだった。
我々は、「資本の競争論理」に幼いうちから洗脳され、例えば、幼稚園のうちから、かけっこでもお絵かきでも、点数をつけて人間に序列を与え、コンプレックスに落とし込み、社会の本質が差別であるかのような硬直した思想性に押し込められてきたのだ。
こうした「競争の論理」こそが、金を儲けて他人を睥睨することや、貧乏人や弱者を蔑む愚か極まりない人間性の劣化を生み出している。
この劣化こそが、日本社会の無数の劣化の根底にある。
渋谷区が緊急避難所からホームレスを暴風雨の市街に叩きだした行為に対して、批判するどころか、ホームレスが死ぬのは当然であるかのような下劣な主張が大量に出ている。
https://news.biglobe.ne.jp/domestic/1015/ltr_191015_9284131128.html
これも、幼い頃からの差別思想の洗脳が生み出した果実であり、こんな発想をしていれば、やがて同じ論理が自分の人生をも切り裂く運命になることを彼らは理解できない。 こうした差別が、巡り巡って利己主義の金儲け絶対優先社会を生み出し、それが今起きている残酷な水害を生み出していることに、誰が気づいているだろう?
何度も書いてきた通り、もうすぐ人間社会は、究極の経済破局を迎える。
これも、すべて、競争主義によって、他人の幸福を金に換える利己主義が生み出した残酷な怪獣なのだ。
これによって、世界中の金という金が消えてゆく。人間が生きるために本当に必要なものは、金儲け競争などではなく、互いに助けあって、笑顔を糧として喜び溢れた人生を生み出してゆく姿勢であることを、人類の誰もが思い知らされるのだ。
金で食料が買える時代は終わりを告げる。愛がなければ生きてゆくことができない時代がやってくる。
何もかも、壊れてゆく社会のなかで、壊れないものは、人間への愛しかないことを、人類が思いしらされるのである。
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