15. 2019年6月30日 00:00:08 : DV5zNfBGAI : cGpGbWFQNFdwM0E=[6]
>>4
>日本の分別率の高さからしっかり焼却されてて環境汚染にはつながってない。レジ袋だって長年ゴミ袋にリユースして無駄に使ってない。
いや逆。分別してるから焼却できていないんだろ。
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/677.html#c15
★阿修羅♪ > アーカイブ > 2019年6月 > 30日時分 〜
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いや逆。分別してるから焼却できていないんだろ。
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/677.html#c15
以前はこういう考えをもっていましたけど
優秀な方々の助言を聞いていく内に考えが変わりました
→ですので政策は変更します!と
そういうふうにもなりそうなもんだけどなあ
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/517.html#c30
何が正しくて、何が間違いか、言えない奴が
どうやって他党、他議員を糾弾できるんだ?
アホじゃねえの
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/517.html#c31
景気刺激策も、インフレ率の監視のもとに、2パーセントの上限を引いてのものとなるだろうと思われます。
税負担は、支払い余裕のある所から負担して頂くと言う、ごく当たり前の発想で、累進性を企業にも求めようと言う考え方を山本太郎さんは言い出しています。
弱者底上げを政策とするなら最も現在の国民の要望に近いと言えるでしょう。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/519.html#c41
しっかし、木・金、『小中高休校』させるか!?(嘲笑)
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/538.html#c1
そういう姿勢は有権者に見抜かれると思うけどな
かと言って荒唐無稽な話をゴリ押ししても
それはそれで支持が離れてくってんだから難しいわけだ
現状 資本主義システムに組み込まれてて
弱肉強食で殺し合いで罵詈雑言のオンパレードな世の中では
社会主義的な主張をするのに無理があんだろうな
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/517.html#c32
トップ同士は普通お互いの性格や人間性がわかっているから、これは明らかにあえてのガン無視だね。
安倍の哲学なし利権主義の人間性を知り見下しているのは明らかだろう。
日本人は騙せても世界の人々はその政治家としてのこだわりには敏感だから、安倍みたいのは一番嫌われる。
#安倍晋三 安倍が幾ら隠そうとしても無駄。トランプが全部、喋るから。やっぱり言われてるやんけえ。どうせ、煮え切らん中途半端な返答したんやろうなあ。https://t.co/iWXInES9Ta
— 椿 静雄 (@intothebargain) 2019年6月29日
トランプが「安倍に“日米安保条約見直し”を伝えた」「安倍は理解を示した」と衝撃発言! 事実隠蔽の裏で安倍政権は… https://t.co/2zLNGTy9KD @litera_web より
— 學 (@yokumanabu10) 2019年6月29日
また無かったことにする
事実隠ぺい
この政権の特質したところだ!
参議院選挙で国民の意思表示を!#選挙に行こう
アメリカがイランと戦争を始めたら、真っ先にアベはアメリカ軍の二軍として参戦しそうですね。
— Fumihiro Sakunada (@Fsakinada) 2019年6月29日
自衛隊員の皆さんは、日本の防衛とは関係ないトランプの我儘から始まる戦争に命をかけることについてどう思うのでしょうかね?
「退陣願います」ご苦労さん👋 pic.twitter.com/O8ihloDLzE
— Kazuo-chan @501rf (@loto501rf6) 2019年6月29日
こマ?ここに突っ込まないマスコミはないよな,さすがに?>トランプが「安倍に“日米安保条約見直し”を伝えた」「安倍は理解を示した」と衝撃発言! 事実隠蔽の裏で安倍政権は… https://t.co/Ec6ZKFkGaX @litera_webさんから
— 木村高宏 (@KIMURATakahiro) 2019年6月29日
そんなもん金たらふく抱え込んでいる売国奴から
取り上げれば済む話なんだよ!
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/503.html#c45
人種差別を背景とした“イジメ”に近い。(笑)
半面、オランダ・ルッテ首相への好感度が赤丸急上昇。
『そういうの(イジメ)カッコ悪いからやめようゼ』
って感じの、クラスに1人はいる“正義漢”?(笑)
良かったね、安倍。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/526.html#c58
なるほど!犬HKがこの件、“ガン無視”したい筈だ。(笑)
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/539.html#c6
“トランプ氏はこうした状況を変えるべきだとの考えを安倍首相に伝えたことを明らかにし、会見で「我々が(日本を)助けるのなら、日本も我々を助けるべきだ」とも述べた。トランプ氏は、安倍首相はこうした考えを” / “トランプ氏、日米安保は「不公平だ」 会見で認識示す …” https://t.co/iQFNsRKJ0z
— ゆうくぼ (@yu_kubo) 2019年6月29日
スガが躍起になって否定しても火消しは出来なくなった
— あいちゃん (@HOrhFuOmWIDDDXs) 2019年6月29日
なんせ大統領が自らの口で表明したんだから
トランプ氏、日米安保は「不公平だ」 会見で認識示す:朝日新聞デジタル https://t.co/f6pW7pf1tR #G20大阪サミット
トランプ大統領の「日米安保不公平」発言。ここ数日言ってきたこととはいえ、記者会見、しかも日本で公に発言した衝撃は大きい。 https://t.co/L2zTHS3KTK #G20大阪サミット
— 大島隆(Takashi Oshima) (@takashioshima1) 2019年6月29日
トランプ大統領は、安倍総理に、半年前から日米安全保障条約は不公平だと言っていたそうだ。
— Pablo Neruda (@Venceremos1971) 2019年6月29日
防衛装備=武器の爆買い、農産物・牛肉では大幅譲歩などの密約は確実だね。
参議院選後すぐに、海外メディアからニュースが入るだろう。日本のメディアからは真実は伝わらない。 https://t.co/ziNFdXdMqI
「不公平だ」とは言っても「だから解消だ」とは言わずに,「もっと貢げ」と属国に迫るトランプ.なぜなら米にとって圧倒的に「お得」だから.
— ごはん (@gohan2402) 2019年6月29日
トランプ氏、日米安保は「不公平だ」 会見で認識示す:朝日新聞デジタル https://t.co/e94kfWl6Ph
>>46でも言ったが自由にさせたからダメなんだよ
政治家が金で買われるようになったからダメなんだよ
これじゃあ中世の土人国家に逆戻り
人間は学ばねえ生きもんだからよ 政治家もそうだが
憲法や法律で縛り付けるが吉
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/503.html#c47
だから、参院選で安倍を勝たせると、限りなく日本の軍備は増強されるよ。勝たせちゃダメ。
— Harumit (@HarumiTT) 2019年6月29日
日米安保「破棄考えてないが不公平」 会見でトランプ氏 [G20大阪サミット]:朝日新聞デジタル https://t.co/4tw31SiAfy
まああああああああああああ、仮名や名前を書いてくれないと、まともに反論できません。仮名でもいいから書かれているとどういう方かなと想像しながら書くことができない。日時だけでは面白くない。ただ自分の意見だけを言うのなら、聞きたくないね。読みたくない。
名前またはあだ名、仮名を書いてクンなまし。
まあああ、オマケの毛。これまで超左翼から超右翼まで返信てきたワタチ。1字50銭の書き手も誰でも基地外でも返信してきました。あだ名でも仮名でも書いてなければ無視ですね。 蒸し、無死、虫、ムシですね。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/519.html#c42
あのなぁ〜。『予算』の問題ではなく『意思(問題意識)』の話しなんだが。
例えば、国会のバリアフリー。国会議員だけじゃなく、傍聴者へ対しても必要だ。
予算?『議員宿舎』の建設・維持の余裕があるなら、それ(予算)を付け替える。
それで問題解決だ。何か異論があるか?(笑)
かつての我が国は国連から先進国として扱われてきた。
それが今や発展途上国だ。
経済的にも、政治的にも、報道の自由度でも。
なぜだ?
http://www.asyura2.com/19/cult21/msg/520.html#c1
安倍ほどじゃないから。(笑)
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/540.html#c1
天皇が政治に関わってはいけない現在の「民主国家」日本としては、そういう誉め方をされても困るんだが、でもそう言われても無理もないだろう。
今の天皇皇后レベルには及ばなくても、せめて語学も含め、もっと国際的なコミュニケーション力のある首相がほしいね。
むやみと”海外旅行”には行っても進歩がないようだ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/526.html#c59
それにしても不正選挙が指摘されると慌てて飛んで来て必死にフセイセンキョフセイセンキョと愚弄してアピールする工作員の存在を見て毎度ながら安心している。
本当に根も葉もないことなら、誰も関心を持たないからスルーされるものなのだ。
即座に工作員が飛びついて来ることで逆に不正選挙の実在を確信する。
統一教会や幸福の科学の馬鹿どもが短絡的に活動しているだけだろうが、スレの本題には一切関心を向けず、コメントの方の不正選挙発言だけに食いついているのは誰が見たっておかしいとわかる。低能めが。
確信するまでもないがな。
ある種のところに所属していれば不正選挙の片棒を担いだ経験があるから、不正選挙の実在など当然の前提だ。
俺の親族に至っては選挙管理委員会の中で実働隊として働き、数年前には処分を受けている。
都会に住んでいる根無し草にはわからんが、田舎に住んでいてそれなりの家柄の一族だと必ず関わらざるを得ないんだよ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/508.html#c20
圓楽さん 胸に手をあてて「ドキドキ」
歌丸さん 「どうしたの」
しんぞう
圓楽さん 「晋 三が悪いんです」
お後がよろしいようで 。。。。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/539.html#c9
って、質問が逆だろ。恥ずかしい記者だな。障碍者に対する受け入れ態勢が整っていない事自体を恥じろバカ記者にバカ政治家ども。マジで腹が立つ!
民主主義国家と言いながら人権意識の低い政治家にマスコミ。
>「700人以上の国会議員がいながら、この点について一度も話題になったことがない。どうしてか?これがすべてだ」と山本太郎 が言った。
私は山本議員が特別偉い事を言ったとは思わない。1度も話題にならなかった事自体が異常。彼は極々当たり前の事を言ったに過ぎない。
しかし、これが今の日本政治のレベルの低さとマスコミの意識レベルの低さを表しているとも言える。
相対的に見れば山本議員の発言は車イス障碍者議員の道を開く第一歩として評価出来る。勿論、立候補をした木村さんも応援したい。
このようにいろいろな立場の人々がいろいろな視点で国の方向性を考える必要がある。金持ちのボンボンに政治を任せると安倍の様にろくな事をしない。
もう「〜様!ははあ!殿様に何でも従いまするう〜!」って、お馬鹿殿様主義をやめたらどうだ。自民が安心、自民が無難なんて時代じゃない。
偉い人に任せるのはやめて(実際偉くはなく偉ぶっているだけだが)、自分らの世界の政治家を立てて応援しよう。
江戸時代に徳川に従っている構図に近くないか?あまりに閉鎖的。安倍政治は保守でもないし。
そういう意味では山本氏周辺を応援するが、理想を言えば、もっとこう新人政治家立候補者が野党や新党目指してどんどんわんさか出てきて欲しい。反自民がわんさか出て自民を潰して欲しい。
支持政党のない無党派の私から見ても、自民は有害でしかない。良い点が全くない。
三原のクソ発言など論外。杉田のLGBT差別発言は謝罪しろ。櫻田は議員を辞めろ。菅は言論弾圧をやめろ。麻生は財務省の数々の不祥事と己の不誠実かつ威圧的な不適切な態度の責任をとって大臣をやめろ。安倍は数えきれない数々の不祥事の責任をとって議員をやめろ。
こんな酷い政党はない。
無党派であっても与党があまりに酷すぎて野党を応援するしか道はない。
もう、お願いだから早く死んでくれ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/532.html#c20
抵抗できないなら言い訳もできるが、抵抗しようと思えばできるのにしなかったら言い訳のしようがない。
それどころか自らの首を絞める政策に賛成したのはなぜかと問い詰められて、「仕方なかったんだ」と言い逃れることができると思うか?
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/540.html#c3
横沢さんが目指すの、『健常者とか障碍者とかの区別がない社会』。
私「『健常者』って言葉から、大っ嫌い。そこから差別的でしょ?
そして『上から目線』。何が“常”で、何が“健(康)”だ!って』
横沢さん「「障害者」って言葉と戦ったって現実は動かない。『しょうがいしゃ』。
私はね、生涯この体と付き合っていく『生涯者』なんだって思う事にしてる」
私「じゃあ私は『謙譲者』、あるいは『献上者』であるべきなんですね!
膝を折って見上げ、自分ができることを奉る。勿論、無理しない範囲で」
私が、横沢たかのりさんを心から応援する、何よりの理由がコレです!
横沢さんや他の志しある方々と共に“ボーダーのない社会”を作って行きたい。
ハード(社会資本や設備)だけじゃなく、ハート(共感し捧げる気持ち)の面でも‼
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/517.html#c34
>>17の山田です。
私自身は、閲覧者のかたに不快な思いをさせるつもりは
毛頭なかったのですが、>>17をご覧になって傷つかれたとのこと。
私の言葉足らずであったことをまずはお詫び申し上げます。
>>17にて私が想定していたのは、すでに>>25さまが
書いておられるようなケースであり、子供がいない人や、
いわゆる引きこもりの人たち、お年寄り、障害や病弱のために
働けないような人たちを、「生産性」がないとして
社会から排除することに非を鳴らす趣旨でのコメントであることを
ご理解いだだければ幸いに存じます。
重い病気を患った身内の面倒を看るということは、きれいごとで
済まされるものではなく、私も家族もその渦中ではただただ精一杯で、
たとえ血のつながった身内であっても、いなくなってくれたほうが
こっちもラクだ、とさえ思うような局面も正直ございました。
それが終わって数年経った今だからこそ、ようやく冷静に当時を
振り返ることができるようになった、というところです。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/517.html#c35
>>17で記しました「態度価値」とは、人間が、たとえ過酷な状況におかれても、
その運命を受け止める態度を決める自由はその人に残されており、
その自由がある限り、よりよく生きる余地が残されている、というものです。
したがいまして、ご本人の意思決定・意思表示が不可能となった
植物状態、脳死判定された患者さんのケースなどは、
「態度価値」を論じるうえで、フランクル自身も想定しては
いなかったものと考えます。
さいごに私事ながら、私もすでに両親をともに見送っておりますが、
最末期の段階で主治医に対し、私が長男ということもあり、
延命措置は不要である旨の意思表示を行った次第です。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/517.html#c36
「アベのアホはとどまるところ知らず、世界に大恥晒す‼️」 安倍首相、大阪城にエレベーター設置は「大きなミス」 G20発言に「バリアフリーに逆行」と批判相次ぐ https://t.co/ZMgEeT6A94 #スマートニュース
— エイユー8379 (@AU_8379) 2019年6月29日
『世界は結果だけで廻っているんじゃない』。この言葉を謹んで貴方に捧げます。
将棋マンガ『3月のライオン』の主人公が、高校の元担任から言われた言葉です。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/517.html#c37
いつも言うけど、アベはバカなんだから。普通の人なら言わない。
— 岡山田 (@AbLltdKpK9wPRsT) 2019年6月29日
安倍首相、大阪城にエレベーター設置は「大きなミス」 G20発言に「バリアフリーに逆行」と批判相次ぐ(J-CASTニュース) https://t.co/jlSEvyNWaX
安倍首相、大阪城にエレベーター設置は「大きなミス」 G20発言に「バリアフリーに逆行」と批判相次ぐ
— okeinan (@okeinan1) 2019年6月29日
乙武洋匡氏「とっても悲しい気持ちになる」
手話教育などを研究している亀井伸孝愛知県立大学教授「バリアフリーの世界的趨勢に逆行するようなこと」
などと批判…
https://t.co/t8JcaAiUYW
【子供の頃から恵まれた環境で生きているから、発言の影響を想像する力が無いのでしょうね!】安倍首相、大阪城にエレベーター設置は「大きなミス」 G20発言に「バリアフリーに逆行」と批判相次ぐ https://t.co/mSZ6u4MHnV @jcast_newsさんから
— なんちゃん (@nanchan_twit) 2019年6月29日
足腰の弱った高齢者や歩行困難な障害者は天守閣に簡単に登っちゃいけないんだね。
君には将来、高齢者や万一歩行できない障害者になったとしても今と同じ事を言い続けてもらいたいな。
私は車椅子使用者だが、大阪城のエレベータと親切な職員さんは有り難かったしとっても感謝してるよ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/524.html#c20
横レスで申し訳ありませんが、ご主旨、理解し、共感します。
1980年代前半、私が中学時代、祖母が寝たきりになり母が介護に当たったのですが
自分が動けなくなった状況を認めたくない祖母は凄く荒れて、母に辛く当たってました。
父は知らんぷりで、結構、地獄に近い修羅場がひなが展開されましたが、
私が居ると祖母は正気を取り戻すので、なるべく2人に間に居るようにしてました。
祖母の話しを聞いたり、手を握ったり、私にできる事はそれぐらいでしたが、
祖母が死んだあと『お前が居てくれて良かったよ』と母がボソリと呟いたのです。
今年の春ごろにテストを受けた方からの伝聞なお話。
合格率は68%という表現は可笑しい。
正確には例えば100点満点とすると77点から100点までの人には記憶力や判断力になんの問題もありませんという通知が届くらしい。
しかし高齢者講習は受けて下さいですが受講者人数多数のためご予約はお早めになるそうです。
次は51点から76点の方は少し認知症の疑いがありますので高齢者講習は長くなりますという事になるらしい。
50点以下の方は認知症の疑いがありますので医者の診断書が必要になります。
以上三分類になるそうです。
悪く言えばヤング兄ちゃんや姉ちゃんが運転免許証を欲しがらないので経営不振の巷の免許スクールの救済策のような気もするという事らしい。
かって三菱のトラックのタイヤが吹っ飛んで事故が多発したというキャンペーンが盛んに行われましたが何処やらに吸収された途端に事故が無くなって現在に至ると同じ感じなような気もする。
高齢者であってもなかなか急発進させて暴走させるのは至難の業で非常に難しい。
第一アクセルとペダルを踏み間違えるというような事は相当な阿保でも足の感触で区別出来るはず。
ここで書かれているようにチェンジをニュートラルにしていたら例えば交差点で対向車が突然突っ込んできた時どうやって瞬時に判断して逃げられるのでしょうか。
ペーパードライバーと違って運転経験が長くなれば当たり一面の情報収集は広いのが当たり前でどうやって退避するかは無意識にでも常に考えているはず。
それでも心配ならオートマをやめてマニュアル車に乗りかえたら更に安心で常に体を動かしているからボケーとして眠たくなることも無いでしょう。
でもって何処かの車の癖というか以前から問題になっているはずのエンジンさんの回転が急に上がるというクレームは現在なぜか日本では消えた。
しかし海外では未だに盛んでどうも集団訴訟にまで発展するらしい。
あちらさんでもオートマは怖いからやめてマニュアルに戻りましょうになっているらしい。
おまけで試験の問題には重みづけがあって得点の高い問題と低い問題とがある。
アナログ時計の図面に何時何分の秒針を書き込む。
数字が一杯書かれて図面内で例えば1と4と7と9とを斜線で消しなさい。
絵が描かれた書類をパット見せられてこれを記憶しなさい。
斜線で消しなさいの問題がこの間に入る。
以前見せた絵には猿が何匹いましたか、、、とか綺麗なおねーちゃんが何をしていましたとかの質問がくる。
同じくヒント付きの各種問題がくる。
とか現物見てないので詳細不明ですが記憶力優秀な官僚さんが考えるようなパターンになるようです。
例えば嫌でしょうがテレビのクイズ番組のパターンが非常に良く似ている気がするらしい。
頭のトレーニングで見たらいいと思いますよという事らしい。
それに頭のなかで2つか3つ位同時に動かして趣味レーションしたらいいのではありませんかね、、、?、、、のような気がする。
以上報告終わり お約束 簡単に信じる者は騙されるなので後は自己責任で調べる事。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/534.html#c3
『五体不満足』改め『一物大満足』の“彼”のコメントなんか要らない。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/541.html#c5
息臭いし、体臭酸っぱいので、どこかに行って!(笑)
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/515.html#c11
> 《生きててくれよ! 死にたくなるような世の中、やめたいんですよ》
— kaっちゃん/🍆\ (@katsmos) 2019年6月29日
その言葉にふれ、寄付を思い立った。これまで政治には関心がなかった。投票にすら行かなかったこともあるが、今は生活の苦しさをなんとか「政治」で変えたいと思っている。 https://t.co/7sdxF4rxgy
そうか、政治が変わらない理由はこれか。
— sunappi_z (@SunappiZ) 2019年6月29日
40代女性の言葉。
「あの頃どう生きてきたか。今となっては全然思い出せない。それくらい余裕がなくて、貧乏でした。世の中がどうのとか、政治がどうのとか、考える余裕は全くありませんでした」#れいわ #山本太郎https://t.co/Xtk90QauUX
山本太郎氏に異例の寄付金 なけなしのお金、託す理由は:朝日新聞デジタル https://t.co/FHPhhnqQCq
— 本件の特殊性に鑑み (@pristinanomine) 2019年6月29日
頭ごなしに色物と決めつけるのではなく、ちゃんと寄付した人の話を聞いて記事にしてる。こういう記事が読みたい。曽我豪のうわ言みたいな論説要らんし。
この50代男性と同じ思いで寄付した人、たくさんいるんだと思う。
— Kayachan太郎 (@Mr_Kayachan) 2019年6月29日
僕も、彼とは置かれているシチュエーションが違うけれども、その1人だ。
https://t.co/qR0fP4MT0V
“献金”って本来、そういうものだと思う。
“浄財”を生かせよ!タロー!!
これまでは山本氏のことが大嫌いだった。「脱原発」をくり返すだけのタレント政治家。単なる目立ちたがり。そんな風に思っていた。
— 桃林檎 (@pinpple) 2019年6月29日
でも……。
通帳の残高は5万円ほどしかなかったが、その中から1万円を寄付した。
山本太郎氏に異例の寄付金 なけなしのお金、託す理由https://t.co/6VGCi9KF3S
れいわ新選組に寄付した人びとを取材しています。ご協力いただいた皆様、本当にありがとうございます。参院選の最大の争点は、生活苦、格差、貧困です。 #れいわ新選組 #参院選 #山本太郎 https://t.co/XPw5W6Pu3Q
— 牧内昇平・朝日新聞 (@makiuchi_shohei) 2019年6月29日
山本太郎氏に異例の寄付金 なけなしのお金、託す理由は:朝日新聞デジタル https://t.co/dZLOH34tMD 2億円余の寄付を集めたれいわ新選組に寄付した人々を取材した記事。今まで政治に期待していなかった層に山本太郎の演説が響いているとのこと。
— 山下ゆ (@yamashitayu) 2019年6月29日
貧困生活のリアルが切ない。山本が、どんな人たちを引き寄せているかよくわかる #れいわ新選組 https://t.co/TlSEprSmNH
— ノード的 (@nodej001) 2019年6月29日
基地外を国会に続々と送り込んでる有権者ってどんな脳味噌の持ち主なんだろう。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/535.html#c5
ウケ狙いのつもりがダダスベリの失言って辞任した桜田前五輪相とかわらんやん!
— カメ吉 (@kamekichi0313) 2019年6月29日
安倍首相、大阪城にエレベーター設置は「大きなミス」 G20発言に「バリアフリーに逆行」と批判相次ぐ(J-CASTニュース) https://t.co/gl8HeemkzU
安倍が卑怯なのはこう言う自分の不始末を、税金からお金を払ってネトウヨに自分は間違ってないと必死に書かせる所。
— kurochilove (@kurochilove) 2019年6月29日
安倍首相、大阪城にエレベーター設置は「大きなミス」 G20発言に「バリアフリーに逆行」と批判相次ぐ(J-CASTニュース) https://t.co/rAPfz9vWlS
とにかく、誰でもが、普通の人でも、仮に社会的弱者でも、ちゃんと生きていける社会を作りたいですね。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/517.html#c39
隅から隅まで、100%賛同!
安倍を引きずり落とすだけじゃなく、“自民党”を解体しましょう‼
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/503.html#c50
安倍総理は国会議員を20年余り務めながら、バリアフリーの法的根拠である憲法13条(個人の尊厳尊重)を一ミリも知らなかった。国民の皆さんは一刻も早く、この恐るべき独裁者の正体に気付いて頂きたい。https://t.co/kmW8Hm91MA
— 小西ひろゆき (参議院議員) (@konishihiroyuki) 2019年6月29日
正直、まったくわかりません。
— 蓮舫・立憲民主党(りっけん) (@renho_sha) 2019年6月29日
なんで、各国首脳の前でわざわざエレベーターが問題との言及をされたのでしょうか。
ウケ狙い?まさか、とは思います。こんな発言で共感を呼ぶとの発想がわかりません。
大阪城エレベーター「大きなミス」 安倍首相発言が波紋 #SmartNews https://t.co/6O0Qvd2dKt
あの温厚な城郭考古学者の千田嘉博さんが「あまりにひどい」と憤るってことは、よっぽどなんだろうなぁ。
— 伊丹和弘@マリサポ兼記者 (@itami_k) 2019年6月29日
→ 大阪城エレベーター「大きなミス」 安倍首相発言が波紋https://t.co/RS5TuTROkF #G20大阪サミット
むしろジョークだから性質が悪い。歴史建造物の再建に当時にないものをつけるべきか否か、自分はない方がいい、って真剣な話ならそれは一聴に値するがその場の笑いのためだけにバリアフリーが必要な人を馬鹿にした。 / “大阪城エレベーター「大きなミス」 安倍首相発言が…” https://t.co/jrbyi664lp
— スーの総て(フランケンシュタインの怪物) (@susahadeth52623) 2019年6月29日
大阪城エレベーター「大きなミス」 安倍首相発言が波紋 #SmartNews
— SatsukiLala🏳️🌈 (@IWTW21) 2019年6月29日
この人の、こういうダサさ。
貴い人間ではない証左。
許し難い。 https://t.co/Pkf7Gp5AeV
https://t.co/NOmwqGZntZ
— Dr.サキ (@XKyuji) 2019年6月29日
G20の夕食会でアベさんは大阪城の歴史に触れ「…しかし一つだけ大きなミスを犯した。エレベーターまでつけてしまいました」と発言。笑いでもとるつもりだったのか。天守内の2基のうち1基は1997年「平成の大改修」で将来のバリアフリー化を意識したものだ。"恥を知りなさい"💢
安倍自民党は差別発言をすると
— 桐谷育雄 (@kiriyaikuo) 2019年6月29日
安倍に守られ気に入られた。
大阪城のエレベーターという
バリアフリーの大切な設備も
安倍には「大きなミス」
つい本音が出たのだろう。
ウケると信じて得意気に語った#恥を知りなさい
日本が差別を許さないなら
安倍はすぐに辞任なのにhttps://t.co/bOLyReJ956
「通帳の残高は5万円ほどしかなかったが、その中から1万円を寄付した。」
— 琥珀のダーリン (@kohakunodarling) 2019年6月29日
すがる思いで寄付したんでしょうね。同じように生活のためのお金を切り詰め寄付している人が沢山いると想像します。それを背負って腐った国政に切り込もうとしている山本太郎氏の覚悟を思うと、震える思いです。
安倍自民党は差別発言をすると
— 桐谷育雄 (@kiriyaikuo) 2019年6月29日
安倍に守られ気に入られた。
大阪城のエレベーターという
バリアフリーの大切な設備も
安倍には「大きなミス」
つい本音が出たのだろう。
ウケると信じて得意気に語った#恥を知りなさい
日本が差別を許さないなら
安倍はすぐに辞任なのにhttps://t.co/bOLyReJ956
言葉と言うものに、最も重要な認識は 「自分はどういうつもりで発したか」 なんて事はどうでもいい事
重要なのは 「相手にどう聞こえたか」 である 発する側の都合なんて何の問題にもならない
受け取る側の問題が最重要であり、ほとんどすべて こう言っても過言はない
だから 言葉と言うものは 慎重に選ばなければならない それが公人であればなおさらの事であるし
ましてや 一国の総理ともなればそれは 国家の命運をも左右しかねないくらい 神経を使った発言が要求される
● 日本という国は 障害者を疎かにする そういう国である そう認識されても仕方のない事である ●
一度でも 吐いた唾は呑み込めない これが解っていない馬鹿が 多すぎる。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/541.html#c12
確かに普通はそんな作業を深夜にしないよね。
やるとしたら、何か緊急事態が起きているということだ。
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/676.html#c87
事故の発生があれば年齢問わず公平に報道せよ、と言っても今の屁垂れマスごみ
では無理か? 高齢自動車安全運転機構とか新たな天下り組織を造る目論見でも
あるのか、何かの利権が蠢いているのは間違いないね。
高齢ドライバーの事故は20代より少ない 意外と知らないデータの真実
「16〜19歳」が傑出して多く、それに続くのが「20〜29歳」。その次に来るのが
「80歳以上」です。70代となると、他の年代とほとんど差はありません。
https://news.yahoo.co.jp/byline/mamoruichikawa/20161120-00064606/
年齢別統計データ
https://www.jijitsu.net/entry/koutsuujiko-koureisya-wakamono-toukei
↓ 54:00〜56:00 FFTV 福島の甲状腺がんはいま〜
https://www.youtube.com/watch?v=C0EuWCpHSUs
結論: 裁判は? 2021年まで、、10年間で、打ち切りだって、、💢
つまり、、弁護士と相談してね。 団結してね。。
なお、、御用弁護士:河合弘之 ←こいつ、日本共産党と結託ですね。ぺっ♪
なお、、地震配管破断、3号機核爆発、4号機プルト密造 ←忘れないでねー♪
なお、、東京都:水道水は? 石原慎太郎 ←責任だー♪あほ 長文省略 うさぎ♂
http://monitoring.tokyo-eiken.go.jp/mon_water_data.html ←蛇口
http://monitoring.tokyo-eiken.go.jp/mon_fallout_data.html ←死の灰
年間なら、、?? ばか
https://twitter.com/rankuulove/status/1144237515114606592
(双子のパパ)
あ、そういえば昨日韓国のKBSって言うTVが家に来て取材受けた!
人生初のピンマイク。 TVデビューが韓国になるなんて
誰が想像したことでしょう笑 お土産にシャーペン貰った笑
6:34 - 2019年6月27日
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/602.html#c83
と思い、正直期待していなかったのだが、どうやら望月さん中心というよりも腐った政権の半暴露映画のようではないか?
これなら、期待大。ストーリーは違うが、内調が国民を騙し世論誘導する点は「攻殻機動隊」のようでもある。現実にも、内調にゴウタの様な奴がいるんだね。
しかし、こんな嫌らしくも陰湿な工作活動を許す社会って何なんだ?週刊誌だけでなく、テレビで取り上げろテレビで!
安倍ならではの嫌らしさだな。
>これらの政治事件は本来であれば一つ一つが政権を覆すほどの大事件です。
当然そう思った。しかし、松本ひとしは「森友加計問題なんて安倍さん、ちょっと脇見運転しちゃった……」という軽い言葉で片付けてたな。
こうした民主主義の手続きの重要さのわからないバカどもが、安倍政権をことごとく助けてきた。
>年号が令和に変わろうが継続中であるべき大事件が一国のリーダーと6人の側近の“令”の元に官僚達はそれにひれ伏し、これら大事件を“うそ”と“だまし”で終りにしてしまったのは多くの国民は決して忘れはしないでしょう
いやいや終わりにはなっていないでしょ。まだまだこれからも追求されて黒90%(今は黒75%位か?)行けば政治的にアウトでしょう。
事業が失敗した等の個人的な恨みは何もないが、アンフェアで弱者切り捨て&税金の有り得ない無駄使い。民主主義の破壊。こんな最低なクズ政治家は前代未聞。責任を取って今すぐにでも政治家を辞めるべき。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/456.html#c30
あちこちヒビだらけ、ボロボロですが?
≪ボロボロ≫女川原発2号機にひび1130カ所「コンクリートの強度は
最悪建設時の3割」
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/330.html
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/680.html#c11
もちろん、
下僕公務員と準公務員で
カルト政党やカルト宗教政治団体や、
アベグル最高裁を含む裁判所判事や、
職権乱用を繰り返すアベ工作地検特捜ウ●コ部や、
憲法や法律を守らない、
普通の下僕公務員全員等です・・・カ!?
せっかくなので、全国民に関わる犯罪なので、
親族様にもご協力願って、
犯罪者撲滅をお願いしてください!
なお、親族様も共犯の度合いにより、
同様の処分もありです・・カ!?
ついでに、
なんかの会議でうろうろしている、
他国民殺害世界一の、
ポンコツ兵器在庫一掃金儲けで殺すアメ●カ国過激派や、
そのグル有志連合殺人国の責任者や、
ジャーナリスト監禁して殺●た
容疑者が跋扈していますが、
さすが、
アベ疑獄森友ルートもみ消しで何人も殺●た、
主犯●のいる都市で、
殺人罪洗浄しているんですカ??
とりあえず、他国民を殺害した皆様は、
罪を償わせてあげてください!
全世界の子供たちの教育に悪いので・・・
そして、何より・・
他国民をさらに、また自国民をも
91●テロテロ詐欺のように公衆の面前で、
殺害し始める前に・・
よろしくお願いします。
なあ三原よ安倍のいいとこを説明してみろよ。
マクロンが不人気であっても最低限の振る舞いは出来る。フランス国内でのロシア放送局によるプロパガンダはやめろとプーチンの目の前で言える。思想的主張をハッキリ言える様は安倍とは比較にならない。
落ち目の大統領よりも格段に情けない振る舞いの安倍。中身がないなら振る舞いくらいちゃんと出来ないのか?この人は。
日本でしか通用しない裸の王様っぷりだが、保守系安倍讚美ネットチャンネルも造反し出したから、いよいよ意味のない安倍持ち上げをしてきた様々な組織も目を覚まして安倍への反乱期に入ったか?任期の少ない奴に従ってもしょうがないと思われてきたか?
>>6
真面目に政策を勉強している議員も居るが
専門性の低い金魚の糞みたいな議員も少なからず居るな
ああいうのは国会から追い出した方が良いが
如何せん選択肢が少なすぎるので
目ぼしい候補が居なければ
棄権もありか、と思わなくもない
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/528.html#c8
歴史書には「うんこの安倍」と載るだろう。
他国女性重役を、罪を自ら作って
北朝鮮に学ぶ、拉致監禁、
誠に汚い営業妨害主犯格責任者で、カツ
国際法上許されない、武力で大量殺人恐喝脅迫を、
コレマタ、自ら犯罪をデッチアゲて行っている、
大量殺人謀議と未遂を繰り返す、
ナチスやオバ●やブッ●ュに学ぶ、
大量殺人虐殺犯罪責任者なので、
その国のヒトゴ●シ好きの主権者もどきの皆様・・・
この方々の、収監はまだですカ??
さっさとしてください!
全世界の皆様が迷惑しています!
このヒトゴ●シ、営業妨害、自国企業癒着贈収賄、カツ
他国の工作犯罪者から多額のお金をもらって政治している
某国他国民殺人の国家反逆罪の
責任者を●処理してください!
よろしくお願いします。
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/716.html#c3
ヒラリーは健康不安説が流れて
一部支持が流れた経緯があるから
健康か否かは強ち軽視出来ない
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/528.html#c10
今は真逆になっている。どれもこれも「欲」のせいである。
「欲」も程々ならプラスに作用するが、自己中で思いやりを持たずに行きすぎると安倍政権の様になる。
一種の刷り込みのようなものもある
多少著名な自民寄りの人間が一声それっぽく
述べただけで「そうだ」と相槌を打ちそうな
思考停止の国民ばかりだしね
障害者であることはあまりポイントにならないだろうな
最初の方でも述べたように刷り込みのようなものがある
あと国民の間で障害者忌諱する動きがある
ただ障碍者自身が動くのは大正解
動けば動くほど印象次第で敗れれば敗れるほど
その傷ついた姿が民衆の心を打つようになる
ほぼ確実にね それが見えない化していると
知らぬ存ぜず、になる 尤も主張それ自体が
陰謀論的(病的)ならば一向に民衆の心は打たないだろう
飽く迄も「誠実」が大事 また政党の主張に
少し角があれど常識的なことを述べるのも大事
所謂「人間味」そこに専門性が
加わるなら言うまでもない
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/528.html#c11
大量破壊兵器ではなくて、
大量殺●惨殺国の
某アメ●カ国のヒトゴ●シ好きで、
悪質な営業妨害国で、
女性重役を拉致監禁中で、
武力で恐喝脅迫し、
他国大量殺人を思いとどまった詐欺している、
主権者の皆様にお伝えください!
「公権力で殺したお前たちは、モウ、終わりだ!!」
と、
全世界の平和を愛する皆様、
よろしくお願いします。
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/715.html#c6
A『 統計不正問題』の時は予算委員会を119日も開かず無視した。
B 『党首討論』においては、4党首合わせて、たったの40分では討論になりません。
とても、とても、民主主義の国会運営とは思えません。
これだけ国民を愚弄した国会運営を許せません。
『あべ政治を許さない』
『あべ政治を許さない』
『あべ政治を許さない』
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/529.html#c6
それはそうとアメリカの下院選挙では
理系(前職:大学教授・科学者・研究員)の民主党議員が
結構当選して記事化もなされていたが
日本ではそういう動きはないのか?
日頃テレビやネットメディアで安倍政権に
苦言を呈したり批判を展開している評論家や
大学教授は結構居るが今回もまた見送りか?
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/528.html#c12
久しぶりです。賛同ありがとうございます。
ええ、安倍は最悪だが自民も全体的に酷いですからね。安倍にずっと総理をやらせている自民全体の罪も大きい。
あと公明、維新のクソ共もまとめてぶっ倒しましょう!
まあ?見方を変えれば積極的な理系ほど
怖い物もないと思うがね
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/528.html#c13
長浜浩明の神武天皇即位 紀元前70年説は間違い
古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3
カスタマーレビュー
hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日
日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。
ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。
日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。
○1章への反論
筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。
「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。
よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。
余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。
そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。
○2章への補足
筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。
私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。
「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。
○5章への反論
本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。
しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。
▲△▽▼
日本書紀(現代語訳・口語訳の全文)
太歳甲寅11月〜戊午年春3月
https://nihonsinwa.com/page/859.html
原文
十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫国岡水門。
十有二月丙辰朔壬午、至安藝国、居于埃宮。
乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備国、起行館宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。
戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速国、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。
三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內国草香邑雲白肩之津。
現代語訳
太歳甲寅11月
11月の9日に神武天皇は筑紫国(ツクシノクニ)の岡水門(オカノミナト=福岡県遠賀郡の遠賀川河口)に到着しました。
太歳甲寅12月
12月の27日に安芸国の埃宮(エノミヤ=広島県府中町)に滞在しました。
乙卯年春3月
乙卯年(キノトウノトシ)の春三月の6日に吉備国(キビノクニ)に入り、行館(カリミヤ=仮宮)を作って滞在しました。これを高嶋宮(タカシマノミヤ)といいます。三年滞在している間に、船を揃え、兵食(カテ)を備え、ひとたび兵を挙げて天下(アメノシタ)を平定しようと神武天皇は思っていました。
戊午年春2月
戊午年(ツチノエウマノトシ)の春2月の11日。皇師(ミイクサ)はついに東へと向かいました。舳艫(ジクロ=船首と船尾)がぶつかり合うほどに沢山の船団でした。難波之碕(ナニワノサキ)に到着すると、潮が速いところがあった。それでこの場所を浪速国(ナミハヤノクニ)といいます。また浪花(ナミハナ)といいます。今、難波と呼ばれるのはこれらが訛ったものです。
訛は與許奈磨盧(ヨコナマル)と読みます。
戊午年春3月
三月の10日。流れを遡(サカノボ)って、河内国(カワチノクニ)草香邑(クサカムラ)雲(アオクモ)白肩之津(シラカタノツ)に到着しました。
https://nihonsinwa.com/page/859.html
▲△▽▼
日本書紀(原文) 日本書紀巻03/神武天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html
~日本磐余彥天皇 ~武天皇
~日本磐余彥天皇、諱彥火火出見、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。母曰玉依姬、海童之少女也。天皇生而明達、意礭如也、年十五立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命。
及年卌五歲、謂諸兄及子等曰「昔我天~、高皇産靈尊・大日孁尊、舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊。於是火瓊々杵尊、闢天關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考、乃~乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」諸皇子對曰「理實灼然、我亦恆以爲念。宜早行之。」是年也、太歲甲寅。
其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時有一漁人乘艇而至、天皇招之、因問曰「汝誰也。」對曰「臣是國~、名曰珍彥、釣魚於曲浦。聞天~子來、故卽奉迎。」又問之曰「汝能爲我導耶。」對曰「導之矣。」天皇、勅授漁人椎㰏末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彥椎、此云辭毗、此卽倭直部始祖也。行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也、此云宇佐。時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。
十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。
十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。
乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備國、起行宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。
戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速國、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。
三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內國草香邑雲白肩之津。
夏四月丙申朔甲辰、皇師勒兵、步趣龍田。而其路狹嶮、人不得並行、乃還更欲東踰膽駒山而入中洲。時、長髄彥聞之曰「夫天~子等所以來者、必將奪我國。」則盡起屬兵、徼之於孔舍衞坂、與之會戰。有流矢、中五瀬命肱脛。皇師不能進戰、天皇憂之、乃運~策於沖衿曰「今我是日~子孫而向日征虜、此逆天道也。不若、退還示弱、禮祭~祇、背負日~之威、隨影壓躡。如此、則曾不血刃、虜必自敗矣。」僉曰「然。」於是、令軍中曰「且停、勿須復進。」乃引軍還。虜亦不敢逼、却至草香之津、植盾而爲雄誥焉。雄誥、此云烏多鶏縻。因改號其津曰盾津、今云蓼津訛也。初、孔舍衞之戰、有人隱於大樹而得兔難、仍指其樹曰「恩如母。」時人、因號其地曰母木邑、今云飫悶廼奇訛也。
五月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門。亦名山井水門。茅淳、此云智怒。時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰撫劒、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢「慨哉、大丈夫慨哉、此云宇黎多棄伽夜被傷於虜手、將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山。
六月乙未朔丁巳、軍至名草邑、則誅名草戸畔者。戸畔、此云妬鼙。遂越狹野而到熊野~邑、且登天磐盾、仍引軍漸進。海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天~、母則海~。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲鋤持~。三毛入野命、亦恨之曰「我母及姨並是海~。何爲起波瀾、以灌溺乎。」則蹈浪秀而往乎常世ク矣。
天皇獨與皇子手硏耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津亦名丹敷浦、因誅丹敷戸畔者。時、~吐毒氣、人物咸瘁、由是、皇軍不能復振。時彼處有人、號曰熊野高倉下、忽夜夢、天照大~謂武甕雷~曰「夫葦原中國猶聞喧擾之響焉。聞喧擾之響焉、此云左揶霓利奈離。宜汝更往而征之。」武甕雷~對曰「雖予不行、而下予平國之劒、則國將自平矣。」天照大~曰「諾。諾、此云宇毎那利。」時武甕雷~、登謂高倉下曰「予劒號曰韴靈。韴靈、此云赴屠能瀰哆磨。今當置汝庫裏。宜取而獻之天孫。」高倉下曰「唯々」而寤之。明旦、依夢中教、開庫視之、果有落劒倒立於庫底板、卽取以進之。
于時、天皇適寐。忽然而寤之曰「予何長眠若此乎。」尋而中毒士卒、悉復醒起。既而皇師、欲趣中洲、而山中嶮絶、無復可行之路、乃棲遑不知其所跋渉。時夜夢、天照大~訓于天皇曰「朕今遣頭八咫烏、宜以爲ク導者。」果有頭八咫烏、自空翔降。天皇曰「此烏之來、自叶祥夢。大哉、赫矣、我皇祖天照大~、欲以助成基業乎。」是時、大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目、督將元戎、蹈山啓行、乃尋烏所向、仰視而追之。遂達于菟田下縣、因號其所至之處、曰菟田穿邑。穿邑、此云于介知能務羅。于時、勅譽日臣命曰「汝忠而且勇、加能有導之功。是以、改汝名爲道臣。」
秋八月甲午朔乙未、天皇使徵兄猾及弟猾者。猾、此云字介志。是兩人、菟田縣之魁帥者也。魁帥、此云比ケ誤廼伽瀰。時、兄猾不來、弟猾卽詣至、因拜軍門而告之曰「臣兄々猾之爲逆狀也、聞天孫且到、卽起兵將襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潛伏其兵、權作新宮而殿內施機、欲因請饗以作難。願知此詐、善爲之備。」天皇卽遣道臣命、察其逆狀。時道臣命、審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰「虜、爾所造屋、爾自居之。」爾、此云飫例。因案劒彎弓、逼令催入。兄猾、獲罪於天、事無所辭、乃自蹈機而壓死、時陳其屍而斬之、流血沒踝、故號其地、曰菟田血原。已而弟猾大設牛酒、以勞饗皇師焉。天皇以其酒宍、班賜軍卒、乃爲御謠之曰、謠、此云宇哆預瀰。
于儾能多伽機珥 辭藝和奈陂蘆 和餓末菟夜 辭藝破佐夜羅孺 伊殊區波辭 區旎羅佐夜離 固奈瀰餓 那居波佐麼 多智曾麼能 未廼那鶏句塢 居氣辭被惠禰 宇破奈利餓 那居波佐麼 伊智佐介幾 未廼於朋鶏句塢 居氣儾被惠禰
是謂來目歌。今樂府奏此歌者、猶有手量大小、及音聲巨細、此古之遺式也。是後、天皇欲省吉野之地、乃從菟田穿邑、親率輕兵巡幸焉。至吉野時、有人出自井中、光而有尾。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是國~、名爲井光。」此則吉野首部始祖也。更少進、亦有尾而披磐石而出者。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是磐排別之子。」排別、此云飫時和句。此則吉野國樔部始祖也。及緣水西行、亦有作梁取魚者。梁、此云揶奈。天皇問之、對曰「臣是苞苴擔之子。」苞苴擔、此云珥倍毛菟。此則阿太養鸕部始祖也。
九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。時、國見丘上則有八十梟帥梟帥、此云多稽屢、又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置焃炭。其女坂・男坂・墨坂之號、由此而起也。復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。磯、此云志。賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通。天皇惡之、是夜自祈而寢、夢有天~訓之曰「宜取天香山社中土香山、此云介遇夜摩以造天平瓮八十枚平瓮、此云毗邏介幷造嚴瓮而敬祭天~地祇嚴瓮、此云怡途背、亦爲嚴呪詛。如此、則虜自平伏。」嚴呪詛、此云怡途能伽辭離。
天皇、祇承夢訓、依以將行、時弟猾又奏曰「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑或本云、葛城邑也、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、臣竊爲天皇憂之。宜今當取天香山埴、以造天平瓮而祭天社國社之~、然後擊虜則易除也。」天皇、既以夢辭爲吉兆、及聞弟猾之言、u喜於懷。乃使椎根津彥、著弊衣服及蓑笠、爲老父貌、又使弟猾被箕、爲老嫗貌、而勅之曰「宜汝二人到天香山潛取其巓土而可來旋矣。基業成否、當以汝爲占。努力愼歟。」
是時、虜兵滿路、難以往還。時、椎根津彥、乃祈之曰「我皇當能定此國者行路自通、如不能者賊必防禦。」言訖徑去。時、群虜見二人、大咲之曰「大醜乎大醜、此云鞅奈瀰爾句老父老嫗。」則相與闢道使行、二人得至其山、取土來歸。於是、天皇甚ス、乃以此埴、造作八十平瓮・天手抉八十枚手抉、此云多衢餌離嚴瓮、而陟于丹生川上、用祭天~地祇。則於彼菟田川之朝原、譬如水沫而有所呪著也。天皇又因祈之曰「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。又祈之曰「吾今當以嚴瓮、沈于丹生之川。如魚無大小悉醉而流、譬猶范t之浮流者艨A此云磨紀、吾必能定此國。如其不爾、終無所成。」乃沈瓮於川、其口向下、頃之魚皆浮出、隨水噞喁。
時、椎根津彥、見而奏之。天皇大喜、乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹、以祭諸~。自此始有嚴瓮之置也。時勅道臣命「今、以高皇産靈尊、朕親作顯齋。顯齋、此云于圖詩怡破毗。用汝爲齋主、授以嚴媛之號。而名其所置埴瓮爲嚴瓮、又火名爲嚴香來雷、水名爲嚴罔象女罔象女、此云瀰菟破廼迷、糧名爲嚴稻魂女稻魂女、此云于伽能迷、薪名爲嚴山雷、草名爲嚴野椎。」
冬十月癸巳朔、天皇嘗其嚴瓮之粮、勒兵而出。先擊八十梟帥於國見丘、破斬之。是役也、天皇志存必克、乃爲御謠之曰、
伽牟伽筮能 伊齊能于瀰能 於費異之珥夜 異波臂茂等倍屢 之多儾瀰能 之多儾瀰能 阿誤豫 阿誤豫 之多太瀰能 異波比茂等倍離 于智弖之夜莽務 于智弖之夜莽務
謠意、以大石喩其國見丘也。既而餘黨猶繁、其情難測、乃顧勅道臣命「汝、宜帥大來目部、作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜而取之。」道臣命、於是奉密旨、掘窨於忍坂而選我猛卒、與虜雜居、陰期之曰「酒酣之後、吾則起歌。汝等聞吾歌聲、則一時刺虜。」已而坐定酒行、虜不知我之有陰謀、任情徑醉。時道臣命、乃起而歌之曰、
於佐箇廼 於朋務露夜珥 比苔瑳破而 異離烏利苔毛 比苔瑳破而 枳伊離烏利苔毛 瀰都瀰都志 倶梅能固邏餓 勾騖都都伊 異志都々伊毛智 于智弖之夜莽務
時、我卒聞歌、倶拔其頭椎劒、一時殺虜、虜無復噍類者。皇軍大ス、仰天而咲、因歌之曰、
伊莽波豫 伊莽波豫 阿阿時夜塢 伊莽儾而毛 阿誤豫 伊莽儾而毛 阿誤豫
今、來目部歌而後大哂、是其緣也。又歌之曰、
愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒
此皆承密旨而歌之、非敢自專者也。時天皇曰「戰勝而無驕者、良將之行也。今魁賊已滅、而同惡者、匈々十數群、其情不可知。如何久居一處、無以制變。」乃徙營於別處。
十有一月癸亥朔己巳、皇師大舉、將攻磯城彥。先遣使者徵兄磯城、兄磯城不承命。更遺頭八咫烏召之、時烏到其營而鳴之曰「天~子召汝。怡奘過、怡奘過。過、音倭。」兄磯城忿之曰「聞天壓~至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。壓、此云飫蒭。」乃彎弓射之、烏卽避去、次到弟磯城宅而鳴之曰「天~子召汝。怡奘過、怡奘過。」時弟磯城惵然改容曰「臣聞天壓~至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。」卽作葉盤八枚、盛食饗之。葉盤、此云毗羅耐。因以隨烏、詣到而告之曰「吾兄々磯城、聞天~子來、則聚八十梟帥、具兵甲、將與決戰。可早圖之。」
天皇乃會諸將、問之曰「今、兄磯城、果有逆賊之意、召亦不來。爲之奈何。」諸將曰「兄磯城、黠賊也。宜先遣弟磯城曉喩之幷說兄倉下・弟倉下。如遂不歸順、然後舉兵臨之、亦未晩也。倉下、此云衢羅餌。」乃使弟磯城、開示利害。而兄磯城等猶守愚謀、不肯承伏。時、椎根津彥、計之曰「今者宜先遣我女軍、出自忍坂道。虜見之必盡鋭而赴。吾則駈馳勁卒、直指墨坂、取菟田川水、以灌其炭火、儵忽之間出其不意、則破之必也。」天皇善其策、乃出女軍以臨之。虜謂大兵已至、畢力相待。先是、皇軍攻必取、戰必勝、而介胃之士、不無疲弊。故、聊爲御謠、以慰將卒之心焉、謠曰、
哆々奈梅弖 伊那瑳能椰摩能 虛能莽由毛 易喩耆摩毛羅毗 多多介陪麼 和例破椰隈怒 之摩途等利 宇介譬餓等茂 伊莽輸開珥虛禰
果以男軍越墨坂、從後夾擊破之、斬其梟帥兄磯城等。
十有二月癸巳朔丙申、皇師遂擊長髄彥、連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷、乃有金色靈鵄、飛來止于皇弓之弭、其鵄光曄U、狀如流電。由是、長髄彥軍卒皆迷眩、不復力戰。長髄、是邑之本號焉、因亦以爲人名。及皇軍之得鵄瑞也、時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也。昔孔舍衞之戰、五瀬命中矢而薨、天皇銜之、常懷憤懟、至此役也、意欲窮誅、乃爲御謠之曰、
瀰都瀰都志 倶梅能故邏餓 介耆茂等珥 阿波赴珥破 介瀰羅毗苔茂苔 曾廼餓毛苔 曾禰梅屠那藝弖 于笞弖之夜莽務
又謠之曰、
瀰都々々志 倶梅能故邏餓 介耆茂等珥 宇惠志破餌介瀰 句致弭比倶 和例破涴輸例儒 于智弖之夜莽務
因復縱兵忽攻之、凡諸御謠、皆謂來目歌、此的取歌者而名之也。時、長髄彥乃遣行人、言於天皇曰「嘗有天~之子、乘天磐船、自天降止、號曰櫛玉饒速日命。饒速日、此云儞藝波揶卑。是娶吾妹三炊屋媛亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛遂有兒息、名曰可美眞手命。可美眞手、此云于魔詩莽耐。故、吾以饒速日命、爲君而奉焉。夫天~之子、豈有兩種乎、奈何更稱天~子、以奪人地乎。吾心推之、未必爲信。」天皇曰「天~子亦多耳。汝所爲君、是實天~之子者、必有表物。可相示之。」
長髄彥、卽取饒速日命之天羽々矢一隻及步靫、以奉示天皇。天皇覽之曰「事不虛也。」還以所御天羽々矢一隻及步靫、賜示於長髄彥。長髄彥、見其天表、u懷踧踖、然而凶器已構、其勢不得中休、而猶守迷圖、無復改意。饒速日命、本知天~慇懃唯天孫是與、且見夫長髄彥禀性愎佷、不可教以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉。天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。
己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。丘岬、此云塢介佐棄。又和珥坂下、有居勢祝者。坂下、此云瑳伽梅苔。臍見長柄丘岬、有猪祝者。此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。天皇乃分遺偏師、皆誅之。又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。夫磐余之地、舊名片居片居、此云伽哆韋、亦曰片立片立、此云伽哆哆知、逮我皇師之破虜也、大軍集而滿於其地、因改號爲磐余。
或曰「天皇、往嘗嚴瓮粮、出軍西征、是時、磯城八十梟帥、於彼處屯聚居之。屯聚居、此云怡波瀰萎。果與天皇大戰、遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。」又皇師立誥之處、是謂猛田。作城處、號曰城田。又賊衆戰死而僵屍、枕臂處、呼爲頰枕田。天皇、以前年秋九月、潛取天香山之埴土、以造八十平瓮、躬自齋戒祭諸~、遂得安定區宇、故號取土之處、曰埴安。
三月辛酉朔丁卯、下令曰「自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未C餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授國之コ、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之。」
是月、卽命有司、經始帝宅。
庚申年秋八月癸丑朔戊辰、天皇當立正妃、改廣求華胄、時有人奏之曰「事代主~、共三嶋溝橛耳~之女玉櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。是國色之秀者。」天皇ス之。九月壬午朔乙巳、納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。
辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后、生皇子~八井命・~渟名川耳尊。故古語稱之曰「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰~日本磐余彥火々出見天皇焉。」初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。
二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞。賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彥爲倭國造。珍彥、此云于砮毗故。又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名K速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城國造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。
四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天~、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天~焉。
卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。姸哉、此云鞅奈珥夜。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉。」由是、始有秋津洲之號也。昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。秀眞國、此云袍圖莽句爾。」復、大己貴大~目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是ク而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」
卌有二年春正月壬子朔甲寅、立皇子~渟名川耳尊、爲皇太子。
七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七歲。明年秋九月乙卯朔丙寅、葬畝傍山東北陵。
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古事記 中の卷 神武東征
大和国造の先祖サオネツヒコ
https://nihonsinwa.com/page/404.html
原文の読み下し文
また「従ひて仕へ奉らむや」と問ひたまへば、「仕へ奉らむ」と答へ曰しき。かれここに、槁機を指し渡し、その御船に引き入れて、即ち、名を賜ひて槁根津日子と号けたまひき。こは倭国造等の祖なり。
現代語訳
その亀に乗って釣りをしていた人に
「わたしたちに従い、仕えないか?」
と尋ねると
「お仕えしましょう」
と答えました。
その人に槁機(=竿)を差し渡して、兄弟神の船へと引き入れました。
そして槁根津日子(サオネツヒコ)という名前を授けました。
この人は倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)などの先祖です。
日本書紀の対応箇所
太歳甲寅冬十月−1 椎の木の竿の先を渡して
https://nihonsinwa.com/page/855.html
那賀須泥毘古との戦い
https://nihonsinwa.com/page/405.html
原文の読み下し文
故、その国より上り行でましし時、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき。この時、登美の那賀須泥毘古、軍を興して待ち向へて戦ひき。
現代語訳
その国から出発して東へと向かいました。
浪速の渡(ナミハヤノワタリ)を通って白肩津(シラカタノツ)に船を泊めました。
そのときに、登美(トミ)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が兵を集めて待ち受けていて、戦争になりました。
https://nihonsinwa.com/page/405.html
盾を取り出して戦いました
https://nihonsinwa.com/page/406.html
原文の読み下し文
ここに御船に入れたる楯を取りて下り立ちたまひき。故、其地を号けて楯津といひき。今に日下の蓼津と云ふ。
現代語訳
那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が戦いを挑んできたので、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ命)と五瀬命(イツセ命)は船から「盾」を取り出して船から下りて戦いました。その土地を名付けて盾津(=タテツ)といいます。現在は日下の蓼津(タデツ)といいます。
日本書紀の対応箇所
戊午年夏四月 退却の判断
https://nihonsinwa.com/page/863.html
手痛い矢を受けるイツセ命
https://nihonsinwa.com/page/407.html
原文の読み下し文
ここに登美毘古と戦ひたまひし時に、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串を負ひたまひき。かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賎しき奴が痛手を負ひぬ。今より行き廻りて背に日を負ひて撃たむ」と期りて、南の方より廻り幸でましし時、血沼海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。故、血沼海といふ。
現代語訳
登美毘古(トミビコ=ナガスネヒコ)と戦ったとき、
五瀬命(イツセ命)は手に登美毘古の痛矢串(イタヤグシ=矢を受けた傷)を負いました。
傷を受けたとき、五瀬命(イツセ命)は言いました。
「わたしは日の神の皇子なのに
日に向かって戦ってしまった。
これは良くなかった。
だから、卑しい奴に痛手を負わされた。
これからは回り道をして、太陽を背にして戦おう」
と誓い、南から回って血沼海に到着して
その手の血を洗いました。
それで「血沼海(チヌノウミ)」と呼ぶようになりました。
日本書紀の対応箇所
戊午年夏四月 退却の判断
https://nihonsinwa.com/page/863.html
五月丙寅朔癸酉 五瀬命の雄叫びと死
https://nihonsinwa.com/page/903.html
紀伊国の男乃水門で死亡
https://nihonsinwa.com/page/903.html
原文の読み下し文
其地より廻り幸でまして、紀国の男之水門に到りて詔りたまはく、「賎しき奴が手を負ひてや死なむ」と男建びして崩りましき。故、その水門を号けて男の水門と謂ふ。陵は紀国の竈山にあり。
現代語訳
その地(地沼海)から更に回って、紀伊国の男乃水門(オノミナト)に着いて言いました。
「卑しい奴によって、手に傷を負って、死ねるか!」
と雄雄しく振舞いましたが、
死んでしまいました。
その水門(ミナト=港)を名づけて男乃水門(オノミナト)というようになりました。イツセ命の墓は紀伊の国の竈山(カマヤマ)にあります。
日本書紀の対応箇所
戊午年夏四月 退却の判断
https://nihonsinwa.com/page/863.html
五月丙寅朔癸酉 五瀬命の雄叫びと死
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古事記 中巻-1/神武天皇〜開化天皇 原文
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html
~倭伊波禮毘古命自伊下五字以音與其伊呂兄五瀬命伊呂二字以音二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。
亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。自多下三字以音。亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國~。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。
故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古自登下九字以音興軍待向以戰、爾取所入御船之楯而下立、故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。故爾詔「吾者爲日~之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」期而、自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。從其地廻幸、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。
故、~倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時、大熊髮出入卽失。爾~倭伊波禮毘古命、倐忽爲遠延、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以音。此時、熊野之高倉下此者人名賷一横刀、到於天~御子之伏地而獻之時、天~御子卽寤起、詔「長寢乎。」故、受取其横刀之時、其熊野山之荒~、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍、悉寤起之。
故、天~御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰「己夢云、天照大~・高木~二柱~之命以、召建御雷~而詔『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐良志此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷~可降。』爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都~、亦名云甕布都~、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上~宮也。降此刀狀者、穿高倉下之倉頂、自其墮入。故、阿佐米余玖自阿下五字以音汝取持、獻天~御子。』故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而獻耳。」
於是亦、高木大~之命以覺白之「天~御子、自此於奧方莫使入幸。荒~甚多。今、自天遣八咫烏、故其八咫烏引道、從其立後應幸行。」故隨其教覺、從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時、作筌有取魚人。爾天~御子、問「汝者誰也。」答曰「僕者國~、名謂贄持之子。」此者阿陀之鵜飼之祖。從其地幸行者、生尾人、自井出來、其井有光。爾問「汝誰也。」答曰「僕者國~、名謂井氷鹿。」此者吉野首等祖也。卽入其山之、亦遇生尾人、此人押分巖而出來。爾問「汝者誰也。」答曰「僕者國~、名謂石押分之子。今聞天~御子幸行、故參向耳。」此者吉野國巢之祖。自其地蹈穿越幸宇陀、故曰宇陀之穿也。
故爾、於宇陀有兄宇迦斯自宇以下三字以音、下效此也弟宇迦斯二人。故先遣八咫烏問二人曰「今天~御子幸行。汝等仕奉乎。」於是兄宇迦斯、以鳴鏑待射返其使、故其鳴鏑所落之地、謂訶夫羅前也。將待擊云而聚軍、然不得聚軍者、欺陽仕奉而、作大殿、於其殿內作押機、待時。弟宇迦斯先參向、拜曰「僕兄・兄宇迦斯、射返天~御子之使、將爲待攻而聚軍、不得聚者、作殿其內張押機、將待取。故、參向顯白。」
爾大伴連等之祖・道臣命、久米直等之祖・大久米命、二人、召兄宇迦斯罵詈云「伊賀此二字以音所作仕奉於大殿內者、意禮此二字以音先入、明白其將爲仕奉之狀。」而、卽握横刀之手上、矛由氣此二字以音矢刺而、追入之時、乃己所作押見打而死。爾卽控出斬散、故其地謂宇陀之血原也。然而其弟宇迦斯之獻大饗者、悉賜其御軍、此時歌曰、
宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊能碁布曾。此五字以音。阿阿音引志夜胡志夜 此者嘲咲者也。
故、其弟宇迦斯、此者宇陀水取等之祖也。
自其地幸行、到忍坂大室之時、生尾土雲訓云具毛八十建、在其室待伊那流。此三字以音。故爾、天~御子之命以、饗賜八十建、於是宛八十建、設八十膳夫、毎人佩刀、誨其膳夫等曰「聞歌之者、一時共斬。」故、明將打其土雲之歌曰、
意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯
如此歌而、拔刀一時打殺也。
然後、將擊登美毘古之時、歌曰、
美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟
又歌曰、
美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟
又歌曰、
加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟
又擊兄師木・弟師木之時、御軍暫疲、爾歌曰、
多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇上加比賀登母 伊麻須氣爾許泥
故爾、邇藝速日命參赴、白於天~御子「聞天~御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。
故、如此言向平和荒夫琉~等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。
故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比賣自阿以下五字以音生子、多藝志美美命、次岐須美美命、二柱坐也。然更求爲大后之美人時、大久米命曰「此間有媛女、是謂~御子。其所以謂~御子者、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、其容姿麗美。故、美和之大物主~見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。此二字以音。下效此。爾其美人驚而、立走伊須須岐伎此五字以音、乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、卽娶其美人生子、名謂富登多多良伊須須岐比賣命、亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣。是者惡其富登云事、後改名者也。故、是以謂~御子也。」
於是七媛女、遊行於高佐士野佐士二字以音、伊須氣余理比賣在其中。爾大久米命、見其伊須氣余理比賣而、以歌白於天皇曰、
夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟
爾伊須氣余理比賣者、立其媛女等之前。乃天皇見其媛女等而、御心知伊須氣余理比賣立於最前、以歌答曰、
加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟
爾大久米命、以天皇之命、詔其伊須氣余理比賣之時、見其大久米命黥利目而、思奇歌曰、
阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米
爾大久米命、答歌曰、
袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米
故、其孃子、白之「仕奉也。」於是其伊須氣余理比賣命之家、在狹井河之上。天皇幸行其伊須氣余理比賣之許、一宿御寢坐也。其河謂佐韋河由者、於其河邊山由理草多在。故、取其山由理草之名、號佐韋河也。山由理草之本名云佐韋也。後、其伊須氣余理比賣、參入宮內之時、天皇御歌曰、
阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯
然而阿禮坐之御子名、日子八井命、次~八井耳命、次~沼河耳命、三柱。
故、天皇崩後、其庶兄當藝志美美命、娶其嫡后伊須氣余理比賣之時、將殺其三弟而謀之間、其御祖伊須氣余理比賣患苦而、以歌令知其御子等、歌曰、
佐韋賀波用 久毛多知和多理 宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須
又歌曰、
宇泥備夜麻 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流
於是其御子聞知而驚、乃爲將殺當藝志美美之時、~沼河耳命、曰其兄~八井耳命「那泥此二字以音汝命、持兵入而、殺當藝志美美。」故、持兵入以將殺之時、手足和那那岐弖此五字以音不得殺。故爾其弟~沼河耳命、乞取其兄所持之兵、入、殺當藝志美美。故亦稱其御名、謂建沼河耳命。
爾~八井命、讓弟建沼河耳命曰「吾者不能殺仇。汝命既得殺仇。故、吾雖兄不宜爲上、是以汝命爲上治天下、僕者扶汝命、爲忌人而仕奉也。」故、其日子八井命者、茨田連、手嶋連之祖。~八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也。~沼河耳命者、治天下也。
凡此~倭伊波禮毘古天皇御年、壹佰參拾漆歲。御陵在畝火山之北方白檮尾上也。
~沼河耳命、坐葛城高岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・河俣毘賣、生御子、師木津日子玉手見命。一柱天皇御年、肆拾伍歲。御陵在衝田岡也。
師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮、治天下也。此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女・阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命自伊下三字以音、次大倭日子鉏友命、次師木津日子命。此天皇之御子等、幷三柱之中、大倭日子鉏友命者、治天下也。次師木津日子命之子、二王坐、一子孫者伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置之祖、一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。天皇御年、肆拾玖歲。御陵在畝火山之美富登也。
大倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命自訶下四字以音、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。次當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖。天皇御年、肆拾伍歲、御陵在畝火山之眞名子谷上也。
御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也。
大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子賦斗邇命。二柱。自賦下三字以音。故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。天皇御年、壹佰貳拾參歲、御陵在玉手岡上也。
大倭根子日子賦斗邇命、坐K田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之祖大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱。此天皇之御子等、幷八柱。男王五、女王三。
故、大倭根子日子國玖琉命者、治天下也。大吉備津日子命與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口、以言向和吉備國也。故、此大吉備津日子命者、吉備上道臣之祖也。次若日子建吉備津日子命者、吉備下道臣、笠臣祖。次日子寤間命者、針間牛鹿臣之祖也。次日子刺肩別命者、高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿海直之祖也。天皇御年、壹佰陸歲。御陵在片岡馬坂上也。
大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命色許二字以音、下效此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。自比至都以音。又娶河內青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命、自比至士六字以音。此者膳臣之祖也。
比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣那毘二字以音、生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。又娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。
此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。
此天皇御年、伍拾漆歲。御陵在劒池之中岡上也。
若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。此天皇、娶旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣、生御子、比古由牟須美命。一柱。此王名以音。又娶庶母・伊迦賀色許賣命、生御子、御眞木入日子印惠命印惠二字以音、次御眞津比賣命。二柱。又娶丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命意祁都三字以音、生御子、日子坐王。一柱。又娶葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣、生御子、建豐波豆羅和氣。一柱。自波下五字以音。此天皇之御子等、幷五柱。男王四、女王一。故、御眞木入日子印惠命者、治天下也。
其兄・比古由牟須美王之子、大筒木垂根王、次讚岐垂根王。二王。讚岐二字以音。此二王之女、五柱坐也。
次日子坐王、娶山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨此一字以音生子、大俣王、次小俣王、次志夫美宿禰王。三柱。又娶春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣、生子、沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘賣命・亦名佐波遲比賣此沙本毘賣命者、爲伊久米天皇之后。自沙本毘古以下三王名皆以音、次室毘古王。四柱。又娶近淡海之御上祝以伊都玖此三字以音天之御影~之女・息長水依比賣、生子、丹波比古多多須美知能宇斯王此王名以音、次水之穗眞若王、次~大根王・亦名八瓜入日子王、次水穗五百依比賣、次御井津比賣。五柱又娶其母弟・袁祁都比賣命、生子、山代之大筒木眞若王、次比古意須王、次伊理泥王。三柱。此二王名以音。凡日子坐王之子、幷十一王。
故、兄大俣王之子、曙立王、次菟上王。二柱。此曙立王者、伊勢之品遲部君、伊勢之佐那造之祖。菟上王者、比賣陀君之祖。次小俣王者、當麻勾君之祖。次志夫美宿禰王者、佐佐君之祖也。次沙本毘古王者、日下部連、甲斐國造之祖。次袁邪本王者、葛野之別、近淡海蚊野之別祖也。次室毘古王者、若狹之耳別之祖。
其美知能宇志王、娶丹波之河上之摩須郎女、生子、比婆須比賣命、次眞砥野比賣命、次弟比賣命、次朝廷別王。四柱。此朝廷別王者、三川之穗別之祖。此美知能宇斯王之弟、水穗眞若王者、近淡海之安直之祖。次~大根王者、三野國之本巢國造、長幡部連之祖。
次山代之大筒木眞若王、娶同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。迦邇米三字以音。此王、娶丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。此王、娶葛城之高額比賣、生子、息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王。三柱。此王者、吉備品遲君、針間阿宗君之祖。又息長宿禰王、娶河俣稻依毘賣、生子、大多牟坂王。多牟二字以音。此者多遲摩國造之祖也。
上所謂建豐波豆羅和氣王者、道守臣、忍海部造、御名部造、稻羽忍海部、丹波之竹野別、依網之阿毘古等之祖也。
天皇御年、陸拾參歲。御陵在伊邪河之坂上也。
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html
日本にとっての外交とは、官僚とマスコミによる国民洗脳のアトラクションである。
他の主要国にとっては、貴重な関係構築の場。
その違いというだけ。
まあ、これはプーチン大統領が質問した記者に対して「お前の後ろにいる奴に言っとけ」と凄んだ時に、すでに判明している。
総理も記者も、芝居をしているのであって、傀儡でしかない。
官僚とマスコミは、対外国首脳がAと答えようが、Bと反応しようが、「対外国首脳はXと言った」との、日本国民に対する誘導発表をすでに決定している。
おそらく、各国首脳は、日本の官僚機構とマスコミを[危険な存在]と認知しているだろう。
まあ、近く、何らかの大きな変化が訪れるに違いない。
前回のブエノスアイレスと比べると、何やこのハリボテ会場は?と。
まぁ要は会議の中身の問題ですけどね・・
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/526.html#c62
>>6
長浜浩明は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。
「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。
よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。
余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。
そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3
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長浜浩明は神武東征が河内潟の時代だと主張していますが、河内湖Tの時代が正しい:
河内湖の名残
http://feynmanino.watson.jp/5697_kawachi2.html
邪馬台国とはなんぞや?(43) - altairposeidonのブログ
・古大阪平野の時代:約2万年前
・古河内平野の時代:約9000年前
・河内湾Iの時代:約7000年〜6000年前
・河内湾IIの時代:約5000年〜4000年前
・河内潟の時代:約3000年〜2000年前(BC1050年〜BC50年)
・河内湖Iの時代:約1800年〜1600年前(AD150年から350年)
・河内湖IIの時代〜大阪平野I・IIの時代:約1600年前以降
http://altairposeidon.hatenablog.com/entry/2018/10/11/000000
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霊(ひ)の国の古事記論54 若御毛沼命の河内湖通過(「神武東征」)時期について
http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-entry-70.html
1.「神武東征」か?
御毛沼命と若御毛沼命(後の神倭伊波礼琵古(磐余彦)命、8世紀に神武天皇と諡(おくりな))兄弟のいわゆる「神武東征」については、史実説と虚構説に分かれ、史実説については、記紀史実説(薩摩半島の山幸彦の子孫の征服説)と邪馬台国東征説・東遷説が見られる。
私の説(『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』、ブログ「霊の国の古事記論」)は、「薩摩半島の山幸彦(山人:やまと)の子孫の傭兵部隊の仕官を求めての移動説」であり、「若御毛沼命実在・東征否定説(傭兵隊移動説)」という「おおむね真実、一部虚偽」という第3の説である。
御毛沼命・若御毛沼命兄弟の移動は「東征」か「傭兵隊の移動」か?
なお、第10代崇神天皇以前、第15代応神天皇以前、第26代継体天皇以前の3つの天皇非存在説についての検討はいずれまとめたいが、私の記紀判断の基準に照らし、神話時代を含めた登場人物については、実在人物をモデルに創作されたアマテラスを除き、ほぼ実在していた人物と考える。
2.神話時代の年代論について
皇国史観は神武即位を「BC660年」としたが、那珂通世は「AD元年」、久米邦武は「AD6年」、とし、高木修三氏は『紀年を解読する』(2000年)において「BC29年」、長浜浩明氏は『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』(2012年)において「BC70年」とした。
これらに対して、記紀の年代分析において初めて統計的に科学的分析を行ったのは、安本美典氏である(図参照)。氏は古代の天皇、中世・近世の将軍、中国・西洋の王の在位年数から、古代大王の平均在位年数を約10年とし、神武即位を「AD271年頃」とする統計的な推定を行った。
30〜40代天皇の即位年の直線回帰による私の追試では「AD277年」であり、私はこの安本説を全面的に支持する。
30〜40代天皇の即位年の直線回帰によるスサノオ大神・大国主神16代の即位年の予測
なお、この記紀年代の統計的分析において、安本氏はアマテラスより前の王について検討されていないが、私は古事記神話が始祖としている天御中主までの分析を進めた。
詳しくは前著『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』を参照いただきたいが、結論だけを述べると、AD57年の「委奴国王」の遣使、107年の「倭王師升」の遣使、「100余国を7〜80年支配した王朝」、146〜189年頃の「倭国大乱」、100余国のうちの30国をまとめた「卑弥呼」の238年の遣使、弟王との後継者争いで共立された「壱与」の266年の遣使との照合性について検討を行い、「委奴国王」はスサノオ、「倭王師升」は淤美豆奴(オミズヌ)、「100余国を7〜80年支配した王朝」はスサノオ・大国主王朝7代」、「倭国大乱」は大国主の後継者争い、「卑弥呼」はアマテラスと考える。
3.「神武東征」の時期について
統計的な分析による安本氏の神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)について、物証の裏付けはないのであろうか?
その鍵となるのは、記紀に描かれた若御毛沼らの行動である。その記述は次の通りである。
@古事記:「その国(注:吉備国)より遷り上り幸(い)でましし時、亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙あげて来る人に、速水門(はすひのと)で遇(あ)ひき。・・・故、その国より上り行でましし時、浪速(なみはや)の渡を経て、青雲の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てたまひき」
A日本書紀:「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり。三月の丁卯の朔丙子(十日)、遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」
この「速水門」「浪速の渡」「はやき潮」「遡流而上りて」「草香邑の青雲の白肩津」の記述がその時期を特定する鍵となる。
(1) 「速水門」はどこか?
古事記の「速水門」は吉備出発後の記述であり、考えられるのは備讃瀬戸か明石海峡であるが、備讃瀬戸には「門」と呼べるような狭い海峡はなく、潮流も緩やかで、地形・海流の両方からみて「速水門」と呼べるような場所はない。「速水門」は幅4kmで両側の山が迫って「門」にふさわしく、潮流の早い明石海峡とみて間違いない。
古田武彦氏は『古代は輝いていたU』において、明石海峡は「平穏、清明の海」とし、「速水門」に相応しいのは鳴門海峡としているが、これは全くの事実誤認である。四季、何十回と明石海峡を小さな渡し船で渡った私の経験でいえば、明石海峡の潮流は早い。
海上保安庁 六区豆知識「海の流れについて」
海上保安庁のデータでみると、最大潮流は鳴門海峡10.5ノット、明石海峡6.7ノットであり、備讃瀬戸の3.4ノット、播磨灘の0.4〜0.5ノット、大阪湾の0.3〜0.5ノットと較べると、明石海峡を「速水門」と見るべきである。
一方、日本書紀は「速水門」を筑紫の宇佐への途中に置いているので、豊予海峡(最大6ノット)になる。しかしながら、豊予海峡は14kmと広く、「門」と言えるような地形ではない。
また、黒潮に洗われる笠沙半島を拠点にした隼人族(海幸彦)が豊予海峡を越えるのは苦もなかった筈であり、海岸沿いに行けば日向から宇佐、岡水門へと移動するのに迷うこともない。水先案内人を頼む必要があったとは思えない。
舟で豊予海峡説(最大6ノット)や関門海峡(同9ノット)を越えるのは大変と思われるかも知れないが、下げ潮に乗れば楽々である。私は船折瀬戸(同9ノット=時速17q、村上水軍の根拠地の大島と伯方島の間の瀬戸)を潮流に乗って小型ヨットとカヌーで下ったことがあるが、広い海を早い潮流に乗って移動するのは、狭い川の急流を下るのと較べて何の危険もない。10〜20人乗りの丸木舟の舷側に板を張った重心の重い当時の舟なら、これらの海峡を通過するのに案内人は必要ない。仮に、どうしても下げ潮での通過が怖いなら、潮待ちして、12時間ごとの満潮時か干潮時の停潮期に渡ればよいがそんなことをする海洋民はいないであろう。
奈良盆地にいて海を知らない日本書紀の編集者達は、若御毛沼たちが未知の海に東征の冒険に乗り出したことを印象づけるために、地形も潮流も舟も知らず、「速水門」を明石海峡から豊予海峡に変えたと見てよい。
(2) 「遡流而上りて」はいつの時代か
若御毛沼らは2月11日(3月上旬)に吉備をたち、「速水門」を経て、「浪速の渡」を通り、3月10日に「白肩津」に着いたというのであるが、それは史実であろうか、史実ならいつの時代であろうか。孫引きデータで不安ではあるが、以下、検討したい(いずれ、原データにあたりたい)。
前述の古田武彦氏の『古代は輝いていたU』によれば、弥生・古墳期(約1800〜1600年前:執筆当時から計算しなおすとAD185〜385年)頃の大阪には河内湖があり、若御毛沼らはこの河内湖を舟で進み、「白肩津」に着いたとしている。
長浜浩明氏の『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』にはさらに詳しい図が紹介されているので、その図とHP「水都大阪」のデータを参考にさせていただくと、河内潟・河内湖・河内平野は、次の4つの時代に区分される。
A 河内潟時代(BC1050〜50):湾口が広い、海水湾の時代
B 河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150):干潮時には湖水の水が海に流れ、満潮時には海水が侵入する汽水湖の時代
C 河内湖淡水湖時代(河内湖1の時代、AD150〜350):湾口が狭まって海水の流入がない淡水湖の時代
D 陸地化時代(AD350〜):陸地化が進む時代
日本書紀は「遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」としているが、それはどの時代のことであろうか?
まず、河内潟時代(BC1050〜50)は、河内潟は満潮時も干潮時も海水が満ちており、広い流路で外海と内海は結ばれ、「遡流而上りて」はありえない。
AD185〜385頃の河内湖(古田武彦著『古代は輝いていたU』)
BC1050〜50の河内潟(長浜浩明著『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』)
AD150〜350年頃の河内湖T(前同)
5世紀以降の大阪平野(HP「水都大阪」より)
次の、河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150)は、「浪速(なみはや)の渡」のあたりで湾口は狭まり、満潮時には上げ潮が湖内に流入し、干潮時には下げ潮が湖内から流出する。
想定される当時の「河内湖」より大きさがやや小さい浜名湖(日本1の汽水湖)でみると、上げ潮の速さは2ノット(1m/s)、下げ潮は3〜4ノット(1.5〜2.0m/s)で、その潮流の範囲は湾口からわずかに前後それぞれ1qほどの狭い範囲である(伊東啓勝他「インレット周辺の流況特性把握調査」(『水路 第154号』より)。
この下げ潮の3〜4ノット(1.5〜2.0m/s)というと、軽いカヌーの中速であり、この程度の流れなら簡単に漕ぎ上ることができる。カヌーや競技用ボートが高速で8〜10ノット(4.0〜5.0m/s)程度、26人の漕ぎ手のペーロン船が9ノット(4.5m/s)程度とされているから、汽水湖の下げ潮に逆らっても、特に苦労することもなく遡ることができる。私は琵琶湖の水がただ1カ所流れ出る瀬田川(流速は確かめられなかった)をエイトで何度も往復したことがあるが、軽い性能のいい競技艇ではゆっくり漕いでも楽に流れの速い瀬田川を遡ることができた。
ただ、浜名湖には流入する大きな川はないのに対し、河内湖には滋賀・丹波・京都・奈良の広範囲な流域から水を集める淀川や木津川、大和川などから流入しており、若御毛沼たちが漕ぎ上ったのが冬の渇水期とはいえ、大阪湾への流出口の水流は浜名湖よりはかなり早かったに違いない。
若御毛沼らが10〜20人ほどの重い準構造船(丸木舟の舷側に板を張って高くしたもの)を「遡流而上りて」漕ぎ上るとなると、その通過時期はAD150〜350年の河内湖淡水湖時代とみて間違いない。
彼らには急流の浪速の渡を漕ぎ上ったことが強く印象に残り、「遡流而上りて」と伝わった可能性が高い。
繰り返しになるが、大阪湾と河内潟が広い湾口でつながっていた河内潟時代や、上げ潮のある汽水湖時代には、「遡流而上りて」という表現はでてこないであろう。
(3) 「草香邑の白肩津」はどこか?
「草香邑の白肩津」については、生駒山麓の日下町を当てる説が多いが、私はそこから2.3qほど下った「枚岡」を比定する。「7」を「しち」「ひち」と発音する例などからみて、「しらかた津」は「ひらかた津」の可能性が高く、この地を奈良の登美・春日への最短距離の奈良街道が通っていたことからみても、白肩津は「枚岡」の湖岸にあった港(津)の可能性が高い。
その時代は生駒山麓の陸地化が進んだ河内湖淡水湖時代(AD150〜350)ではありえない。その時代が河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150)であることは、「白肩津」からも裏付けられる。
完全に陸地化した後の8世紀の記紀作者が、「浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき」「遡流而上りて、径に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」というような文章を創作することができないことは言うまでもない。これらの記述には、8世紀の記紀作者が知ることのできない「秘密の暴露」が見られる。
以上、「速水門」「はやき潮」、「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩津」という記紀の記述は後世の創作ではなく、若御毛沼らがAD150〜350年の河内湖T時代にこの地にきた実際の体験であることが明らかである。
これは、安本氏の統計的分析による神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)を裏付けている。
いわゆる「神武東征」は、卑弥呼時代より後になり、神武即位「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しない。
4.「浪速国」の地名由来について
日本書紀の「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり」という若御毛沼による地名命名説話は、記紀や風土記の天皇命名地名の怪しさを示している。
日本書紀の編集者は古事記の「速水門」=明石海峡を豊後水道に置き換えたために、その代わりに明石海峡を「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ」とし、若御毛沼が「名付けて浪速国とす」としたが、明石は播磨の地であり、この地を浪速と名づけることはありえない。そもそも古事記は「浪速(なみはや)の渡」という地名を載せており、若御毛沼らがこの地に来る以前から、「浪速」「難波碕」の地名があったことは明らかである。
なお、私は安本美典氏の北九州から奈良盆地への「地名ワンセット東遷」の指摘は重要と考えるが、九州の地名を持ってきた人々は、もっと前のスサノオ・大国主一族であると考える。「地名ワンセット東遷」を「神武東遷」の証拠とすることはできない。
若御毛沼らの「東征」より先にこの地に「浪速」地名があったことが、それを証明している。
5.「草香邑の白肩津」の由来について
前述のように「白肩(しらかた)津」は「枚潟(ひらかた)津」であったと私は考えるが、「枚潟」というと、関西の人は淀川を遡った「枚方」と考え、「牧」の当て字から「牧場」のイメージを持つかも知れない。
しかし、「草香邑の白肩津」となると、「日下(くさか)」の南にある「枚岡」の麓の「枚潟」(平潟)にあった「津」(港)とみて間違いない。この地に、河内国一之宮の枚岡神社があることと、奈良街道が通っていたことからみて、河内湖時代にはこの地が重要な拠点港であったことが明らかである。
大国主を「国譲り」させて後継者となった「天穂日神」の子の「天日名鳥命、天夷鳥命、武日照命」が「天比良鳥命」とも言われることからみて、「枚=比良」は「日名(夷、日)」と同じであった可能性がある。「はら(腹、原)」「あちら、こちら」の「ら(羅)」は、「はな(鼻)」「ひな(女性の性器=霊(ひ)の宿る所)」などの「な(那、奈)」と同じく、「場所、土地」を示すからである。
記紀によれば、「ひ=日=霊(祖先霊)」であることから考えると、「比良」は「霊羅」で「霊(ひ)の降り立つ聖地」という意味になる。「天日名鳥命」が「出雲祝神」とも呼ばれていることから考えると、この「枚潟(ひらかた)津」は出雲族の祖先霊(磐霊(いわひ):磐座(いわくら)に宿る祖先霊)を祀る聖地であった可能性が高い。
若御毛沼らを傭兵として受け入れず、追い返した「長髄彦(ながすね)彦」が「登美能那賀須泥毘古」と書かれていることをみると、「長髄彦(ながすね)彦」(森浩一氏は「長洲根彦」説)はこの地から生駒山を越えた登美にかけて支配した王であり、この地はその交易と祖先霊信仰の拠点であった可能性が高い。
さらに、「草香邑」は現在、「日下(くさか)」の地名として残っているが、出雲市の日下には、出雲国風土記に登場する古社の「久佐加神社」があり、「草香邑」はこの地からきた出雲族の居住地であった可能性が高い。枚岡神社の所在地が「東大阪市出雲井町」であることや、「青雲の白肩津」という記紀の記述と合わせて考えると、この地が大国主の子孫の王の拠点であったことは確実であろう。
6.「亀に乗ったサヲネツ彦」のいわゆる「神話的表現」について
古事記には、早水門で「亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙げて来る人に遇(あ)ひき」に会った、という印象的な記述が見られる。
この記述から、「神武東征は、亀に乗った浦島太郎伝説をもとに作られた」というような結論を導き出すことはできるであろうか?
まず「亀の甲に乗りて」は次のような現実的な解釈が可能である。
第1の仮説は、「亀の形のような幅広型の舟に乗って釣りをしていた漁師」の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性である。
第2の仮説は、「亀の甲羅のような板舟(幅広のサーフボード)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性である。
第3の仮説は、「桶の舟(たらい舟)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承の「桶」が「瓶(かめ)」に変わり、さらに「亀」に変わって、「亀の甲に乗りて」となって伝わった可能性である。「桶から瓶」、「瓶から亀」への「伝言ゲーム」ミスである。
「浦島太郎伝説をもとにした創作説」が成立するためには、この3つの説を否定しなければならない。
さらに、「打ち羽挙げて来る人」(打羽挙来人)がある。まず亀に乗って竜宮城に行き来した「浦島太郎伝説引用説」ではこの部分は説明が付かない。しかしながら実際の舟を想定すると、「打羽」は帆船の「帆」となり、合理的な解釈が可能である。「うちわ・うちは(団扇)」の語源は「打ち羽」とされており(『日本語源大辞典』)、この風を起こす道具は風を受ける道具でもある。
「サオネツ彦」は浦島太郎のように亀に乗った人ではなく、帆を張った「亀型の幅広舟」か「板舟」、「たらい舟」に乗った漁師の可能性が高い。それは、九州沿岸に見られる舟ではなかったために印象深く言い伝えられたものと考えられる。
若御毛沼兄弟らは、浦島太郎のような空想的な神話上の人物ではなく、釣りをしていた漁師に若御毛沼らが「汝は海道を知るや」と、「浪速の渡」から「白肩津」への水路の案内を頼んだとみるのが妥当である。
7.「神武東遷」について
以上の検討結果をまとめると、「若御毛沼傭兵部隊東遷」について、次の事実が明らかである。
@ 「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩之津」の記述は、8世紀の記紀編集者の創作ではなく、河内湖淡水湖時代(河内湖1の時代:AD150〜350)の印象的な体験談である。
A 若御毛沼による「浪速国」の地名由来は、日本書紀編集者の創作である。
B 「草香邑の青雲の白肩之津」の地名は、この地の王が出雲の大国主の子孫の可能性が高いことを示している。
C 「亀に乗ったサヲネツ彦」は「浦島太郎伝説」を元にした後世の創作ではなく、実際の印象的な体験談(伝承の過程で変容した可能性が高い)である。
8.神武東遷時期の確定は「邪馬台国畿内説」を否定する
以上の検討により、若御毛沼傭兵部隊の奈良盆地への移動は「AD271年頃」(私はAD277年頃)より少し前となり、神武即位「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しない。
この結果は大きい。
邪馬台国畿内説の崩壊である。卑弥呼(248年頃死亡)の時代より、少し後の271〜277年頃に「神武傭兵部隊の東遷」があったことが証明されるからである。
神武より8〜14代後の倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫(第7代孝霊天皇の皇女)や倭姫(第 11代垂仁天皇の皇女)、神功皇后(14代仲哀天皇の皇后)を卑弥呼(248年頃死亡)とする畿内説の全面崩壊である。
古事記によれば、天照大御神からオシホミミ命―ニニギ命―ホホデミ命―ウガヤフキアエズ命―若御毛沼命(神武)と続くが、アマテラスは「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で生まれ、ニニギ命・ホホデミ命・ウガヤフキアエズ命は薩摩半島の笠沙で死んでいる。アマテラスは大和とは無縁である。
なお、言うまでもないが、記紀神話創作説や2〜9代天皇の「欠史8代説」を採用するなら、天照大御神や倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫、倭姫などを歴史上の人物として論ずることがそもそもナンセンスである。記紀からアマテラスだけを「つまみ喰い」するような行儀の悪い考古学者やそれをもてはやす朝日・NHKなどのマスコミ人がいることは、この国の知性の崩壊状況を示しているといわざるをえない。 141019 帆人(日向 勤)
http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-entry-70.html
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何故、古代史の舞台は奈良盆地なのか?・・・大阪は河内湖、大和は湿地帯だった。
何故、古代史の舞台が畿内でも奈良の山奥から始まるのか、そして次第に河内に舞台が移っていくのか、不思議に思われる。
この謎は実は現在の地形を前提に考えているからで、かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であり、大和は標高60m以下は大湿地湖だったとされている。
縄文中期以降、海退が始まり、次第に陸地が広がって行くという地理学的な前提をふまえると、古代史の舞台が奈良の山奥から始まるという謎も解けてくる。
>奈良盆地の東方の山裾を縫うように、細々と南北に続く道がある。その名を「山の辺の道」という。
古社寺や名所旧跡、古墳などが道沿いに点在し、古代の面影をよく残している・・・
人が住むところに道ができるのは当たり前だが、ではなぜ「山の辺の道」は標高60m〜70mの高度を保ちながら三輪山の山麓をめぐっているのだろうか。
その理由を大和湖の存在に求める学者がいる。
三輪山麓に人類が住みついた縄文前期の約6千年前、大和盆地にはまだ巨大な淡水湖が存在し、その湖岸にできた道が山辺の道の最初の姿だというのだ。
>その後次第に土地が隆起し大和川ができると、湖水が排出されて平野部が広がっていった。土地が干上がるにつれて、人々は平野部へ移り住みはじめ、弥生時代には、平野部の沼地を利用して稲作農耕を営むようになった。
しかし、弥生時代とそれに続く古墳時代を通して、「山の辺の道」は相変わらず大和盆地の東側を結ぶ主要道路でありつづけた。その証拠に、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、第11代垂仁天皇の纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)、第12代景行天皇の纒向日代宮(まきむくひしろのみや)など上代宮跡伝承地は標高60mの線上にある。
http://www.bell.jp/pancho/travel/yamanobe/preface.htm
この大和湖を最初に唱えたのが、樋口清之博士で、博士は神武東征の地も標高60m付近にあることから、神武神話の時代には大和は大湿地帯であったと考察している。
http://somo.seesaa.net/article/32163752.html
宝賀寿男氏は弥生時代の遺跡群も標高50−70mに存在していることと、文献的整合性から神武神話の年代を弥生時代に設定している。
半島、九州の動乱の影響により畿内へと逃げ延びてきた神武にとって、湿地帯故に土木造成次第では農地を切り開くことが可能だった大和の地は、絶好のフロンティアであったのであろう。(勿論、ナガスネヒコら縄文人らの抵抗はあったであろうが、先に入っていたニギハヤヒや鴨族の支援もあって九州で縄文人支配を経験済みの神武にとってはさほど難しくはなかったのであろう。)
以下は、
当時のイメージ地図 リンク
http://somo.seesaa.net/upload/detail/image/2yamatoko-imaji.JPG.html
奈良盆地が都になる必然
何故、奈良に最初の都ができたのか?
古代の高低差地図リンク
http://blog-imgs-42.fc2.com/a/t/a/atamatote/asuka_naniwa_0.jpg
も参照してみてください。
朝鮮半島から攻め入られたとき、生駒山山系を第一の防衛線、奈良盆地を第二の防衛線とし、最後の砦として三輪山を背にして都を築いた、と読めます。
平安遷都はエネルギー問題だった!
―地形で解く日本史の謎リンク
http://shuchi.php.co.jp/article/1794
から引用させていただきます。
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21世紀の現在の地形から見ると「なぜ、奈良盆地が都になったのか?」が理解できない。
ともかく奈良盆地は大阪湾から離れていて内陸に入っている。さらに360度周囲は山で、他の土地との連絡も悪い。奈良はどこから見ても交通の要所とはいえない。
(中略)
なぜ奈良が日本最初の首都になったかを3〜4世紀の地形の上に立ちシミュレーションしてみよう。
今の大阪平野は、当時は湿地帯であった。大坂湾は上町台地を回り込み内陸の奥まで入り込んでいた。
また、今の大和川は堺市へ流れている。しかし、奈良時代の大和川は奈良盆地を出ると向きを北に変え、大坂湾に流れ出ていた。堺へ流れている今の大和川は、江戸時代に掘られた人工の水路なのだ。
奈良が都になる4世紀頃、大坂平野の奥まで海と川が混じる湿地帯が広がっていた。まさに河内と呼ばれた地であった。
船で瀬戸内海から大坂湾に入り、上町台地を回り込み、大和川を遡ると生駒山、金剛山の麓まで行くことができた。中国大陸から生駒山麓の柏原市まで直接舟で行けたのだ。柏原で小舟に乗り換え生駒山と金剛山の間の亀の瀬を越えると、もうすぐそこは奈良盆地であった。
この奈良盆地には、大きな湿地湖が広がっていた。その湿地湖を利用すれば奈良盆地のどこにでも舟で簡単に行くことができた。
奈良盆地全体が、大坂湾の荒波を避ける穏やかな自然の内港のようであった。
舟を利用すれば奈良盆地は便利がよく、ユーラシア大陸との連絡も容易であった。
奈良盆地が日本の都になったのは、地形から見て合理的であった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=315461
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奈良盆地の原風景 〜古代奈良湖の残影〜
2013年10月31日 | 奈良大和路散策
https://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/1858903decf3df8427ce6f66be8b8ae7
以前から不思議に思っていたことがある。近鉄奈良線に乗って生駒トンネルをくぐり、奈良まで行く場合の全線の高低差の話である。電車は上町台地の地下(大阪上本町駅)を出て鶴橋方面へやや下ると、あとは平坦な河内平野を真東に進み、やがて枚岡、瓢箪山、石切と急激に高度を上げて、生駒山の斜面をやや北方向に駆け登ってゆく。まるで登山電車並みの勾配を軽快に走る近鉄電車の醍醐味を味わえる区間だ。しかもここらからの大阪市街地の風景は絶品だが、その話はまたにして、やがて生駒トンネルをくぐると再び真東に進路を取り、生駒、東生駒、富雄、学園前と進む。しかし、生駒トンネルを通過すると不思議なことに電車は下降せずにほぼ水平に奈良に向けて快走する。あれだけの急勾配を登ってきたのに。と言うことは奈良盆地の標高は河内平野の標高より高い、ということなのだろうか?
早速調べてみた。奈良盆地の標高は40mから60mほど。一方、生駒山を隔てた河内平野のそれは1〜3m。やはりこれだけの高低差があるのだ。ちなみに上町台地は一番高いところが38m(大阪城のあるあたり)、天王寺あたりで16mだそうだ。生駒山は642m、二上山が517m、山辺の道の東にそびえる龍王山は517m、三輪山は467mである。奈良盆地はこれらの山塊に囲まれた比較的標高の高い盆地(上町台地よりは高い)であることを認識した。
現在の河内平野は、かつては河内湖、さらに時代をさかのぼれば上町台地(砂嘴であったという)を挟んんで瀬戸内海とつながった海水湖であった。したがって海抜が0に近いのも理解できるような気がする。やがては流入する土砂で湖底が上がり、干上がって平地になっていった。今は大阪のベッドタウン、日本の製造業を支える東大阪の町工場群、河内のおっちゃん、おばちゃんでにぎわうソウルフルな地域である。もはや河内湖の痕跡も面影もないが、上町台地か生駒山から展望すると確かにここがかつては海、湖であったとしても不思議ではない地形に見える。
一方、河内平野とこれだけの比高差がある奈良盆地には、かつて古代奈良湖があったとされている。周辺の山々から流入する水が溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。奈良盆地は東西16km、南北30km、矢田丘陵、馬見丘などはあるものの総面積300平方キロメートルの比較的平坦な盆地である。今は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、そのどれもがやがては大和川に合流し、王寺から亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の切れ目、すなわちあの二上山のある穴虫峠のあたりから高低差を一気に下り河内平野に流れ込んでいる。200万年前の二上火山の噴火に伴う地形変化で古代奈良湖の水が河内へ流出し始めたと考えられている。さらに、古代奈良湖は、縄文後期から弥生時代にかけて、地底の隆起や大和川からの流出増(これには農業のための人為的な流路変更も考えられるとする研究者もいる)などにより、水位が下がり続け、やがては干上がって消滅してしまったと言われている。何時頃まであったのかの確認が研究課題となっているが、後述のように様々な考古学、歴史学上の事績、記述にもヒントが隠されているようだ。
なるほどこういう地形の大きな変遷があったのか。世の中にはこのようなことを研究しておられる先生方もいて、様々な研究成果が発表されている、特に最近は南海トラフ地震の被害想定や、海抜0メートル地帯である上町台地西側の大阪の中心部(難波八百八橋の水の都であった)や、東の河内平野(かつて海。湖であった)の防災対策、亀の瀬地域の大和川の土砂災害対策などの現実的な要請から、古代の地形変動に関する研究が盛んだ。また歴史学の視点からも様々な研究がなされている。私は研究者ではなく、通りがかりの「時空旅行者」なので、その詳細には立ち入らないが、太古の地形が歴史上のいくつかの出来事や風景描写、考古学的な発掘の意味を説明してくれている点はとても興味がある。
いくつかのエピソードを並べると、
? 奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されている。それ以下には見つかっていない。やがて稲作農耕を主体とする弥生時代に入ると、弥生遺跡は標高40mでも見つかるようになる。すなわち、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯は肥沃な地味で稲作に適していたことから弥生人が定住し始めた証拠だと言う。湖畔に豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。
? また、古代の山辺の道がほぼ標高60mの高さで山麓を南北に通っているのは、かつての湖や通行に支障のある湿地帯をさけて形成された証拠だと言う。当初は人々の頻繁な自然往来で踏み分けられた道であったのだろうが、その重要性から権力者により官道として整備されていったのだろう。その後平地に造られた上津道、中津道、下津道より時代をさかのぼる最古の官道と言われるゆえんだ、と。
? 万葉集巻の一に舒明天皇御製の歌がある。
「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は」
この「海原」はかつて香具山の北にあった埴安の池のことを指している、と唱える万葉集の研究者もいるが、この池も埋め立てられて、今香具山に登っても海や湖はおろか,池もも見えない。6世紀当時ははるか北に奈良湖の姿があったのであろうか。だとすると山と湖と水田で満たされた盆地はさぞ美しい風景だったことだろう。
? 斑鳩の法隆寺の南大門の前に鯛石という1×2メートルの踏み石が表面を露出させて埋まっている。地元ではこの鯛石まで水が来ても大丈夫と言い伝えられている。今見るとどこに水があるのか、という法隆寺界隈だが、創建当時は消滅寸前の奈良湖はこの斑鳩辺りに存在していて、創建時の斑鳩宮、法隆寺は近いところに建っていたのかもしれない。そうなると聖徳太子は飛鳥京へ毎日太子道を馬で通っていたとされるが、実は斑鳩からは船で飛鳥へ渡っていたのではないか。ちなみにこの鯛石のある地点の標高は50mで大和川の水位40mよりは高い位置にある。
たしかに地形的に見ても、歴史的に見ても、「古代奈良湖存在説」はあまり荒唐無稽な感じではない。現在の奈良盆地の150余の中小河川の大和川一局集中の地形を見ても、かつての大きな水源の存在の痕跡を感じることが出来よう。さらに稲作農耕中心の生産手段と富の所有分配という経済体制、政治的支配機構、社会システムが確立されていったヤマト王権の時代の下部構造には、こうした水運に役立つ古代湖や河川とそれに連なる肥沃な湿地帯、神の権威を感じる甘南備型の山に囲まれた「まほろば」すなわち奈良盆地(大和盆地)が無くてはならなかった。まさにそうしたステージの一角、山懐(山の処)すなわちヤマト(大和)にヤマト王権が成立していったと考えれば、やはりこの盆地の舞台設定は、箱庭的であるが、国家誕生の揺籃としてはパーフェクトな設定ではないかと思う。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/1a/e080e77ea19c21ed40a5f43e9b34ad6e.jpg
(奈良湖推定図。この図によれば、縄文遺跡は水辺、湿地帯をさけて山麓の微高地に分布しているが、弥生時代の農耕集落(唐古鍵遺跡など)は湿地帯に分布している。面白いのは古墳時代から飛鳥時代の古墳や宮殿・宮都跡は稲作生産の拠点である水辺・湿地ではなく三輪山の山辺に分布している。やがては湿地の無い盆地南の飛鳥の地に遷っている。この図はネットの図形検索で出てきた図で、あちこちのブログで引用されている。しかし、いくら調べても出典が明らかでない。以前「近畿農政局のHP」に掲載されていたものではないかと思う。作者不詳だがよく出来ているので引用させてもらった)
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/e8/fe71c8bbed362bd353858b8a95dbed6f.jpg
(奈良湖から亀の瀬を通って河内平野に流出する大和川の構造を示した図。高低差がある分だけ、亀の瀬地区は古代より大和川の流水による地盤崩壊などの災害の多いところであったようだ。奈良湖は最後は斑鳩の辺りに小規模に残り、やがては消滅していったのだろう。これも上図同様、出典が明らかでないがわかりやすいので引用させてもらった)
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/92/4c34343109fc06091a8b3a8bc9b36947.jpg
(上町台地大阪城付近から展望した河内平野の今。高層マンション辺りが近鉄八尾駅前。かつてはこの辺り一帯は河内湖であった。二上山と左手の生駒山との切れ目あたりが亀の瀬、穴虫峠)
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/15/0dca563980b9b718dee3cb64dedee8e8.jpg
(山辺の道の背後にそびえる龍王山山頂から奈良盆地を俯瞰する。この一帯に古代奈良湖があったと言われている。正面が二上山、その右側の山稜の切れ目が亀の瀬、大和川が河内平野に流入する所だ。手前の緑は崇神天皇陵。他にも箸墓古墳、景行天皇陵など大型の古墳がずらりと並ぶ大倭古墳群)
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/69/67b040beb8603d584f70d66ad61df869.jpg
(龍王山からの二上山の展望。右奥の山向うに,うっすらと河内平野の町並みが見える)
https://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/1858903decf3df8427ce6f66be8b8ae7
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『逆・日本史3』樋口清之著 から
大和平野標高六〇メートル地点の謎
http://kamnavi.jp/jm/yamato.htm
石器時代の終わりごろの遺跡が、奈良県全体で、約三〇〇近く発見されている。これらの遺跡は、大和の吉野渓谷から始まり、宇陀・三輪を通って大和平野に降りてくるが、平野の周縁部に広がるだけで、中央の平坦部にはまったくないのである。そして、周縁にある遺跡は、いずれも標高六〇メートルほどの線までである。
これが弥生文化の一八〇〇年ほど前の遺跡になると、標高五〇メートルの線まで下りてくる。もっとも標高の低い島根山古墳も、やはり標高五〇メートルの線で止まっている。
これはどういうことかというと、石器時代には標高六〇メートルが、古墳時代には標高五〇メートルが、人間が生活できる極限線だったことを意味している。それ以下の低い土地には何らかの障害があって、人間が住むことができなかった。
そして、住むことができなかった障害とは、そこに水があったからである。標高五〇メートル以下の土地はすべて、かつては水中であった。つまり、大和湖の湖面が、二七〇〇〜二八〇〇年前の石器時代には標高六〇メートルの線にあり、一八〇〇年ほど前の弥生時代には、標高五〇メートルまで水位が下がったということなのである。
なぜ、北九州にではなく、大和に都ができたのか
弥生文化が、おもに西日本で発達し、なかでも大和と北九州に大きな文化圏ができたことはよく知られている事実である。だが、なぜ、大陸文化を早くから受け入れた九州に王朝ができず、大和に日本の古代王朝が誕生したのだろうか。
それは、大和平野に巨大な湖があり、時がたつにつれて、水位が下がっていったことに大きな原因があったと思われる。
水位が下がったのは土地がしだいに隆起したからであるが、水が引いたあとの湖畔の土地はよく肥えていて、農業にもっとも適した土地であった。しかも、大和平野は周りを山に囲まれているため、強い風を防ぎ、夏は蒸し暑くて、水田で稲を栽培するのには好条件であった。また、地形が複雑で土地の高低差があり、斜面に恵まれていたことから、大和地方に水田稲作農耕がいち早く発達し、それが大和王朝を生んだのである。
たかばみさん提供奈良湖
記紀に書いてあることを、学問的根拠もなしに頭から否定してしまうのは、戦前、神話をすべて鵜呑みにして「歴史」としたことと同じくらい滑稽な話である。
なぜなら、神武天皇の話の内容は、じつは古代の大和に存在したいくつかの歴史的事実の印象や伝承を編集、つまり日本の古代社会の雰囲気を如実に表現した部分が、数多く含まれているからである。
たとえは、地名である。
神武天皇は九州の日向を出発し、東へ進んで大和に入ると、長髄彦・兄猾・弟猾・土蜘蛛などの未開人を平定し、畝傍山のふもとの橿原の宮で天皇の位に即いた、ということになっている。
この長髄彦や兄猾・弟猾・土蜘蛛などがいたという土地や、橿原など、神武天皇に関係のある地名が『日本書紀』や『古事記』などに三三カ所ほど挙げられているが、これらの地名を大和の土地にあてはめると、すべて標高六○メート〜線以上に存在していることがわかる。
しかも、その土地ほ、大和湖のまわりの小高い所で、縄文式土器の出土する遺跡とぴったり一致しているのである。
神武天皇伝承が、奈良時代にだれかが勝手につくりあげたものなら、うっかり、標高六〇メートル線以下の、古代においては湖底にあたる地名も出る可能性がある。奈良時代には土地の隆起がいちじるしく、大和潮は幻の湖になっていた。 昔は水位が六〇メートル線にあったなどということは記録に残されていないからである。
とくに驚くべきことは、神武天皇の都とされている橿原が、ちゃんと存在していたことである。
http://kamnavi.jp/jm/yamato.htm
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伝承は何年くらい伝わり・残るものか: 2016年12月28日
神話と考古学の間 創元社 (1973) 末永 雅雄, 三品 彰英, 横田 健一
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%A8%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E3%81%AE%E9%96%93-%E6%9C%AB%E6%B0%B8%E9%9B%85%E9%9B%84/dp/4422201115
このところ物部氏の出自について、なるべく推測を交えずに語ることが出来るよう
にと様々な本を当たっています。
ただ多くの人たちが関心を持ってきた一族ですので、その量が半端ではありません。
少々時間が掛かります。
そこで今日はそんな調査の中で見つけた一つの説をご紹介します。
タイトルにある「伝承は何年くらい伝わり、残るものか」というものです。
「神話と考古学の間」という末永氏という考古学者と文献史学の先生たちの対談集
で、この点に触れています。
結論から言えばおおよそ400年と言っています。
末永先生という方は故人ですが、橿原考古学研究所の初代所長を務めた方です。
大学を出ずに色々な経験を積んで来られた異色の人物です。
ある時、町史編纂に関わっていました。
その家に伝わっていた話しを調べてみると、数百年前に実際にその通りだったと
いうことに出会われたそうです。
神武天皇は橿原の宮で即位したと伝わりますが、これは作り話しで橿原の宮は想
像の産物とされていました。
ところが昭和13年から始まった末永先生も加わった調査で縄文から弥生時代に
掛けての遺跡が発見されました。
現在の大鳥居の付近では、大きなカシの木の根も出てきました。畝傍山あたりか
ら持ってきた土で、土地の高低を調整し大きな広場を作ってお祭りをしたらしい
のです。その時の一群の土器も出てきました。
末永先生の話では、弥生の終わり頃1世紀辺りと見られる土器も出てきたので
す。
日本書紀には神武天皇が
「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である。
ここに都を造るべきである」
と言われ都造りに着手したとあります。
私は神武天皇の即位年、辛酉を121年と見ています。
調べれば調べるほど奇妙な一致が出てきます。
庶民の家の話しが数百年残っていたとすると、皇家や大きな豪族の伝承などは、
より残り易いと考えていいでしょう。
記紀には考えていた以上に史実が含まれていた可能性があります。
http://newkojiki.com/2016/12/28/%E4%BC%9D%E6%89%BF%E3%81%AF%E4%BD%95%E5%B9%B4%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%84%E4%BC%9D%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%83%BB%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8B/
そのうえで、この国の理想とする統治理念は、どんなものなのか? 日本のビューティフル ハーモニーを模索する議論が必要なんだろう。戦後民主主義は破綻した。その根本的な欠陥は、極端な個人主義だった。
究極の個人を主人公にして、家族や地域をすっぽかして国家と呼ぶ全体に直結して帰属させる戦後民主主義ではなく、弱者や年少者が、身近な家族や地域社会によって支援を受ける、日本人社会の伝統的な仕組みの良さを再発見することだ。
福祉や教育の根底には“愛情”がなければ、意味がない。職業的教育者や、職業的福祉事業者は、支援者にはなれても、主催者にしてはいけない。家庭・家族や身近な地域社会の社会的な存在感の再評価が必要なのだ。
頑固おやじや、長屋の家主や、村の庄屋の再評価かもしれない。
日本型の民主主義は、外国の占領政策や、人民革命がもたらすものではなく、逝きし世の面影のなかにあると思う。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/443.html#c68
長浜浩明は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。
「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。
よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。
余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。
そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3
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長浜浩明は神武東征が河内潟の時代だと主張していますが、河内湖Tの時代が正しい:
河内湖の名残
http://feynmanino.watson.jp/5697_kawachi2.html
邪馬台国とはなんぞや?(43) - altairposeidonのブログ
・古大阪平野の時代:約2万年前
・古河内平野の時代:約9000年前
・河内湾Iの時代:約7000年〜6000年前
・河内湾IIの時代:約5000年〜4000年前
・河内潟の時代:約3000年〜2000年前(BC1050年〜BC50年)
・河内湖Iの時代:約1800年〜1600年前(AD150年から350年)
・河内湖IIの時代〜大阪平野I・IIの時代:約1600年前以降
http://altairposeidon.hatenablog.com/entry/2018/10/11/000000
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霊(ひ)の国の古事記論54 若御毛沼命の河内湖通過(「神武東征」)時期について
http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-entry-70.html
1.「神武東征」か?
御毛沼命と若御毛沼命(後の神倭伊波礼琵古(磐余彦)命、8世紀に神武天皇と諡(おくりな))兄弟のいわゆる「神武東征」については、史実説と虚構説に分かれ、史実説については、記紀史実説(薩摩半島の山幸彦の子孫の征服説)と邪馬台国東征説・東遷説が見られる。
私の説(『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』、ブログ「霊の国の古事記論」)は、「薩摩半島の山幸彦(山人:やまと)の子孫の傭兵部隊の仕官を求めての移動説」であり、「若御毛沼命実在・東征否定説(傭兵隊移動説)」という「おおむね真実、一部虚偽」という第3の説である。
御毛沼命・若御毛沼命兄弟の移動は「東征」か「傭兵隊の移動」か?
なお、第10代崇神天皇以前、第15代応神天皇以前、第26代継体天皇以前の3つの天皇非存在説についての検討はいずれまとめたいが、私の記紀判断の基準に照らし、神話時代を含めた登場人物については、実在人物をモデルに創作されたアマテラスを除き、ほぼ実在していた人物と考える。
2.神話時代の年代論について
皇国史観は神武即位を「BC660年」としたが、那珂通世は「AD元年」、久米邦武は「AD6年」、とし、高木修三氏は『紀年を解読する』(2000年)において「BC29年」、長浜浩明氏は『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』(2012年)において「BC70年」とした。
これらに対して、記紀の年代分析において初めて統計的に科学的分析を行ったのは、安本美典氏である(図参照)。氏は古代の天皇、中世・近世の将軍、中国・西洋の王の在位年数から、古代大王の平均在位年数を約10年とし、神武即位を「AD271年頃」とする統計的な推定を行った。
30〜40代天皇の即位年の直線回帰による私の追試では「AD277年」であり、私はこの安本説を全面的に支持する。
30〜40代天皇の即位年の直線回帰によるスサノオ大神・大国主神16代の即位年の予測
なお、この記紀年代の統計的分析において、安本氏はアマテラスより前の王について検討されていないが、私は古事記神話が始祖としている天御中主までの分析を進めた。
詳しくは前著『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』を参照いただきたいが、結論だけを述べると、AD57年の「委奴国王」の遣使、107年の「倭王師升」の遣使、「100余国を7〜80年支配した王朝」、146〜189年頃の「倭国大乱」、100余国のうちの30国をまとめた「卑弥呼」の238年の遣使、弟王との後継者争いで共立された「壱与」の266年の遣使との照合性について検討を行い、「委奴国王」はスサノオ、「倭王師升」は淤美豆奴(オミズヌ)、「100余国を7〜80年支配した王朝」はスサノオ・大国主王朝7代」、「倭国大乱」は大国主の後継者争い、「卑弥呼」はアマテラスと考える。
3.「神武東征」の時期について
統計的な分析による安本氏の神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)について、物証の裏付けはないのであろうか?
その鍵となるのは、記紀に描かれた若御毛沼らの行動である。その記述は次の通りである。
@古事記:「その国(注:吉備国)より遷り上り幸(い)でましし時、亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙あげて来る人に、速水門(はすひのと)で遇(あ)ひき。・・・故、その国より上り行でましし時、浪速(なみはや)の渡を経て、青雲の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てたまひき」
A日本書紀:「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり。三月の丁卯の朔丙子(十日)、遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」
この「速水門」「浪速の渡」「はやき潮」「遡流而上りて」「草香邑の青雲の白肩津」の記述がその時期を特定する鍵となる。
(1) 「速水門」はどこか?
古事記の「速水門」は吉備出発後の記述であり、考えられるのは備讃瀬戸か明石海峡であるが、備讃瀬戸には「門」と呼べるような狭い海峡はなく、潮流も緩やかで、地形・海流の両方からみて「速水門」と呼べるような場所はない。「速水門」は幅4kmで両側の山が迫って「門」にふさわしく、潮流の早い明石海峡とみて間違いない。
古田武彦氏は『古代は輝いていたU』において、明石海峡は「平穏、清明の海」とし、「速水門」に相応しいのは鳴門海峡としているが、これは全くの事実誤認である。四季、何十回と明石海峡を小さな渡し船で渡った私の経験でいえば、明石海峡の潮流は早い。
海上保安庁 六区豆知識「海の流れについて」
海上保安庁のデータでみると、最大潮流は鳴門海峡10.5ノット、明石海峡6.7ノットであり、備讃瀬戸の3.4ノット、播磨灘の0.4〜0.5ノット、大阪湾の0.3〜0.5ノットと較べると、明石海峡を「速水門」と見るべきである。
一方、日本書紀は「速水門」を筑紫の宇佐への途中に置いているので、豊予海峡(最大6ノット)になる。しかしながら、豊予海峡は14kmと広く、「門」と言えるような地形ではない。
また、黒潮に洗われる笠沙半島を拠点にした隼人族(海幸彦)が豊予海峡を越えるのは苦もなかった筈であり、海岸沿いに行けば日向から宇佐、岡水門へと移動するのに迷うこともない。水先案内人を頼む必要があったとは思えない。
舟で豊予海峡説(最大6ノット)や関門海峡(同9ノット)を越えるのは大変と思われるかも知れないが、下げ潮に乗れば楽々である。私は船折瀬戸(同9ノット=時速17q、村上水軍の根拠地の大島と伯方島の間の瀬戸)を潮流に乗って小型ヨットとカヌーで下ったことがあるが、広い海を早い潮流に乗って移動するのは、狭い川の急流を下るのと較べて何の危険もない。10〜20人乗りの丸木舟の舷側に板を張った重心の重い当時の舟なら、これらの海峡を通過するのに案内人は必要ない。仮に、どうしても下げ潮での通過が怖いなら、潮待ちして、12時間ごとの満潮時か干潮時の停潮期に渡ればよいがそんなことをする海洋民はいないであろう。
奈良盆地にいて海を知らない日本書紀の編集者達は、若御毛沼たちが未知の海に東征の冒険に乗り出したことを印象づけるために、地形も潮流も舟も知らず、「速水門」を明石海峡から豊予海峡に変えたと見てよい。
(2) 「遡流而上りて」はいつの時代か
若御毛沼らは2月11日(3月上旬)に吉備をたち、「速水門」を経て、「浪速の渡」を通り、3月10日に「白肩津」に着いたというのであるが、それは史実であろうか、史実ならいつの時代であろうか。孫引きデータで不安ではあるが、以下、検討したい(いずれ、原データにあたりたい)。
前述の古田武彦氏の『古代は輝いていたU』によれば、弥生・古墳期(約1800〜1600年前:執筆当時から計算しなおすとAD185〜385年)頃の大阪には河内湖があり、若御毛沼らはこの河内湖を舟で進み、「白肩津」に着いたとしている。
長浜浩明氏の『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』にはさらに詳しい図が紹介されているので、その図とHP「水都大阪」のデータを参考にさせていただくと、河内潟・河内湖・河内平野は、次の4つの時代に区分される。
A 河内潟時代(BC1050〜50):湾口が広い、海水湾の時代
B 河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150):干潮時には湖水の水が海に流れ、満潮時には海水が侵入する汽水湖の時代
C 河内湖淡水湖時代(河内湖1の時代、AD150〜350):湾口が狭まって海水の流入がない淡水湖の時代
D 陸地化時代(AD350〜):陸地化が進む時代
日本書紀は「遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」としているが、それはどの時代のことであろうか?
まず、河内潟時代(BC1050〜50)は、河内潟は満潮時も干潮時も海水が満ちており、広い流路で外海と内海は結ばれ、「遡流而上りて」はありえない。
AD185〜385頃の河内湖(古田武彦著『古代は輝いていたU』)
BC1050〜50の河内潟(長浜浩明著『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』)
AD150〜350年頃の河内湖T(前同)
5世紀以降の大阪平野(HP「水都大阪」より)
次の、河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150)は、「浪速(なみはや)の渡」のあたりで湾口は狭まり、満潮時には上げ潮が湖内に流入し、干潮時には下げ潮が湖内から流出する。
想定される当時の「河内湖」より大きさがやや小さい浜名湖(日本1の汽水湖)でみると、上げ潮の速さは2ノット(1m/s)、下げ潮は3〜4ノット(1.5〜2.0m/s)で、その潮流の範囲は湾口からわずかに前後それぞれ1qほどの狭い範囲である(伊東啓勝他「インレット周辺の流況特性把握調査」(『水路 第154号』より)。
この下げ潮の3〜4ノット(1.5〜2.0m/s)というと、軽いカヌーの中速であり、この程度の流れなら簡単に漕ぎ上ることができる。カヌーや競技用ボートが高速で8〜10ノット(4.0〜5.0m/s)程度、26人の漕ぎ手のペーロン船が9ノット(4.5m/s)程度とされているから、汽水湖の下げ潮に逆らっても、特に苦労することもなく遡ることができる。私は琵琶湖の水がただ1カ所流れ出る瀬田川(流速は確かめられなかった)をエイトで何度も往復したことがあるが、軽い性能のいい競技艇ではゆっくり漕いでも楽に流れの速い瀬田川を遡ることができた。
ただ、浜名湖には流入する大きな川はないのに対し、河内湖には滋賀・丹波・京都・奈良の広範囲な流域から水を集める淀川や木津川、大和川などから流入しており、若御毛沼たちが漕ぎ上ったのが冬の渇水期とはいえ、大阪湾への流出口の水流は浜名湖よりはかなり早かったに違いない。
若御毛沼らが10〜20人ほどの重い準構造船(丸木舟の舷側に板を張って高くしたもの)を「遡流而上りて」漕ぎ上るとなると、その通過時期はAD150〜350年の河内湖淡水湖時代とみて間違いない。
彼らには急流の浪速の渡を漕ぎ上ったことが強く印象に残り、「遡流而上りて」と伝わった可能性が高い。
繰り返しになるが、大阪湾と河内潟が広い湾口でつながっていた河内潟時代や、上げ潮のある汽水湖時代には、「遡流而上りて」という表現はでてこないであろう。
(3) 「草香邑の白肩津」はどこか?
「草香邑の白肩津」については、生駒山麓の日下町を当てる説が多いが、私はそこから2.3qほど下った「枚岡」を比定する。「7」を「しち」「ひち」と発音する例などからみて、「しらかた津」は「ひらかた津」の可能性が高く、この地を奈良の登美・春日への最短距離の奈良街道が通っていたことからみても、白肩津は「枚岡」の湖岸にあった港(津)の可能性が高い。
その時代は生駒山麓の陸地化が進んだ河内湖淡水湖時代(AD150〜350)ではありえない。その時代が河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150)であることは、「白肩津」からも裏付けられる。
完全に陸地化した後の8世紀の記紀作者が、「浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき」「遡流而上りて、径に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」というような文章を創作することができないことは言うまでもない。これらの記述には、8世紀の記紀作者が知ることのできない「秘密の暴露」が見られる。
以上、「速水門」「はやき潮」、「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩津」という記紀の記述は後世の創作ではなく、若御毛沼らがAD150〜350年の河内湖T時代にこの地にきた実際の体験であることが明らかである。
これは、安本氏の統計的分析による神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)を裏付けている。
いわゆる「神武東征」は、卑弥呼時代より後になり、神武即位「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しない。
4.「浪速国」の地名由来について
日本書紀の「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり」という若御毛沼による地名命名説話は、記紀や風土記の天皇命名地名の怪しさを示している。
日本書紀の編集者は古事記の「速水門」=明石海峡を豊後水道に置き換えたために、その代わりに明石海峡を「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ」とし、若御毛沼が「名付けて浪速国とす」としたが、明石は播磨の地であり、この地を浪速と名づけることはありえない。そもそも古事記は「浪速(なみはや)の渡」という地名を載せており、若御毛沼らがこの地に来る以前から、「浪速」「難波碕」の地名があったことは明らかである。
なお、私は安本美典氏の北九州から奈良盆地への「地名ワンセット東遷」の指摘は重要と考えるが、九州の地名を持ってきた人々は、もっと前のスサノオ・大国主一族であると考える。「地名ワンセット東遷」を「神武東遷」の証拠とすることはできない。
若御毛沼らの「東征」より先にこの地に「浪速」地名があったことが、それを証明している。
5.「草香邑の白肩津」の由来について
前述のように「白肩(しらかた)津」は「枚潟(ひらかた)津」であったと私は考えるが、「枚潟」というと、関西の人は淀川を遡った「枚方」と考え、「牧」の当て字から「牧場」のイメージを持つかも知れない。
しかし、「草香邑の白肩津」となると、「日下(くさか)」の南にある「枚岡」の麓の「枚潟」(平潟)にあった「津」(港)とみて間違いない。この地に、河内国一之宮の枚岡神社があることと、奈良街道が通っていたことからみて、河内湖時代にはこの地が重要な拠点港であったことが明らかである。
大国主を「国譲り」させて後継者となった「天穂日神」の子の「天日名鳥命、天夷鳥命、武日照命」が「天比良鳥命」とも言われることからみて、「枚=比良」は「日名(夷、日)」と同じであった可能性がある。「はら(腹、原)」「あちら、こちら」の「ら(羅)」は、「はな(鼻)」「ひな(女性の性器=霊(ひ)の宿る所)」などの「な(那、奈)」と同じく、「場所、土地」を示すからである。
記紀によれば、「ひ=日=霊(祖先霊)」であることから考えると、「比良」は「霊羅」で「霊(ひ)の降り立つ聖地」という意味になる。「天日名鳥命」が「出雲祝神」とも呼ばれていることから考えると、この「枚潟(ひらかた)津」は出雲族の祖先霊(磐霊(いわひ):磐座(いわくら)に宿る祖先霊)を祀る聖地であった可能性が高い。
若御毛沼らを傭兵として受け入れず、追い返した「長髄彦(ながすね)彦」が「登美能那賀須泥毘古」と書かれていることをみると、「長髄彦(ながすね)彦」(森浩一氏は「長洲根彦」説)はこの地から生駒山を越えた登美にかけて支配した王であり、この地はその交易と祖先霊信仰の拠点であった可能性が高い。
さらに、「草香邑」は現在、「日下(くさか)」の地名として残っているが、出雲市の日下には、出雲国風土記に登場する古社の「久佐加神社」があり、「草香邑」はこの地からきた出雲族の居住地であった可能性が高い。枚岡神社の所在地が「東大阪市出雲井町」であることや、「青雲の白肩津」という記紀の記述と合わせて考えると、この地が大国主の子孫の王の拠点であったことは確実であろう。
6.「亀に乗ったサヲネツ彦」のいわゆる「神話的表現」について
古事記には、早水門で「亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙げて来る人に遇(あ)ひき」に会った、という印象的な記述が見られる。
この記述から、「神武東征は、亀に乗った浦島太郎伝説をもとに作られた」というような結論を導き出すことはできるであろうか?
まず「亀の甲に乗りて」は次のような現実的な解釈が可能である。
第1の仮説は、「亀の形のような幅広型の舟に乗って釣りをしていた漁師」の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性である。
第2の仮説は、「亀の甲羅のような板舟(幅広のサーフボード)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性である。
第3の仮説は、「桶の舟(たらい舟)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承の「桶」が「瓶(かめ)」に変わり、さらに「亀」に変わって、「亀の甲に乗りて」となって伝わった可能性である。「桶から瓶」、「瓶から亀」への「伝言ゲーム」ミスである。
「浦島太郎伝説をもとにした創作説」が成立するためには、この3つの説を否定しなければならない。
さらに、「打ち羽挙げて来る人」(打羽挙来人)がある。まず亀に乗って竜宮城に行き来した「浦島太郎伝説引用説」ではこの部分は説明が付かない。しかしながら実際の舟を想定すると、「打羽」は帆船の「帆」となり、合理的な解釈が可能である。「うちわ・うちは(団扇)」の語源は「打ち羽」とされており(『日本語源大辞典』)、この風を起こす道具は風を受ける道具でもある。
「サオネツ彦」は浦島太郎のように亀に乗った人ではなく、帆を張った「亀型の幅広舟」か「板舟」、「たらい舟」に乗った漁師の可能性が高い。それは、九州沿岸に見られる舟ではなかったために印象深く言い伝えられたものと考えられる。
若御毛沼兄弟らは、浦島太郎のような空想的な神話上の人物ではなく、釣りをしていた漁師に若御毛沼らが「汝は海道を知るや」と、「浪速の渡」から「白肩津」への水路の案内を頼んだとみるのが妥当である。
7.「神武東遷」について
以上の検討結果をまとめると、「若御毛沼傭兵部隊東遷」について、次の事実が明らかである。
@ 「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩之津」の記述は、8世紀の記紀編集者の創作ではなく、河内湖淡水湖時代(河内湖1の時代:AD150〜350)の印象的な体験談である。
A 若御毛沼による「浪速国」の地名由来は、日本書紀編集者の創作である。
B 「草香邑の青雲の白肩之津」の地名は、この地の王が出雲の大国主の子孫の可能性が高いことを示している。
C 「亀に乗ったサヲネツ彦」は「浦島太郎伝説」を元にした後世の創作ではなく、実際の印象的な体験談(伝承の過程で変容した可能性が高い)である。
8.神武東遷時期の確定は「邪馬台国畿内説」を否定する
以上の検討により、若御毛沼傭兵部隊の奈良盆地への移動は「AD271年頃」(私はAD277年頃)より少し前となり、神武即位「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しない。
この結果は大きい。
邪馬台国畿内説の崩壊である。卑弥呼(248年頃死亡)の時代より、少し後の271〜277年頃に「神武傭兵部隊の東遷」があったことが証明されるからである。
神武より8〜14代後の倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫(第7代孝霊天皇の皇女)や倭姫(第 11代垂仁天皇の皇女)、神功皇后(14代仲哀天皇の皇后)を卑弥呼(248年頃死亡)とする畿内説の全面崩壊である。
古事記によれば、天照大御神からオシホミミ命―ニニギ命―ホホデミ命―ウガヤフキアエズ命―若御毛沼命(神武)と続くが、アマテラスは「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で生まれ、ニニギ命・ホホデミ命・ウガヤフキアエズ命は薩摩半島の笠沙で死んでいる。アマテラスは大和とは無縁である。
なお、言うまでもないが、記紀神話創作説や2〜9代天皇の「欠史8代説」を採用するなら、天照大御神や倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫、倭姫などを歴史上の人物として論ずることがそもそもナンセンスである。記紀からアマテラスだけを「つまみ喰い」するような行儀の悪い考古学者やそれをもてはやす朝日・NHKなどのマスコミ人がいることは、この国の知性の崩壊状況を示しているといわざるをえない。 141019 帆人(日向 勤)
http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-entry-70.html
長浜浩明の「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です:
日本書紀(現代語訳・口語訳の全文)
太歳甲寅11月〜戊午年春3月
https://nihonsinwa.com/page/859.html
原文
十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫国岡水門。
十有二月丙辰朔壬午、至安藝国、居于埃宮。
乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備国、起行館宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。
戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速国、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。
三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內国草香邑雲白肩之津。
現代語訳
太歳甲寅11月
11月の9日に神武天皇は筑紫国(ツクシノクニ)の岡水門(オカノミナト=福岡県遠賀郡の遠賀川河口)に到着しました。
太歳甲寅12月
12月の27日に安芸国の埃宮(エノミヤ=広島県府中町)に滞在しました。
乙卯年春3月
乙卯年(キノトウノトシ)の春三月の6日に吉備国(キビノクニ)に入り、行館(カリミヤ=仮宮)を作って滞在しました。これを高嶋宮(タカシマノミヤ)といいます。三年滞在している間に、船を揃え、兵食(カテ)を備え、ひとたび兵を挙げて天下(アメノシタ)を平定しようと神武天皇は思っていました。
戊午年春2月
戊午年(ツチノエウマノトシ)の春2月の11日。皇師(ミイクサ)はついに東へと向かいました。舳艫(ジクロ=船首と船尾)がぶつかり合うほどに沢山の船団でした。難波之碕(ナニワノサキ)に到着すると、潮が速いところがあった。それでこの場所を浪速国(ナミハヤノクニ)といいます。また浪花(ナミハナ)といいます。今、難波と呼ばれるのはこれらが訛ったものです。
訛は與許奈磨盧(ヨコナマル)と読みます。
戊午年春3月
三月の10日。流れを遡(サカノボ)って、河内国(カワチノクニ)草香邑(クサカムラ)雲(アオクモ)白肩之津(シラカタノツ)に到着しました。
https://nihonsinwa.com/page/859.html
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日本書紀(原文) 日本書紀巻03/神武天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html
~日本磐余彥天皇 ~武天皇
~日本磐余彥天皇、諱彥火火出見、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。母曰玉依姬、海童之少女也。天皇生而明達、意礭如也、年十五立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命。
及年卌五歲、謂諸兄及子等曰「昔我天~、高皇産靈尊・大日孁尊、舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊。於是火瓊々杵尊、闢天關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考、乃~乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」諸皇子對曰「理實灼然、我亦恆以爲念。宜早行之。」是年也、太歲甲寅。
其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時有一漁人乘艇而至、天皇招之、因問曰「汝誰也。」對曰「臣是國~、名曰珍彥、釣魚於曲浦。聞天~子來、故卽奉迎。」又問之曰「汝能爲我導耶。」對曰「導之矣。」天皇、勅授漁人椎㰏末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彥椎、此云辭毗、此卽倭直部始祖也。行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也、此云宇佐。時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。
十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。
十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。
乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備國、起行宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。
戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速國、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。
三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內國草香邑雲白肩之津。
夏四月丙申朔甲辰、皇師勒兵、步趣龍田。而其路狹嶮、人不得並行、乃還更欲東踰膽駒山而入中洲。時、長髄彥聞之曰「夫天~子等所以來者、必將奪我國。」則盡起屬兵、徼之於孔舍衞坂、與之會戰。有流矢、中五瀬命肱脛。皇師不能進戰、天皇憂之、乃運~策於沖衿曰「今我是日~子孫而向日征虜、此逆天道也。不若、退還示弱、禮祭~祇、背負日~之威、隨影壓躡。如此、則曾不血刃、虜必自敗矣。」僉曰「然。」於是、令軍中曰「且停、勿須復進。」乃引軍還。虜亦不敢逼、却至草香之津、植盾而爲雄誥焉。雄誥、此云烏多鶏縻。因改號其津曰盾津、今云蓼津訛也。初、孔舍衞之戰、有人隱於大樹而得兔難、仍指其樹曰「恩如母。」時人、因號其地曰母木邑、今云飫悶廼奇訛也。
五月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門。亦名山井水門。茅淳、此云智怒。時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰撫劒、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢「慨哉、大丈夫慨哉、此云宇黎多棄伽夜被傷於虜手、將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山。
六月乙未朔丁巳、軍至名草邑、則誅名草戸畔者。戸畔、此云妬鼙。遂越狹野而到熊野~邑、且登天磐盾、仍引軍漸進。海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天~、母則海~。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲鋤持~。三毛入野命、亦恨之曰「我母及姨並是海~。何爲起波瀾、以灌溺乎。」則蹈浪秀而往乎常世ク矣。
天皇獨與皇子手硏耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津亦名丹敷浦、因誅丹敷戸畔者。時、~吐毒氣、人物咸瘁、由是、皇軍不能復振。時彼處有人、號曰熊野高倉下、忽夜夢、天照大~謂武甕雷~曰「夫葦原中國猶聞喧擾之響焉。聞喧擾之響焉、此云左揶霓利奈離。宜汝更往而征之。」武甕雷~對曰「雖予不行、而下予平國之劒、則國將自平矣。」天照大~曰「諾。諾、此云宇毎那利。」時武甕雷~、登謂高倉下曰「予劒號曰韴靈。韴靈、此云赴屠能瀰哆磨。今當置汝庫裏。宜取而獻之天孫。」高倉下曰「唯々」而寤之。明旦、依夢中教、開庫視之、果有落劒倒立於庫底板、卽取以進之。
于時、天皇適寐。忽然而寤之曰「予何長眠若此乎。」尋而中毒士卒、悉復醒起。既而皇師、欲趣中洲、而山中嶮絶、無復可行之路、乃棲遑不知其所跋渉。時夜夢、天照大~訓于天皇曰「朕今遣頭八咫烏、宜以爲ク導者。」果有頭八咫烏、自空翔降。天皇曰「此烏之來、自叶祥夢。大哉、赫矣、我皇祖天照大~、欲以助成基業乎。」是時、大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目、督將元戎、蹈山啓行、乃尋烏所向、仰視而追之。遂達于菟田下縣、因號其所至之處、曰菟田穿邑。穿邑、此云于介知能務羅。于時、勅譽日臣命曰「汝忠而且勇、加能有導之功。是以、改汝名爲道臣。」
秋八月甲午朔乙未、天皇使徵兄猾及弟猾者。猾、此云字介志。是兩人、菟田縣之魁帥者也。魁帥、此云比ケ誤廼伽瀰。時、兄猾不來、弟猾卽詣至、因拜軍門而告之曰「臣兄々猾之爲逆狀也、聞天孫且到、卽起兵將襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潛伏其兵、權作新宮而殿內施機、欲因請饗以作難。願知此詐、善爲之備。」天皇卽遣道臣命、察其逆狀。時道臣命、審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰「虜、爾所造屋、爾自居之。」爾、此云飫例。因案劒彎弓、逼令催入。兄猾、獲罪於天、事無所辭、乃自蹈機而壓死、時陳其屍而斬之、流血沒踝、故號其地、曰菟田血原。已而弟猾大設牛酒、以勞饗皇師焉。天皇以其酒宍、班賜軍卒、乃爲御謠之曰、謠、此云宇哆預瀰。
于儾能多伽機珥 辭藝和奈陂蘆 和餓末菟夜 辭藝破佐夜羅孺 伊殊區波辭 區旎羅佐夜離 固奈瀰餓 那居波佐麼 多智曾麼能 未廼那鶏句塢 居氣辭被惠禰 宇破奈利餓 那居波佐麼 伊智佐介幾 未廼於朋鶏句塢 居氣儾被惠禰
是謂來目歌。今樂府奏此歌者、猶有手量大小、及音聲巨細、此古之遺式也。是後、天皇欲省吉野之地、乃從菟田穿邑、親率輕兵巡幸焉。至吉野時、有人出自井中、光而有尾。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是國~、名爲井光。」此則吉野首部始祖也。更少進、亦有尾而披磐石而出者。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是磐排別之子。」排別、此云飫時和句。此則吉野國樔部始祖也。及緣水西行、亦有作梁取魚者。梁、此云揶奈。天皇問之、對曰「臣是苞苴擔之子。」苞苴擔、此云珥倍毛菟。此則阿太養鸕部始祖也。
九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。時、國見丘上則有八十梟帥梟帥、此云多稽屢、又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置焃炭。其女坂・男坂・墨坂之號、由此而起也。復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。磯、此云志。賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通。天皇惡之、是夜自祈而寢、夢有天~訓之曰「宜取天香山社中土香山、此云介遇夜摩以造天平瓮八十枚平瓮、此云毗邏介幷造嚴瓮而敬祭天~地祇嚴瓮、此云怡途背、亦爲嚴呪詛。如此、則虜自平伏。」嚴呪詛、此云怡途能伽辭離。
天皇、祇承夢訓、依以將行、時弟猾又奏曰「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑或本云、葛城邑也、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、臣竊爲天皇憂之。宜今當取天香山埴、以造天平瓮而祭天社國社之~、然後擊虜則易除也。」天皇、既以夢辭爲吉兆、及聞弟猾之言、u喜於懷。乃使椎根津彥、著弊衣服及蓑笠、爲老父貌、又使弟猾被箕、爲老嫗貌、而勅之曰「宜汝二人到天香山潛取其巓土而可來旋矣。基業成否、當以汝爲占。努力愼歟。」
是時、虜兵滿路、難以往還。時、椎根津彥、乃祈之曰「我皇當能定此國者行路自通、如不能者賊必防禦。」言訖徑去。時、群虜見二人、大咲之曰「大醜乎大醜、此云鞅奈瀰爾句老父老嫗。」則相與闢道使行、二人得至其山、取土來歸。於是、天皇甚ス、乃以此埴、造作八十平瓮・天手抉八十枚手抉、此云多衢餌離嚴瓮、而陟于丹生川上、用祭天~地祇。則於彼菟田川之朝原、譬如水沫而有所呪著也。天皇又因祈之曰「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。又祈之曰「吾今當以嚴瓮、沈于丹生之川。如魚無大小悉醉而流、譬猶范t之浮流者艨A此云磨紀、吾必能定此國。如其不爾、終無所成。」乃沈瓮於川、其口向下、頃之魚皆浮出、隨水噞喁。
時、椎根津彥、見而奏之。天皇大喜、乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹、以祭諸~。自此始有嚴瓮之置也。時勅道臣命「今、以高皇産靈尊、朕親作顯齋。顯齋、此云于圖詩怡破毗。用汝爲齋主、授以嚴媛之號。而名其所置埴瓮爲嚴瓮、又火名爲嚴香來雷、水名爲嚴罔象女罔象女、此云瀰菟破廼迷、糧名爲嚴稻魂女稻魂女、此云于伽能迷、薪名爲嚴山雷、草名爲嚴野椎。」
冬十月癸巳朔、天皇嘗其嚴瓮之粮、勒兵而出。先擊八十梟帥於國見丘、破斬之。是役也、天皇志存必克、乃爲御謠之曰、
伽牟伽筮能 伊齊能于瀰能 於費異之珥夜 異波臂茂等倍屢 之多儾瀰能 之多儾瀰能 阿誤豫 阿誤豫 之多太瀰能 異波比茂等倍離 于智弖之夜莽務 于智弖之夜莽務
謠意、以大石喩其國見丘也。既而餘黨猶繁、其情難測、乃顧勅道臣命「汝、宜帥大來目部、作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜而取之。」道臣命、於是奉密旨、掘窨於忍坂而選我猛卒、與虜雜居、陰期之曰「酒酣之後、吾則起歌。汝等聞吾歌聲、則一時刺虜。」已而坐定酒行、虜不知我之有陰謀、任情徑醉。時道臣命、乃起而歌之曰、
於佐箇廼 於朋務露夜珥 比苔瑳破而 異離烏利苔毛 比苔瑳破而 枳伊離烏利苔毛 瀰都瀰都志 倶梅能固邏餓 勾騖都都伊 異志都々伊毛智 于智弖之夜莽務
時、我卒聞歌、倶拔其頭椎劒、一時殺虜、虜無復噍類者。皇軍大ス、仰天而咲、因歌之曰、
伊莽波豫 伊莽波豫 阿阿時夜塢 伊莽儾而毛 阿誤豫 伊莽儾而毛 阿誤豫
今、來目部歌而後大哂、是其緣也。又歌之曰、
愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒
此皆承密旨而歌之、非敢自專者也。時天皇曰「戰勝而無驕者、良將之行也。今魁賊已滅、而同惡者、匈々十數群、其情不可知。如何久居一處、無以制變。」乃徙營於別處。
十有一月癸亥朔己巳、皇師大舉、將攻磯城彥。先遣使者徵兄磯城、兄磯城不承命。更遺頭八咫烏召之、時烏到其營而鳴之曰「天~子召汝。怡奘過、怡奘過。過、音倭。」兄磯城忿之曰「聞天壓~至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。壓、此云飫蒭。」乃彎弓射之、烏卽避去、次到弟磯城宅而鳴之曰「天~子召汝。怡奘過、怡奘過。」時弟磯城惵然改容曰「臣聞天壓~至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。」卽作葉盤八枚、盛食饗之。葉盤、此云毗羅耐。因以隨烏、詣到而告之曰「吾兄々磯城、聞天~子來、則聚八十梟帥、具兵甲、將與決戰。可早圖之。」
天皇乃會諸將、問之曰「今、兄磯城、果有逆賊之意、召亦不來。爲之奈何。」諸將曰「兄磯城、黠賊也。宜先遣弟磯城曉喩之幷說兄倉下・弟倉下。如遂不歸順、然後舉兵臨之、亦未晩也。倉下、此云衢羅餌。」乃使弟磯城、開示利害。而兄磯城等猶守愚謀、不肯承伏。時、椎根津彥、計之曰「今者宜先遣我女軍、出自忍坂道。虜見之必盡鋭而赴。吾則駈馳勁卒、直指墨坂、取菟田川水、以灌其炭火、儵忽之間出其不意、則破之必也。」天皇善其策、乃出女軍以臨之。虜謂大兵已至、畢力相待。先是、皇軍攻必取、戰必勝、而介胃之士、不無疲弊。故、聊爲御謠、以慰將卒之心焉、謠曰、
哆々奈梅弖 伊那瑳能椰摩能 虛能莽由毛 易喩耆摩毛羅毗 多多介陪麼 和例破椰隈怒 之摩途等利 宇介譬餓等茂 伊莽輸開珥虛禰
果以男軍越墨坂、從後夾擊破之、斬其梟帥兄磯城等。
十有二月癸巳朔丙申、皇師遂擊長髄彥、連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷、乃有金色靈鵄、飛來止于皇弓之弭、其鵄光曄U、狀如流電。由是、長髄彥軍卒皆迷眩、不復力戰。長髄、是邑之本號焉、因亦以爲人名。及皇軍之得鵄瑞也、時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也。昔孔舍衞之戰、五瀬命中矢而薨、天皇銜之、常懷憤懟、至此役也、意欲窮誅、乃爲御謠之曰、
瀰都瀰都志 倶梅能故邏餓 介耆茂等珥 阿波赴珥破 介瀰羅毗苔茂苔 曾廼餓毛苔 曾禰梅屠那藝弖 于笞弖之夜莽務
又謠之曰、
瀰都々々志 倶梅能故邏餓 介耆茂等珥 宇惠志破餌介瀰 句致弭比倶 和例破涴輸例儒 于智弖之夜莽務
因復縱兵忽攻之、凡諸御謠、皆謂來目歌、此的取歌者而名之也。時、長髄彥乃遣行人、言於天皇曰「嘗有天~之子、乘天磐船、自天降止、號曰櫛玉饒速日命。饒速日、此云儞藝波揶卑。是娶吾妹三炊屋媛亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛遂有兒息、名曰可美眞手命。可美眞手、此云于魔詩莽耐。故、吾以饒速日命、爲君而奉焉。夫天~之子、豈有兩種乎、奈何更稱天~子、以奪人地乎。吾心推之、未必爲信。」天皇曰「天~子亦多耳。汝所爲君、是實天~之子者、必有表物。可相示之。」
長髄彥、卽取饒速日命之天羽々矢一隻及步靫、以奉示天皇。天皇覽之曰「事不虛也。」還以所御天羽々矢一隻及步靫、賜示於長髄彥。長髄彥、見其天表、u懷踧踖、然而凶器已構、其勢不得中休、而猶守迷圖、無復改意。饒速日命、本知天~慇懃唯天孫是與、且見夫長髄彥禀性愎佷、不可教以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉。天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。
己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。丘岬、此云塢介佐棄。又和珥坂下、有居勢祝者。坂下、此云瑳伽梅苔。臍見長柄丘岬、有猪祝者。此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。天皇乃分遺偏師、皆誅之。又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。夫磐余之地、舊名片居片居、此云伽哆韋、亦曰片立片立、此云伽哆哆知、逮我皇師之破虜也、大軍集而滿於其地、因改號爲磐余。
或曰「天皇、往嘗嚴瓮粮、出軍西征、是時、磯城八十梟帥、於彼處屯聚居之。屯聚居、此云怡波瀰萎。果與天皇大戰、遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。」又皇師立誥之處、是謂猛田。作城處、號曰城田。又賊衆戰死而僵屍、枕臂處、呼爲頰枕田。天皇、以前年秋九月、潛取天香山之埴土、以造八十平瓮、躬自齋戒祭諸~、遂得安定區宇、故號取土之處、曰埴安。
三月辛酉朔丁卯、下令曰「自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未C餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授國之コ、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之。」
是月、卽命有司、經始帝宅。
庚申年秋八月癸丑朔戊辰、天皇當立正妃、改廣求華胄、時有人奏之曰「事代主~、共三嶋溝橛耳~之女玉櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。是國色之秀者。」天皇ス之。九月壬午朔乙巳、納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。
辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后、生皇子~八井命・~渟名川耳尊。故古語稱之曰「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰~日本磐余彥火々出見天皇焉。」初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。
二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞。賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彥爲倭國造。珍彥、此云于砮毗故。又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名K速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城國造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。
四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天~、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天~焉。
卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。姸哉、此云鞅奈珥夜。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉。」由是、始有秋津洲之號也。昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。秀眞國、此云袍圖莽句爾。」復、大己貴大~目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是ク而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」
卌有二年春正月壬子朔甲寅、立皇子~渟名川耳尊、爲皇太子。
七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七歲。明年秋九月乙卯朔丙寅、葬畝傍山東北陵。
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html
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古事記 中の卷 神武東征
大和国造の先祖サオネツヒコ
https://nihonsinwa.com/page/404.html
原文の読み下し文
また「従ひて仕へ奉らむや」と問ひたまへば、「仕へ奉らむ」と答へ曰しき。かれここに、槁機を指し渡し、その御船に引き入れて、即ち、名を賜ひて槁根津日子と号けたまひき。こは倭国造等の祖なり。
現代語訳
その亀に乗って釣りをしていた人に
「わたしたちに従い、仕えないか?」
と尋ねると
「お仕えしましょう」
と答えました。
その人に槁機(=竿)を差し渡して、兄弟神の船へと引き入れました。
そして槁根津日子(サオネツヒコ)という名前を授けました。
この人は倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)などの先祖です。
日本書紀の対応箇所
太歳甲寅冬十月−1 椎の木の竿の先を渡して
https://nihonsinwa.com/page/855.html
那賀須泥毘古との戦い
https://nihonsinwa.com/page/405.html
原文の読み下し文
故、その国より上り行でましし時、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき。この時、登美の那賀須泥毘古、軍を興して待ち向へて戦ひき。
現代語訳
その国から出発して東へと向かいました。
浪速の渡(ナミハヤノワタリ)を通って白肩津(シラカタノツ)に船を泊めました。
そのときに、登美(トミ)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が兵を集めて待ち受けていて、戦争になりました。
https://nihonsinwa.com/page/405.html
盾を取り出して戦いました
https://nihonsinwa.com/page/406.html
原文の読み下し文
ここに御船に入れたる楯を取りて下り立ちたまひき。故、其地を号けて楯津といひき。今に日下の蓼津と云ふ。
現代語訳
那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が戦いを挑んできたので、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ命)と五瀬命(イツセ命)は船から「盾」を取り出して船から下りて戦いました。その土地を名付けて盾津(=タテツ)といいます。現在は日下の蓼津(タデツ)といいます。
日本書紀の対応箇所
戊午年夏四月 退却の判断
https://nihonsinwa.com/page/863.html
手痛い矢を受けるイツセ命
https://nihonsinwa.com/page/407.html
原文の読み下し文
ここに登美毘古と戦ひたまひし時に、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串を負ひたまひき。かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賎しき奴が痛手を負ひぬ。今より行き廻りて背に日を負ひて撃たむ」と期りて、南の方より廻り幸でましし時、血沼海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。故、血沼海といふ。
現代語訳
登美毘古(トミビコ=ナガスネヒコ)と戦ったとき、
五瀬命(イツセ命)は手に登美毘古の痛矢串(イタヤグシ=矢を受けた傷)を負いました。
傷を受けたとき、五瀬命(イツセ命)は言いました。
「わたしは日の神の皇子なのに
日に向かって戦ってしまった。
これは良くなかった。
だから、卑しい奴に痛手を負わされた。
これからは回り道をして、太陽を背にして戦おう」
と誓い、南から回って血沼海に到着して
その手の血を洗いました。
それで「血沼海(チヌノウミ)」と呼ぶようになりました。
日本書紀の対応箇所
戊午年夏四月 退却の判断
https://nihonsinwa.com/page/863.html
五月丙寅朔癸酉 五瀬命の雄叫びと死
https://nihonsinwa.com/page/903.html
紀伊国の男乃水門で死亡
https://nihonsinwa.com/page/903.html
原文の読み下し文
其地より廻り幸でまして、紀国の男之水門に到りて詔りたまはく、「賎しき奴が手を負ひてや死なむ」と男建びして崩りましき。故、その水門を号けて男の水門と謂ふ。陵は紀国の竈山にあり。
現代語訳
その地(地沼海)から更に回って、紀伊国の男乃水門(オノミナト)に着いて言いました。
「卑しい奴によって、手に傷を負って、死ねるか!」
と雄雄しく振舞いましたが、
死んでしまいました。
その水門(ミナト=港)を名づけて男乃水門(オノミナト)というようになりました。イツセ命の墓は紀伊の国の竈山(カマヤマ)にあります。
日本書紀の対応箇所
戊午年夏四月 退却の判断
https://nihonsinwa.com/page/863.html
五月丙寅朔癸酉 五瀬命の雄叫びと死
https://nihonsinwa.com/page/903.html
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古事記 中巻-1/神武天皇〜開化天皇 原文
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html
~倭伊波禮毘古命自伊下五字以音與其伊呂兄五瀬命伊呂二字以音二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。
亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。自多下三字以音。亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國~。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。
故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古自登下九字以音興軍待向以戰、爾取所入御船之楯而下立、故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。故爾詔「吾者爲日~之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」期而、自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。從其地廻幸、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。
故、~倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時、大熊髮出入卽失。爾~倭伊波禮毘古命、倐忽爲遠延、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以音。此時、熊野之高倉下此者人名賷一横刀、到於天~御子之伏地而獻之時、天~御子卽寤起、詔「長寢乎。」故、受取其横刀之時、其熊野山之荒~、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍、悉寤起之。
故、天~御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰「己夢云、天照大~・高木~二柱~之命以、召建御雷~而詔『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐良志此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷~可降。』爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都~、亦名云甕布都~、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上~宮也。降此刀狀者、穿高倉下之倉頂、自其墮入。故、阿佐米余玖自阿下五字以音汝取持、獻天~御子。』故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而獻耳。」
於是亦、高木大~之命以覺白之「天~御子、自此於奧方莫使入幸。荒~甚多。今、自天遣八咫烏、故其八咫烏引道、從其立後應幸行。」故隨其教覺、從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時、作筌有取魚人。爾天~御子、問「汝者誰也。」答曰「僕者國~、名謂贄持之子。」此者阿陀之鵜飼之祖。從其地幸行者、生尾人、自井出來、其井有光。爾問「汝誰也。」答曰「僕者國~、名謂井氷鹿。」此者吉野首等祖也。卽入其山之、亦遇生尾人、此人押分巖而出來。爾問「汝者誰也。」答曰「僕者國~、名謂石押分之子。今聞天~御子幸行、故參向耳。」此者吉野國巢之祖。自其地蹈穿越幸宇陀、故曰宇陀之穿也。
故爾、於宇陀有兄宇迦斯自宇以下三字以音、下效此也弟宇迦斯二人。故先遣八咫烏問二人曰「今天~御子幸行。汝等仕奉乎。」於是兄宇迦斯、以鳴鏑待射返其使、故其鳴鏑所落之地、謂訶夫羅前也。將待擊云而聚軍、然不得聚軍者、欺陽仕奉而、作大殿、於其殿內作押機、待時。弟宇迦斯先參向、拜曰「僕兄・兄宇迦斯、射返天~御子之使、將爲待攻而聚軍、不得聚者、作殿其內張押機、將待取。故、參向顯白。」
爾大伴連等之祖・道臣命、久米直等之祖・大久米命、二人、召兄宇迦斯罵詈云「伊賀此二字以音所作仕奉於大殿內者、意禮此二字以音先入、明白其將爲仕奉之狀。」而、卽握横刀之手上、矛由氣此二字以音矢刺而、追入之時、乃己所作押見打而死。爾卽控出斬散、故其地謂宇陀之血原也。然而其弟宇迦斯之獻大饗者、悉賜其御軍、此時歌曰、
宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊能碁布曾。此五字以音。阿阿音引志夜胡志夜 此者嘲咲者也。
故、其弟宇迦斯、此者宇陀水取等之祖也。
自其地幸行、到忍坂大室之時、生尾土雲訓云具毛八十建、在其室待伊那流。此三字以音。故爾、天~御子之命以、饗賜八十建、於是宛八十建、設八十膳夫、毎人佩刀、誨其膳夫等曰「聞歌之者、一時共斬。」故、明將打其土雲之歌曰、
意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯
如此歌而、拔刀一時打殺也。
然後、將擊登美毘古之時、歌曰、
美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟
又歌曰、
美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟
又歌曰、
加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟
又擊兄師木・弟師木之時、御軍暫疲、爾歌曰、
多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇上加比賀登母 伊麻須氣爾許泥
故爾、邇藝速日命參赴、白於天~御子「聞天~御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。
故、如此言向平和荒夫琉~等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。
故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比賣自阿以下五字以音生子、多藝志美美命、次岐須美美命、二柱坐也。然更求爲大后之美人時、大久米命曰「此間有媛女、是謂~御子。其所以謂~御子者、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、其容姿麗美。故、美和之大物主~見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。此二字以音。下效此。爾其美人驚而、立走伊須須岐伎此五字以音、乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、卽娶其美人生子、名謂富登多多良伊須須岐比賣命、亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣。是者惡其富登云事、後改名者也。故、是以謂~御子也。」
於是七媛女、遊行於高佐士野佐士二字以音、伊須氣余理比賣在其中。爾大久米命、見其伊須氣余理比賣而、以歌白於天皇曰、
夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟
爾伊須氣余理比賣者、立其媛女等之前。乃天皇見其媛女等而、御心知伊須氣余理比賣立於最前、以歌答曰、
加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟
爾大久米命、以天皇之命、詔其伊須氣余理比賣之時、見其大久米命黥利目而、思奇歌曰、
阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米
爾大久米命、答歌曰、
袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米
故、其孃子、白之「仕奉也。」於是其伊須氣余理比賣命之家、在狹井河之上。天皇幸行其伊須氣余理比賣之許、一宿御寢坐也。其河謂佐韋河由者、於其河邊山由理草多在。故、取其山由理草之名、號佐韋河也。山由理草之本名云佐韋也。後、其伊須氣余理比賣、參入宮內之時、天皇御歌曰、
阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯
然而阿禮坐之御子名、日子八井命、次~八井耳命、次~沼河耳命、三柱。
故、天皇崩後、其庶兄當藝志美美命、娶其嫡后伊須氣余理比賣之時、將殺其三弟而謀之間、其御祖伊須氣余理比賣患苦而、以歌令知其御子等、歌曰、
佐韋賀波用 久毛多知和多理 宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須
又歌曰、
宇泥備夜麻 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流
於是其御子聞知而驚、乃爲將殺當藝志美美之時、~沼河耳命、曰其兄~八井耳命「那泥此二字以音汝命、持兵入而、殺當藝志美美。」故、持兵入以將殺之時、手足和那那岐弖此五字以音不得殺。故爾其弟~沼河耳命、乞取其兄所持之兵、入、殺當藝志美美。故亦稱其御名、謂建沼河耳命。
爾~八井命、讓弟建沼河耳命曰「吾者不能殺仇。汝命既得殺仇。故、吾雖兄不宜爲上、是以汝命爲上治天下、僕者扶汝命、爲忌人而仕奉也。」故、其日子八井命者、茨田連、手嶋連之祖。~八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也。~沼河耳命者、治天下也。
凡此~倭伊波禮毘古天皇御年、壹佰參拾漆歲。御陵在畝火山之北方白檮尾上也。
~沼河耳命、坐葛城高岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・河俣毘賣、生御子、師木津日子玉手見命。一柱天皇御年、肆拾伍歲。御陵在衝田岡也。
師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮、治天下也。此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女・阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命自伊下三字以音、次大倭日子鉏友命、次師木津日子命。此天皇之御子等、幷三柱之中、大倭日子鉏友命者、治天下也。次師木津日子命之子、二王坐、一子孫者伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置之祖、一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。天皇御年、肆拾玖歲。御陵在畝火山之美富登也。
大倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命自訶下四字以音、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。次當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖。天皇御年、肆拾伍歲、御陵在畝火山之眞名子谷上也。
御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也。
大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子賦斗邇命。二柱。自賦下三字以音。故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。天皇御年、壹佰貳拾參歲、御陵在玉手岡上也。
大倭根子日子賦斗邇命、坐K田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之祖大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱。此天皇之御子等、幷八柱。男王五、女王三。
故、大倭根子日子國玖琉命者、治天下也。大吉備津日子命與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口、以言向和吉備國也。故、此大吉備津日子命者、吉備上道臣之祖也。次若日子建吉備津日子命者、吉備下道臣、笠臣祖。次日子寤間命者、針間牛鹿臣之祖也。次日子刺肩別命者、高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿海直之祖也。天皇御年、壹佰陸歲。御陵在片岡馬坂上也。
大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命色許二字以音、下效此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。自比至都以音。又娶河內青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命、自比至士六字以音。此者膳臣之祖也。
比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣那毘二字以音、生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。又娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。
此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。
此天皇御年、伍拾漆歲。御陵在劒池之中岡上也。
若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。此天皇、娶旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣、生御子、比古由牟須美命。一柱。此王名以音。又娶庶母・伊迦賀色許賣命、生御子、御眞木入日子印惠命印惠二字以音、次御眞津比賣命。二柱。又娶丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命意祁都三字以音、生御子、日子坐王。一柱。又娶葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣、生御子、建豐波豆羅和氣。一柱。自波下五字以音。此天皇之御子等、幷五柱。男王四、女王一。故、御眞木入日子印惠命者、治天下也。
其兄・比古由牟須美王之子、大筒木垂根王、次讚岐垂根王。二王。讚岐二字以音。此二王之女、五柱坐也。
次日子坐王、娶山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨此一字以音生子、大俣王、次小俣王、次志夫美宿禰王。三柱。又娶春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣、生子、沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘賣命・亦名佐波遲比賣此沙本毘賣命者、爲伊久米天皇之后。自沙本毘古以下三王名皆以音、次室毘古王。四柱。又娶近淡海之御上祝以伊都玖此三字以音天之御影~之女・息長水依比賣、生子、丹波比古多多須美知能宇斯王此王名以音、次水之穗眞若王、次~大根王・亦名八瓜入日子王、次水穗五百依比賣、次御井津比賣。五柱又娶其母弟・袁祁都比賣命、生子、山代之大筒木眞若王、次比古意須王、次伊理泥王。三柱。此二王名以音。凡日子坐王之子、幷十一王。
故、兄大俣王之子、曙立王、次菟上王。二柱。此曙立王者、伊勢之品遲部君、伊勢之佐那造之祖。菟上王者、比賣陀君之祖。次小俣王者、當麻勾君之祖。次志夫美宿禰王者、佐佐君之祖也。次沙本毘古王者、日下部連、甲斐國造之祖。次袁邪本王者、葛野之別、近淡海蚊野之別祖也。次室毘古王者、若狹之耳別之祖。
其美知能宇志王、娶丹波之河上之摩須郎女、生子、比婆須比賣命、次眞砥野比賣命、次弟比賣命、次朝廷別王。四柱。此朝廷別王者、三川之穗別之祖。此美知能宇斯王之弟、水穗眞若王者、近淡海之安直之祖。次~大根王者、三野國之本巢國造、長幡部連之祖。
次山代之大筒木眞若王、娶同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。迦邇米三字以音。此王、娶丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。此王、娶葛城之高額比賣、生子、息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王。三柱。此王者、吉備品遲君、針間阿宗君之祖。又息長宿禰王、娶河俣稻依毘賣、生子、大多牟坂王。多牟二字以音。此者多遲摩國造之祖也。
上所謂建豐波豆羅和氣王者、道守臣、忍海部造、御名部造、稻羽忍海部、丹波之竹野別、依網之阿毘古等之祖也。
天皇御年、陸拾參歲。御陵在伊邪河之坂上也。
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c23
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【我那覇真子「おおきなわ」#74】
長浜浩明〜韓国人とは遠縁だった!遺伝子から探る日本人のルーツ[桜R1-6-21] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7CPxmCGtjR0
【我那覇真子「おおきなわ」#75】
長浜浩明〜遺伝子が証明!沖縄の先祖たちは、日本本土から移住した縄文人だった[桜R1-6-28] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BezxJ6uRi1g
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c24
第四条(条約の失効)
国際連合の措置または代替されうる別の安全保障措置の効力を生じたと両国政府が認識した場合に失効する。
実際にはこれを実現し、恒久平和達成に近づくべきである。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/539.html#c11
◆世界を支配する者たち
パネリスト:
河添恵子(ノンフィクション作家)
田村秀男(産経新聞特別記者・編集委員兼論説委員)
林千勝(戦史研究家)
馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
山岡鉄秀(公益財団法人モラロジー研究所研究員・Australia-Japan Community Network Inc.代表)
司会:水島総
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/715.html#c7
お久しぶりです。もうすぐ選挙戦です。
インチキ世論調査を覆す為にも、とにかく投票率を上げましょう!
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/503.html#c52
アメリカは他国の投資を無視して勝手に制裁や凍結をして世界中の経済発展の邪魔ばっかりしている、早く亡くならないかな。
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/717.html#c3
>これまで世の中にお金がたくさん出回れば、物を買う人が増え企業にも利益が出て、経済は成長する、と信じられてきた。ところが世界はお金の量をいくら増やしても効果が得られなくなっているという。
>ケネス・ロゴフ(経済学者)「現在の”お金”ではもう経済は活性化できません」
バスカー・チャクラボルティ(経済学者)「むしろ現金が経済の”害”になり始めたのです」
>日本人のタンス預金:47兆円。日本企業の内部留保:447兆円。
日本がお金をやり取りする量は年々減少し、お金が動かなくなっている。そのグラフ貨幣速度:1990年代前半を「1」とすると、以降は年々速度が下がり続け2018年には「0.6」以下になっている。
それどころか、お金を増やしてきたことで、思わぬ悪影響が出て来ている。
ケンス・ロゴフ(ハーバード大学教授)「実は世界で大量に刷った現金の多くが犯罪などいわゆる”地下経済”に向かっていることが分かってきた」
米国の地下経済の希望は143兆円(GDPの7%)と、ドイツの国家予算を上回る額に達している。
さらにお金を増やしつづけることで重大な問題が世界で相次ぐようになった。信用が低下し逆に経済を破綻へと追い込む現象である(ベネゼイラの例:貧困率87%)。
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/680.html#c8
始まりますね。
性悪男にとっちゃあ、釣った女は活かさず殺さず。
下駄の雪みたいなもんで、踏もうが何しようがちょっとかまってやればついて来る。
俗世間ではカスみたいなこんな男も、外交の世界では評価される。
一方、哀れを誘うこんな女は、外交の世界じゃただのカス。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/539.html#c12
(詳細)
・http://tanakanews.com/190629korea.htm
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/718.html
誰か力のある人がかわりにやってくれると思ったら大間違いだぞ。
穏健に事を済ませようと思うな。
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/684.html#c7
長浜浩明は基礎学力ゼロの完全なアホだった
という結論で間違い無いです。
しかし、右翼は何故こんな詐欺師の言う事をすぐに信じるのかな?
長浜浩明は基礎学力ゼロの完全なアホだった
という結論で間違い無いです。
しかし、右翼は何故こんな詐欺師の言う事をすぐに信じるのかな?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html#c25
という事で
長浜浩明は基礎学力ゼロの完全なアホだった
という結論で間違い無いです。
しかし、右翼は何故こんな詐欺師の言う事をすぐに信じるのかな?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c218
チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html
西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html
自ら 映画『主戦場』 を宣伝してくれる右派出演者たち
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/486.html
朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html
吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html
自称 中国・朝鮮問題の専門家 加瀬英明 : 慰安婦問題の最高権威 吉見義明のことは「知りません」、秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』は「読んだことない」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/488.html
チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html
右翼がその論拠にしている自称専門家については
チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html
西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html
自ら 映画『主戦場』 を宣伝してくれる右派出演者たち
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/486.html
朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html
吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html
自称 中国・朝鮮問題の専門家 加瀬英明 : 慰安婦問題の最高権威 吉見義明のことは「知りません」、秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』は「読んだことない」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/488.html
チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html
右翼がその論拠にしている自称専門家については
西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html
自ら 映画『主戦場』 を宣伝してくれる右派出演者たち
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/486.html
朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html
吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html
自称 中国・朝鮮問題の専門家 加瀬英明 : 慰安婦問題の最高権威 吉見義明のことは「知りません」、秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』は「読んだことない」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/488.html
チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html
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