69年前の朝鮮戦争もその後のベトナム戦争もアメリカの目的は中国の占領と略奪
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2019.06.28 櫻井ジャーナル
69年前の6月25日に朝鮮戦争が勃発、「国連軍」と称するアメリカ軍は63万5000トンにおよぶ爆弾を投下、北側に住んでいた人びとの20%以上を殺している。ちなみに、アメリカ軍が第2次世界大戦で日本へ投下した爆弾は約16万トンだ。 この戦争は北からの軍事侵攻で始まったとされているが、その当時、ダグラス・マッカーサーに同行して日本にいた歴史家のジョン・ガンサーによると情況は違う。朝鮮半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というものだったという。元特務機関員で戦後はCIAの工作員をしていた中島辰次郎によると、開戦の数カ月前からアメリカ側の命令で彼らは挑発作戦を実行していた。 朝鮮戦争が始まったとされる日の3日前、来日中のジョン・フォスター・ダレスは吉田茂と会談、その日の夜に興味深い夕食会に出席している。 ニューズウィーク誌東京支局長だったコンプトン・パケナムの自宅で開かれたのだが、出席者はダレスとパケナムのほか、ニューズウィーク誌のハリー・カーン外信部長、ダレスに同行してきた国務省東北アジア課長ジョン・アリソン、そして日本側から大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三だ。 夕食会の翌日、韓国空軍は北側を空爆、地上軍は海州を占領しているのだが、28日にはソウルが朝鮮軍に占領され、韓国軍は馬山、大邱、浦項を結ぶ三角地帯に押し込められてしまう。アメリカはソ連が欠席している国連の安全保障理事会で「国連軍」の派遣を決めて反撃を開始するが、苦戦した。指揮していたアメリカ軍の将校が山岳地帯での戦闘に不慣れだったことが原因だという。 戦況が変化するのは1950年9月の仁川上陸作戦から。そこから北上し、南部を占領していた朝鮮軍を孤立させることに成功するが、その作戦の背後では旧日本軍の将校がアドバイスしていたとも言われている。それに対し、約30万人の中国軍が「義勇軍」として参戦、38度線まで押し戻す。中国はアメリカ軍の目的が中国にあることを理解していたのだろう。 旧日本軍は台湾でも活動を始めていた。蒋介石たち国民党は1949年から岡村寧次大将などに接近している。旧日本軍の将軍たちが処刑される中、岡村は無罪の判決を受けて帰国、GHQ/SCAPの保護下に入った。中国共産党は岡村大将を引き渡すように要求したが、無視されている。 1949年4月に蒋介石は岡村の下へ曹士徴を密使として派遣、曹は岡村や富田直亮少将と東京の高輪で会談して台湾義勇軍を編成することで合意、富田少将が「白鴻亮」の名前で義勇軍を指揮することになった。そこで義勇軍は「白(パイ)団」と呼ばれている。 白団は1950年の正月頃に台湾へ渡り、日本軍の戦術や軍事情報を台湾軍に教育して国家総動員体制を伝授した。翌年の夏までに83名の旧日本軍参謀が台湾へ渡る。この白団を旧日本軍将校のグループが支援、その背後にはアメリカ軍が存在していた。白団は「私設顧問団」ということになるが、それでも1969年に解散するまで台湾に大きな影響力を及ぼし続ける。 朝鮮戦争の最中、1954年4月にCIAの顧問団に率いられた国民党軍約2000名は中国領内へ軍事侵攻している。一時は片馬を占領したものの、反撃にあって追い出された。翌年の8月にも国民党軍は中国へ侵攻しているが、この時も人民解放軍の反撃で失敗に終わっている。 この顧問団はCIAの秘密工作部門のメンバー。アメリカとイギリスは第2次世界大戦中、コミュニストが主力だったヨーロッパのレジスタンスに対抗する目的でジェドバラを設置しているが、大戦後、その人脈を中心にしてOPCが組織された。そのOPCが1950年10月にCIAの内部へ入り込み、CIAの秘密工作部門になったのだ。 朝鮮戦争でアメリカは勝利できず、1953年7月に休戦。翌年の1月に国務長官のダレスはNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成する。 ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された後、副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンは「トンキン湾事件」という偽旗作戦を利用してベトナムに対する本格的な軍事攻撃を開始するのだが、これは遅くとも1954年の段階でアメリカの支配層が決めていたシナリオだと言えるだろう。 |