なぜ多くの日本人が「原発問題」について思考停止に陥ってしまうのか 経団連会長は「再稼働」を提言するが…
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2019.05.16堀 有伸 精神科医 ほりメンタルクリニック院長 現代ビジネス
原発問題は面倒くさい? 進まぬ議論
2019年4月8日、原発メーカーである日立製作所の会長で経団連会長でもある中西宏明氏が、原発の再稼働や新増設を提言する発言を行いました。
その提言では原発の再稼働が遅れていることが問題視され、そのために電力の安定供給に疑問が生じコストも高くなっていること、化石燃料を使う火力発電への依存度が現状で8割を超え環境への負荷が予想されること、再生可能エネルギーについては送電網の整備が遅れていることなどが指摘されました。
反原発を主張する動きについては、安全対策を尽くしているのに地元の自治体の理解がえられないといった非難を行い、反原発を掲げる団体からの公開討論の申し込みについては、「感情的な反対をする方と議論しても意味がない」とそれを断ったことが伝えられています。
正直、その中西会長の言葉を聞いた時には「福島での事故についての責任をどう考えているのか」と私が感情的な反発を覚えてしまったことを白状しておきます。
そもそも、東京電力福島第一原発の事故についての検証が終わってないのに、長く原発推進の立場にあった当事者が日本経済における重要な地位を占め続けていること、原発メーカーの当事者としての立場からの発言をその肩書きで行うことには、違和感を覚えます。
それと同時に、一部の反原発運動にかかわる方の主張が感情的で、「議論しても意味がない」と感じさせてしまう点については共感を覚え、自分の心が混乱をしているのを感じました。
多くの人が「面倒くさい」と感じて、日本の原発、そしてこれからのエネルギーをどうするのかを考えることを諦めてしまっているかのようです。
その結果、2011年の事故が起きて8年以上の月日が経つのに、本格的な議論は進んでいません。
私はこの現状に強い危機感を覚えます。
原発推進派と反対派が声高に自分たちの主張を述べるだけで、それらが噛み合った議論になりません。いかに相手の主張を潰すかに夢中になっているように思います。
本来は同じ国に暮らし、将来を一緒に作っていかねばならない国民同士のはずです。
それなのに、未来に向けたビジョンを共有しながらも、それぞれの立場の違いを認めながら、「日本の良い将来を作るためにどのようなエネルギー政策を選択するべきか」という主題を離れずに議論を続けることが全くできていません。
すぐに目の前の議論での勝ち負けに夢中になってしまい、その議論がどこを目指すべきかということを忘れてしまいます。
中西会長の言葉で共感するのは、感情的な発言に終始するのは望ましくないという点です。
それならば、中西会長ご自身も、反原発の立場の方々への感情的な反発を煽るのではなく、原発を再稼働することが望ましいという根拠を、数字を用いて示していただきたいと考えます。
東京電力福島第一原子力発電所事故でどれほどの損害が生じたのか、それが明確にされなければ議論を進めることができません。もちろん、事故で失われたものの中には、お金に換算できないものも多く含まれています。
それでもやはり、経済の専門家であり日本経済における主導的な立場から再稼働について発言されるのならば、事故によって生じたコストについての評価を示していただきたいのです。
私は東京都出身ですが、2012年4月から福島県南相馬市に暮らし、原発事故の影響についての見聞を広める機会がありました。
地域のコミュニティが蓄積していた富がどれほど失われたのか、想像もつかないほどです。
除染や廃炉や賠償にこれまでどれくらいの費用が生じてしまい、この先もどの程度の予算を計上する必要があるのか、明確にしないままでは国の将来が危ういと感じます。
コストについての妥当性のある数字が示された上で、原発再稼働についての感情的ではない議論が可能になるでしょう。
それを欠いたまま議論するのは、放射線の健康被害についての、実際の被ばく「量(数字)」についての考慮が行われていない議論と一緒で、感情的で無意味です。
なぜ思考停止に陥ってしまうのか
本来ならば、ここで原発についての現実的な議論に進みたいところです。
しかし私にはそこを科学的に論じるための専門的な知識や経験はありません。然るべき方々がその作業を行って下さることを切望します。
その代わりに、他の部分では妥当性のある行動を取ることもできる日本人が、なぜここで全くの思考停止に陥ってしまうのかを、深層心理にまでさかのぼって考察したいと思います。
そうするのは、自分の持てる能力を用いて、日本社会が危機的な状況を乗り越えることに貢献したいと願っているからです。
原子力発電は国策として行われてきました。そして、日本人にとっての「国」、つまり日本をめぐる表象群は、他国以上に強烈な無意識のコンプレックスを形成しています。
国策の是非を論じることは、このコンプレックスが刺激されることであり、その際には意識的な統制を失った言動が現れやすくなります。
それを避けるために、なるべくこの主題に触れないようにして自分の心を守ろうとする反応が出現することも、珍しくはありません。
この無意識のコンプレックスに私は「日本的ナルシシズム」と名前をつけ、考察を積み重ねてきました。その根本は、重要な他者への「融合的な関わり方」です。
日本の組織では、独立した個人が、それぞれの個性や基本的人権を尊重しながら構築していく関係性が組織運営の基盤にはなっていませんでした。その代わりに、組織への心理的な融合が強く求められたのです。
組織への批判的な発言を行うことは、組織の活動に「水を差す」行為であると忌避されます。明確に言葉で表現されたルールや契約はその価値を軽んじられやすく、その代わりに、全体の空気や相手の意向を忖度して行動する技術の洗練が求められるようになっていきます。
そしてやがて、組織内部の感情的な一体感を、理論的な考察よりも重視する人間でなければ、組織における重要な地位を与えられないようになります。
このようにして、ほとんどの日本の重要な組織が外部の世界の変化に対応できなくなり、多くのものが失われたのが平成の日本社会だったのかもしれません。
戦後と原発事故後の日本社会
ここで戦後日本の民主主義の受容にまでさかのぼって、批判的な考察を簡単に行っておきます。
私は、全体主義的な社会から民主主義的な社会への移行のためには、深層心理における「他者との融合的な関わり方」が解消されて、一貫した個人としての責任を担える、独立した主体としての意識のあり方が確立されることが不可欠だったと考えます。
精神分析の用語を使うならば、社会のメンバーのために、自我機能を適切に機能させるための仕組みが確立されていることが、民主主義的な社会を作るための前提です。
しかし、戦後の日本では、そのような心理構造の奥深くに達すような改変が必要であることは多くの場合に理解されず、心理的な「他者との融合的な関わり方」を重視したままで、その融合的な場で「民主主義」や「基本的な人権」の題目が語られるという奇妙な事態が生じました。
語られる言葉は反権威のような内容でリベラル風の雰囲気であるものの、その内部運営のあり方は全く民主的ではなく、権威主義的だったりカリスマ的な指導者への心理的な融合を求めたりするような組織や集団が、戦後の日本には頻繁に出現しました。ただしこれは日本において深刻であるものの、いわゆる先進的な西欧の諸国でも認められる状況のようです。
この事態への不満が、近年の世界的な潮流における保守派の勢力拡大の一因だと感じています。
さらに心理の深層に潜ります。
「他者との融合的な関わり方」を求める傾向が強いことは、乳幼児的な「母子一体感」の境地が成人になっても色濃く残っていることを意味しています。
この境地から心理的な分離が行われない要因について、私の考察が依拠しているクライン派の精神分析理論では、分離を試みることで二種類の乳幼児的な不安が刺激されることに耐えられなくなってしまうことを指摘しています。少し専門用語を使うことをお許しください。
一つは、妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安です。大雑把には、加害や復讐といったテーマを巡る被害感情や強い敵意や攻撃性が刺激されるような心理状態です。
自力で生存する力を持たず、生存を全面的に母親的な存在に依存する乳幼児は、「母の不在」という事態に強烈な欲求不満を覚えます。そこで生じる強い母への怒りや攻撃性は、乳幼児の心を圧倒するほどに強まります。
今度は、強まり過ぎた自分の敵対的な感情も、不安の原因となります。無意識的な空想では、「自分が誰かを攻撃する」のは容易に「自分が誰かに攻撃される」に反転します。
これは、自分が抱えていた強い攻撃性を他者に投影できることを意味するので(正確には投影同一視という心理機制が働きます)、少し気持ちは楽になる部分もあるのですが、今度は敵意を帯びた他者に囲まれて迫害されるのではないかという不安にさいなまれるようになります。
原発事故後の日本社会はある側面で、無意識的なこの妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安が高まっていたとも言えます。そこでは、日本社会についての理想化とこきおろしの意識の分裂も生じました。
集団がこのような心理状態の中にある時に、そこに属するメンバーの緊張感と警戒心は高まり、交感神経優位の「戦うか逃げ出すか」といった行動の選択が優勢になります。
放射線についての議論が感情的なものになっている時には、この妄想分裂ポジションへの心理的退行が起きていることが多いようです。
日本的ナルシシズム
しかし震災後8年が経過し、関係者がさまざまな努力を積み重ねてきた甲斐があり、この妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安は、かなり改善してきた印象も持っています。
そこで、今回の論考で重視したいのは、クライン派の理論における乳幼児的な二つの不安の残りの一つ、抑うつポジションにおける抑うつ的な不安です。
妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安に巻き込まれた乳幼児は、やがて自分が破壊的な言動を行ったことが母親に与えたダメ−ジの大きさに気がつきます。
その時には、自分が大切なものを失ってしまったことについての罪悪感や後悔、悲しみを経験します。
同時に、自分が攻撃性を向けた母親が生き残ってくれたことの喜びと感謝、自分の攻撃性の影響に限度があることへの安堵が生じます。
この段階を超えて先に進むことで、一貫した責任を負うことができるような成人の心の成立に近づくことができます。
原発事故における被害について、先に述べたような数字を用いての現実的な評価を行えないのは、日本社会が無意識の心理において、この抑うつ的な不安を乗り越えることができていないからではないでしょうか。
抑うつ的な不安は、成人では、自分の失敗によって「貧乏になってしまった」「富を失ってしまった」という情緒的な感覚とも親和性が高いものです。20年ほど前ならば、日本が経済大国であることを疑う人はいなかったでしょう。
しかしその後、原発事故などを通じて、その地位は大きく揺らがされることになりました。経済力が失われたこと・失われつつあることを直視することが引き起こす不安に耐えられず、そのために現実的な対応ができなくなっている心理状態として、近年の日本人の心理状況を解釈することができるかもしれません。
そのような不安を回避するために弱い人間がすがってしまう心理的なズルが、「躁的防衛」と呼ばれる心の動きです。
自分が引き起こしてしまった損害について、それを償えない、治せないという絶望的な悲哀の感情を持ちこたえることができない時に起ります。自分が傷つけた対象についての価値下げが行われます。
自分が相手より優位に立っているかのように思ったり、実際にそのように振る舞うことで、失敗を認めて落ち込んだり、大事なものを失った悲しみにとらわれることから自分を守ろうとします。
そしてこの躁的防衛ばかりをくり返し、抑うつ的な不安を味わえなくなっている現代日本社会の心理状況のことを「日本的ナルシシズム」と名指して考察の対象といたしました。
躁的防衛にはポジティブな意味もあるのですが、やはりそればかりを長期に使い続ける場合には弊害が目立ってきます。
先に進むためには、「日本的ナルシシズム」に耽溺していたい誘惑を超え、抑うつ不安を自分の心の中に抱えて味わい、それを一つの個としての心の全体性の中に統合していくプロセスが必要なのです。
日本人の道徳と共同体
なぜ日本人にとっての自我の確立は難しく、周囲との融合的なかかわり方ばかりが維持・継続されてしまうのでしょうか。
それは日本社会に生きる上で、近しい人々とのズルズルベッタリした関係を断ち切って自己主張をすることは理解されがたく、それとは反対に、融合的なかかわりに留まることで周囲からの報酬を何らかの形で与えられる可能性が高かったからだと考えます。
前者は激しく価値下げされますが、後者は理想化されます。精神分析だけではなく行動療法の話が混ざります。
私は「問題行動をくり返す人の治療に役立つ『シンプルな方法』」という小論を発表した時に、「人間は、他の人から注目される(ほめられる)行為は、増えていく」「逆に、他の人から無視される行為は減っていく」という原則があることを説明しました。
それを踏まえて、現在の日本人は全体として、「自己主張を行う人間は無視し、報酬を与えないように気をつける」「自分を抑えて空気を読んで黙々と行動する人間を丁重に扱う」という道徳を共有し、それをお互いに強化するような共同体になっているのではないか、と考えるようになりました。
精神科医の仕事をしていると、先に述べたような抑うつ的な不安、つまり重要な存在を失ったことによる悲しみや怒り、罪悪感を受け止めてくれる場が失われていることを痛感します。
つまり、そういう心情を吐露しようとしても、多くの場合に無視される訳です。情緒的な一体感に水を差すものは忌避されます。
それとは逆に、明るく前向きな姿勢を示すことが好まれ、注目を集めます。これが、「日本的ナルシシズム」が存続し、次第に強化されていくメカニズムです。
「明るく華やかで前向きに」している限りでは人が集まってきますが、ちょっとでも弱みを見せれば、孤立しかねなません。
「1940年体制」と「タテ社会」の論理
このような日本的ナルシシズムの心性と不即不離の関係があるのが、「1940年体制」です。
これは経済学者の野口が主張したもので、太平洋戦争に向かう時代の日本において成立した、国中の富が一度は中央に集約され、その後「タテ社会」のルールに則って、序列の中で中央に近い所から有利な条件の仕事や報酬が割り振られていくような社会体制のことです。
このことについては「原発事故から7年、不都合な現実を認めない人々の『根深い病理』」という小論で詳しく紹介しました。
このシステムの内部に生きるものにとっては、全体の雰囲気に合わせて行動することで注目され報酬を与えられますが、それにそぐわないものは無視され孤立していきます。そして日本での原発は国策としてこのシステムを駆動する形で運営されてきました。
2011年の原発事故と関連して、事故前に津波による事故の危険性が指摘されていたのにもかかわらず、それが適切に取り上げられることなく無視されたのは、まさに「日本的ナルシシズム」が現実化した事態だったと考えます。
私は原発事故が起きたことをきっかけに、この「日本的ナルシシズム」についての見直しと反省がなされるべきだと考えました。
しかし、2012年から福島県南相馬市に暮らして見聞したのは、「日本的ナルシシズム」が強化して再生産される事態です。
原発事故による喪失の否認に貢献する内容ならば賞賛し、それを顕在化させる内容ならば軽視し、場合によっては非難するという日本社会全体が示した傾向は明確でした。
被災者達の間でも、「後ろ向きなことを口にするべきではない」という自己規制、相互監視がありました。他に印象的なのは、「自主避難者」たちへの冷徹な取り扱いでしょう。
しかしこの事態を受けて、反原発派の一部が放射線の直接的な被害を強調し、上述したのとは反対の、原発の再稼働に貢献する内容ならば攻撃や無視を行い、その問題点を明らかにする内容ならば賞賛する、という逆方向のナルシシズムに振れてしまったのは残念なことでした。
私の立場からは、もし原発の再稼働に本気で反対したいのならば、強調するべきなのは放射線の直接的な健康被害ではなく、膨大する賠償や廃炉の費用を送電の費用に上乗せし、電気料金として国民に大きく負担させる制度を準備し、本格的に運用しようとしていることのアンフエアさだと考えます。電力事業の中で発電は自由化されていますが、送電は自由化されていません。
したがって、送電のための費用を支払うという形で、新電力の事業者も利用者も、原発事故の賠償や廃炉の費用を負担することになります。広く浅く国民から電気料金として費用を徴収し、タテ社会の上位に位置する電力会社は保護的な扱いを受けるようになっています。
震災の復興が進む中で、目立たないように着実に「タテ社会」の論理が復活し強化されてきました。
印象的なのは除染や復興の事業費の使われ方です。その予算は、大手ゼネコンにまず分配され、そこから系列の協力企業(下請け)にさらに分配されるお馴染みの風景が再現されました。
そのこと自体を必ずしも悪いことだとは思いません(ちなみに、詳細は書けませんが、私が担当している震災のトラウマの影響が大きい患者さんで、福島第一原発近くの仕事に生活のためにかかわっている人が複数おられます。そういった人々が、「メンタルが病んでいると元請けに知られないように」などと気をつかいながら、時にパワハラ的な状況にも対応しつつ働いている様子をきくことがあります)。
問題はどこにあるのか
しかし問題としたいのは、他の大きな後ろ立てなく事業を誠実に行っている地元の事業者への保護のために使われている金額との、差の大きさです。
先日、南相馬市の企業で「凍天(しみてん)」という商品が愛されていた「もち処木乃幡」が事業停止となり自己破産を申請したことが報じられました。
本店工場が原発事故による避難指示が出た地域にあったために移転を余儀なくされ、さまざまな経営努力を行ったのにもかかわらず、東京電力から賠償についても不十分な条件しか提示されなかった事情もあり、前述したような結果になったようです。
昨年くらいから、住民の申し立てを受けた原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)の和解案を東京電力が拒否する事例が増えていると報じられています。
2014年末には、東京電力が自ら「3つの誓い」と称して、「@)最後の一人まで賠償貫徹」、「A)迅速かつきめ細やかな賠償の徹底」、「B)和解仲介案の尊重」と掲げていたこととの一貫性のなさを、どのように理解すればよいのでしょうか。
原発への反発の空気が強い期間だけは身を低くして耐え、その空気が退潮してきたと見極めた上で震災前から占めていた「タテ社会の上位」の立場を自覚した言動が増えてきたということかもしれません。
原発事故をめぐる東京電力という存在のあり方は、この数十年の日本社会においては、自主独立の精神など涵養しようとせず、日本社会の空気に融合してその上位にいることを保つことが、どれくらい社会的・経済的に報われるものであったのかを示しています。
私の問題意識に引きつけるのならば、一貫した責任を担える主体であろうとする自我の機能は育たず、全体の空気への融合的なあり方から万能感が保障される日本的ナルシシズムばかりが肥大する社会の風潮が続いてきたのだと考えています。
ただこの場合にも、現実によく目を配って、過度に東京電力について価値下げしないことも大切です。
私は、特に現地の東京電力の職員達が、命がけで2011年の事故とその後の対応を行ってくれたことへの恩を、忘れないようにしたいと思います。
現在も続く、廃炉の作業もそうです。そして今後について最低限の技術水準を維持する意図からも、東京電力の持つ原子力発電についての知識と経験の蓄積は、貴重なものであり続けます。
「日本的ナルシシズム」と呼ぶ社会システムも、そのタテ社会の系列の上位を占める人々が、高い理念を持って外部の現実をよく観察し、それに対応するための施策を打ち出していくならば、その内容が効率良く実施されることが期待できるなど利点も多いシステムです。
出る杭が打たれやすい社会
しかし問題は、融合的な一体感の中だけにひきこもって外部や他者との出会いに耐えられなくなり、他者を尊重できず慇懃に自分たちが作っている一体感が醸成する空気に融合するように強いたり、それを拒否する対象を排除したりする傾向が、特に影響力の大きいタテ社会の系列上位の人々の間で強まった場合に、社会の硬直性が著しく高まってしまうことです。
経験できる情緒の幅がとても狭くなり、自分が慣れ親しんだ空気と融合することによるナルシシズムの満足ばかりを求め、それを超える驚きをもたらす他者や外部との出会いに耐えられないので、それらを回避するようになります。
当然、刹那的で内向きの傾向が強まり、長期的な大きな視野からの見解は敬遠されるようになります。
この状況がさらに進むと、自分が融合している空気の影響力が大きいことが、つまりそれを信奉する人の数が増えるなどして勢力が拡大することが、自らのナルシシズムの満足と社会的な成功につながりやすくなり、それ以上の思考を放棄して、融合している一体感を強めることだけに邁進する心性ができあがります。
このような心性の持ち主が、往々にして非常に立派な理念を語ることがありますが、それにふさわしい情緒の成熟がともなっていないことが普通です。
日本的ナルシシズムが優勢な状況では、「出る杭は打たれる」というような状況が生まれやすくなります。「出る杭」と見なされる人物は、融合的な一体感を何らかの意味で破る存在です。
適切な思考が存在する場ならば、自集団の外部を意識した上で長期的な視点も踏まえて、その「出る杭」の示しているものの妥当性について判断し、対応を決めることでしょう。
しかし短期的な視点からの、融合的な一体感を破られたことによる不快な情緒だけが行動の駆動力になる場合は、その「出る杭」は自動的に攻撃されるでしょう。
そして攻撃を通じて再び一体感の中に飲み込むことができない場合には、その対象のことを無視したり、敢えて似た別の存在を優遇するなどして、その存在を排除しようと試みるようになります。
ここには、全体に一致することばかりを続けて「自分」を失っている人からの、主体的な言動を示す人への羨望の念も働いています。
たとえば、「感謝の思いなく仕事を押し付ける」ことも、羨望の現れと解釈されることがあります。
集団において何らかの美徳を示すものは、全体が許容できる狭い情緒の幅に一致しない限り、反対に攻撃や批判の対象となります。
しかしこのことは、長期的なビジョンからの改革が不可能になることを意味し、過去の遺産を食い潰しつつ現状を変えられない状況を作り出します。名目は様々でしょうが、その目的は全体に融合することでナルシシズムを満たしている多数のメンバーの情緒的な満足を維持することだけですから、その結果は不毛なものとなります。
平成は不毛な時間だったのか?
しかしこの「日本的ナルシシズム」も、今後いつまで維持されるか分かりません。
なぜなら、日本の富が減少していくのにつれて「全体と一致していれば報われる」という期待が、次第に維持されなくなっていくと予想されるからです。
今までは潜在的だった、「タテ社会」の上位にいれば優遇され保護されるが、下位にいる場合には切り捨てられるといった不信感が強まりつつあります。
全体の空気への融合が、一部の層の利益だけを確保しているのではないかという疑念です。
その時に、より徹底した無秩序な状態が、社会の中に出現することを防がねばなりません。その問題意識からと思われますが、保守的な立場の人の一部が、日本的な道徳教育を強化して日本的ナルシシズムを維持しようとする動きがあります。
しかし私は、このやり方だけに頼ることは現実的な裏付けを欠いていると考えます。
道徳を強調するよりも、たとえば原発の再稼働を行いたいのならば、本論の冒頭で求めたような原発の収支について根拠のある数字を用いて説得を試みるなど、タテ社会の上位の位置を示している人々が、その場を占めるのにふさわしい貢献を行っていることを示す方が大切です。そもそも信頼できる統計情報が記録・保存されていないなどは、論外でしょう。
遠回りに思われるかもしれませんが、私が提唱する解決策は、抑うつ不安につながる情緒(喪失の痛みがもたらす悲しみや怒りなど)をしっかりと味わうことを重んじる文化の醸成です。
このことこそが重要であり、それを軽視してナルシシズムばかりを強化する風潮に抵抗することが求められています。
なぜなら、抑うつポジションの情緒的な課題を通り抜けることで人間は、ナルシシズムの傷付きをもたらす体験の価値下げや切り捨てで自分を守ろうとするだけではなく、自らの有限性を自覚した上で、自分が傷つけてしまった対象への配慮を示し、自分を支えてくれた存在への感謝や、適切な罪悪感によって駆動される一貫した償いの行為が可能になるからです。
そのような情緒的な成熟を果たしたメンバーが社会の中で増えた時に、外部や他者に適切にかかわることができるようになります。その上で、将来にむけたビジョンや長期的な展望が可能になるでしょう。その先に真の日本の誇りが取り戻されます。
残念ながら平成の日本は、自らが喪失したものを直視することなく、自らのナルシシズムの傷付きを回避するばかりで不毛な時間を過ごしてしまった印象があります。
令和の時代が、情緒的な成熟の重要性が認識され、喪失したものを「見る」ことによる痛みを通り抜け、外部や他者の有り様を正確に認識した上で、自らの有り様や行動を適切に考えることができるような時になることを祈念しています。
原発問題は面倒くさい?
— 現代ビジネス (@gendai_biz) 2019年5月16日
なぜ議論が進まないのか?
なぜ多くの日本人が「原発問題」について思考停止に陥ってしまうのか https://t.co/G4TgjBiiQn
全編、とても冷静できわめて的確です。心理学精神医学の文脈であんまり外界の事象を読み解き慣れていない人に、特に読んでほしい。/なぜ多くの日本人が「原発問題」について思考停止に陥ってしまうのか https://t.co/W4VXjRCQKP #現代ビジネス
— 一色登希彦 (@ishikitokihiko) 2019年5月16日
思考停止する社会を「日本的ナルシシズム」という観点から捉えた論考。原発問題に限らず、現代の社会病理なども含めた社会問題全般に関係がありそうな話。
— Atsu (@atspsy) 2019年5月15日
なぜ多くの日本人が「原発問題」について思考停止に陥ってしまうのか https://t.co/mnHgUMnqxx
原発に限らずこの国では色んな所で思考停止が起きてるよね。。https://t.co/kcJaAfw3bX #現代ビジネス
— Φ(Phi) (@zervoid) 2019年5月15日
感情論で闘っても
— すどうあいこ (@ai_3121) 2019年5月15日
建設的な話し合いとは程遠く
助け合うべき大切な人を失うことにもなる。
事実を見なければ
安全を確保することも
不安を解消することも出来ない。https://t.co/yJ9HF6xNCD
https://t.co/KCdIACUtla 「まともな」原発推進派と反対派が話し合えば良いと思うのだが、特に反原発でギャーギャー騒いでる人達に限って基本的な科学的知識が欠如しているので議論する意味がない。「まともな」反対派もいるにはいるのだろうが、ヒステリックな声にかき消されて見えて来ない。
— キルア (@KilluaEvance) 2019年5月15日
「強まり過ぎた自分の敵対的な感情も、不安の原因となります。無意識的な空想では、『自分が誰かを攻撃する』のは容易に『自分が誰かに攻撃される』に反転します」
— カルトちゃん (@KaltoChan) 2019年5月16日
なぜ多くの日本人が「原発問題」について思考停止に陥ってしまうのか (堀 有伸) https://t.co/sfWhAI5sJB
…「膨大する賠償や廃炉の費用を送電の費用に上乗せし、電気料金として国民に大きく負担させる制度を準備し、本格的に運用しようとしていることのアンフエアさ…発電は自由化されていますが、送電は自由化されていません。」(抜粋)https://t.co/2J2iMpUlZq
— 木村文洋 (@bunyokimura) 2019年5月16日