紙幣刷新:「たまたま改元と重なった !」2024 年度に発行 ! 麻生財務相、
渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎とは ?
(www.nikkei.com:2019/4/9 10:22より抜粋・転載)
日本経済新聞:一問一答
麻生太郎財務相は、4月9日、閣議後の記者会見で1万円札などの紙幣を刷新すると発表した。主な発言は以下の通り。
Q:――最大の目的は。
A・麻生財務相:「これまでも紙幣は20年ごとに改刷して、偽造への抵抗力を確保してきた」
Q:――なぜ、この時期に刷新を表明したのか。
A:「印刷の開始までに2年半くらいかかる。その後、自動販売機などの機械を変えていかなければならない。準備を考えて合計5年の期間が必要だと判断した」
「造幣局では偽造防止について常に取り組んでいる。前回の改刷から14年が経過しており、発行するまで通常5年かかると言われている。毎回20年で改刷しているが、たまたま改元とあわさった」
Q:―--1万円札の図柄に渋沢栄一などを選んだ背景は。
A:「偽造を防止するという観点からなるべく精巧な写真が入手できることが望ましい。それから品格のある顔がふさわしいのではないか。人名が国民活動に広く親しまれ、教科書に載っているなどを踏まえて明治以降の人物から選んだ。前回も軍人や政治家ではない文化人や経済人を選んでおり、今回もこうした考え方に沿った」
Q:――肖像の人選は財務相が決めたのか。
A:「最終的には財務相で決めることになっている。私の方から事務方に指示した。渋沢栄一は日本の資本主義において功績は極めて大きい」
Q:――選考過程で安倍晋三首相への相談や了解はあったのか。
A:「あった」
Q:――海外では資金洗浄対策のため高額紙幣を廃止する動きもある。1万円札を廃止する検討は。
A:「なかった。流通枚数が一番多いというのも理由の一つだ」
(参考資料)
T 渋沢栄一
(ウイキペディアより抜粋・転載)
渋沢栄一(しぶさわ・えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は江戸時代の百姓(名主階級)、武士(幕臣)、官吏、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所といった多種多様な企業の設立・経営に関わり、二松學舍第3代舎長(現在の二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現在の一橋大学)、大倉商業学校(現在の東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。明治政府では大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔・井上馨の下で財政政策を行った。また、論語を通じた経営哲学でも広く知られている[1]。位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
◆エピソード:
2024年度発行予定の一万円札見本
日本を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として日本銀行券(紙幣)の肖像の候補者として何度も選ばれ、日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)では肖像候補として最終選考にまで残ったが、採用されることはなかった。しかし、2024年度上半期に執行が予定されている紙幣改定により一万円札において渋沢の肖像が採用されることになった[12][13]。
1902年から1904年にかけて大韓帝国で発行された初期の第一銀行券の1円、5円、10円券には当時の経営者だった渋沢の肖像が描かれていた。ちなみに、この第一銀行券を「一国の紙幣が日本の民間銀行の銀行券を使用しているのはいかがなものか」と韓国独自の中央銀行(後の朝鮮銀行)へと切り替えたのは韓国統監時代の伊藤博文である[14]。
出身の深谷市では、栄一の命月の11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行した『さいたま郷土かるた』の「に」の項目は「日本の産業育てた渋沢翁」となっており、畠山重忠、塙保己一と並ぶ埼玉を代表する偉人として、3人札(役札:3枚そろえると10点)に選出されている。また『彩の国21世紀郷土かるた』の「え」の項目は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっている。これは深谷ねぎが栄一の故郷の深谷の特産品であることと、煮ぼうとうが埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。
現在埼玉県では渋沢の功績にちなみ、健全な企業活動と社会貢献活動に取り組んでいる全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を授与している。
U 津田梅子
(ウイキペディアより抜粋・転載)
津田 梅子(つだ・うめこ、元治元年12月3日(1864年12月31日) - 昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。日本における女子教育の先駆者と評価される。女子英学塾(のちの津田塾大学)創立者。
初名はうめ(「むめ」と書いた)で、明治35年(1902年)に漢字表記に改めて「梅子」とした。
◆教育者として
大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められるが、明治25年(1892年)8月に帰国。再び華族女学校に勤める。梅子は教師生活を続けるが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行い、明治27年(1894年)には明治女学院でも講師を務める。明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任する。成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、明治32年(1899年)に高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まると、明治33年(1900年)に官職を辞する。父の仙やアリス・ベーコン、大山、瓜生、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出。認可を受けると東京麹町区に開校し、塾長となり、華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始める。
◆旧友の再会
女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となる(ただし、当初はあまりの厳しさから脱落者が相次いだという)。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられ、梅子やマラらの友人ははじめ無報酬で奉仕していたものの、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など経営は厳しかったと言われる。明治36年(1903年)には専門学校令が公布され、塾の基盤が整うと申請して塾を社団法人とする。
梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと大正8年(1919年)1月に塾長を辞任する。鎌倉の別荘で長期の闘病後、昭和4年(1929年)に脳出血のため[1]64歳で死去する。
生涯独身を貫いた。墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内にある。
女子英学塾は津田英学塾と改名するも、校舎は後に戦災で失われ、津田塾大学として正式に落成・開校したのは梅子没後19年目の昭和23年(1948年)のことである。
V 北里柴三郎
(ウイキペディアより抜粋・転載)
北里柴三郎(きたさと・しばさぶろう[1]、1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1931年(昭和6年)6月13日)は、日本の医学者・細菌学者である。
貴族院議員・従二位・勲一等・男爵・医学博士。
私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)[2]、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、慶応義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長。
「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。
◆帰国後
ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」として母校東大医学部と対立する形となってしまい、帰国後も日本での活躍が限られてしまった。この事態を聞き及んだ福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となった。その後、国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となり、伝染病予防と細菌学に取り組む。1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげた。
かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。長年の東大との対立が背景であるといわれている。医科大学学長であった青山胤通が所長を兼任することになった。柴三郎はこれに反発し所長を辞し、新たに私費を投じて私立北里研究所(現・社団法人北里研究所。北里大学の母体)を設立。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。
諭吉の没後の1917年(大正6年)、諭吉による長年の多大なる恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となる。新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力した。
また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目しあうなどばらばらであったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会が誕生した。その後1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった。