「名将」ロンメルの名声はいかにして堕ちたか
「砂漠の狐」ロンメルの知られざる姿 第1回
2019.4.2(火) 大木 毅
日本では不世出の名将として語られることが多い第2次世界大戦の軍人ロンメル。だが近年、欧米における評価が変化してきているのをご存じだろうか。40年近く認識のギャップが生じている日欧の「ロンメル論」を、軍事史研究者の大木毅氏が3回に分けて紹介する。(JBpress)
(※)本稿は『「砂漠の狐」ロンメル』(大木毅著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
ロンメルの手腕への疑問符
エルヴィン・ロンメルといえば、第2次世界大戦中、戦車を中心に、機械化された歩兵・砲兵・工兵などを編合した装甲部隊を率いて、連合軍をきりきり舞いさせた不世出のドイツの名将とのイメージが顕著だろう。
このような「名将ロンメル」論は、1970年代なかばまで、欧米でもほぼ定説であったといってよい。けれども、1970年代後半になると、ロンメルの軍人としての資質や能力に疑問が呈されるようになった。それまでの顕彰への反動からか、新しいロンメルに関する文献は「偶像破壊」に走るきらいがある。
1917年、イタリア戦線でのロンメル(出所:Wikipedia)
なかでも激烈だったのは、いまやネオナチのイデオローグとなったイギリスの著述家、デイヴィッド・アーヴィングが1977年に刊行した『狐の足跡』だろう。
今となれば、アーヴィングは、最初から結論ありきの論述を行う人物だとあきらかになっている。しかし、『狐の足跡』出版当時のアーヴィングは、歴史家としての専門訓練こそ受けていないものの、精力的に史料や証言の博捜(はくそう)に努めていることで知られていた。そんな人物が、ロンメルは名誉欲にかられて、ある意味無謀な作戦を遂行、不必要な損害を出したと主張したのである。このセンセーショナルなロンメル伝は、当時の西ドイツでベストセラーになった。
しかしながら、あらかじめ述べておくとアーヴィングの主張は、今日なお認められているわけではない。『狐の足跡』はすでに出版時から、ロンメルの息子であるマンフレート(ドイツ・キリスト教民主同盟CDUの政治家で、当時シュトゥットガルト市長であった)をはじめとする、関係者や歴史家に厳しく批判されてもいた。史料の歪曲や恣意的引用を多々含んだ書物であることは、わかっていたのである。
更新されない日本での評価
ところが、日本では『狐の足跡』が早くから邦訳され(1984年に早川書房が刊行)、一見、大部で詳細な本と思われるからだろうか。現在でもなお、この本を基にした記述が少なくない。
近年、日本のアカデミズムにおいても、社会史・日常史的な関心に基づく「新しい軍事史」の研究は盛んになってきてはいる。だが、もともと日本のアカデミズムでは戦史や軍事史を扱わないことや、旧日本軍・自衛隊に属した人のなかで、ドイツ語と軍事に通じた人材が世を去ったことなどにより、ドイツ軍事史の研究成果が紹介されなくなったという事情がある。
その結果、新しいロンメル研究は日本ではほとんど知られず、通俗的な本や雑誌では、1970年代後半のアーヴィングの著作に依拠したものがまかり通るという事態になっている。すなわち、欧米と日本の認識のあいだに40年近いギャップが生じる事態となった。
もっとも、欧米においてロンメル批判に踏み切ったのは、アーヴィングだけではなかった。一次史料に基づく実証研究が進むにつれて、「名将」の手腕に疑問符が付せられはじめたのである。また、この間に連合国に押収されていたドイツ国防軍文書の多くが返還され、ドイツ本国においてもロンメルの再評価がはじまった。
1941年の春に試みられた「トブルク要塞攻撃」などを例として、ロンメルは不十分な攻撃準備しかせず、結果的に大損害を出したといった批判がなされた。イスラエルの軍事史家マーチン・ファン・クレフェルトも、1977年に出版された『補給戦』のなかで、北アフリカの枢軸(独伊)軍に補給の問題が生じたのは、独伊軍首脳部の無能ゆえではなく、ロンメル自身の兵站軽視によるものだと指摘している。
かかる研究成果によって、ロンメルは「偶像」から「批判」の対象へと変わっていく。
偶像から等身大へ、進む再評価
2000年代には、ロンメル評価は、いわば等身大のものとなっていた。歴史家やジャーナリストが発表したロンメル伝により、戦略的視野や高級統帥能力には欠けるところがあるものの、戦術次元では有能な指揮官だったという評価が定着したのである。ある意味、第2次世界大戦中から続いていたロンメルの偶像化の流れが止まり、逆流したといえる。
2008年12月から2009年8月にかけて、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州歴史館は、ロンメルに関する特別展を開催した。ヴュルテンベルクはロンメルの生誕の地であるから、「郷土の偉人」を顕彰したのかと思えばそうではなかった。「ロンメル神話」(Mythos Rommel)と名付けられたこの特別展は、ロンメルの虚像がいかに形成されたかに力点を置くものだったのである。
さらに、2010年代に入ると、ロンメル批判はさらに一歩進んだ。ヒトラーが率いた軍の軍人としての彼を評価できるのか、評価してよいのかという問題意識が生じ、実際にそれをかきたてるような事件も起こった。
物議をかもした記念碑の一文
ドイツ東部にある都市ハイデンハイムには、彼の記念碑がある。1961年、ロンメルの生誕70周年に、「アフリカ軍団の戦友会」の請願によって立てられたものだ。2011年、ハイデンハイム市当局がこの記念碑へ追加設置した銘板に書かれた「一文」をめぐって、論争に火がついた。
「戦争においては、勇敢さならびに英雄的な気概と、咎(とが)や犯罪が密に相接している」
この表現が批判を呼んだのである。
複数の歴史家から、こうしたロンメル顕彰の碑は、彼を「暴力支配の犠牲者」として英雄化するものであり、撤去すべきだとする意見が出された。一般市民からも、その異議申し立てに同調する者が多数現れ、ロンメル記念碑を「ナチ将軍の記念碑はもういらない」と大書した布で覆うという抗議行動もなされた。
また、2013年10月に極右政党ドイツ国家民主党のメンバーが、「砂漠の狐の足跡をたどる」と称して、くだんの記念碑に詣でたことも論争に拍車をかけた。このまま、ロンメル記念碑を放置しておけば、ネオナチの「聖地」になりかねないと危惧されたのだった。このような事態を受けて、ロンメル記念碑は撤去も検討されたが、2018年現在、いまだ結着はついていない。
政治思想と結びつけられるロンメルへの評価
『「砂漠の狐」ロンメル』(大木毅著、角川新書)
この種の問題は、ロンメル記念碑だけではない。やはりバーデン=ヴュルテンベルク州のドルンシュタットにある連邦国防軍の衛戍地(えいじゅち)には、「ロンメル兵営」の名が付せられていた。だが、2017年に、連邦国防軍の極右現役将校によるテロ未遂事件(難民受け入れに賛成したヨアヒム・ガウク前ドイツ連邦大統領などの暗殺を計画していた)が発生。それ以来、ナチの将軍の名を兵営に冠するのは好ましくないとの批判が相次ぎ、改称が検討されている。
さらに、2018年に、ドイツ国防省の政務次官ペーター・タウバーが、SNS上でロンメルを悼む発言をしたところ、指弾の的となる事態となったのも記憶に新しいところだ。
つまり、現今のロンメルの評価は、軍事的・歴史的なそれを超えて、政治的な色彩を帯びつつある。事実、ここ数年のあいだに出された研究には「現代のわれわれにとってロンメルという歴史的存在への解釈がどのような意味を持つか」という、問題意識に基づくものが多いのである。
それら「ロンメル評価」の変化と揺れを、あなたはどれほどご存じだろうか。