日韓問題:レーダー問題、 韓国が反論動画公開 !
海洋警察撮影映像も、日本に謝罪要求 !
戦前の日韓問題の深層・真相は ?
(www.asahi.com:2019年1月4日14時29分より抜粋・転載)
朝日デジタル・ソウル=牧野愛博 :
海上自衛隊のP1哨戒機が韓国海軍艦艇から射撃用の火器管制レーダーを受けたとされる問題で、韓国国防省は、1月4日午後、日本の主張の問題点や韓国の要求を盛り込んだ、4分26秒の韓国語の映像を公開した。韓国海洋警察庁が撮影した、現場映像や防衛省が公開した映像は、含まれているが、韓国海軍艦艇が撮影した、現場映像は、含まれていない。
韓国海軍が実施したとされる、レーダー照射の否定を裏付ける新証拠は含まれなかった。
動画では、「韓国海軍は、友好国の哨戒機にいかなる威嚇行動もしなかった」と改めて強調し、仮に照射されたなら、哨戒機が回避行動を取るはずなのに、「再び接近する常識外の行動を見せた」と疑問を呈した。
◆韓国:日本が、脅威を与えた、 低空飛行について謝罪すべきだ !
国防省報道官は、4日、公開と同時に行った会見で、映像の公開について、「日本が一方的に日本語と英語の映像を公開し、歪曲(わいきょく)された事実を、全世界に伝えた。より正確な事実関係を、知らせる目的からだ」と説明した。「日本は、これ以上、事実を歪曲する行動を中止し、脅威を与えた、低空飛行について謝罪すべきだ」と語った。
韓国は、火器管制レーダーを使用していないと主張。P1哨戒機が、韓国海軍艦艇に脅威を与える低空飛行を行ったとして、日本に謝罪を求めている。(ソウル=牧野愛博)
(参考資料)
T 日本統治時代の朝鮮人徴用とは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
◆朝鮮人徴用:
日本統治時代の朝鮮人徴用(にほんとうちじだいのちょうせんじんちょうよう)は、第二次世界大戦中の日本統治時代の朝鮮において日本が朝鮮人労務者を1944年9月[1]から労務動員したこと。
「強制連行」と表記されることもあるが、朝鮮人が日本国籍を持っていた「朝鮮系日本人」だった当時、戦時中の朝鮮人に対する動員(労務動員)や徴用を「強制連行」と表現することの妥当性については議論がある[2][3][4][5]。戦中の労務動員について朝鮮人労働者移入ともいわれる[6]。
戦後、戦時の朝鮮人徴用は歴史認識問題・歴史教科書問題、戦後補償問題として取り上げられてきた[7]。
◆概念・定義:
「強制連行#概念・定義」および「在日韓国・朝鮮人#徴用・強制連行と渡航」も参照
日本が動員・徴用、または斡旋した際に、集め方が強制的であったとして「強制連行」と呼ばれ始めたとされている[8][7]。
しかし、この「強制連行」という言葉には疑義が出されており、在日朝鮮人運動史研究家の金英達は、「定義が確立しておらず、ひとによってまちまちな受け止め方がなされている」「もともと、強制連行とは、『強制的に連行された』という記述的な用語である。
そして、強制や連行は、実質概念であり、程度概念である。その実質や程度について共通理解が確立されないまま、強制連行という言葉だけがひとり歩きして、あたかも特定の時代の特定の歴史現象をさししめす歴史用語であるかのように受けとめられていることに混乱の原因がある」と指摘している[2]。
◆戦時動員・労務動員との関連
金英達は、日本語の文脈で「強制連行」と記述する場合、ほとんどの場合は国家総動員法を制定した戦時体制下の大日本帝国政府が朝鮮半島で行った労務動員を指して使われる言葉となっていると指摘している[9]:32[3]:61。
金は、戦時中の朝鮮人の強制動員については「戦時動員」を使い、そのなかの具体的な暴力的なケースを「強制連行」とすることを提案している[2]。
また、鄭大均も朝鮮人の労務動員を「強制連行」と呼ぶのは、「日本人の加害者性や朝鮮人の被害者性を誇張しすぎている」として、当時の朝鮮人は大日本帝国の国民であり、日本人男性が戦場に送られていたのを代替するものとして朝鮮人の労務動員があったとしている[10]。
これらのほか、山田昭次立教大学名誉教授は1980年代には「朝鮮人強制連行」と論文で記していたが[11]、2005年の共著『朝鮮人戦時労働動員』(岩波書店)で「朝鮮人戦時労働動員」と呼ぶこととした[12]。
ただし、これは「強制連行」という言葉が攻撃されたからではなく、強制連行というと強制労働、民族差別の問題に目を向けなくなる恐れがあるためと述べている[13]。
山田は「戦時動員」には労働動員と軍事動員の二つがあり、同書ではこのうち軍事動員を除外した労働動員、それも日本内地に限定しこれを「朝鮮人戦時労働動員」と呼び、「強制連行・強制労働・民族差別」の三つの問題点を含めるとした[12][13]。
従軍慰安婦問題を含む一連の“強制連行”という言葉が広く紹介されるようになったのは、朴慶植の著作である『朝鮮人強制連行の記録』(未来社1965)によってである。
的場光昭は、自著『反日石碑テロとの闘い』(展転社)で、朴の著書において南方へ強制連行されたという人物について、北海道新聞が記事で紹介した総督府に残る資料と照合した結果、当該人物は、干ばつによる飢饉を逃れて、妻子とともにパラオに移住したことが判明したとして、実態は、朴の著書にあるような昼夜分かたず、官憲が男たちを狩り集めて連れ去ったという内容とは異なると述べている。
U 美輪明宏氏の話:日本人慰安婦の話と、美輪明宏氏の主張:
元日本軍慰安婦に関する正確な知識 !
(kajipon.sakura.ne.jp:2015.1.14より抜粋・転載*
【日本人慰安婦の話〜橋下“維新の会”は聞け !美輪明宏】
(2013年6月のライブドアニュースより)
今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。
あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。従軍慰安婦というのは、もう60年以上前の、つまり半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。
◆韓国と中国の従軍慰安婦だけでなく、日本人の
従軍慰安婦の人たちもいた !
これでいろんなメディアが昔を語るという、終戦記念日に近くなると、よく昔の焼け跡だとか兵隊さんの話とか色々なものを聞いて、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。でも従軍慰安婦の人たちというのは、直の話を聞けないんですよね。
そして、聞けるのは、大体、韓国と中国の従軍慰安婦の人ばかりが取り上げられますけれども、日本人の従軍慰安婦の人たちもいたんですよ。いっぱいいたんです。
でもそういった人たちは何故取り上げないのかといったら、その人たちが、もう酷い目に遭ったんですね。まず、私が何故そんなことを知っているかと言いますと、終戦後にその人たちが満州、つまり今の中国から引き揚げてきたんですね。
引き揚げてきて、私、長崎でございましょう、長崎には、丸山遊郭という有名な、女郎さん遊女たちがいて売春する、そういう街があったんですね。
坂本龍馬なども遊んでいたような有名な所ですね、日本の3大遊郭という。
これが、戦争中に遊興の場所というのは、カフェやバーも遊郭もみんな閉店させられて、全部が商売営業停止になったんですよ。そしてその人たちは、行き場が無くなったんですね。
その人たちは、どういう人たちが遊女になっているかというと、主に、人身売買が当たり前になっていた時代でしたから。
◆貧しい農家の娘さんとか、貧しい家の子供たちが、
家族の生活維持のために、身を売っていた !
貧しい農家の娘さんとか、貧しい家の子供たちが、自分が売られていけば、お父さんもお母さんも弟たちも飢え死にしないで済むからといって、女衒(ぜげん)と言われる、人買いの人に話をしてもらって、遊郭に身を売られて、身を売っていったんですね。
一家の犠牲になっている貧しいお嬢さんたちが多かったんです。
閉鎖されて行き場が無くなった時に、軍の出先機関で大政翼賛会(たいせいよくさんかい)という組織があったんです。
そこの人に声をかけられて、満州に良い仕事があるぞ。カフェとか遊郭があるから、そっちへ行って稼げばいいということで、そして喜んでそちらへ行ってみたらなんと、話が違って従軍慰安婦だったというんですね。
◆従軍慰安婦は、表には兵隊たちが木札をもってズラリ
と並んで、それを一人ひとり相手をしていた !
従軍慰安婦というのは、街ならその街にずっと居着いて遊郭にいて、そして男の人たちの相手をするというだけではなくて、従軍慰安婦の人たちは「従軍」と言いますでしょう、軍に従うと書いてあって第一線を付いて周るんですね。
そして筵(むしろ)みたいなものを敷いて、筵みたいなものを立てて、コーリャンという麦よりももっと不味い穀物で作った、真っ黒いおにぎりですけれど、私も長崎で食べたことがありますけれど、食べられた物じゃないです。
それを枕元に置いて食べながら、表には兵隊たちが木札をもってズラリと並んで、それを一人ひとり相手をして。
そして、鉄砲の練習をさせられて、敵が来たら身を守るためといって銃の練習をさせられて、敵が押し寄せてきますでしょう、馬賊(ばぞく)とか匪賊(ひぞく)とか。
そうすると兵隊と一緒に戦うんですって。
◆従軍慰安婦は、死んだら、埋めてももらえない、 焼いてももらえない、
野ざらし雨ざらしで、 山犬の食い荒らすままになっていた !
戦って、流れ弾に当たって死んだら、今度は、日本婦人がそういうことをしていたというと恥になるからといって、モンペやなにかを脱がされて支那(しな)服に着替えさせられて、そして放り出されるんですって。そして、埋めてももらえない、焼いてももらえない、野ざらし雨ざらし。山犬の食い荒らすままになっていて。
そして終戦後引き揚げてくるときに、まず軍人の将校たちと家族がトラックに乗って逃げて、自分たちは置いてきぼりになったんですって。
他の移民団、開拓団の人たちと一緒になって、命からがら引き揚げてきて村に帰ったら、村の恥さらしとか面汚しとか言われて。
そして家へ帰ったら、自分はお父さんお母さん、一家のために売られて行ったのに、
「お前のやっていたことが世間様に知られたら、家の恥になる、出て行ってくれ。」と。
もうそれはどこに恨みを持っていったらいいのか、それは、悲憤慷慨(ひふんこうがい)ですね。
それを行き場所が無いから、自分が従軍慰安婦だったというのを隠しているんですよ。
だから日本人の従軍慰安婦は一人も出てきませんでしょう。そういう事情があるんですね。
◆女郎屋さんが再開して、進駐軍の米国人・兵隊たち相手に遊郭が復活した !
◆もっと人間には、尊厳があるということを、
維新の会の人たちは、もっと知るべきだ !