吉田嘉明よ、卑怯・未練・怯懦と言われることを甘受するのか ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第141弾
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2018年12月18日 澤藤統一郎の憲法日記
当ブログ「憲法日記」は、本日が連続2088回目。そのうちの、141回がDHC・吉田嘉明のスラップ関連記事となっている。これは貴重な記録だ。しかるべき時期に、これを一冊の書物にまとめたいと思っている。まとめてお読みいただけたら、DHC・吉田嘉明の行動がいかに不当・違法なものであるのかよく分かるはずなのだ。 幸いなことに、当ブログは毎日連続して書き続けていることを評価していただき、多くの方に共感してお読みいただいている。ありがたいことと思う。が、中にはまったく共感とは無縁で閲覧される人もある。これも一興。 その典型が、DHC・吉田嘉明関連の人たち。たとえば、「現在は(DHC)総務部の部長を務めております」という人物。法廷に提出予定の、この方の本年12月7日付陳述書には下記のようなくだりがある。思わず、笑ってしまった。私のブログを気にして、よく読んでいるのだ。無視されるのは辛いこと。しっかり読んでいるというメッセージには、礼を言わねばならないだろう。 反訴原告(註・澤藤のこと)は,法廷ばかりか,今日現在も問題のブログで一方的に言いたい放題の掲載を続けており,その主観的な記事の回数は現時点で140回にも及びます。更には,裁判官の見解や準備書面など裁判の経緯をプログで公開し,その都度提訴してみろとでも言わんぱかりに挑発的な主張を繰り返すその行為は,自ら濫訴を誘引するかのような態度です。 よって,反訴原告には,真実を尊重し,弁護士の品位をも損なうような一連の行為は厳に慎まれたいと切に願うばかりです。 この人、反訴原告が私(澤藤)、反訴被告がDHC・吉田嘉明の「反撃訴訟」における、反訴被告側の証人予定者である。裁判所は、反訴被告側に、人証の申請を促していた。期待されたのは、吉田嘉明の本人尋問申請である。あるいは、顧問弁護士今村憲の証人申請。いったい何を考え、何を目的に、こんな勝ち目のない無謀で不当な、嫌がらせ訴訟を提起したのか。その決断の過程は、吉田嘉明本人でなくては語れない。もし、吉田嘉明が臆して法廷に出渋るとなれば、顧問弁護士が責任を取って代わるしかあるまい。 ところが、反訴被告側が申請した人証は、この「現在は総務部の部長を務めております」という人物一人だけ。吉田嘉明は自分が仕掛けた争訟に、形勢不利と見るや、前線から逃亡しようというのだ。しかも、前線にかわいそうな部下一人を置き去りにして。到底、将としてあるべき振る舞いではない。 事情が変わらないので、もう一度同様のことを言わねばならない。 吉田嘉明よ。逃げ隠れすることなく、法廷で思うところを存分に述べたらどうだ。訴えられた私はリングに上がろうというのだ。吉田嘉明よ、どうしてリングに上がろうとしないのか。この訴訟、もともと吉田嘉明自身が提起したものではないか。吉田嘉明自身の名誉が不当に毀損されたことが、提訴の理由だったはずではないか。また、もとはと言えば、やはり吉田嘉明自身が週刊新潮に書いた手記の内容が批判を招いたものではないか。その手記の内容や意図について、他人が代わって説明できることではなかろう。 しかも、吉田嘉明批判は、すべて新潮手記の範囲ではないか。これを批判されたのは、身から出た錆なのに、他人が批判したら、それはけしからん、許せんと高額訴訟を仕掛けたのは吉田嘉明自身ではないか。 吉田嘉明よ、私は何度も争訟を仕掛けられた身だ。まずは2000万円のスラップの提起だ。ついで、「スラップ批判」に過剰反応した吉田嘉明による請求額6000万円への3倍増だ。さらに、控訴も上告受理申立もあった。そして、私を被告として債務不存在確認請求の本訴を仕掛けたのも、ほかならぬ吉田嘉明自身ではないか。 その争訟の仕掛けに、恫喝や嫌がらせ以外の、正当な動機や目的があると言うのなら、吉田嘉明よ、他人に任せ他人の背に隠れることなく、堂々と自ら法廷で語れ。自身の言葉で、その言い分を述べるがよいではないか。吉田嘉明よ、そのような気概も、自信も持ち合わせてはいないのだろうか。いつも、他人を盾にして、その背の後に身を潜めていようというのか。吉田嘉明よ、それが吉田嘉明流の処世術なのか。 ある人物を批判の対象とすること、あるいは相争う相手とすることは、決してその人物を軽蔑することではない。しかし、争う相手が、逃げ隠れし、卑怯未練・怯懦の振る舞いをすることとなれば、軽蔑せざるを得ない。 吉田嘉明よ。「本物、偽物、似非もの」と並べる記事を書いている吉田嘉明よ。自身が、「偽物」でも「似非もの」でなく、「本物」と言うのであれば、堂々とリングに上がれ。せめてファイティング・ポーズをとれ。そうすれば、私が吉田嘉明を軽蔑の対象として見ることはない。 また、吉田嘉明よ。「本物、偽物、似非ものを語るとき在日の問題は避けて通れません。この場合の在日は広義の意味の在日です。」「いわゆる三、四代前までに先祖が日本にやってきた帰化人のことです。そういう意味では、いま日本に驚くほどの数の在日が住んでいます。」「問題なのは…いわゆる、似非日本人、なんちゃって日本人です。政界(特に民主党)、マスコミ(特に朝日新聞、NHK、TBS)、法曹界(裁判官、弁護士、特に東大出身)、官僚(ほとんど東大出身)、芸能界、スポーツ界には特に多いようです。」「問題は政界、官僚、マスコミ、法曹界です。国民の生活に深刻な影響を与えます。私どもの会社も大企業の一員として多岐にわたる活動から法廷闘争になるときが多々ありますが、裁判官が在日、被告側も在日の時は、提訴したこちら側が100%の敗訴になります。裁判を始める前から結果がわかっているのです。似非日本人はいりません。母国に帰っていただきましょう。」などという、吉田嘉明の言いたい放題は裁判所に書証として提出されている。その真意や根拠について、法廷で裁判官に説明をする絶好の機会ではないか。それとも、こんな荒唐無稽な放言について、公の席では語ることができないということだろうか。 吉田嘉明よ、今、自身の本物度が問われている。いまこそ、イザというときではないか。今、このときに逃げ隠れするのは、「本物」ではなく、卑怯未練の「偽物」あるいは「似非もの」と言われても仕方なかろう。自らが「本物」であることを証明するには、法廷で自らの信念を堂々と述べること以外にない。そのためには、次回(1月11日)までに、裁判所に自らの本人尋問を申請することだ。裁判所は文句なく採用することになる。そのときには、私も吉田嘉明を見直すことにしよう。 吉田嘉明よ。裁判官も、われわれも、傍聴者も、あなたの法廷の発言を遮ったり、妨害したりはしない。堂々と、信じるところを述べてしかるべきではないか。 もう一度、籠池泰典という人物について触れたい。彼の思想に共感する者は少ない。教育勅語礼賛の彼の思想を私も嫌悪する。しかし、彼を軽蔑するという者はいないのではないか。彼は、常に臆するところなく、堂々としている。卑怯未練の振る舞いがない。逃げ隠れすることなく自己の所信を、明瞭に述べる彼の姿勢はすがすがしい。 翻って、吉田嘉明よ。「逃げた」「隠れた」「卑怯」などと言われることは、本意ではあるまい。陰に身を潜めていないで、自らの本人尋問を申請せよ。公開の法廷で堂々と語れ。私に6000万円を請求した真の動機を。それが、私を含めた多くの人々の軽蔑から免れる唯一の方途なのだから。 (2018年12月18日) |