〔ノモンハン 責任なき戦い〕8月15日、Nスペ
NHKはロシアの国立映像アーカイブ(モスクワ)で2時間の未公開フィルムを含む2時間の映像を新たに発見(戦車や飛行機等のカラー映像)。
元兵士・柳楽林一(101歳)は、身を隠す物のない草原に塹壕を掘り、ソ連軍と対峙した。戦車や航空機による猛攻を受け、166人いた柳楽さんの部隊はほぼ全滅したという。
柳楽「自分の鉄砲で引き金を足で自分の喉元でやって、そこで戦死したという人もいた。夜いよいよ最後だなと思う人が”天皇陛下万歳”って言って…今あの人の声だ、今度はわしだなっていうような切迫感というかそんな突き詰めたような気持ちでね、いやな感じです」
ソ連の周到な準備を知らないまま、歩兵中心の部隊で地上戦に臨んだ日本軍。
陰惨な戦は4か月に及び(1939年5〜9月)、最終的に日本軍はソ連ーモンゴルの主張する国境線の外に追いやられることになる。2万人の死傷者を出した日本軍は主力部隊の8割を失う壊滅状態、当時としては日本陸軍最大の敗北となった。
柳楽さんは、ノモンハン事件を起こした軍の上層部に対する憤りを79年間、抱え続けてきた。
柳楽「兵隊は”鉄砲の弾”だと。腹が立つんです。なんであんなことをさせられたんだ。死んだ者は生き返ることができないんだから、死んだ者への思いはどうなるんだ、と」
ノモンハンでの未曽有の敗北を日本陸軍はどう受け止めていたのか。今回、その手掛かりとなる音声記録を南カリフォルニア大学(米)で発掘した。日本陸軍の将校たちの音声記録である。
陸軍幹部の150時間にわたる肉声であった。米国の軍事研究家が1950年代から30年にわたってインタビューした記録である。さらに日本国内に残された音声記録も入手した。
今回発見された音声記録で、ノモンハン事件を主導したと異口同音に名指しされた人物がいる。
和田正純大佐(参謀本部作戦課長)「あのノモンハンちゅうのをやったのは”辻”ですよ」
三好康之中佐(関東軍虚空う参謀)「”辻”に引き回されたかもわからん。けれども彼は天才だもの」
関東軍作戦参謀、辻正信少佐である。もっとも若い参謀で、本来意思決定を下す立場ではなかった。ところが、辻少佐が立てたある方針がノモンハン事件の引き金になって行く。「満ソ国境紛争処理要綱」には、国境線が不明確な地域では現場の司令官が自主的に国境線を認定、侵入された場合には一時的に越境してでも敵を封殺するという極めて強硬な内容だった。
〔敵を知らず己を知らず先に進んだ日本軍〕
ノモンハン事件の1か月ほど前、「満ソ国境紛争処理要綱」を示した辻は、国境紛争が拡大しかねない極めて強硬な方針・考えであったが、参謀ちから慎重な意見はあまり上がらず他の参謀たちも辻の意見にも辻に同意して行く。
最終的に、辻が起案した処理要綱は関東軍内で承認された。
実はノモンハン事件が起きた時、偶然、患部の一人が関東軍を訪れたいた。稲田正純大佐(参謀本部作戦課長)である。
稲田作戦課長は、これ以上事を荒立てないよう伝えながらも、事実上、関東軍の行動を黙認していたのである。30万を超える兵力を擁した関東軍は日本陸軍のの直組織でありながら、参謀本部が容易に口出しできない存在になっていた。
(中略)
何故、若手の一参謀の意見が関東軍全体を動かしていく事態に至ったのか。辻は上層部の一部から高く評価されていた。陸軍内の「情実」が優先され、昭和天皇が問題にした参謀本部の許可のない越境爆撃は不問にされた。
主力組織で陸軍の曖昧な意志決定は結果として、多くの兵士の命を奪い、国を危うくさせていった。
柳楽「壕の後にはずらりと戦車が並んで、これには驚いたんです。その戦車を見た時はもうわれわれはだめだと思ったんです」
柳楽さんは、塹壕から飛び出し旧式の小銃一つで立ち向かったという。
8月に入ってソ連軍の大攻勢が始まる。北、中央、南の陣地を三方から囲み日本軍の殲滅を計った。この時のソ連軍の兵士は日本軍の2万5千に対し、2倍以上の5万7千人に達していた。
援軍も補給も断たれて行く中、持ち場を維持するよう命ぜられていた。
その一つ、北部のフイ高地の井置部隊は、わずか800人の兵士で5千を越える部隊と戦っていた。ソ連軍の200両の戦車に対して、数台の対戦車砲で対抗した。補給もなく戦う事5日間、兵員は1/3に減った。
フイ高地の死守は不可能を考えた井置中佐は撤退を決断し、兵士たちに「支隊は本夜23時 陣地を徹し師団主力に合わせんとす」と伝えた。日本軍は総崩れとなり、23師団長、小松原中将も全軍に撤退を指示した。主力部隊の8割を失う壊滅状態となった。
日本は国境と主張していたハルハ河から後退し敗北を喫した。
〔押し付けられた責任〕
当時の日本陸軍にとって未曽有の敗北、しかし責任の大半は現場へと押し付けられて行く。その矛先を向けられた一人が井置中佐であった。思わぬ電報が届いた。「9月17日、井置栄一、将軍廟南約12キロにおいて死亡」とあるだけで詳しい状況は分からなかった。
井置正三道(次男)「鋭敏にうちの母親(いく)は感じていた。”これはふつうの死に方とはちがうな”という気があったでしょう」
戦場から撤退し生き延びたはずの井置中佐に異変が起きていた。中佐は、撤退の翌日、辻正信に非難された。また小松原師団長も、部下の参謀たちが集まった会合で、「自分の命令の前で無断撤退した」と糾弾、「自決を勧告するが至当だと思うがどうか」と言ったが、出席した参謀たちは再考を求めた。だが小松原は同じ発言を繰り返すばかりだった。
関東軍は井置中佐を軍法会議にかけることもなく密かに自決を促していた。
責任を問われたのは井置中佐だけではなかった…捕虜まで自決を迫られていた。
(以下、略)
・ノモンハン 責任なき戦い 〜予告動画
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20180815
79年前、モンゴル東部の大草原で、日ソ両軍が激戦を繰り広げたノモンハン事件。ソ連軍が大量投入した近代兵器を前に、日本は2万人に及ぶ死傷者を出した。作家・司馬遼太郎が「日本人であることが嫌になった」と作品化を断念した、この戦争。情報を軽視した楽観的な見通しや、物量より優先される精神主義など、太平洋戦争でも繰り返される“失敗の本質”が凝縮されていた。しかし軍は、現場の将校には自決を強要した一方で、作戦を主導した関東軍のエリート参謀たちはその後復帰させ、同じ失敗を重ねていった。
今回NHKは、ロシアで2時間に及ぶソ連軍の記録映像を発掘。4Kで精細にスキャンした映像を「AIによる自動カラー化技術」で鮮やかに着色し、戦場の実態を現代によみがえらせる。さらに軍の判断の経緯が証言された、150時間を超える陸軍幹部の肉声テープも入手。敗北はどのようにして隠され、失敗は繰り返されたのか。映像と証言から迫る。
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/630.html