50年前の6月6日にロバート・ケネディが暗殺された
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2018.06.07 櫻井ジャーナル
今から50年前の6月5日にロバート・ケネディが銃撃され、翌朝に死亡した。その2カ月前、4月4日の夕方にはマーチン・ルーサー・キング牧師が殺されている。いずれも「犯人」とされる人物は存在するが、それを信じていない人は少なくない。
そうしたひとりがロバート・ケネディ・ジュニア、つまり殺されたロバート・ケネディの息子だ。ロバート・ケネディの暗殺に兄で大統領だったジョン・F・ケネディの暗殺が関係していると推測している人もいる。
ロバートは1961年1月から64年9月にかけて司法長官、65年1月から68年に暗殺されるまで上院議員は上院議員をそれぞれ務めた。殺されたときは次期大統領を目指して活動中。当選する可能性は高いと見られていた。
この上院議員を殺したのは60センチ以上前を歩いていたサーハン・サーハンだとされているが、検死したトーマス・ノグチによると、議員の右耳後方2.5センチ以内の距離から発射された3発の銃弾で殺されたのだという。この結果は現場にいた目撃者の証言とも合致している。つまり、公式説明によると、ロバートの前を歩いていた人物が発射した銃弾がロバートの後方からあたったことになる。しかも、命中した銃弾はサーハンのピストルから発射されたものではなかった。
朝鮮戦争が休戦になって間もない1954年1月にドワイト・アイゼンハワー政権の国務長官だったジョン・フォスター・ダレスは国家安全保障会議でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、CIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成した。このときのCIA長官はダレス国務長官の弟であるアレン・ダレスだ。
その前からアメリカはインドシナの再植民地化を狙うフランスの戦争を支援していたが、1954年5月にフランス軍はディエンビエンフーの戦いで降伏、それをアメリカが引き継ぐことになった。
しかし、アイゼンハワーの次に大統領となったジョン・F・ケネディはアメリカ軍の撤退を決断、1963年10月にNSAM(国家安全保障行動覚書)263を出している。それによると、1963年末にアメリカの軍事要員1000名を撤退させ、65年12月までに1万1300名を完全撤退させることになっていた。そうした動きは秘密でなかったようで、米軍の準機関紙、パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス紙は「米軍、65年末までにベトナムから撤退か」という記事を掲載している。
言うまでもなく、これは実行されなかった。ケネディ大統領が1963年11月22日に暗殺されたからだ。ケネディ暗殺を受けて副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンは1963年11月26日付けでNSAM273を出して撤退計画を取り消してしまったのだ。
ジョンソン政権は1964年8月の「トンキン湾事件」を利用してベトナムへ本格的な軍事介入を開始しているが、この「事件」はアメリカ側が仕掛けた偽旗作戦だった。翌年の2月には本格的な北爆を開始、地上部隊を増派する。1965年末になると、ベトナムで戦うアメリカ兵は18万人に達していたという。そして1968年1月に始まったテト攻勢ではアメリカ大使館が一時占拠され、その様子がテレビで伝えられた。アメリカ人は泥沼化した戦争の実態を知ることになったのである。
ロバート・ケネディはベトナム戦争に反対、キング牧師の弁護士だったウィリアム・ペッパーによると、キング牧師側に対し、自分が民主党の大統領候補になった場合に牧師を副大統領にしたいと打診してきたという。(John L. Potash, “Drugs as Weapons Against Us,” Trine Day, 2015)
キング牧師は殺される1年前、つまり1967年4月4日にニューヨークのリバーサイド教会でベトナム戦争に反対すると宣言している。公民権運動という限られた領域の運動ではなく、アメリカの支配システムそのものと対決する道を歩き始めたとも言えるだろう。
当時、キング牧師の顧問たちは牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していたとロン・ポール元下院議員は話している。そうした発言はジョンソン大統領との関係を悪化させると判断したからだが、牧師はそうしたアドバイスを無視した。
なお、ジョン・F・ケネディは暗殺される5カ月前の1963年6月10日にアメリカン大学の卒業式でソ連との平和共存を訴える「平和の戦略」と呼ばれる演説を行っている。フランス大統領だったシャルル・ド・ゴールは1962年8月22日、OAS(秘密軍事機構)の一派に命を狙われているが、そのド・ゴールは1968年の5月革命の影響もあり、69年4月に失脚している。