日大アメフト問題の根源にある「日大総長抗争50年史」
5/31(木) 7:00配信
現代ビジネス
日大アメフト問題の根源にある「日大総長抗争50年史」
写真:現代ビジネス
半世紀前までさかのぼる「因縁」
関東学生アメリカンフットボール連盟は、5月29日、日本大学アメリカンフットボール部の内田正人前監督、井上奨前コーチを、アメフト界からの追放を意味する除名処分とし、タックルをした宮川泰介選手とチームを今季出場停止処分とした。
警視庁調布署は、殺人タックル事件の捜査に着手。試合映像の分析を始めるとともに、日大職員などから参考人聴取を行なっているが、関東学連の方が先に「内田、井上両氏が主犯」という結論を出した。
「傷害罪での立件なので、実行行為者の宮川君の処分は避けられない。だが、彼は罪を認め反省しているので、逮捕の必要はないし、処分も寛大になるだろう。むしろ、口裏合わせをして否認している内田-井上コンビの罪は重く、このままだと逮捕は免れず、共謀共同正犯での立件は免れない」(警視庁捜査関係者)
それにしても内田氏は、自らの指示が明白な案件で、メディアと国民の総攻撃を受けながら、なぜここまで突っ張るのか。
私は前回、5月24日の記事で、そこにあるのは内田氏の「ドンの田中英寿理事長を、自分が“盾”となって守るという思いだ」と書いた(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55796)。
では、田中英寿理事長とはどういう人物で、日大のトップでありながら、なぜここまで沈黙を守り続けているのか。それを知るには、日大50年の抗争史に踏み込まねばならない。
半世紀前、全国の大学で学生運動が盛んになり、デモが繰り返されていた。そのとき最も先鋭的だったのが日大だ。大学側の20億円の使途不明金の発覚を機に、秋田明大氏が率いる日大全共闘が、古田重二良会頭(当時のトップ)を退任に追い込んだ。
日大は当時、団塊の世代の受け入れで拡大戦略を取っており、それが劣悪な学習環境やマスプロ教育のに対する学生の不満につながっていたが、古田会頭は大学新聞のチェック、安保闘争参加者の処分など、強権支配で乗り切ってきた。それに対する反発が、経営陣の腐敗発覚と反体制運動の高まりのなか一気に盛り上がったのが日大闘争で、当時、最も先鋭的な学生運動だった。
その頃、相撲部で活躍していたのが田中氏である。67年、3年生の時に学生横綱となり、69年には卒業して日大に就職、体育助手兼相撲部コーチとなった。全共闘と対峙した古田会頭は、日大法学部学生時代は柔道部主将として活躍。その体育会支配を続けてきたわけだが、田中氏もまた体育会学生、助手として、古田体制を支えてきた。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180531-00055888-gendaibiz-bus_all&p=1
噴出した「疑惑」
学生運動が勢いを失うと、2000億円を超える予算を握り、10万人のマンモス組織の頂点に立つ総長の座を巡って、日大内部では激しい争いが繰り広げられるようになる。
総長に与えられるのは権威と権力。その裏には名誉の他に「利権」があるわけで、3年に一度の総長選では、数億円の裏ガネが飛び交い、怪文書が撒かれる中、各候補の陣営が必死に66名の総長候補者推薦委員を奪い合った。
そんななか田中氏は、相撲部監督として有力力士を育て角界に送り込むとともに、保健体育審議会事務局を足場に地位を築き、99年、理事に就いて経営に参画するようになる。そこからは角界、スポーツ界人脈と清濁併せ呑む人柄で、設備、改修、建設などの事業にも口を出すようになり、00年代に入ると「田中理事に話を通さないと仕事がうまく進まない」といわれる存在になる。
02年に常務理事になると、そうした状態がさらに加速。悪評が立ったこともあって、05年には日大内に特別調査委員会が立ち上がり、田中氏と工事関係業者との金銭的結びつきや暴力団関係者との交際関係が調べられた。
その結果をまとめた「中間報告書」によれば、田中氏と親しい業者は、企業規模に似つかわしくない工事受注・物品納入を続けており、芸術学部江古田キャンパスの工事においては、「(田中氏が)工事業者から指名・発注に対する謝礼として3000万円を受け取ったという疑いが残る」とされる。また暴力団関係者との関係においては、イトマン事件の主役である許永中氏との関係を中心に、交際の痕跡が綴られていた。
本来なら、これらが「疑惑」の段階であったとしても、田中氏は常務理事という重責から外されてもおかしくない。だが、報告書提出の05年8月15日以降も田中氏は理事にとどまり、逆に08年9月、さらに上のポストの理事長に就いている。当時を知る日大関係者が内幕を明かす。
「疑惑発覚は、瀬在(幸安)総長が3期目(02年9月〜05年8月)の時。2期目までは瀬在派として、総長選の資金作りや票集めで活躍した田中だったが、3期目からは瀬在外しに回るようになり、それに怒った瀬在派が田中切りに入った。ところが、そこは戦上手の田中は『あなたたちだって同罪だ』と開き直った。また、書籍やミニコミなどを使った瀬在攻撃が激しくなったこともあって、瀬在総長も矛を収め、その後『最終報告書』をまとめるには至らなかった」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180531-00055888-gendaibiz-bus_all&p=2
もし内田氏に刑事罰が下れば…
この時の争いが、「田中支配」の確立につながった。
05年6月の総長選は、瀬在総長の推す佐々木恵彦氏と、田中氏が陣営に入った小嶋勝衛氏の一騎打ちとなり、小嶋氏が勝ち、第11代の総長となった。その背後にいて、実権を握ったのが田中氏といわれる。
3年後の08年、理事長となって支配体制を固めた田中氏が行った「仕上げ」が、総長から理事長へと権限を移す組織改革を実施したことである。
それまで、日大において権威と権力を握るのは総長だったが、改革によって総長は排され、運営権を握るのは理事長となった。そのうえで教職から選考される学長が、補佐役として教育面を担当。
第13代総長の大塚吉兵衛氏は、学長に横滑りして田中氏を補佐することになった。そうした構図が如実に表れたのが、5月25日、アメフト問題において、田中理事長に代わって大塚学長が行なった要領を得ない記者会見だった。
50年前から日大を貫くのはアカデミズムではなく、体制維持と大学の規模拡大を第一義とする資本秩序の論理であり、それを維持するのに必要なのは、カネとポストという本音の世界だった、ということか。
田中氏は、体育会的発想と実力行使で生き抜き、出世して理事長に就き、理事長ポストをトップに押し上げた。次を引き継ぐのは、教職から選考される学長ではなく、自分と同じ道を、着実に、忠実に歩んできたアメフト部監督の内田氏以外にあり得なかったのだろう。20年の東京五輪を機に理事長を譲っても、内田氏なら院政を敷いて権力を温存できる。
だから内田氏に責任を取らせるわけにいかず、自分が責任を取るつもりもない。それが後手後手の対応につながった。しかし、内田氏は除名処分となってアメフト界を追放、このまま関与を否認し続ければ刑事罰を問われる可能性もある。
そうなると、次の追及が田中氏に及ぶのは避けられない。「ドン」として表舞台に出ず君臨するスタイルが、結果として最悪の事態を招いている。
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伊藤 博敏
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180531-00055888-gendaibiz-bus_all&p=3