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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「古代の朝鮮人は、中国人だった」に、ご興味をお持ちでしょうか。実は、古代の朝鮮には、朝鮮人は居らず、亡命中国人ばかり居たという、「トンでも論」を考えてみたいと思います。
A 朝鮮や辰国という言葉。
ア) 朝鮮や辰国という言葉は、古くから有ったようです。
朝鮮という言葉は、紀元前1千年の昔の、殷の最後の紂王の時に、(殷王朝の同族の)箕子が、北朝鮮の平壌方面に「箕子朝鮮」を建国したのが始まりとされています。
また、辰国については、「史記」とか「漢書」に「朝鮮伝」が有り、紀元前2世紀の「衛氏朝鮮」の時代に、朝鮮半島南部に「辰国」として、「真番傍衆国」(「真番傍辰国」、「真番辰国」)が見えます。
この点については、(三国志よりも新しいところの)「後漢書」では、『漢有三種一日馬韓二日辰韓三日弁辰・・・凡七十八国・・・皆古之辰国也』と見えます。
★ 弁辰諸国の「辰」は、この「辰国」からきた説が有力ですが、詳しくは分かりません。
また、この点について「魏略」では、『辰国が滅びる前に、(衛氏朝鮮の)衛満の孫の寓居王(右渠王)が、漢の武帝の攻撃を受ける前に、武帝に何かの建議を行ったが、建議を無視されたので、自分の部族の2千戸を率いて、辰国に亡命し、同時に、衛氏朝鮮との関係を絶った』と見えます。
★ 辰国については、成立年代も、民族も、その実在性も、全くの不明ですが、三国志に紹介されており、辰国の王が韓王と号したようですが、詳しいことは分かりません。
イ) 「後漢書」の「弁辰伝」には、(紀元前2百年ころの話として)、『初め、朝鮮王の準が、衛満に滅ぼされて、数千人の残党を率いて海に入り、馬韓を打ち破り、韓王として自立した。準の後裔は絶滅してしまい、馬韓人が再び王になった』と見えます。
(ただし、韓人による系譜のイカサマ説があり、真偽は不明です)。
(朝鮮王準について、「三国志・魏書」の「馬韓伝」の中で「魏略」を引用して紹介しています)。
ウ) 「史記」の「箕氏朝鮮」の記述として、(紀元前1千年ころの)殷王朝最後の「紂王」の時代に、殷の同族で紂王の叔父にあたる「箕子」が、(北朝鮮方面の)「朝鮮候」に封じられたと見えます。
この一族は、次の周王朝に服属し、秦の始皇帝に服属し、秦の滅亡時の動乱時代に、子孫の準王(箕準)が、燕王の元将軍の衛満に国を乗っ取られ、40代余り続いた箕氏朝鮮が滅亡したようです。
その後は、(前述のとおり)数千人を率いて海に入り、馬韓を破り、韓王と号したようです。
★ この朝鮮候の「箕氏の一族」は、中国の殷王朝の一族であり、100%の中国人ですから、「朝鮮」は、中国人が建国した国であり、「朝鮮人」とは古代の中国人の一派のことです。
B 騎馬民族の「高句麗」は、中国人だった。
朝鮮北部に君臨した「高句麗」は、北方のツングース系の南下説が有る一方で、中国人の説も有りますが、集合・離散を繰り返し、混血を重ねていると考えられますので、本当のことは分かりません。
ア) 中国に「高陽氏」とか、「高辛氏」という氏族が居た。
中国の神話の時代の、「堯・舜・禹」よりも数代前に「黄帝(姫姓または公孫姓)」が居ました。その前には「神農氏(姜姓)」や「伏羲(風姓)・女媧(風姓)」や「共工(三苗の系統)」や「天皇・地皇・人皇」などの時代が有ったとされます。
この黄帝の孫に「帝センギョク・高陽氏」がいて、この子孫には、「舜」の系統や、夏王朝の始祖の「禹」の系統(その子孫の「越王」の一族や「殷王朝」の一族など)、その他の系統を生み出します。
★ 越系倭人は、夏王朝の子孫であり、呉系倭人とは「黄帝」で繋がる同祖です。
また別に、黄帝の曾孫に「帝コク・高辛氏」がいて、この子孫が「堯」の系統(堯の娘婿として前述の「舜」が入ります)や、夏王朝を滅ぼした殷王朝の系統や、「周王朝」や「呉王」を輩出した后稷の系統や、その他の系統を生み出します。
★ 呉系倭人は、越系倭人とは「黄帝」で繋がる同祖です。
イ) 高句麗は「高氏」の子孫だった、(説)。
高句麗は、元々は中国人の氏族で、上述の高陽氏か高辛氏か、他の氏族かは定かでは無いが、「高」を名乗る氏族であり、中原での「負け組」で、周辺に弾き飛ばされた氏族、との説が有ります。
また別に、西周初年(BC1046年)に、周の武王が商(殷)を滅ぼした時に、周の東方にいた「高夷氏」が、周の属国になった。その後に、周の成王が洛陽に都を創建したときに、諸侯が招かれて、参加した東北の高夷が、後の高句麗の源流との説があります。
この高夷氏は、先祖が「帝コク・高辛氏」との説も有るようですが、4千年も昔の話です。
さらに、この高夷氏は、春秋時代以降に東に移動して、満州の遼東に至った説も有ります。
ウ) 「魏志・高句麗伝」の抜粋。
『東夷の諸族の昔話では夫餘の別種と言っている。言語・風俗・習慣の多くが夫餘と同じだが、性格・気質・衣服に違いがある。』
『涓奴部は元々国王を輩出したので、今は王を出さないけれども、正統の有力者は古雛加を称する特権が有り、宗廟を立て、霊星、社稷を祭ることができる。絶奴部は、一族の女が代々の王と婚姻するので、古雛加の号を加えられる。』
★ 古雛加の称号とは何のことでしょうか。「高夷氏」の「高夷」の変形でしょうか。
『王がいる。官には相加、対盧、沛者、古雛加、主簿、優台、丞、使者、皁衣、先人があり、尊卑の身分に等級がある。』
『王莽は、初めに高句麗の兵を派遣して胡族(匈奴)を討伐した。高句麗人は行くのを拒否した。王莽が強迫して高句麗兵を派遣させた。高句麗兵は塞から逃亡し、遼東郡を寇して荒らした。・・・王莽は進言を聴かず、厳尤に詔して、高句麗を撃たせた。厳尤は句麗侯の騊を誘い出し、やって来たのでこれを斬って、その首を伝送して長安(西安)に送った。莽は大いに喜び、天下に布告して、高句麗を下句麗と名を変えた。この時、高句麗は中国の侯國になった。』
エ) 断言は出来ませんが、高句麗の一部は、中国から逃げてきた中国人に思えます。
C 騎馬民族の「扶余」は、中国人だった。(説)。
扶余は、高句麗より複雑で、北方にいたツングース系の南下説が有力ですが、満州の奥地にいた「北扶余」、北朝鮮の東北端の豆満江の方面に居た「東扶余(迦葉原夫餘)」、高句麗の発祥地の佟佳江流域に居た「卒本扶余」、百済方面の扶余に居た「南扶余」が知られています。
また、北扶余・東扶余・卒本扶余は別々の異なる部族では無く、移動によって名付けられたものであり、移動のたびに集合・離散を繰り返したと、考えられます。
ア) 最古の記録を辿る。
「史記・貨殖列伝」に、『燕は渤海と・・・遼東に到る。・・・北は烏桓、扶余に臨み、東は穢貊、朝鮮、真番の利を統べている』と見えますが、これは、扶余の最古の記録と云われています。
(BC108年に滅亡した「朝鮮」が記されるために、この史記の記述は、BC206−BC108年の間の記録と考えられます)。
イ) 「魏志・夫餘伝」の抜粋。
『漢の時、夫餘王は葬儀に玉の棺桶を用いた。・・・古老は先代の王が賜った物だと言っている。その印の文言は「濊王之印」と言う。国(中国)には濊城と呼ばれる古城がある。元は濊貊の土地だった。夫餘王はその中にいたのだろう。自ら亡命者というのは、そもそも理由がある。』
★ 別の解説本には、『夫餘王は、自ら中国の亡命者と言っている』と有ります。
ウ) 「三国史記・高句麗本紀」から夫餘を推理する。(眉ツバものですが)。
「三国史記・高句麗本紀」では、
『(高句麗の)始祖は東明聖王で、姓は高氏、諱は朱蒙・・・これより先に、解慕漱が天から降臨して北扶余(卒本扶余)を建てた。解慕漱が解夫婁を生んだ。・・・
・・・扶余王の解夫婁が老いて子が無く、山川を祭って跡継ぎを求めていた。・・・
・・・金色の蛙のような形の子供がいた。夫餘王が連れ帰って養育した。名は金蛙という。
・・・後に東海の迦葉原という土地が有り、・・・国を移して東扶餘と名乗った。
・・・金蛙が柳花を娶り朱蒙を生んだ。(一説に解慕漱の子)。(別に金蛙に7人の子供がいた)。
・・・金蛙王の子は、朱蒙に及ばなかった。朱蒙の母が『王子らが、お前を害そうとしている。』
・・・朱蒙は、・・・三人と一緒に逃走し・・・国を高句麗と号し、それで高を氏とした。・・・』
以上のように、高句麗が夫餘と密接な関係を持っていたことが、高句麗の記録から見られますが、高句麗と夫餘は別種のようです。
エ) 百済の先祖が夫餘で、ルーツが呉王家の子孫に繋がる。
{(その6の23)の「呉系倭人の発生と来日ルート」}の中の、「B呉系倭人は3派にわたって朝鮮に渡った(仮説)。」で述べたように、
ア) 第1派は、夫概(フガイ)の妻子が、朝鮮に渡った(可能性)。
呉王の闔閭(コウリョ)に夫概(フガイ)という弟がいました。(「春秋左氏伝」や「史記・呉太伯世家」参照)。
(「風俗通義・廣韻〜餘(後漢代)」によると、(真偽不明だと断っておきますが)、『呉の公子の夫概は、楚に奔走した。その子に国があり、夫餘(フヨ)を氏とした。今の百済王夫餘氏である』。
上記については、「大宋重複廣韻」大中祥符元年(1008年)に、引用として、『風俗通云呉公子夫概奔走楚其子在国以夫餘氏今百済王夫餘氏也』と有るようです。(百済の王姓は、余、または夫餘ですから、辻褄は合っています)。
仮に、扶余から分かれたのが百済であり、(その百済の伝承に)呉王国の公子の夫概の子孫が百済の先祖だとするなら、扶余もまた、呉王国の夫概の子孫という考え方も出来るかも知れません。
オ) 可能性としては、扶余は、呉王の弟の夫概の子孫、あるいは、高句麗と同じく、中国を追われた「負け組」の中国人のような気がするのですが、どうなんでしょうか。
(これとは別に、頭書に述べたように、北方のツングース系諸族の南下説が有力であり、北方人種と中国の負け組の交流を検討する必要が有る様に、思います)。
D 騎馬民族の「濊族」は、中国人だった。(説)。
濊族については、{(その6の25)・「スサノオは濊族で、金官加羅だった」}で述べましたが、濊族から高句麗や扶余が派生した説も有るくらいの古い氏族ですが、詳しいことは分かりません。また、高句麗の出自説のように、中国での「負け組」が朝鮮半島に逃げてきた可能性も、否定できません。
そして、秦王朝の滅亡によって、遼東の長城の建設のために強制連行された秦人(楚人)が開放されて、辰韓に入ってから、古い濊族と融合した可能性も、否定できません。
そうしますと、濊族も、中国人の可能性を否定できないと思われます。
E 騎馬民族の「匈奴」は、中国人だった。(説)。
「史記・漢書」の「匈奴列伝」に、『匈奴の先祖は、夏后氏』と有るようです。夏后氏は夏王朝の一族で、夏后淳雄が匈奴の先祖らしいが、真偽不明で分かりません。
一般的に、匈奴は騎馬民族と理解していますが、漢王朝の時代でも、漢の武人や高官が長城を越えて匈奴に亡命した記録も有りますから、匈奴のルーツが負け組の「亡命中国人」だったとしても、別に不思議では有りません。
F まとめ。
総合的な評価として、古代中国での「負け組」は、北側では満州方面か朝鮮方面に逃げるのが常道のようで、次から次に「負け組」が折り重なって、原型をとどめないほどに集合離散を繰り返した。
そして、武力を伴った新しい負け組が侵入するたびに、古くて弱い負け組が周辺に押しやられた。その負け組が更に北方のツングース系諸族を周辺に押しやったり、集合離散や混血を繰り返した。
彼ら「負け組」たちは、中国からは「西戎」「北狄」の卑語・蔑称で呼ばれることになった。
(日本人だって、(琉球人は混血種と考えられ)、純粋種はアイヌ以外には居ないと思います。
★ どう思われますか。
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/404.html