政府系商工中金、一大不正発覚、新社長の「経歴書」…名門銀行の大粛清主導した「四人組」
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2018.01.23 文=編集部 Business Journal
商工組合中央金庫本店(「wikipedia」より)
政府系の商工組合中央金庫(商工中金)は1月12日、不正融資問題で引責辞任を表明していた安達健祐社長の後任に、プリンスホテルの関根正裕取締役常務執行役員を起用すると発表。政府は同日の閣議で、この人事を了承した。3月27日に開催予定の臨時株主総会を経て社長に就任する。
国の融資制度である「危機対応融資」で不正が発覚し、元経済産業省事務次官の安達社長が昨年10月、引責辞任を表明。政府は「民間出身で企業再生の実績がある人」を条件に、後任の人選を進めてきた。
元地方銀行トップや総合商社の役員に就任を打診したが、調整が難航した。最終的に、銀行出身で西武ホールディングスの再上場やプリンスホテルの立て直しに手腕を発揮した関根氏に再生を托すことになった。
関根は世間的には無名だが、広報の世界では有名人だ。これまで裏方に徹してきたが、初めて表舞台に立つことになる。関根氏は1981年、早稲田大学政治経済学部を卒業し、第一勧業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)に入行。広報畑を歩き、77年に発覚した総会屋への利益供与事件で行内改革の一翼を担う。当時、関根氏などの中堅幹部は、第一勧銀そのものが存亡の危機にあると感じていた。
こうした折り、「四人組」が登場した。企画部副部長の後藤高志氏(72年入行)、企画部次長の藤原立嗣氏(同76年)、広報部長の八星篤氏(同72年)、広報部次長の小畠晴喜氏(同77年)の企画・広報畑の中堅幹部の4人が、毛沢東時代の末期に中国で実権を握った若手グループになぞらえて「四人組」と呼ばれた。名古屋副支店長だった関根氏は、小畠氏から本店広報部に呼び戻されて、「四人組」と行動を共にする。
検察庁の動きに関する情報収集、総会屋と絶縁するための警視庁との連絡や警備依頼、殺到するマスコミへの対応などを担当し、まるで「戦う広報」だった。第一勧銀の首脳陣は危機対応を「四人組」に頼るしかなかった。
第一勧銀が相談役5人と会長、正副頭取、専務、常務、取締役ら計26人の大粛清を決断した背後には、経営陣の大刷新を求める「四人組」の強い意志があったとされる。
一度は藤田一郎氏に決まっていた次期頭取人事を撤回して以降、「四人組」が首を縦に振らなければ、新頭取になった杉田力之氏は何も決められなかったと伝えられている。
実質的に、この「四人組」が第一勧銀の実権を握った。その“ご威光”は、戦前の陸軍で統制派と呼ばれた中堅将校さながらだったという評もあるほどだ。
その後、「四人組」は総会屋など反社会的勢力から銀行を救った功労者として出世を遂げた。後藤氏は審査第四部長、八星氏は横浜支店長を経て調査室長となり、それぞれ執行役員に抜擢された。小畠氏は業務統括室長から高田馬場支店長に、藤原氏は荻窪支店長から大阪営業部長へと昇進した。いずれも、同期の出世頭。だが、当然のごとく「四人組」に対するやっかみも生まれた。
第一勧銀は2000年10月、富士銀行、日本興業銀行と共同で設立する金融持ち株会社の傘下に入った。02年4月、世界最大のみずほフィナンシャルグループの子会社として再編された。3行による熾烈な派閥抗争の結果、富士銀=興銀連合が勝利し、第一勧銀は完敗。「四人組」は新体制のもとでは居場所がなくなった。
■西武グループでサーベラスと対峙
後藤氏はみずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)副頭取となり、次期頭取を目前にしていたが、05年に堤義明・元コクド会長の総会屋利益供与事件に揺れる西武鉄道グループへ移った。体よく、みずほグループから追い出されたのである。その後、西武鉄道は上場廃止になった。
後藤氏は腹心の部下を連れて行った。みずほ銀行広報室長を務めていた関根氏だ。後藤氏は、堤氏の影響を排除するために西武グループを持ち株会社体制へ移行させ、西武HDの傘下に西武鉄道とプリンスホテルをぶら下げた。
関根氏は西武HDの取締役に就いたが、事実上のナンバー2だった。09年、プリンスホテルの取締役を兼務した。
西武HD再上場への最大の難関は、プリンスホテルの業績低迷の克服にあった。12年、関根氏は同社の立て直しという大役を担い、取締役常務執行役員の仕事に専念する。
再上場をめぐり、大株主のサーベラスと西武HDの経営陣の間で激しいバトルが繰り広げられた。サーベラスは西武HDを抑え込む上で、関根氏を最大の障壁とみなし、後藤氏と関根氏の不仲説を流すなど情報戦を展開した。しかし、後藤=関根チームはサーベラスの意のままにならなかった。経営陣が主導して14年4月、西武HDは再上場を果たした。
小畠氏は「江上剛」のペンネームで作家に転身し、現在はテレビ番組でコメンテーターとしても活躍している。関根氏は、小畠氏が第一勧銀の広報部次長だった時の部下だ。小畠氏は小説『座礁 巨大銀行が震えた日』(朝日文庫)の登場人物のモデルが関根氏だったと語っている。反社会勢力と対峙する広報の姿を描いた作品だ。
関根氏は、裏でトップを支えてきた参謀タイプだが、初めてトップとして表舞台に立つ。商工中金で抜本的な改革を進めることができるか。手腕が問われることになる。
■暴走経営を見逃した社外取締役が社長就任
小畠氏は10年9月、国内初のペイオフを発動された日本振興銀行の社長だったことがある。同行は木村剛氏がつくった銀行だ。木村氏などが金融庁の検査を妨害した容疑で逮捕されたため、急遽、社長に就任した。
小畠氏はペイオフの発動を受けて10年9月10日、社長として緊急会見に臨んでいる。“まともな”自己査定を行った結果、日本振興銀行はあっという間に経営が瓦解した。その小畠氏は、高杉良著の小説『金融腐蝕列島』のモデルにもなり、映画化されている。
小畠氏は、振興銀行の開業直後の04年6月に社外取締役に就任している。木村氏は著書『金融維新』のなかで、社外取締役の役割について、こう書いている。
「社外取締役なんてお飾りでしょ――という醒めた指摘があるかもしれない。しかし、この振興銀行だけは別である。というのは、外部取締役が、銀行内部に経営監視本部という実行部隊を持っているからだ。そして、その部隊に関しては、人事権も(社外取締役が)発動し得る体制になっている。外部取締役がブレーキを踏む権限を実質的に持っているのだ。
執行部はアクセルを噴かし、外部取締役はブレーキを利かせる。そういう牽制体制を名実ともに作り上げることによって、日本振興銀行は、アクセル部門とブレーキ部門を完全に分離した、日本一厳しい初めてのガバナンスを実現する」
木村氏が誇らしげに強調している社外取締役の役割とは、経営監視本部を拠点にして、経営陣に対してブレーキを掛ける権限を有している点だった。
木村氏の社外取締役論に従えば、小畠氏は取締役会議長として振興銀行の暴走経営にブレーキをかける立場にあった。しかし、小畠氏やほかの社外取締役がブレーキをかけた形跡はない。
アクセルを踏みっぱなしの木村氏を黙って傍観していただけではなかったのかという厳しい見方がある。極論するなら、「社外取締役は、その職責をまっとうしていなかった。取締役会議長の小畠氏と木村氏は、経営責任において同罪なのではないか」という指摘である。
それなのに、小畠氏は社長に就任した。現職社長の逮捕という緊急事態で火中の栗を拾わざるを得なかったのかもしれないが、尋常ならざる人事であったことは確かだ。
(文=編集部)