年収800万円を超えると幸福度は上昇しなくなる 橘玲の「幸福の資本論」
http://diamond.jp/articles/-/141130
2017.9.6 橘玲:作家 ダイヤモンド・オンライン
作家であり、金融評論家、社会評論家と多彩な顔を持つ橘玲氏が自身の集大成ともいえる書籍『幸福の「資本」論』を発刊。よく語られるものの、実は非常にあいまいな概念だった「幸福な人生」について、“3つの資本”をキーとして定義づけ、「今の日本でいかに幸福に生きていくか?」を追求していく連載。今回は「お金と幸福度」について考える。
■お金が増えれば幸福になれるわけじゃない!?
お金と幸福の関係については、「限界効用の逓減」に触れておかなければなりません。これは経済学の基本ですが、ぜんぜん難しい話ではありません。
お酒が好きなひとなら、暑い日の喉がからからに渇いたときに飲む生ビールの最初のひと口ほど美味しいものはないことを知っているでしょう。しかしこの美味しさは2杯目、3杯目とジョッキをお代わりするにつれてなくなっていき、やがては惰性で飲むだけになってしまいます。
このとき、ビールの美味しさを「効用」といいます。ビールを1単位(1口目から2口目、ジョッキ1杯目から2杯目)追加したときの美味しさ=効用の変化が「限界効用」です。ビールを飲めば飲むほど(投入する単位を増やせば増やすほど)美味しさ=効用はすこしずつ減っていくので、限界効用が逓減するのです。
限界効用の逓減は、うれしいことにも悲しいことにもいずれ慣れてしまうという、ヒトの心理にもとづく普遍的な法則ですから、ビール以外にも(ほとんど)あらゆるものに当てはまります。もちろんお金も例外ではありません。
月給10万円のひとが、「来月から1万円アップで11万円にしてやる」といわれたらものすごくうれしいでしょう。それに対して月給100万円のひとが(1単位増えて)101万円になったとしても、そのことに気づきもしないかもしれません。
それではお金の限界効用はどのように逓減するのでしょうか。これはもちろん個人によって異なりますが、アメリカでは年収7万5000ドル、日本では年収800万円を超えると幸福度はほとんど上昇しなくなることがわかっています。興味深いことに、アメリカと日本で幸福度が一定になる金額はほとんど変わりません。
誤解のないようにいっておくと、これは「幸福になるのにお金は関係ない」ということではありません。逆に、「お金は幸福になるもっとも確実な方法だ」ということを示しています。
800万円というのは1人あたりの年収ですから、家族の場合は世帯(専業主婦家庭なら夫)の年収が1500万円を超えるとお金の限界効用はゼロに近づきます。
近年は幸福度についてのさまざまな統計調査が行なわれていますが、それによればお金が幸福度を低下させることがはっきりしています。しかしこれは、「お金があると幸福になれない」ということではなく、「お金のことを考えすぎると不幸になる」ということです。
いつもお金のことばかり考えているのは、どういうひとたちでしょうか?
株式やFXのトレーダー、ウォール街の金融マン、ベンチャー企業の経営者などを思い浮かべるかもしれませんが、じつはもっとも切実なのは貧しいひとたちです。
彼らは、今月の家賃、子どもの授業料や給食費、電気・ガス・水道などの支払い、あるいは今夜の食費をどのように支払うかを常に考えつづけていなければならず、そのことが大きく幸福度を引き下げるのです。
このように考えると、なぜ世帯年収1500万円(1人あたりの年収800万円)で限界効用がゼロに近づくかがわかります。
子どもにじゅうぶんな教育を与え、年にいちどは家族旅行に出かけ、月に1回は夫婦で外食をするのが世間一般の幸福の基準だとすると、1500万円の年収があれば、その幸福を実現するのにお金のことをほとんど気にすることはなくなるでしょう(生活経費をクレジットカードで支払っている場合は、翌月の引落しで銀行口座の残高を確認することもなくなります)。
そのハードルを越えてしまえば、子どもの習い事を増やしたり、家族旅行を年2回にしたり、外食をミシュラン星付きの高級レストランにしたりしても、幸福感=生活の満足度はそれ以上大きくなりません。お金の限界効用が逓減するというのは、いったんお金から「自由」になると、それ以上収入が増えても幸福度は変わらなくなるということなのです。
収入だけでなく資産においても限界効用が逓減することがわかっています。10万円の貯金が20万円に増えれば大きな達成感が得られるでしょうが、1000万円が1010万円になったとしてもなんとも思わないでしょう。
お金と幸福度のアンケート調査によれば、金融資産が1億円を超えると幸福度が増えなくなることが示されています(大竹文雄、白石小百合、筒井善郎編著『日本の幸福度』日本評論社)。この金額も、「お金のことを考えすぎると不幸になる」という法則から説明可能です。
「老後破産」が流行語になったように、少子高齢化が進む日本では多くのひとが定年後の生活に大きな不安を抱いています。これは日本人の幸福度を引き下げる要因になっているのですが、この不安は一定以上の資産を保有することで解消されます。多くのひとにとって、「(日本の財政が破綻して年金が減額されるようなことになっても)自分の老後は安心だ」と思える金額が「資産1億円」なのでしょう。
このことから、お金と幸福に関する次のようなシンプルな法則が導き出せます。
(1) 年収800万円(世帯年収1500万円)までは、収入が増えるほど幸福度は増す。
(2) 金融資産1億円までは、資産の額が増えるほど幸福度は増す。
(3) 収入と資産が一定額を超えると幸福度は変わらなくなる。
もちろん世の中には、ギャンブラーや投資銀行家のように稼いだお金の額が成功=自己実現の基準になる職業もありますが、一般的には、たんなる電子データにすぎないものにそこまで執着することはできないでしょう。
世界最大の富豪であるビル・ゲイツは、早い時期から「金持ちで得することはあまりなく、自分の子どもたちに大金を残したとしても彼らのためにならない」と明言して、社会福祉財団を立ち上げました。もっとも成功した投資家で、ゲイツに次ぐ大富豪であるウォーレン・バフェットは、死後は財産のほとんどをゲイツ財団に寄付することを決めています。
フェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグも、時価総額450億ドルといわれる保有株の99%を慈善事業に寄付すると発表しました。彼らはきわめて賢いひとたちなので、限界効用がゼロにまで下がってしまった電子データの数字を増やすよりも、それを社会に還元して評判=名声と交換した方がずっと幸福になれるということに気づいているのです。
ただしこれは、「お金は幸福をもたらさない」ということではありません。さまざまな進化論的・心理学的な理由から幸福になるのはとても難しいのですが、そのなかでもっとも確実に幸福度を上げる方法は、やはりお金持ちになって「経済的独立」を実現することなのです。
(作家 橘玲)