平和への誓いを読み上げる谷口稜曄さん=長崎市の平和公園で2015年8月9日、津村豊和撮影
鬼気迫る被爆講話 核廃絶訴え続けた谷口稜曄さん!
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2017/08/30 23:00 半歩前へU
▼鬼気迫る被爆講話 核廃絶訴え続けた谷口稜曄さん!
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員などを務めた谷口稜曄さんが88歳で亡くなった。
毎日新聞の小畑英介記者が綴った評伝である。
米国による長崎への原爆投下から72年。1945年8月9日を生き延びた被爆者として、果たすべき役割を絶えず自らに問い、核兵器廃絶と平和な世界を願って発言、行動し続けた人生だった。
普段は口数の少ない穏やかな人だった。だが、平和を巡る話になると言葉には厳しさが宿った。
核兵器廃絶に向けた世界の歩みは遅く、国内では集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法制が施行された。
「被爆者が『核をなくせ』『戦争をなくせ』と言っても、どれだけ伝わっているのか……」。原爆と戦争に対する怒りと、風化への危機感が常にあった。
88歳になっても核廃絶運動の最前線に立ち続けた根底には「原爆を直接知る人にしか、その悲惨さは伝えられない」との信念があった。
当時を知る人が減るなか、被爆2世らに被爆体験の継承を担ってもらおうとする動きにも「時期尚早だ。被爆者はまだ生きている」と言い切ったほどだ。
被爆者の「顔」としての責任感もあった。原爆で背中一面を焼かれた谷口さんの映像・写真は被爆の実相を如実に物語るものとして国内外に知られる。
被爆70年の2015年には、語り部活動で反戦を訴えてきた歩みに、ノーベル平和賞受賞も取りざたされた。仲間が世を去る中、谷口さんの運動にかける思いは、増すばかりだったに違いない。
私は13年春から4年間にわたり、記録報道「ヒバクシャ」の取材で、谷口さんの活動を追った。
入退院を繰り返していたが、体調不良で声が出にくい時さえも力を振り絞って被爆講話に立つ姿には、鬼気迫るものがあった。
「一番気の毒なのは8月9日に亡くなった人。自分は、その人の分まで頑張る」。谷口さんに“引退”を勧められる人は誰もいなかった。
米寿の誕生日を前にした17年1月に話を伺った時は「苦しみに耐えた分、核兵器廃絶の運動を頑張ってきた分、命が延びたのかもしれないね」と率直に長寿を喜び、被爆体験講話に尽きない意欲を見せていた。
一日でも長く生きて、核兵器廃絶の瞬間を見届けたいと願っていた。
原爆で背中を大やけどし、3年以上にわたる入院。その後、世界に向け核兵器廃絶を訴え続けてきた谷口さん。最後は穏やかな表情で天に召されました。謹んで哀悼の意を表します。
― 毎日新聞長崎支局 (@mai_nagasaki) 2017年8月30日
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― 友好(ともこう) (@05Pamuda) 2017年8月30日
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― nuts (@nuts_xxx) 2017年8月30日
谷口さん亡くなられたんですね。通っていた学校に講話に来られたことがあって、お会いしたことがあります。どうぞ安らかにお休みください。
谷口稜曄さん、核廃絶に尽力 病床からのメッセージ
2017/08/30 に公開
長崎に投下された原爆で背中一面に大やけどを負いながら生き延び、その後、核廃絶運動に尽力した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員の谷口稜曄さんが8月30日、がんのため長崎市内の病院で死去した。88歳だった。
谷口さんは近年、入退院を繰り返しつつも精力的に活動していた。今年1月には、大阪で講演。3月に入院する数日前には、核兵器廃絶を求める署名活動のため、街頭にも出ていた。核兵器禁止条約が国連で採択された7月には、病床から「一日でも早く、核兵器をなくす努力をしてもらいたい」とビデオメッセージで訴えた。
核廃絶を訴えた ” 赤い背中 ” 谷口稜曄さん死去 その歩み
長崎平和祈念式典 平和への誓い 谷口稜曄 2015年8月9日