あの地獄を忘れられない…満州で「性接待」を命じられた女たちの嘆き 〜開拓団「乙女の碑」は訴える【後編】
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52609
2017.08.24 平井 美帆 ノンフィクション作家 現代ビジネス
ソ連軍侵攻から敗戦へと「満州国」が崩壊した後、暴民の襲撃、ソ連兵の強姦などによって、日本人開拓団は追い詰められていった。そのとき、逃げ場を失った集団を守るために、ソ連軍上層部らの「性接待」役として差し出された乙女たちがいた――。
70年の歳月を経てその重い口を開いた彼女たちの告白を、ノンフィクション作家・平井美帆氏が綴る。
(前編はこちらから http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608)
■口を閉ざす人々
照子さんは八路軍(のちの中国人民解放軍)によって留用され、1953年に日本へ帰ることができた。看護婦として働かされた漢口の陸軍病院では、兵士の誤射によって被弾し、左足に傷跡がうっすらと残る。八路軍の幹部は、「日本人は女を出した」と黒川開拓団の性接待を知っていたという。なぜ、あんなことをしたのか……。八路軍兵士からそう言われたことが照子さんの胸に深く刻まれている。
照子さんは書き留めていたメモを見ながら「あの時」を振り返った(@MihoHirai)
遺族会は乙女の犠牲をどう受け止めてきたのだろう。
『ああ、陶頼昭 黒川開拓団の想い出』
戦後から約36年経過した1981年3月に黒川分村遺族会が発行した文集には、性接待に言及した箇所が散在する。
ある男性団員は自分たちが生き残ることができたのは、治安を維持してくれたソ連軍と八路軍のおかげだと書き記し、「しからばこの人達に対し、交渉に当たってくれた団幹部の方たちだけであの安全が得られたであろうか。十余人のうら若き女性の一辺の私利私欲もない、ただただ同胞の安全をねがう赤城の挺身があったからではないだろうか」と続けた。
他の男性もこうだ――「駅に常駐する司令部のソ連兵には豚の料理などで接待し、娘たちも協力してくれ誠に感謝の外ない」。
男性寄稿者たちは少女たちの犠牲を悼みつつも、本人が自発的に身を捧げた解釈をしている。その一方で、女性寄稿者は被害女性を含め、誰一人としてそのことには触れてはいない。
1981年11月、異郷で命を落とした少女らを悼み、「乙女の碑」が建てられた。碑には亡くなった女性たちの名前は刻まれず、事情を知る者たちの胸中だけにおさめられた。
当時の遺族会会長は、町の会報誌に「うら若い乙女たちの尊い、かつ痛ましい青春の犠牲があった」とだけ綴っている。地元に碑が建立されても、何があったのかは触れてはならないことだった。
あれからさらに長い月日が流れ、終戦時に大人だった人々はすでに亡くなった。
女性たちが何度も名をあげた団幹部男性・義夫には、戦後生まれの息子がいる。黒川開拓団の遺族会会長を務めている彼は、「接待」について口外してはならないという方針を採っていた前遺族会会長とは異なり、後世に歴史は残していかなくてはならないと考えている。
「こういうことがあったとは、親父は話したことがなかった。豊子さんなどと話すようになってから、自分の親父が深くかかわっていたと知った」
性接待を決め、娘たちを差しだした男たちは、引揚げ後も、同じ集団内のリーダーであり続けた。文江さんは「乙女の碑」に他言無用の文言をつけ加えたが、いまもむかしも岐阜県内で暮らすおばあさんたちから話を聞いていると、狭い人間関係に縛られてきたことがよくわかる。遺族会会長らをたどると、敗戦当時の団幹部らにつながり、さらにたどれば満州への分村移民を決めた村の男衆らにつながるのだ。
脈々と続いてきた男たちの決めごとのなかで、いかに女性の人権はないがしろにされてきたか。そして、いまなお、まわりの認識は本人たちとはずれがある。慰霊碑に対して、なんらかの思い入れを口にした被害女性などいない。
スミさんは乙女の碑など見たくないと話す。
「乙女の碑なんか、私のほう相談あれへんよ。○○さん(遺族会の男性)が乙女の碑に、口紅つけたって。何それ?」
屈強な兵士らに犯され、性病に感染して苦しみもがきながら死んでいった仲間たち……。あとから尊い存在に祭り上げられること自体、冗談じゃないとなる。「あんたらのおかげで私らは救われたんでさ」と感謝を口にされたときも、返す言葉などなかった。
本人にとってそれは紛れもない性暴力であり、どこにも逃げられない状況のなか、上から強要されたものだ。ところが今でも、当時を知る人は「接待」と言い、私が「レイプ」と呼ぶと拒否感を示した。
亡くなった娘たちはどういう存在なのだろうか。現遺族会会長に訊ねると、少しの間をおいて彼は答えた。黒川開拓団の「守り神」であると……。
■姉妹のきずな
文江さんとはあと一歩のところで会えなかったが、彼女の姿と肉声は満蒙開拓平和記念館で数年前に行われた講演会のビデオに残されていた。ありし日の文江さんは満州体験のなかで、「性接待」についても言及している。
彼女の証言によると、ソ連兵らによる「女狩り」を防ぐため、娘たちがソ連軍将校の「おもてなし」をすることになったとき、「それなら死ぬ」と娘たちは言い、まわりの者も大反対したという。だが、副団長が「兵隊さんに行っている家族を守るのも、おまえたちの仕事。団の存続は娘たちの力にかかっている」と力説した。そのとき、文江さんは副団長に同調し、泣いている年下の女の子たちを慰める側にまわったと打ち明ける。
「いまから思うと恥ずかしいんですけど、本当に、自分の命を捨てるか、開拓団の皆さんをお救いするかは、娘たちの肩にかかっていると自分で思ったんですね。それでなんとしででも日本へ帰りたいから、命を救いたいからということで」
スミさんら、ほかの被害女性によると、文江さんは「綾子の分も私が出る」と妹をかばい、妹は接待の任務をしなくて済んだという話だった。
妹の綾子さん(仮名、88)と会えたのは2016年8月のことだ。ハガキを送ったところ、耳の遠い祖母の代わりにと、30代の孫の女性から連絡が入った。
「ハガキをもらって、おばあちゃんは嬉しかった。わざわざ調べてくれてって、すごい喜んでいた」
綾子さんは満州体験をこれまで身内にしか話していなかったが、「亡くなった姉さんのためにも」という思いもあってか、インタビューを快諾してくれた。
忘れがたき満州の記憶を語る綾子さん(@MihoHirai)
旧黒川村のあった地域からいくつかの峠を越えた山間部――。自ら切り開いた土地のうえに、綾子さんは三世代で暮らしていた。前日に丸一日かけて綴ったというメモ書きの束を前に、彼女はその半生をとめどなく語り続けた。
「男みたいな気性やった」と、綾子さんは姉のことを評する。お姉さんが綾子さんの分まで、ソ連兵のもとへ行ったのは本当なのだろうか。
「最初は、娘は全部接待に出るって話やったけど、とにかく姉さんががんばって、私はね、17になっとったかね、数えの。とにかく、姉さんが数えの18以上って線を引いちゃったのよ。それで私を外してくれたんよね」
姉の機転で接待役をまぬがれた綾子さんには、接待に出た人の洗浄係が割りふられた。開拓団は医務室を作ってベッドをひとつ置き、接待に出た女性たちの洗浄を行っていた。洗浄の指導をしたのは、外から入ってきた北海道出身の衛生兵だったという。
「そんな技術は開拓団には医者もいないし、ないもんでね。夜……夜中でも接待に出た人がいると起きてね、冷たい水で洗浄した。冷たかったやろうねえ」
過マンガン酸カリウム、モルヒネ……。綾子さんはぶつぶつ呟くように、扱った薬品名を挙げていった。陶頼昭の南側の駅にいた日本軍の部隊が残していった薬品類を、開拓団の人たちが運んできたものだ。
「リンゲルの瓶いっぱいに、抹茶の小さい匙があるわね。それで、過マンガン酸カリウムを一杯ぽっと入れるとね、ばあーっと、真っ赤になるのよ。それを上から吊るして、ホースをずうっと通ってきて…。上からそれを、ホースの先をどうしたか覚えはないけれども、下からね、ホースを子宮まで入れてやって洗って……」
■「途中で死ねばよかった」
綾子さんは堰を切ったように、当時の様子をふり返った。途中、「接待」と聞いたときの気持ちを訊ねると、その問いには答えずに次のように告白した。
「最初にロシア兵がだーって入ってきたときはね、13、14歳くらいの子から上、みーんなロシア兵の犠牲になっちゃったのよ。ほんでねえ、私もそんな目に……。一番最初はねえ、体格がいいロシア兵が私をひっつかまえていってねえ、ほいでもう、あっとう間にやられちゃった」
驚いた私が再び訊ねると、綾子さんはうんと頷いた。手書きのメモには次のように記してある。
≪敗戦国の惨めさ。支那事変のときの日本兵の女あさり。話は聞いていたが、直面するとは……夢にも思わなかった≫
中国東北部の冬は零下30℃にもなる。極寒の季節が過ぎた4月はじめ、父が亡くなり、その月の終わりには母も亡くなった。父の死後、母になんとか食事を与えようとしたが、母は口をつぐんで何も食べなかった。「食べれば生きのびる。母は死ぬつもりだった」と綾子さんは母の覚悟を推測する。
それからは文江さんが親代わりとなって、身をなげうって、綾子さんと2人の弟を故郷まで連れて帰った。
しかし、引揚げ後の道のりもまた、険しいものだった。敗戦後の日本はどこも生活が苦しく、きょうだいはばらばらに引き取られ、綾子さんは母親の実家へ、上の弟は父親の姉の嫁ぎ先へ。そして文江さんと下の弟は、父の実家の裏にあったワラ小屋に移り住んだ。
親戚には冷たい目でみられ、まわりからは満州でけがれた女と偏見をぶつけられる。「途中で死ねばよかった」「帰ってこにゃ、よかった」――気丈な姉がそう漏らすこともあった。
「乙女の碑」の最終ページには文江さんの心情が追記されている。
≪命からがら日本に帰って来ればロスケにやられた女とささやかれて、何時出るか解らない病気に怯えつつこっそり病院に通った。ある日弟が好きになった団の娘が途中で悲しいことがあったと聞いて一変に嫌になったと聞いた時、千丈の谷に落ちる感がした≫
まだ子どもだった弟らは、姉妹がどのような目に遭ったのかを知らない。そうとはいえ、弟は好きになった娘が、引揚げ時に性暴力被害に遭ったと知って嫌いになったというのだ。弟でさえこうなのだからと、文江さんは嘆いた。
≪これが開拓団も含めて、一般の人の気持ちに違いない。あのまま自決すれば、こんな悲しい思いはないのに、涙も悲しすぎると出ないもの≫
結婚は満州のいろいろな事情を知っている人とするのがいい――。姉妹はそれぞれ、元義勇軍の男性と結婚した。だが、文江さんには子どもができなかったことから、綾子さんの次男を養子にもらい、ひとり息子として大事に育てあげた。
姉妹はまさに互いに支え合い、二人三脚で厳しい人生を乗り越えてきた。
「姉さんが守ってくれた。姉さんがいなかったら中国で孤児になっていた。綾子、綾子って、姉さんの声がいつも耳に残っている。『男なら、こんなに頼りにならん』って言っていた」
■どうしても納得できないこと
物心ついたころ、綾子さんは次男から「なんで、僕を大垣(文江さんの嫁ぎ先)にやったんだ?」と訊ねられたことがある。
「姉さんのおかげで内地に帰ってこれたんで、その恩をおまえに返してもらおうと思ってやった」
綾子さんがそう言い聞かせると、次男はそれから何も言わなくなったという。
お姉さんの写真が見たいと言うと、綾子さんはアルバムのなかから探しだそうとしたが、それほど枚数はなかった。ようやく出てきたのは、1991年にふたりで四国に旅行したときの写真だった。
「姉さんの写真がこんなにないなんて、わからなんだ……。ずっと姉さんからふたりきりで旅行がしたい、連れてけって叱られてたけど、舅さんがあったでね、そんなに出れない。一緒に旅行には行けなかった。それが心残り。死んだら一緒に旅行に行ける」
映像のなかの文江さんとそっくりの声で、綾子さんは穏やかに言った。
文江さんの講演会の後半は、苦しい問いかけで埋められている。彼女は生涯にわたって、自分の人生がまったく思わぬ方向に行ってしまったことに苦しみ続けた。
わずか4年の満洲生活で味わった地獄は忘れることなどできず、夢にもたびたび現れた。陶頼昭駅の近くにうずくまっている自分、松花江に飛び込む自分――。父が私たちを満州に連れて行ったことが原因と、父を恨む気持ちも消えない。
どうしても納得できないものが心にあると、文江さんはとうとうと語る。
「一体、満州ってなんだったんだと。日本はなぜ満州なんかを作って、国民をたくさん送り出して、あんな悲しい思いをさせたのか。子どもたちは絶対、平和のなかで育ててほしい。平和のなかで、個人個人が行動するのはいいんです。それは運命ですからね。でも、その集団のなかで逃げられない、どうにもならないってことには、絶対になってはいけないと思うんです」
幻の満洲国が崩壊してから、70年以上の月日が過ぎた。孫娘らを見ていると、自分の若かりし頃とつい比較してしまうと文江さんは複雑な心境を吐露する。自分が通らなければならなかった娘時代というのは、避けては通れなかったかもしれないけれど、還らぬ青春が悔やまれる。そして、彼女はこう続けた。世界各地の紛争や難民のニュースを目にするたび、平和な国の幸を願わずにはいられないと――。
「戦争する人はいいですよ。好きでやってるんですから。だけど、その残された庶民、多くの子どもも死んでいくやろうと思うと、私は胸が痛い。ちょっと優しい心を持って、指導者が心を鎮めてくれたら、大きな戦争にはならんかったで。戦争の犠牲になっていく庶民がかわいそうでしかたがない」
文江さんの遺した詩「乙女の碑」は次の一節で終わる。
≪異国に眠る あの娘らの
思いを胸に この歌を
口づさみつつ 老いて行く
諸天よ守れ 幸の日を
諸天よ守れ 幸の日を≫