木村草太・首都大学東京法学系教授 / 「これは何かの冗談ですか? 小学校『道徳教育』の驚きの実態」
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2017年01月28日 のんきに介護
〔資料〕
「これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態 〜 法よりも道徳が大事なの!? 」
木村 草太 さん・文(2016年1月26日)
☆ 記事URL:http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47434?page=2
今日も大学の法学部では、民法や会社法、労働法に刑法が講じられている。
そこでは、「法とは何か?」、「法の支配は実現できるか?」などと考える必要はない。国会が制定したルールが法だと誰もが思っているし、裁判官や警察官は粛々と法を実現している。「なぜこれが法なのか」などと悩む学生は、よほどの変わり者だろう。
法学部法律学科の講義では、法の定義も、法の支配も自明なのだ。
ところが、学校に関わる法律問題を考えていると、「法とは何か?」、「本当に法の支配はあるのか?」という問題が深刻さを帯びる。
骨折という事故はスルー?
一例として、少し前からインターネット上で話題になっている道徳教材について検討してみよう。
広島県教育委員会は、「『児童生徒の心に響く教材の活用・開発』研究報告集」として、「心の元気」という教材を作っている*1。その中に、「組体操 学校行事と関連付けた取組み」という教材がある*2。小学校5・6年生用の教材で、運動会の組体操での練習のストーリーが題材になっている。
*1 http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/12doutoku/12doutoku-elementary-index.html
*2 http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/31631.pdf
その主人公、つよし君は、組体操に熱心に取り組み小学校6年生だった。そんな彼が、人間ピラミッドの練習中に事故にあう。
今日は運動会の前日。最後の練習だ。笛の合図でだんだんとピラミッドができあがっていく。二段目、三段目。とうとうぼくの番だ。手と足をいつもの場所に置き(さあ決めてやる)と思ったしゅん間、ぼくの体は安定を失い、床に転げ落ちていた。かたに痛みが走る。
ぼくはそのまま病院に運ばれた。骨折だった。
ぼくは、目の前がまっ暗になったようで何も考えられなかった。
事故の原因は、わたる君がバランスを崩したことだった。わたる君はごめんと謝るが、つよし君は許すことが出来ない。そんなつよし君に、お母さんが次のように語る。
「一番つらい思いをしているのは、つよしじゃなくてわたるくんだと思うよ。母さんだって、つよしがあんなにはりきっていたのを知っているから、運動会に出られないのはくやしいし、残念でたまらない。でも、つよしが他の人にけがさせていた方だったらもっとつらい。つよしがわたるくんを許せるのなら、体育祭に出るよりも、もっといい勉強をしたと思うよ」
つよし君の心に、「今一番つらいのはわたるくん」という言葉が強く残る。そして、「その夜、ぼくは、わたる君に電話しようと受話器をとった」という一文でこの教材は終わる。
読者の皆さんは、この教材を見てどう思うだろうか。シッカリトシタ学校教育を受けたリョウシキアル方々は、「人の失敗を許すのは大切だ。これを機にクラスの団結力を高めよう」と思うのかもしれない。
実際、この教材の解説にも、「相手を思いやる気持ちを持って、運動会の組体操を成功に導こう」という道徳目標が示されている。教材の実践報告にも、「この実践後の組体操の練習もさらに真剣に取り組み、練習中の雰囲気もとてもよいものになった」と誇らしげな記述がある。そこには、骨折という事故の重大さは、まるで語られていない。
学校は治外法権?
これが交通事故だったら、運転者は十分に注意をしていたのか、車はきちんと整備されていたのか、道路の整備に不備はなかったのか、など、原因がしっかりと追究されるだろう。そして、原因に対して誰かが責任をとり、そのような事故の再発をいかにして防止するかが議論されるだろう。
なぜ、学校が舞台になると、「骨折ぐらいは仕方ない。お互いに許して団結しよう」という話になってしまうのだろうか。この教材を見た時、私は、「法とは何なのか」をあらためて真剣に考えなくてはならないと思った。
法的に見ると、つよし君が参加した組体操は、違法の可能性が高い。
学校は一般に、子どもの安全を確保するために十分な配慮をすべき義務(安全配慮義務)を負う。組み体操を実施するならば、十分な監視者を配置し、バランスを崩した子どもがいないかを丁寧に監視し、危険な場所が見つかれば即座に練習を中止する。それだけの体制を整える必要が学校にはある。これは、下級審ではあるが確定した判決が指摘したことだ。
一部の子どもがバランスを崩しただけで骨折者がでる、そんな危険な状況で練習をさせたのであれば、学校の安全配慮義務違反が認定される可能性は高い。民事上の問題として考えるなら、学校が損害賠償を請求されれば責任は免れ得ないだろう。
また、刑事上の問題として考えるなら、注意義務違反によって骨折者が出ているのだから、教員は業務上過失致傷罪に問われてもおかしくない。
事故が起きれば、原因を追究し、責任者を特定する。責任者の行動が、不法行為や犯罪なら、損害賠償義務が発生し、刑罰が科される。どの国でも、法とはそういうものだ。
しかし、この教材は、「困難を乗り越え、組体操を成功させる」という学校内道徳の話に終始する。学校内道徳が、法規範の上位にあるのだ。いや、もっと正確に言えば、学校内道徳が絶対にして唯一の価値とされ、もはや法は眼中にない。法の支配が学校には及んでいないようだ。これは治外法権ではないのか。
法とは何か?
「法とは何か」という問いに、たくさんの偉人が頭を悩ませてきた。ちょっと探してみれば、この問いに答えようとする本が山ほど見つかるだろう。哲学的で難しそうなものが多いが、興味のある人は読んでみればいい。
ただ、今必要な「法とは何か」という問いの答えは、いたってシンプルだ。法の本質は、法と法以外の規範(例えば、道徳や校則、会社規則など)との違いを考えれば分かる。つまり、法の本質は、「普遍的な価値を追求する規範だ」という点にある。
普遍的な価値とは、どんな人にでも正当性を説明できる価値のことを言う。この世界には、それぞれまったく異なる価値観や思想や意見を持った人々がいる。そうした人々が共存するためには、お互いを尊重し、どんな人に対してもその正当性を説明できるルールが必要になる。
「どんな人も見捨てない」のが普遍という概念であり、普遍的なルールを生み出そうと思って作られるのが法だ。つまり、「法の支配」とは、支配をするなら普遍的なルールに基づいて行わなくてはならないという理念なのだ。
法の支配を実現するために考え出されたのが、議会が立法するというシステムだ。王様が勝手に法律を作ったのでは、王様本人やその仲間たちにだけ都合のいいルールが国民に押し付けられる危険が高い。議会のメンバーを国民が選挙で選ぶことにすれば、異なる意見や価値観を持った代表者が集まってくる。そうした多様なメンバーが十分な議論をすれば、多くの人が納得する普遍的な立法がなされる可能性が高まるだろう。
もっとも、多様なメンバーが集まって議論するだけでは、多数派が力で少数派をねじ伏せ、少数派が迫害される危険もある。
そこで、憲法には、立法の前提ルールとして、特定の宗教と結びついてはならないとか(政教分離)、固有名詞を含む特定の人に向けた命令の形にしてはならない(法律の一般性の要請)といったルールが規定されている。これらも、法が、普遍的な価値を持つようにする工夫である。
法以外の規範とはなにか?
もちろん、法以外の規範がすべて悪いものだ、ということではない。
ただ、法以外の規範の特徴は、「普遍性を持たない」ことにある。つまり、特殊集団のための規範だ。
道徳は同じ道徳観をもつ人たちの間のルール、校則は学校に通う人たちの間のルール、会社規則は会社に勤める人たちの間のルールだ。特別な集団の中で、独自のルールがあった方が、コミュニケーションがスムーズに進むということはよくある。「みんなで団結してがんばるのが好き」な人が集まって、辛い試練に耐えて頑張るのは、それはそれですばらしいことだろう。
しかし、内部の人にとっては守るべきルールであっても、その外部にいる人たちには自分たちのルールを押し付けることは許されない。
さらに、「そのルールに従う集団に入るか否かは、当人の自由な意思に委ねなければならない」のが大前提だ。逆に言えば、参加するか否かの自由が保障されない集団では、内部ルールにも普遍性が要求されることになる。
また、内部ルールはいくらでも自由に定めてよい、というものではない。あくまで法に違反しない範囲で定めなければならない。たとえば、ある会社で、残業手当を払わないという規則があったとしても、それは労働基準法違反で許されない。
学校内道徳の何が問題なのか?
こう考えてくると、学校内道徳を絶対視する態度の何が問題なのかが、よく分かる。
六年生なら中学受験のために根を詰めている子もいるだろう。ピアノの発表会や、サッカークラブの試合など、学外での活動をとても大事に思っている子もいるだろう。もちろん、運動会での晴れ姿を楽しみにしている子もいるだろう。学校に通う子どもたちが大事にしているものは、みんなそれぞれに異なる。しかし、組体操への強制参加は、そんな子どもたちの個性を無視して、全員に骨折の危険を強要することになる。
もちろん、「嫌いだから」というだけで、学校のカリキュラムをすべて拒否して良いはずはない。ただ、学校が子どもたちに義務付けてよい教育内容には、普遍的な価値が要求される。
そして、教育内容は、その普遍的な価値を実現するのに効果的で、かつ、弊害の生じないものが選ばれなければならない。これを行政法の世界では、「比例原則」とよぶ。
では、組体操への参加を強制することに、普遍的に説明できる価値はあるのだろうか。また、それは、組体操以外の安全な競技では得られないものなのか。
組体操は、骨折はもちろん、場合によって死の危険もあるほど危険な競技だ。それを強要するなら、これらの疑問に誠実に答える必要がある。「クラスの団結力を高める」、「困難を努力で乗り越える」という程度の教育目的では、あえて、組体操という危険な競技を選ぶことを正当化することは不可能だろう。
しかし、今回紹介した道徳教材には、こうした問題意識は微塵も感じられない。その原因は、学校内道徳を絶対的な価値と思い込んでいることにあるだろう。その盲目的な態度は、一般社会であれば当然に思い至るべき疑問を持つこと自体を圧殺してしまう。
法学教育の意義
「道徳」といわれると、多くの人は漠然と「人として良いこと」と考えてしまう。しかし、「道徳」の内容はあまりに曖昧だ。また、法律と違って、誰が作るのかもはっきりしない。このため、「道徳」の授業には、一部の人や集団にしか通用しない規範を、漠然とした圧力で押し付けてしまう危険がある。
今回紹介した教材は、「学校内道徳が法の支配を排除する」という道徳の授業の危険をとても分かりやすく表現している。あらゆる子どもを受け入れる公教育が公教育であるためには、もっと普遍的な教育こそが必要ではないか。
以上の議論から得られる私の結論は、至ってシンプルだ。学校では、道徳ではなく、法学の授業に時間を割くべきなのだ。
組体操事故を教材にするなら、子ども達に、次のような問いを投げかけるべきだ。
「この事故の原因は何だと思いますか?」
「骨折は、その子から、どのような可能性を奪いますか?」
「この事故について、指導をしていた先生は、どのような責任を負うべきですか?」
「学校がいくらの賠償金を払えば、骨折したことに納得できますか?」
「骨折という重大事故にもかかわらず、組体操を中止しない判断は正しい判断ですか?」
「バランスが崩れても、一人もケガをしないようにピラミッドを作ることはできますか?」
「運動会で組体操を行わせることは、適法だと思いますか?」
こうした問いについて考えれば、それぞれの人が異なる価値観を持っていること、異なる価値の共存のために普遍的なルール作りが必要であることを学ぶことができるだろう。また、実際の民法や刑法が、これらの問題にどんな答えを出しているかを学ぶ機会にもなる。
こう言うと、「法学の授業が大事なのは分かるが、法学は難しすぎて、道徳の授業と置き換えるのは無理だ」と思う人もいるかもしれない。しかし、法学の基本となる考え方や法律の基本的な内容は、それほど難しいものではない。
参考書としても、『キヨミズ准教授の法学入門』など、分かりやすくて、面白い本はたくさんある。最近では、社会的活動に関心の高い弁護士さんも増えたから、制度を整えれば、授業に協力してくれる専門家を見つけるのも難しくないだろう。
法は、人間味のない冷たいものではない。法は、人類の失敗の歴史から生まれたチェックリストだ。憲法は、国家が権力を濫用し、人々を苦しめてきた歴史から、国家の失敗を防ぐ工夫を定めたリスト。民法は、人々の生活の中で生じやすいトラブル集とその解決基準。刑法は、よくある犯罪集とそれへの適正な刑罰の目安を定めたリストだ。
法学を学ぶということは、人々の失敗の歴史に学ぶということだ。法には、すべての人の異なる個性を尊重しあいながら共存するための知恵が詰まっている。法は、全ての人を見捨てない。法学に触れて、法の優しさ、暖かさを感じてほしい。