「ジャーナリストとしてきちんと距離を置いた発言をし記事を書けばいいことだ:toriiyoshiki氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/21345.html
2016/12/23 晴耕雨読
https://twitter.com/toriiyoshiki
「事実上の」も何も東電救済策以外の何物でもないと思うよ。
こういう記事で「批判を浴びそうだ」という結びは(決まり文句だが)如何にも腰が座っていない印象。
発表の席で、これは東電救済策じゃないのかって訊かなかったのかね?…https://t.co/J0ccXkmpyt
>小松 理虔 これをやるのは東電を畳んでからにしないとマズいんでないべか。どれだけ守られてるんだろうあの会社は。/ 東日本大震災:福島第1原発事故 除染に国費、閣議決定 来年度300億円 福島復興指針 - 毎日新聞https://t.co/PvvqKlLgBA
同感である。
一企業の手に負えない深刻な事故が起こってしまった以上、国費(公費)の導入はやむを得ない。
しかし、その前提は、原因企業の破綻処理であるべきだ。
それをしないことには、日本社会から「責任」という観念が吹っ飛んでしまう。
>孫崎 享 犬の面々、20日首相動静、京都つゆしゃぶCHIRIRI。石川一郎BSジャパン社長、小田尚読売論説主幹、粕谷賢之・日本テレビ解説委員長、島田敏男・NHK解説副委員長、曽我豪・朝日新聞編集委員、田崎史郎・時事通信特別解説委員、山田孝男・毎日新聞特別編集委員と食事」、メシ、メシ、メシ
ぼくは論説委員といった人たちが首相と会食するのは一向に構わないと思っている。
非公式の席で腹を割った話をするのは重要な取材の一環である。
それはそれ、これはこれで、ジャーナリストとしてきちんと距離を置いた発言をし、記事を書けばいいことだ。
…それができていないからダメなんだけど。
ありゃ。
そーいえば産経がいないな?
>自分でカネ出せ。
どーもよくわからんのだが、みなさんはこの会食が首相サイドの招待、ご馳走だと確認したのだろうか?…
そんなことはあり得ない、と言っているわけではない。
ぼくは確認していないので、軽々に断定はできない。
参加費を払っているなら、取材の一環としてあり得ない話ではないと思う。
どうもみなさん、首相と寿司やしゃぶしゃぶを食べたという「わかりやすい話」に拘泥しすぎるのではないか。
何度も書くが、あり得ない取材方法だとは思わない。
そうして知り得た(表に出ない)情報を基に、直接引用をしなくとも「コトの真相(深層)」が解る記事を書けばいい。
それが芸であり志である。
それができないとしたら(できていないとぼくも思うが)、その人物に充分な技術がないか、志が低いのである(たぶん後者)。
取材対象が流してほしい情報だけを流すのなら(政治家が相手でなくとも)それは「広報」であり、ジャーナリズムとは呼べない。
批判をするならそこであり、会食の有無ではない。
もともと記者クラブや番記者というシステムは取材対象に取り込まれやすいという問題を持っている。
それはぼくの新人時代(つまり40年近く前)から一貫してあった問題だが、最近はそれが随分だらしなくなったと思う。
取材対象の代弁者としか思えない記者や論説委員が跋扈しているさまを見てそう思う。
そもそも論説委員や編集委員といった人たちは、マスコミ組織の意思決定ラインから外れている場合がほとんどである。
そうした人たちを例え「饗応」したとしても、その“恩恵”にあずかっていないはずの記者たちが「広報」に走る理由を説明できない。
寿司を食ったの食わないのという属人的な話ではない。
だから、例え「誤解を招きかねない」ので首相との会食は行わないという話になったとしても、「マスコミの政府広報化」という状況は全く変わらないとぼくは断言する。
「わかりやすい話」は往々にしてそういう“誤爆”に終わるものである。
>腹を割って話すとかはきれいごと! いつも真剣に質問や議論をしないのに、何故にお酒の席や人の見てない所では真剣になれるのかな! 自分だけいんさいだーになりたいだけ!
政治に限らず、ちょっとでも取材経験のある人なら、そういうことではないことが判ると思うんだけどなあ…。
非公式の世間話や酒の場でぽろりとこぼした一言から真相を手繰り寄せることができるのはままあること。
「日本型コミュニケーション」という問題はあるかもしれないけれど…。
「夜回り」といった取材が記者の必須アイテムになっていた背景にはそういうこともあるわけで。
逆にそうした努力を放棄すれば、公式発表のタテマエだけを垂れ流す、それこそ「広報」になりかねないというまさに二律背反の問題があるわけです。
虎穴に入らずんば虎子を得ず、の格言もある。
ジャーナリストは(程度の差こそあれ)みんな塀の上を歩いているようなもので、どちら側に落ちるかが問題なのである。
元読売記者の本田靖春氏「不当逮捕」がそのあたりの機微をテーマにしている。
最近のフジテレビ記者の暴力団員への利益供与もたぶん同根。
つまり、「どちら側に落ちたか」を批判の対象にすべきで、塀の上を歩いていること自体を問題にされれば、たぶんジャーナリズムは死んでしまう。
マスコミの広報化は「お行儀のいい取材」を求められる企業内の記者・ディレクターたちがあらかじめ権力側に寄り添う安定感を求めてのことと思えなくもない
そういえば、もう20年以上前の話になるが、新車発表会を取材した後輩のディレクターが「自分以外はみんな自動車メーカーのアゴ足つきの取材だった」と呆れていた。
もしかしたら、政治部以上に経済部にはそうした癒着体質が根深いかもしれない。
あと芸能界もそういうとこ、あるかなあ…。
>内閣府政府広報オンライン ニッポンの農林水産物・食品は海外で大人気。http://www.gov-online.go.jp/tokusyu
あまり揚げ足取りめいたことは言いたくないが、こうした「かけ声だけ」みたいな広報に時間と金を使うくらいならもっとやることあるんじゃないの?…と言いたくなってしまう。/nousui_yushutu2016/index.html