生活保護引き下げ反対訴訟の原告たちの本音とは?「人間とは何か?」を問う裁判の裏側に迫る
「人間って何だ?」生活保護引き下げ反対訴訟の慟哭
http://diamond.jp/articles/-/104574
2016年10月14日 みわよしこ [フリーランス・ライター] ダイヤモンド・オンライン
2013年に始まった生活保護基準引き下げに対して、全国27都道府県で、生活保護で暮らす人々約900人が、国に引き下げ撤回と賠償を求める訴訟を行っている。どのような人が、何を目的として、原告となっているのだろう?
■日本全体に広がっていく
「生活保護引き下げ反対」への緩やかな協力
2013年8月から、生活保護費のうち生活費分(生活扶助)の引き下げが行われた。平均6.5%、最大10%、特に子どものいる世帯を狙ったかのような引き下げは、2013年8月・2014年4月・2015年4月と3段階にわたって、既に実行されている。この他、人数に対する生活費の割増率(逓減率)の引き下げなど、目立ちにくい引き下げが数多く行われている。
この引き下げに対して、2014年2月の佐賀県を皮切りに、全国の27都道府県で集団訴訟が行われている。訴訟に先立って自治体に審査請求を行った生活保護の人々は約1万人、訴訟の原告になった人々は約900人。人数でいえば、史上最大級の行政訴訟かもしれない。
しかし訴訟を行っている原告たちに対しては、「税金で生きさせてもらっているくせに、国を訴えるなんて」という反感や、「引き下げられても死んでいないんでしょう? 引き下げ前の生活保護基準がゼイタクすぎたのでは?」「“ジンケンハ”が“弱者”に運動させているのでは?」という疑問も、ネット空間で数多くぶつけられている。
2013年、最初の引き下げ反対に賛同した222団体のリストを見ると、「党派的」と見られがちな支援団体や当事者団体も、たしかに少なからず含まれている。しかし児童養護施設の運営母体・必ずしも生活保護にフォーカスした活動を行っているわけではない障害者団体・キリスト教の教会など、「右」「左」の区分けになじまない団体も数多い。直接、生活保護で暮らしているわけではなくても、生活保護基準引き下げを「私たちの問題だ」「他人事じゃない」と考えている人々は、決して少なくないのだ。
生活保護引き下げ違憲東京国賠訴訟弁護団の事務局長であり、東京の引き下げ反対訴訟の代理人を務めている白木敦士さんから見て、この訴訟の原告となった生活保護の人々を動かしている原動力は、何だろうか?
「生活保護基準引き下げに対して『受け入れられない』と声を上げること自体の重要性ではないかと思います」(白木さん)
生活保護の人々は、どのように訴訟に踏み切ったのだろうか?
■原告たちはなぜ「自分たちが
訴訟するしかない」と思ったのか?
白木敦士(しらき・あつし)氏
愛知県出身。早稲田大学法学部。早稲田大学大学院法務研究科を修了後、司法試験に合格し、2012年より弁護士に。憲法・外国人の人権・いじめ・社会的包摂など、数多くの社会的課題に取り組んでいる
原告として国を訴えることができるのは、「生活保護費削減」という被害を受けた生活保護の人々たち以外にはいない。でも、「弁護士が動かした」というわけでもない。
「2013年8月、最初の引き下げと当事者の方々による審査請求が行われていた時期には、弁護士の方から積極的に『訴訟をしましょう、弁護は引き受けますから』と明言していたわけではないんです。東京においては、このような集団訴訟に携わろうとする弁護士は少なく、人手不足状態が続いていました。なので、まずは、行政段階の不服申立手続である審査請求について、法的支援を行うことで精いっぱいでした」(白木さん)
どのように、当事者たちは提訴に踏み切ったのだろうか?
「何が原告の方の原動力になっているのか、原告の方々に尋ねたことはないのですが、『社会運動によって何らかの効果に結びつけることも難しく、行政や立法による救済の可能性は低い』と思われたのではないか、と推察しています。すると、残る救済ルートは、司法です。裁判所に対して、生活扶助費引き下げの不合理性を主張する過程で、世論が何か大切なことに気づいて変わることもありうるかもしれません。すると、何らかの結果に結びつくかもしれない。そのように思われたのではないかと考えています」(白木さん)
しかし、最高裁判決までは長い道のりになりそうだ。10年以上かかるかもしれない。
「訴訟に踏み切られた原告の皆さんは、大変よく勉強されていて、今回の引き下げの不合理性に憤っておられます。その意味で、本当に気力のある方々です。だから、生活保護で暮らす方々の代表になって、『自分たちが矢面に立って、声を上げていこう』と思われたのかもしれません」(白木さん)
2013年の生活保護基準引き下げの理由とされたことの一つは、一般低所得層と生活保護世帯の消費実態が「比較」された結果、生活保護世帯の消費水準の方が高かったことである。しかし、この「比較」は、「引き下げやむなし」という結論を導くためとしか見えない方法によって行われている。また、厚労省は独自の物価指数「生活扶助相当CPI」を導入し(「政策ウォッチ編」第52回参照)、実際には存在しなかった大幅なデフレを導き出し、引き下げの理由の一つとしている。原告たちが憤っている「不合理性」とは、これらのことである。
加えて、「当事者のことは、当事者にしかわからない」ということもある。
「一口に『貧困問題』と言っても、地域によって問題の性質が違います。たとえば東京であれば、『都市型貧困』という大都市特有の貧困事情があります。実情を伝えられるのは、当事者の皆さんでしかないと思います」(白木さん)
しかし、生活保護で暮らす人々が自分の声で訴え続けても、「あれもこれも」という勢いで生活保護削減が進められている現状ではある。
「なし崩し的に、これ以上の引き下げが行われないためにも、『黙っちゃいない』という態度を示し続ける必要があります。しかし、声を上げ続けていても、2015年の暖房費補助・家賃補助引き下げなど、生活保護費の切り崩しが行われているという厳しい現状があります」(白木さん)
自分は生活保護ではないから関係ない、というわけにはいかない。就学援助・住民税非課税・社会保険料減免など、低〜中所得層がお世話になる可能性のある数多くの制度で、対象になるかどうかの線引きは、「所得が生活保護基準の1.3倍(例)以下かどうか」という形で行われている。
影響は、実際に現れている。2014年、文科省は全国の自治体のうち71自治体(4%)で、2013年の引き下げの影響が存在する可能性を示した。これに対し、過小見積もりであり、実際には674自治体(38%)が影響を受けているとする批判もあるが、就学援助だけでも、影響は間違いなく存在する。その他の制度の何にどこまで影響があったのか、全容をつかむことは困難だが、所得で中位よりも下であれば、間接的にでも、何らかの影響は受けているだろう。
「けれども、当事者たちが黙っていたら、もっと下げられているかもしれません……そのくらい深刻な状況です」(白木さん)
深刻なのは、「生活保護基準が引き下げられた」という事実だけではない。生活保護の暮らしは、実際に劣化させられてしまっている。
■経済的暴力を受け続けるなか
「健康で文化的な生活」はあり得るか?
生活保護法の上位法にあたるのは、日本国憲法で「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利・生存権を定めている、第25条だ。
「ですから、この訴訟は、日本国憲法25条の生存権に焦点が当たっている訴訟です。でも生存権が十分に保障されていない現状においては、その他の憲法上の権利も十分に享受できているとはいえないのです」(白木さん)
「生活保護世帯が憲法上の権利を充分に享受できているとはいえない」とは、どういうことだろうか?
「表現の自由(憲法第21条)、幸福追求の自由(同13条)、思想及び良心の自由(19条)。……そういった精神的な自由に関する権利は、心に余裕があってこそ享受できるわけですよね? ギリギリの、明日の生活がどうなるか分からない状況では、いずれの権利も『絵に描いた餅』に過ぎません」(白木さん)
生活保護で暮らす人々から、保護費支給前の数日〜10日間程度の困窮を聞くことは数多い。米と水だけで食いつないだり、それも十分にはできず、空腹のことばかり考えて過ごしていたり。
「そんな状況では、たとえば、好きな映画を見て、感動できるでしょうか? 図書館の本を読んで、思索を深められるでしょうか? 難しいと思いませんか?」(白木さん)
今のところ、私には生活保護の経験はない。福祉事務所に生活保護の申請を勧められるほどの困窮は経験していたが、申請するに至らないほどの短期間で終わった。しかし、揉め事や不安を抱えているとき、目の前の本に集中したり、何かを「楽しい」と感じたりすることが、どれだけ難しくなるか? それは理解できる。
「だからこそ、憲法第25条は、その他の憲法上の権利を行使するための最低条件、必要条件でもあると思うんです」(白木さん)
そもそも引き下げ以前の2012年、生活保護基準は「健康で文化的な最低限度の生活」を保障できていただろうか? 人間の生活の基本的な費用に関する数多くの研究に照らせば、「否」であった。それらの研究結果に比べて、当時の生活保護基準は、1〜2万円不足していた。この「1〜2万円」は、生活保護の人々に「あと何円あったら、あなたの考える『健康で文化的な最低限度の生活』ができると思いますか?」と私が質問したときに返ってくる答えと、概ね一致していた。
■「人間とは?」「人間の暮らしとは?」
生活保護引き下げ訴訟を通じて改めて問う
さらに、この訴訟には、いわば「人間裁判」と呼ぶべき側面がある。
「この訴訟は、『人というものを、どう考えるか』にもつながっています。フランクルの『夜と霧』でも描かれているとおり、人間は、息を吸い、食事をし、排泄をするという単なる動物として生存しているのではありません」(白木さん)
絶対的貧困状態、「まだ死んでない」という状態では、先進国での社会的人間としての生活とは言えない。
「人間は、他の人とコミュニケートし、会話をし、葬式があれば香典を、慶事があればお祝いを贈るという社会的関係の中で生きています。もちろん、大切なのは、心の通い合いです。でも、そのためにも最低限の交友費用は必要です」(白木さん)
交友費用が捻出できなくなったら?
「その人は、社会的人間ではなくなります。生活保護が削減される中、交友費用を捻出することが難しくなって、社会的なつながりから背を向けて孤立していく方、たくさんいらっしゃいます。食べるものが減ったという方もいらっしゃるのですが、それよりも、社会的なつながりの部分への影響が大きいです。高齢の方は、特にその傾向が強い印象です」(白木さん)
■香典を持っていけないから
親しかった人の葬式に出席できなかった
具体的には?
「高齢の生活保護の方からは、『お香典が持っていけないから、親しかった方のお葬式に行けなかった』というお話を伺うことが少なくありません。香典を贈ることは、その人との間にあった社会的なつながりに、亡くなったことで『けじめ』をつける行為です。それができないと、ぽっかり穴が空いた気持ちにもなるのだと思います……ぜひ、『もし、自分が同じ立場になったら?』と想像してみていただきたいと思います。高齢期になると、インターネットやSNSの普及などの社会の変化に対応するのも難しくなります。『メールでお悔やみを述べればいいじゃないか』とはいきません。その中での『香典を贈れない』が、どういうことなのか」(白木さん)
50を過ぎたばかり、10代からICT業界のハシリの仕事をしていた私は、70代・80代になっても、認知症にならない限りは、まだプログラムも書いている「コンピュータおばあちゃん」になっていそうだ。お金がなければ、「香典持っていけなくて、ごめんね」とSNSでお別れするのも自然なことだろう。そうではない高齢者にとっての「葬式」「墓石」「香典」といったものの意味は、想像できるようで、想像しきれない。生活保護で暮らすことについても、近い経験はあっても、それそのものの経験はない。想像できるようなできないような、共感できるようなできないような……生活保護を経験していない人々の多くが、私と同様に、そういう状態にあるだろう。
「でも、潜在的に、立場が転換する可能性はあるんです。私は弁護士ですが、一個人事業主に過ぎませんので、働けなくなったら収入はなくなり、生活保障は何もありません。自分が『そちら』に行く可能性が、まったくないわけではなく、少しはありうると思えたら、立場の潜在的な転換可能性が認識できていれば、生活保護バッシングは、起こりにくいと思います」(白木さん)
とはいえ、不吉な将来予測は遠ざけ、臭いものには、いざ直面するまでは蓋をしておきたいのが、人間のメンタリティでもある。
「潜在的なリスクを認識しない背景には、『見たくない』もあるかもしれませんね。でも最近、痴漢冤罪された時の弁護士費用保険が、世の中に認知されてきています。生活保護も、痴漢冤罪のように『自分にも一定の可能性がある』と思えれば、理解でき、『みんなでリスクを分担しましょう』ということになり、『私たちの負担した税金で、生活保護を受給してけしからん』という意識は少なくなるのかもしれません。自分が最低生活費以下の生活に陥ってしまうことが、確実に存在する『リスク』として認識されるようになれば、世の中の見方も変わるかもしれません」(白木さん)
■誰もが潜在的なリスクを認識すれば
「生活保護バッシング」は激減する
誰にでも生活保護しかなくなる可能性があると思えるようになったら、いわゆる「生活保護バッシング」も激減するかもしれない。相手を「未来の自分自身かもしれない」と思ったら、攻撃のトーンは下がるだろう。
「生活保護が受けられるのに受けないで頑張っている人、『生活保護はゼイタクだよね』という人にこそ、私は生活保護を受けてほしいし、それで救われてほしいと思います。スティグマ(『恥』の意識を変えないと、必要な人に生活保護が行き渡ることはありません)(白木さん)
そのためには何が必要だろうか?
来週は引き続き、生活保護基準引き下げ反対訴訟の原告の側から、生活保護での生活の「いま」と、ご自分にとっての訴訟の意味を語っていただく予定だ。
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