差別、格差、汚職生む「中国戸籍」…改革なるか 身元隠しから汚職に走った官僚の半生が映す、課題山積
世界鑑測 北村豊の「中国・キタムラリポート」
2016年9月30日(金)
北村 豊
9月19日、北京市は正式に『戸籍制度改革をさらに推進する実施意見』を公表し、北京地区の“農業戸口(農業戸籍)”と“非農業戸口(非農業戸籍)”の区分を取り消し、登録する戸籍を“居民戸口(住民戸籍)”に統一すると宣言した。北京市の統計によれば、2012年末における北京市の常住人口は2069.3万人、そのうち農村人口は285.6万人で、2010年末の275.5万人に比べて10万人増加していた。
「差別の温床」戸籍制度の改革計画を公布
これは2014年7月24日付で中国政府“国務院”が公布した『戸籍制度改革をさらに推進することに関する意見』で提起された「“城(都市)”と“郷(農村)”の戸籍登録制度の統一による農業戸籍と非農業戸籍の区別の取り消し」に基づく措置である。9月20日の時点で、北京市を含む30の一級行政区(省・自治区・直轄市)<注1>が農業戸籍と非農業戸籍を取り消すことにより、これまで差別や偏見をもたらしてきた戸籍制度の改革計画が公布されている。
<注1>中国の一級行政区は31か所あり、30か所に含まれていないのはチベット自治区の1か所のみ。
中国では、1958年1月9日に公布された最初の戸籍法規である『中華人民共和国戸籍登録条例』によって、常住、暫住、出生、死亡、転出、転入、変更の7項目の登録制度を含む厳格な戸籍管理制度が確立され、全ての個人は農業戸籍と非農業戸籍に分類された。農業戸籍と非農業戸籍という分類は、計画経済下で“商品糧(商品化食糧)”を基準として区分けしたもので、農業戸籍とは「自分が生産した食糧に頼って生活する農村の農業従事者の戸籍」を指し、非農業戸籍とは「国家が分配する食糧に頼って生活する都市居住者の戸籍」を指す。
当初は農村部に居住する農業戸籍者には宅地と農地が保証されていたから、都市部に住む非農業戸籍者に比べて優遇されているように思われたが、工業が発展するに従い都市部と農村部の収入格差は拡大の一途をたどり、都市部の非農業戸籍者と農村部の農業戸籍者の間には収入、生活、文化、教育などのあらゆる面で大きな格差が厳然と存在するようになった。また、農民の都市部への移動は厳しく制限されたこともあり、都市部の住民は総体的に自分たちより貧しい農村部の住民を一段低い存在と位置づけた。それが、貧しい、汚い、礼儀知らず、無教養などといった農業戸籍者に対する差別と偏見に発展し、今日に至っている。
今まで農業戸籍者が非農業戸籍に転換して都市部住民になるには、非農業戸籍者との結婚や養子縁組、大学卒業、優秀人材、突出した貢献などの厳しい条件と審査があり、承認される人数には大きな制約があった。しかし、一級行政区の各地方政府が戸籍制度の統一に本腰を入れると宣言したことにより、今後数年以内に中国の戸籍は住民戸籍に一本化されるものと思われる。
さて、9月22日付の日刊紙「検察日報」<注2>は、安徽省“寿県”の元“県党委員会書記”(以下「元書記」)が生をうけてから汚職で摘発されて失脚するまでの経緯を詳細に報じた。元書記が汚職に手を染める引き金となったのは、貧しい農民である実家を援助するためであり、実家が貧しい農民であることで妻に見下されたくなかったからだという。本来の農業戸籍から非農業戸籍へ転換していた元書記は、貧しい農民出身であることを妻に隠し通すために汚職に走ったのだった。その概要は以下の通り。
<注2>「検察日報」は“最高人民検察院”の機関紙。最高検察院は日本の最高検察庁に相当する。
「戸籍」から始まった汚職への道
【1】1963年2月18日、“張緒鵬”は安徽省の省都“合肥市”の西隣に位置する“六安市”の管轄下にある“霍山(かくざん)県”の貧困な山村に居住する張家の三男として生まれた。しかし、貧しい張家には彼の出生を喜ぶ者は誰もおらず、家族は彼をどう養って行くのかと眉をひそめるばかりで、最終的に張緒鵬は他家へ養子に出された。養父母の家には2人の姉がいたが、男の子は張緒鵬だけであったことから、幸いにも張緒鵬は教育を受ける機会に恵まれた。1979年、張緒鵬は安徽省東南部の“宣城市”にある“皖南(かんなん)農学院”に16歳で合格して大学生となり、辺鄙な山里から抜け出るチャンスを得た。貧しい山村の学生が都会の大学で学ぶのは非常に困難な事であり、中国の常として、張緒鵬も一族の人々から経済的支援を受けたことは想像に難くない。
【2】1983年に皖南農学院の農学部を卒業した張緒鵬は、生まれ故郷の霍山県にある「符橋農業技術センター」に配属され、技術員、副センター長、センター長と順調に出世の階段を上って行った。2008年、張緒鵬は六安市の北部に位置する“寿県”へ転任となり、“寿県共産党委員会”副書記兼“寿県人民政府”副県長に任命された。寿県着任後の張緒鵬は地元の発展への貢献に目覚ましいものがあり、その実務能力が高いことは広く人々に認められた。
【3】結婚後の張緒鵬は家計管理の実権を妻に委ね、毎月の給与を全て妻に手渡していた。張緒鵬自身は家の中で唯一貧困な山村から抜け出て来た人間であり、生みの親と育ての親の兄弟姉妹は全員が農業に携わっていて貧しかったから、少しでも経済的な援助を提供したかった。しかし、親族が山村で貧困な生活をしていることで妻に見下されることを恐れた張緒鵬は、経済的援助の提供を妻に言い出せず、自分の学生時代に経済的に支援してくれた親族に対して強い負い目を感じていた。それが張緒鵬を腐敗の道に走らせることになった。
【4】2008年5月に張緒鵬が寿県に着任した後、従弟の“張緒剛”が寿県へやって来た。張緒鵬と張緒剛の2人は対外的に兄弟だと言っていたので、人々は2人が実の兄弟だと思っていた。張緒剛が寿県に来て間もなく、張緒鵬は隣接する“淮南市”で「生コンプラント」を経営する“李孟”を張緒剛に紹介した。張緒剛は寿県における生コンの販売で李孟に協力して仲良くなり、李孟を通じて“中景潤置業集団”(以下「中景潤」)<注3>の経営者である“陳中”と知り合った。
<注3>“置業”は「不動産購入」の意味。
【5】2010年、張緒剛は寿県“寿蔡路”の南側で都市改造計画があることを知って、張緒鵬に自分が参入することはできないかと尋ねた。張緒鵬が実力のある会社でないと受注できないと答えると、張緒剛はそれならと中景潤を推薦した。早速、張緒鵬は中景潤の陳中と面談したところ、陳中は自社の規模や経営状況を紹介すると同時に、張緒剛は有能だとお世辞を言った。これに対して張緒鵬は、「あいつはそこそこの教育程度だが、事業をやるには経験が乏しく、経済的にも難しいから、できる限りあんたが面倒を見て欲しい」と述べ、別れ際に陳中と李孟で協力して中景潤の関係資料を準備して改めて打ち合わせようと言った。
賄賂攻勢から癒着の泥沼へ
【6】陳中は李孟経由で張緒剛に、都市改造計画が受注できたら、利益の10%を与えると伝えた。当該計画は大型の建設事業で、利益は数億元(約50億〜60億円)に上るから10%は数千万元(約5億〜6億円)となる。その後、張緒剛は幾度も張緒鵬に分け前が10%になると提起したところ、これに動かされた張緒鵬は具体的な金額はいくらになるかと聞いた。これに対して張緒剛が、少なくとも3000万元(約4.5億円)になると答えると、張緒鵬はその場で態度を表明し、「俺が必ず上手く行くようにするから、彼らに遠慮せずに県政府と話をさせ、何か問題があったら言って来い」と胸を叩いた。その後、中継潤と県政府の商談は急速に進展し、その後の難関である土地の競売、住民の立ち退きや建物の取り壊しも極めて順調に推移した。これは張緒鵬が自ら全てを取り仕切ったことによるものだった。2012年に張緒鵬が合肥市にある“安徽省立医院”で手術を受けた際には、陳中と李孟の2人から5万元(約75万円)の見舞金を受け取った。
【7】2007年、不動産開発企業である“安徽永順房地産開発集団”の経営者である“銭慶”は宴会の席で、将来寿県の県長になると噂されていた張緒鵬と知り合った。2008年に張緒鵬が寿県の県長に就任した後、同集団は寿県の一大開発事業である“泰州時代広場”建設計画を受注し、銭慶は張緒鵬と何回か面談した。2009年の“春節(旧正月)”期間中に、銭慶は張緒鵬へ連絡を入れて、高級酒“五糧液”を2箱(6瓶/箱)、高級たばこ“熊猫煙(パンダたばこ)”4カートン(10箱/カートン)と商品券1万元(約15万円)を張緒鵬に贈った。
【8】2009年10月、銭慶は張緒鵬が“安徽省党校(党学校)”で研修を受けているのを知った。研修期間の終了後は張緒鵬が寿県のNo1である“県党委員会書記”に就任することは明らかだった。抜け目のない銭慶は、すぐに研修中の張緒鵬に電話を入れてスーツを作ろうと誘い、党学校の宿舎の部屋に張緒鵬を訪ねた。銭慶は張緒鵬に気付かれないように20万元(約300万円)の札束を入れた袋を寝台の上に置いて掛布団で隠してから、張緒鵬を連れて紳士服店へ行き、オーダーメイドでスーツ1着とワイシャツ3枚を注文して、1.8万元(約27万円)を支払った。「自分が20万元を贈った後は、張緒鵬の自分に対する呼称が明らかに変わった」と銭慶は後に語った。銭慶の予想通り、2009年12月に張緒鵬は寿県の党委員会書記に昇進し、銭慶は張緒鵬という後ろ盾を得て、寿県で多数の建設案件を受注した。
【9】上述したのは、張緒鵬が行った汚職の代表的な例に過ぎない。「奢れるものは久しからず」の言葉通り、寿県の行政を意のままに動かし、我が物顔で寿県の財政を食い物にしていた寿県党委員会書記の張緒鵬は、2014年5月に“淮北市検察院”によって収賄の容疑で立件され取り調べを受けた。2014年7月21日、“安徽省検察院”の指示を受けた淮北市検察院は、張緒鵬を立件して取り調べ、張緒鵬とその従弟の張緒剛が“兄弟斉心, 共同撈金(兄弟心を一つにして、共同でカネを手に入れる)”という形で犯罪を行った事実を確認した。8月11日、検察機関は初歩的調査の結果として、張緒鵬が寿県党委員会書記ならびに寿県県長の在職期間中に、職務を利用して他人のために土地開発や建設工事の便宜を図り、見返りとして不法に他人の財物を受け取ったが、その額は巨大であり、収賄の嫌疑がかかっていると発表した。
行きつく先は一家全員の腐敗
【10】それから2年後の2016年7月19日、“淮北市中級法院(地方裁判所)”は同事件に対し以下のような一審判決を下した。
張緒鵬は職務を利用して他人の金品・物品を総額645万元(約9675万円)<内訳:単独収賄145万元、共同収賄500万元>受け取ったことにより、収賄罪で懲役11年および罰金210万元(約3150万円)、職権濫用罪で懲役3年とし、最終的に懲役12年、罰金210万元に処す。張緒剛は他人の金品・物品を500万元(約7500万円)受け取ったことにより、収賄罪で懲役10年および罰金175万元(約2625万円)に処す。
【11】7月29日、張緒剛は一審判決を不服として控訴し、二審を待つ状況にある。この事件について「検察日報」記者からコメントを求められた淮北市検察院“反貪局(汚職取締局)”副局長の“余権”は次のように語った。
事件の審議を取り進める中で、多くの人々が張緒鵬を業務能力が高いだけでなく、論理の水準も高く、非常に優れた人材であると評価していた。但し、この人材は「才」に溺れる形で、最終的には汚職の道に迷い込んでしまった。張緒鵬は自らほしいままに賄賂を受け取っただけでなく、その兄弟、娘、姪、妻などの親族までが彼の影響力を利用して“権銭交易(権力とカネの癒着)”を繰り広げ、“不義之財(道義に反して作ったカネ)”で大儲けした。張緒鵬は、“全家福(一家全員の幸福)”を求めて、最後には“全家腐(一家全員の腐敗)”に陥った。
上述したように、張緒鵬が汚職の道に足を踏み入れたのは、自分が出世する糸口を作ってくれた実家の人々に恩返しの援助をしたいという人の道としてまっとうな気持ちからだった。地方官僚として十分な俸給を受けているなら、その中から援助金を捻出すれば済む話だが、俸給全てを妻に上納していた張緒鵬は、貧しい農民である実家を援助すると言えば、妻に実家が見下されるばかりか、自分までもが出自が卑しいと軽蔑されると考えたのだった。
厳然とした格差、克服への道は…
地方官僚とはいえ、寿県党委員会書記は寿県の最高指導者であり、県民約140万人の頂点立つ役職である。その地位にまで上ってもなお、自身の出自が貧しい山村の農民であり、実家の人々は依然として貧しい農民であることは、張緒鵬にとっては一生背負って行かねばならない重荷だったに違いない。張緒鵬が都市に生まれた非農業戸籍者であったなら、汚職を行わなかったかと問われれば、汚職をしないという保証はなく、中国の役人の常として恐らく汚職をしただろう。しかし、張緒鵬の場合は農業戸籍であった出自を恥じる気持ちが汚職に手を染める契機となったことは否定できない事実である。
中国全土が早期に戸籍の統一作業を完了させ、戸籍による身分差別が払拭される日が近いことを祈りたい。但し、戸籍が住民戸籍に一本化されたとしても、都市と農村の格差が縮小される訳ではなく、所得、社会福祉、教育、医療など多岐にわたる格差は厳然として存在する。それでも、戸籍の統一は格差縮小の一歩と言えよう。
このコラムについて
世界鑑測 北村豊の「中国・キタムラリポート」
日中両国が本当の意味で交流するには、両国民が相互理解を深めることが先決である。ところが、日本のメディアの中国に関する報道は、「陰陽」の「陽」ばかりが強調され、「陰」がほとんど報道されない。真の中国を理解するために、「褒めるべきは褒め、批判すべきは批判す」という視点に立って、中国国内の実態をリポートする。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/101059/092800067/
http://www.asyura2.com/16/china9/msg/732.html