911、日航ジャンボ、北朝鮮の真相ー(植草一秀氏)
http://www.twitlonger.com/show/n_1sp3hci
11th Sep 2016 市村 悦延 · @hellotomhanks
2009年9月11日の米国における事件から15年の年月が流れる。
1985年8月12日の日航ジャンボ123便の墜落事故からは31年の時間が流れた。
そして、北朝鮮は9月9日、5度目の核実験を行った。
これらの事案について、私たちはメディアを通じて情報を得る。
しかし、そのメディアが真実を伝えているとは限らない。
私たちは
「すべてを疑うこと」
から始めなければならない。
9.11の事件は
「同時多発テロ」
と表現され、テロが実行されたとされている。
ブッシュ大統領は事案が発生すると、直ちに
「これは戦争だ」
と発言し、アフガニスタン、そして、イラクでの戦争に突き進んでいった。
まるで用意された原稿があったかのようなスピードで、これを「戦争」と位置付けて実際に戦争に突き進んだ。
しかし、その後の分析で、9.11全体が大きな疑惑に包まれていることが明らかになってきた。
メディアが流す情報を鵜呑みにする者は、その「疑惑」を「陰謀論」として頭ごなしに否定するが、
メディアの情報には虚偽が含まれていると判断する者は、さまざまな事実の指摘に耳を傾け、
9.11の疑惑に真摯な目を向けている。
9.11の事実経過は以下のものだ。
http://matome.naver.jp/odai/2136056666857347801
より転載。
世界貿易センタービル
9時3分に南棟がユナイテッド航空175便(1機目)の突入を受け、爆発炎上
2機目の激突は1機目の激突後に現場のテレビ中継を行っていた際に発生
9時59分に南棟が突入を受けた上部から砕けるように崩壊。
北棟も10時28分に南棟と同様、砕けるように崩壊。
敷地内の他の4つのビルも崩落・炎上し、
8時間後に敷地北隣の高層ビル・世界貿易センター7号棟もともに崩落。
国防総省本庁舎(ペンタゴン)
9時38分にアメリカン航空77便(ボーイング757)の突入を受けた。
10時15分に1階までが全て崩壊
出典:アメリカ同時多発テロ事件 - Wikipedia
疑問点は無数に存在する。
飛行機が突入したとされるビルとは離れているWTC第7ビルが8時間後に崩落している。
https://www.youtube.com/watch?v=LD06SAf0p9A&eurl=
https://www.youtube.com/watch?v=JnLcUxV1dPo
巨大ビルの爆破解体の映像のようにしか見えない。
第7ビルが崩壊したのは午後5時20分頃だが、BBC Worldは午後4時57分に、
ソロモンブラザーズビル(WTC第7ビル)が崩壊したと報道した。
実際に崩壊したのは、その21分後だった。
そして、この第7ビルの所有者はこの「事件」の6週間前に世界貿易センター全域をリースする契約を締結し、
35億ドル(3500億円)のテロ特約保険≠掛けていたと伝えられている。
国防総省=ペンタゴンにはボーイング757が突入したと伝えられているが、
事故現場からはボーイングの破片は確認されていない。
ボーイングが突入したとされる崩壊現場の横幅は、ボーイングの横幅よりもはるかに小さい。
ツインタワービルは約10秒で崩落した。
自由落下とほぼ同じ時間で崩落している。
鉄の融点は約1482℃。
ジェット燃料は最適条件下でも982℃を超えることはないとされる。
WTCビルは複数の旅客機が突入しても耐えられる様に設計されていることが
事件の数ヵ月前に設計者によってテレビで説明されていた。
ツインタワーの崩壊も爆破解体であるというのが現状での多数派見解になっていると言ってよいだろう。
「戦争」によって誰が利益を得るのかを考えれば謎は解ける。
米国の軍事支出は年間50兆円。
武器弾薬、兵器だけで25兆円に達する。
その軍事産業がいま力を注いでいる上得意客が日本である。
日本に武器を売るには、日本の周辺の軍事的脅威を高める必要がある。
私たちは『知られざる真実』を知らなければならない。
ロスチャイルド家の基礎を築いたマイヤー・アムシェル・ロースチャイルドには5人の子があった。
その5人が
フランクフルト(長男アムシェル)、
ウィーン(次男ザロモン)、
ロンドン(三男ネイサン)、
ナポリ(四男カール)、
パリ(五男ジェームス)
の5ヵ所に分かれて事業を行い、5家のロスチャイルド家の祖となった。
軍事産業=死の商人の基本戦略は、
敵対の創出
と
軍拡競争の促進
である。
敵対の構図を構築し、敵対する勢力同士による軍拡競争を促す。
そして、両者に資金を貸し出す。
これが巨大金融資本の基本戦略である。
明治維新を裏から操ったのも欧州の金融資本である。
欧州資本は維新軍と幕軍の双方に武器を販売し、戦争を誘導した。
その延長上にいまの日本がある。
江戸から明治への転換に際して、何があったのか。
すべての日本人は通説を根本から疑う必要がある。
1985年8月12日の日本航空ジャンボ機墜落事故。
機体が群馬県と長野県の県境の御巣鷹の尾根に墜落したのは午後6時56分だった。
その約20分後の午後7時30分前に、
沖縄嘉手納基地から横田基地に帰投中の米軍C−130輸送機が横田基地から
JAL123便の探索命令を受けて一帯を捜索した結果、JAL123便の墜落現場を確認した。
米軍C−130機はJAL123便墜落現場の上空600メートルで旋回飛行をし、
横田基地からの位置を測定して正確な墜落地点を横田基地に知らせている。
午後8時30分、米軍横田基地はC−130機に救難チームを乗せたヘリを現場に向かわせることを通告。
午後8時50分、C−130機が米軍救援ヘリの到着を確認。
午後9時05分、米軍救援ヘリがC−130機に、煙があり着陸できないため乗員2人を降下させると通告。
C−130機は横田基地に状況を報告した。
午後9時06分、横田基地はC−130機と米軍ヘリに帰還命令。
米軍ヘリは救助活動続行を申し出たが、「日本の救助隊が向かっている」との理由で帰還を命じられた。
午後9時20分、日本機(F4)が事故現場上空に到着。
午後9時22分、C−130機は航空機が日本の救助隊であることを横田基地に確認した後に現場を離脱した。
しかし、実際に救難活動が始まったのは、
墜落からからおよそ14時間が経過した8月13日午前8時半であった。
長野県警のレスキュー隊および上野村消防団により、4名の女性の生存者が救出された。
救出された日航CAの落合由美氏の証言では、
「墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。
ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。
「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。」
という状況であった。
つまり、多数の乗員、乗客が生存していたのである。
墜落地点は墜落の30分後には確認されている。
当然のことながら、横田基地から日本政府にも通知されている。
ところが、自衛隊は8月13日の朝まで誤報を繰り返した。
墜落地点が確認されたのは13日午前5時37分。
長野県警による確認だった。
そして、救難活動が開始されたのは午前8時半。
このために生存者が4名になってしまった。
この間、自衛隊が行動しなかったのかと言えば、そうではなかったと見られている。
大規模な特殊部隊が何らかの使命を帯びて行動したと見られている。
「何らかの使命」とは「証拠の隠滅」である疑いが強い。
日航123便のボイスレコーダーに重大な言葉が記録されている。
ザ・ノンフィクション
https://www.youtube.com/watch?v=7poQ8oyuBQM
の22分35秒以降の部分でご確認いただきたい。
爆発音
なんか爆発したぞ
ギアドア ギア見てギア
エンジン?
スコーク77
オレンジエア
と述べている。
事故当日、事故現場の相模湾で護衛艦「まつゆき」が試験航行しており、
誘導レーダーの実験演習が行われていた可能性がある。
誘導ミサイルの実証実験は、無人標的機の「ファイア・ビー」を飛ばして、
誘導ミサイルの「チャカ2」が追尾する状況を検証するものである。
しかし、無人標的機ファイア・ビーをリモート・コントロールするには、
海上自衛隊の訓練支援艦が必要であるが、
事故当時は、訓練支援艦が広島の呉港に繋留されており、無人標的機の実験演習は行えなかったと見られる。
考えられる可能性は、沿岸防衛用国産巡航ミサイル「SSM−1」が護衛艦「まつゆき」から、
あるいは、自衛隊の東富士演習場から打ち上げられて相模湾上空でJAL123便を追尾したというものである。
自衛隊では軍事演習用の機器は、オレンジ色に塗ってある。
「ファイア・ビー」、「チャカ2」、「SSM−1」はいずれもオレンジのエアクラフト=「オレンジ・エア」なのだ。
このオレンジ色の巡航ミサイルが123便に接触した可能性がある。
上記の「ザ・ドキュメント」では、この発言を「ボディ・ギア」と解釈したようだが、よく聞けば
「オレンジエア」
と発言していることが分かる。
この
「オレンジエア」
こそ、まさに
自衛隊の兵器
のことだと理解できる。
そして、亡くなられた乗客の一人であった小川哲氏(当時41歳)が、
謎の飛行物体に気がつき、それをカメラに収めていたことが判明した。
この写真をパソコンで拡大するとオレンジ色になる。
画像処理の専門家にこの写真の検証を依頼したところ、
「円錐もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、
この物体はオレンジ帯の方向から飛行機の進行方向に向かっているように見える」
との結果を得たということだ。
私たちは歴史の真実、歴史の正体を見抜かなければならない。