「「死人に鞭打つような真似をしないでくれ」私が「安倍マリオ」を支持できない本当の理由:勝見貴弘氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/20611.html
2016/8/24 晴耕雨読
https://twitter.com/tkatsumi06j
>Ken 待機中の事を考えると笑っちゃう。 #安倍マリオ
賛否両論でよかったじゃないか。
>togetter_jp .@nuichiさんの「【リオ五輪閉会式】日本人の心を打ち抜いた、誰も知らなかった君が代」に注目中!みんながチェックしているまとめはこれ。https://t.co/sWySHL0RUv
『イノセンス』テイストはよかったね。
この後のブラジル経済の落ち込みは想像を絶するな。
イギリスほどの強靭さもないなかで、施設が廃墟と化し、失業者が溢れ、国や市の借金はかさみ、今以上の経済的停滞と貧困に苛まれる。
まあ、まずはパラリンピックを見守るとするか。
祭りの外にいるとこんな風に見れるんだな。 #リオ2016
>【リオ五輪閉会式】堀江貴文氏が“安倍マリオ”高評価「一発でみんな認知してました」 https://t.co/jZ4W6Djgmh
マリオはエンターテイメントとして。面白かった。
会場や世界中の鑑賞者の期待にも十分応えたと思う。
音楽やハイテクを駆使した椎名林檎プロデュースのパフォーマンスは圧巻で、ヴィジュアルも美しく、音楽もよかった。
でも安倍は要らなかった。
>ディーン玲子「安倍首相、61歳、五輪閉会式でマリオに紛争して登場。なぜ日本の首相がイタリア人の配管工に化ける?非常に恥ずかしい。日本ってのは変な国だ」などと英紙に散々言われてますが、外務省は抗議しないんだね。中国や韓国には抗議するのに。https://t.co/487AsP7FhR
いまからその本当の理由を語る。
安倍マリオについては、まず
@首相である必要はなかった。
Aもっと知名度があり演技のうまい人を選べた。
の二点から「要らなかった」あるいは「違う人であってほしかった」と思った。
まずはやはり『スポーツの祭典』であるということ。
主役はアスリートなのに、出演は動画のみは本末転倒すぎる。
ロンドン五輪ではエリザベス女王のそっくりさんが『007ダイ・アナザー・デイ』の北の悪役の登場シーンよろしくはるか上空からパラシュート降下してきて地上の女王陛下と入れ替わるという演出があったが、あれをキャメロン首相がやったら、陛下を差し置いて「お株を奪い過ぎ」と非難されただろう。
かといって、日本で『象徴』である天皇陛下にそのような国威発揚(NHKが考える五輪が持つ”最大”の効果らしい)の場で国威発揚行為を行ってもらう訳にもいかないのはお国事情としてわかる。
なら、安倍はおとなしく貴賓席で待ち、誰か演技のうまい人にマリオ役をやらせばよかった。
そうすれば、あんなマリオ”だったか”どうかすらわからない一瞬で服を脱ぎ棄てるしらけた登場の仕方ではなく、「五輪評閉会式オタク」のヒロミのいう"タメ"をつけてより効果的にマリオのダイナミックさをそのまま生かせただろう。
うってつけの世界的なスーパーアスリートが一人いるではないか。
椎名林檎プロデュースのサウンドとビジュアルは最高だった。
『イノセンス』調の君が代斉唱も、世界中の押井ファンの心を鷲掴みにしただろう。
日本にしかできないARを駆使したディスプレイも圧巻だった。
日本の1兆円市場を支えるマスコットキャラ総出の演出にもケチはつけない。
納得の選択肢だった。
が、最後の最後でマリオを演技心のない時の首相に行わせるのはいただけない。
しかも本来なら、次期五輪では(自民党総裁に関する3選を禁止する党内規定により)任期終了している人間だ。
それでも首相にトリをやらせるということは、任期延長がもう既定路線ということ。
それを表明したに等しい。
だが五輪は『スポーツの祭典』。
かつてナチスドイツや旧ソ連に国威発揚の場として利用されたことがあったが、人類はそのような利用の仕方はもうしないと誓って運用を変えてきた。
ときの権力者が自らの権力基盤を誇示するような場であっては断じてならないのである。
世界はお祭り騒ぎの中でそれを黙認したが、当の日本国民である身としては、まず五輪憲章の精神に対して申し訳が立たない。
主催国であるブラジルとリオの指導者たちに、彼らより目立ちたがり屋を出しことに申し訳が立たない。
主催国民のブラジルの人たちに、申し訳が立たない。
これが本当の理由だ。
安倍マリオはエンターテインメントとしてはB級くらいの「面白さ」だった。
役者が三流だからそこは仕方がないとしても、もう少しやりようはあった。
ポリティカルコレクトであることもできた。
主催国に対する配慮を見せることもできた。
それでも一緒に楽しんでくれるのは、ブラジル人の国民性が大きい。
最後に、安倍マリオは、本来許される形のパフォーマンスではなかった。
権力者に『道化』を演じさせるというファサードは、その『場』が大きければ大きいほどリスクを持つ。
何十億という人間が見る場で、自国のトップに五輪精神を蹂躙する喜劇を演じることを許すのは、危険な試みである。
何度も言うが映像も音楽も演出も文句なしだった。
だが大トリの役者がまずく、また適した立場の人間ではなかった。
そのことでなんとも後味の悪い覚えがした。
一部には主催国の閉会式を「完全に食った」という評価があるが、それこそが問題である。
ブラジルは経済的に非常に厳しい状況にあり、五輪開催直前に現職大統領が弾劾されるなど政治的にも安定していない。
五輪開催への反発は根強く武力衝突すらしていた。
日本の現地産業もこの経済不振の打撃を受けている。
そんな国がそれでも国運をかけて開催した『スポーツの祭典』を高いハイテク技術力(=資金力)で”食って”しまうような演出し賞賛することは、自国優先のひじょうに卑しい姿勢を前面に出している気がして、決していい気はしない。
ましてその大トリを次期主催国の首相が飾るなど、あってはならない。
「面白かった」──そう評価はできる。
けれども次期主催国として、単なるターンオーバーセレモニーの場を与えられた「ゲスト」として、「ホスト」を食ってしまう演出をしてよかったのかどうか。
それを国の指導者に行わせてよかったのかどうかは、世界が祭り騒ぎの中で一顧だにしなくても、次期主催国の民としては考えなければならないことなのではないかと私は思う。
このワシントンポストの総括記事を読めば、リオの人たちがどんな気持ちでこの一大国際行事を乗り切ったか、少しは伝わるだろう。https://t.co/ePaWrUGAfV
そうした人たちに対して、圧倒的に裕福で、モノに恵まれ、社会的安定と高い技術力を享受する国が、それをありのままに誇示することが、果たして「スポーツマンシップ」や「フェアプレイ」精神に則った行動なのだろうか。
不遇の人たちをいわたり、身を一歩引き、我を通さない──そんな「美しい心の国」の民の美徳はどこへ行ってしまったのだろうか。
私は80年代末期のリオに3年間住んだことがある。
その時、ワシントンポストにも書かれている悪名高い『ファベイラ(貧民街)』にも直接足を踏み入れ、そこの人たちと接したこともある。
そんなブラジルがつい最近まではBRICsともてはやされていた。
だがまたどん底に陥っている。
「死人に鞭打つような真似をしないでくれ」──リオ五輪に当たってのわが国の振る舞いに対する私の願いはその一点だった。
だが国を挙げた国威発揚の場と化したことで、その願いは脆くも打ち砕かれた。
閉会式では、成熟した国の度量が見たかった。
だが見えたのは、先進国としての驕りや飾りと、他への慈しみを失った余裕のないわが国の姿だった。
>さといも ご意見 ほんとうに賛同いたします!目立ちたがりの品なさ。はずかしいかぎりです。ブラジルの努力をねぎらう気持ちを表して欲しかったです。それが国のトップの品格と思います。
【リオ五輪2016】私が「安倍マリオ」を支持できない本当の理由 http://fb.me/4HHKej3jZ