71年前の8月6日に広島へ原爆を投下した米国は今後30年間に1兆ドルを核兵器開発へ投入する計画
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2016.08.06 22:33:46 櫻井ジャーナル
1945年8月に広島と長崎へ原子爆弾が投下された。6日に広島へ落とされた「リトル・ボーイ」はウラニウム235を使用、9日に長崎へ落とされた「ファット・マン」はプルトニウム239が使用されている。原爆が投下されてから最初の数カ月間で広島の場合は9万から16万6000人、長崎の場合は6万から8万人が死亡、その約半数は投下当日に亡くなったと推定されている。被爆者はその後も癌などの発症に苦しんできた。
その広島にある平和記念資料館でバラク・オバマ大統領は5月27日、「核なき世界を追求する勇気」について語ったというが、2014年の段階で、30年間に9000億ドルから1兆1000億ドルを投入する計画を打ち出している。オバマに「核なき世界を追求する勇気」があるのかどうかは知らないが、「核なき世界」の実現に向かって進んではいない。
アメリカはロシアの周辺で「ミサイル防衛システム」を建設、ルーマニアやポーランドでも計画されている。ロシアがこのシステムを批判している理由は、そのシステムが先制攻撃のためだと認識しているからだ。
先制攻撃した場合、全ての兵力を破壊しない限り、相手側は報復してくる。その報復攻撃に対処するという目的が「ミサイル防衛システム」にあるのだが、先制攻撃に使う射程が1000キロメートルから2400キロメートルという攻撃的ミサイルへ切り替えることも難しくない。
アメリカがソ連/ロシアを先制核攻撃する計画を考え始めたのは第2次世界大戦で日本やドイツが降伏した4年後のこと。JCS(統合参謀本部)が作成した研究報告に、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。
1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成、57年初頭には300発の核爆弾でソ連の100都市を破壊するという「ドロップショット作戦」が作成されている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
1956年にSACが作成した核攻撃計画に関する報告書によると、モスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、タリン(現在はエストニア)、キエフ(現在のウクライナ)といったソ連の都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が攻撃目標に含まれていた。
1950年代から核攻撃の準備は始まり、テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーJCS議長やSACの司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲核攻撃を実行する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。この攻撃を成功させるためにもキューバを制圧し、ソ連の中距離ミサイルを排除する必要がある。
この計画を実現するためには大きな障害を取り除く必要があった。1963年6月10日、アメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行ったジョン・F・ケネディ大統領である。この年の11月22日にテキサス州ダラスでケネディ大統領は暗殺され、ソ連やキューバが黒幕だとする偽情報をCIAが流したものの、FBIから事実を知らされたリンドン・ジョンソン新大統領はソ連との戦争へ突入することはなかった。
日本では第2次世界大戦の頃から核兵器の研究開発は進められている。理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究、そして海軍が京都帝大と検討していたF研究が始まりである。
大戦後、1957年5月に岸信介は参議院で「たとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈」として持っていると答弁、59年3月には参議院予算委員会で「防衛用小型核兵器」は合憲だと主張している。
NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1965年に訪米した佐藤栄作首相はリンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。1967年には「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」が設立され、69年に日本政府は西ドイツ政府に対して核武装を持ちかけ、拒否されている。
しかし、1969年にアメリカ大統領となったリチャード・ニクソン大統領の補佐官、ヘンリー・キッシンジャーは彼のスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語ったという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)
日本側は核武装に関する調査を進める。10年から15年の期間での核武装を想定、核爆弾製造、核分裂性物質製造、ロケット技術開発、誘導装置開発などについて調査、技術的には容易に実現できるという結論に達したという。原爆の原料として考えられていた高純度のプルトニウムは、日本原子力発電所の東海発電所で年間100キログラム余り、つまり長崎に落とされた原爆を10個は作れると見積もっていた。
ジミー・カーター政権は日本の核武装計画を警戒、つぶそうとしたが、ロナルド・レーガン政権に状況は一変する。アメリカ政府の内部に日本の核武装計画を支援する動きが出てきたのだ。その象徴的な施設が1995年に着工されたRETF(リサイクル機器試験施設)だ。これは東海再処理工場に付属、プルトニウムを分離/抽出するための施設。この建設で、アメリカ政府は「機微な核技術」、つまり軍事技術を提供していた。
調査ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、2011年3月11日に東電福島第1原発が地震で過酷事故を起こした当時、日本には約70トンの兵器級プルトニウムがあったという。自らが生産した可能性もあるが、外国から持ち込まれた可能性もある。トレントに限らず、アメリカの情報機関は日本が核兵器を開発してきたと確信している。
この事故の3日前、2011年3月8日付けのインディペンデント紙には、石原慎太郎のインタビュー記事が掲載された。それによると、外交力とは核兵器なのであり、核兵器を日本が持っていれば中国は尖閣諸島に手を出さないだろうと石原は発言したという。
こうした背景を考えると、日本会議系の政治家が核武装を口にしても不思議ではない。アメリカとしては日本と中国が核兵器を撃ち合い、自分たちは高みの見物という展開が理想なのかもしれないが、そうなると日本の原発も全滅、太平洋は今と比較にならないほどの放射性物質が溶け込んだ海になる。