「戦略的”鎖国”論」西尾幹二/講談社’88年から引用
第三節 必要とされる「欧米の国際化」
≪国際化と開国の違い≫
過日、矢野鴨氏のスピーチがあった。「開国」政策は日本の歴史の中で幾度も採用され、経験済だが、「国際化」政策というのは歴史上例がない。これは外国人単純労働者を大量に受け入れる等もその一つとする苦痛と災いを伴ういわば試練の政策に他ならない。外国から良きもの・美しきものを学んだり、便利な制度を取り入れたりする”いいとこどり”が「開国」で、今でもこの程度のことを「国際化」と呼んでいる向きもないではないが、現代日本が迎えている新たな局面はいささか違うのではないか、といった内容の指摘であったかと思う。
私のいう「戦略的”鎖国”論」とは、無差別に国を鎖せというのではない。無差別に外国に自分を合わせることへの警告であり、自分自身の判断に確たる自信を持つことによって、いちいちの局面におけるこの選択を過たぬようにせよ、ということに他ならない。それが出来るためには、自分自身を知ることであり、自国の強さと弱さ、本質と枝葉の区別を弁えることではないか。
2千年にも及ぶ島国人の特性は、その長所・弱点を共に含めて、われわれの体質を決めていて、既に自らの骨肉ともなっている(「温室国家」)、急には改造のきかない現実の条件で、われわれは対応策を考えていかなくてはならない。
自国を真に知ることは、また外国を真に知ることに通じる。そして外国を表裏ともに知ればすぐ分かることだが、自分の条件の許す範囲で「開国」する国はあっても、自分の長所・本質を脅かしてまで「国際化」している国など、地球上どこを捜しても存在しないという事実に改めて気が付くであろう。
≪to internationalizeの驚くべき意味≫
長谷川三千子氏によると、これは正真正銘の他動詞であった。日本でのように「国際的になる」とか「自分を国際化する」といった自動詞めいた用いられ方は決してされないという。辞書によると、他国の領土を二か国以上の共同統治または保護下に置く、がこの語の本来の意味であるようだ。
≪欧米こそ「国際化」を必要とする≫
米国や欧州諸国が、果たして「国際化」している国々だと言えるだろうか。自分の暮らし方を民主主義の最高形式と信じ、自分の正義を他国に押しつけ、外国語を学ぼうともしない米国国民。近代科学と進歩の理念が自分に発し、地球全体に広がったことを理由に、地球上のすべての民族は自分をモデルに、自分の歴史の跡を追い駆けているものと思い込んでいる自己中心史観に囚われた西欧人。彼らは「西欧の没落」を口にし、自分の文明が絶対でないと公言しながら、心のどこかでキリスト教を欠いた文明はみな野蛮で、未解放だと思っているせいか、どうしても自分の尺度で相手を見る。すなわち、西欧のレンズを通して非西欧圏を写し出すという習性を脱却することが出来ないでいる。
自分から閉ざされた国だといつも意識している日本人の方が、よほど心理的に開かれていて、外の世界から謙虚に「学ぶ」という伝統的習性を保持しているのではないだろうか。ただ、国際会議は英語など、世界の運営が200年欧米の基準でなされて来たので、「欧米の閉鎖性」が見えにくかったまでなのだ。
西欧文明こそ一つの巨大な閉ざされた文明圏なのではないだろうか。
地球上にはさまざまな「特殊」があるだけで、「普遍」は存在しない。西欧文明もまた一つの「特殊」である。
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