[転載記事から引用]
「本物のヒトラーは影武者の死体を残して愛人エヴァ・ブラウンとともに地下通路から空港へ脱出し、スペインに、次にはカナリア諸島へ飛んだ。そこから潜水艦でアルゼンチンのコモドロリバダビアに向ったのだ。
「ヒトラーが逃げ延び、ソ連の手に落ちないということについては、米国との合意があった。それはまた、その後対ソ戦に参加した多くの科学者、軍人、スパイにも関わることだ」」
[コメント]
脱出方法と経路は、次に示すヒストリーチャンネルの番組と同じである。
ベルリン陥落直前にベルリンから飛行機でスペインに向かったのなら、米国(及び英国)との合意は必須である。
米軍が占領ないし支配している地域を長時間飛行(ドイツ西部及びフランスを斜めに横断)することになるからである。合意がなければ、ヒトラー搭乗機は撃墜される可能性が高い。
※関連参照投稿
「「自殺したとされるヒトラーの逃亡説」が米国メディアで真正面から追究される時代」
http://www.asyura2.com/15/warb16/msg/683.html
※別の説
「Re: ヒトラーは1985年秋、アルゼンチンの町でひっそり亡くなった。 」
投稿者 座頭市 日時 2002 年 2 月 24 日 21:57:16:
http://www.asyura.com/2002/bd17/msg/176.html
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新説:ヒトラーは死んだ。しかし、1945年にではなく、ベルリンでもない[スプートニク日本語]
2016年07月09日 19:45(アップデート 2016年07月09日 20:06)
ナチスの独裁者アドルフ・ヒトラーが1945年4月にベルリンの防空壕で自殺せず、南米に逃げたと仮定した場合は?ここで、疑問が生ずる。彼の遺体はどこに眠っているのか?
アルゼンチンで最近出版された新著「亡命中のヒトラー」で歴史家アベル・バスティ氏は、ナチスの指導者の第二次世界大戦後の生活について、独自の説を展開している。
1945年、アドルフ・ヒトラーは、10年間住んでいアルゼンチンに避難を求めた可能性がある。しかし、1955年、フアン・ドミンゴ・ペロン政権の打倒後、新しい住み家を模索しなければならなくなった。他の多くのナチスと同じように、ヒトラーはパラグアイに渡り、ドイツに出自を持っていた独裁者アルフレド・ストロエスネルの後援の下に暮らした。バスティ氏がスプートニクの独占インタビューで語った。
バスティ氏は著書の中で、ヒトラーや他のナチス高官がパラグアイで暮らしていたことを裏付ける諸々の証言を参照している。バスティ氏によると、ヒトラーは1971年2月3日に死亡した。
「長年にわたって彼を助けた裕福な家族は、葬儀の執り行いを引き受けた。ヒトラーはパラグアイ首都アスンシオンの地下壕に埋葬された。 1973年に地下壕への入り口は密閉され、最後の別れには40人が駆けつけた。その後、出席者の一人、ブラジルの軍人フェルナンド・ノゲイラ・デ・アラウージョが、式典について新聞に語っている」
それはソ連軍によってベルリンの地下壕が制圧される数日前に始まった長い旅のフィナーレであったかもしれない。本物のヒトラーは影武者の死体を残して愛人エヴァ・ブラウンとともに地下通路から空港へ脱出し、スペインに、次にはカナリア諸島へ飛んだ。そこから潜水艦でアルゼンチンのコモドロリバダビアに向ったのだ。
「ヒトラーが逃げ延び、ソ連の手に落ちないということについては、米国との合意があった。それはまた、その後対ソ戦に参加した多くの科学者、軍人、スパイにも関わることだ」と歴史家。
アルゼンチンから逃れた後、1955年にヒトラーはパラグアイのイパカライ湖のほとりにあるホテルに住んでいた。その後、パラグアイ独裁者の最初の妻ストロエスネルに属する家に住んだ。アルゼンチンの歴史家によると、ナチス指導者はまた、ブラジルとコロンビアを訪問した。
いずれにせよナチス・ドイツの独裁者の人生の物語は、まだ謎と曖昧さに満ちている。
先に報じられたところによると英国で「ミス・ヒトラー2016」コンテスト が開催された。これは英国のユダヤ人団体の不満を引き起こさないわけがなかった。