未来授業〜明日の日本人たちへ
稲垣えみ子さん〜必要だと思っていたものについて考えなおし、あえて捨てて、シンプルに生きてみる
2016年07月01日
今回の講師は、稲垣えみ子さん。1965年愛知県出身。一橋大学卒業後、87年に朝日新聞に入社。高松、京都支局を経て大阪本社で記者・社会部デスクなどを経験後、論説委員として社説を担当。その後に担当したコラムでつづった「電気をほとんど使わない生活」が話題になりました。今年1月に朝日新聞を退社してからは、さらに節電生活を進化させているそうです。
「ものを捨てる」「電気を使わない」そうしたライフスタイルは、はたして私たちにどのような影響を与えてくれるのでしょうか? 実体験に基づいた考え方をお聞きしました。
アンプラグドな生活
みなさんも同じだと思うのですが、私も東日本大震災のときの原発事故にものすごくショックを受けた1人です。そのとき私は神戸に住んでいたので関西電力の電気を使っていたのですが、関西電力は、発電する電気の半分を原発で賄っていた。恥ずかしい話ですが、それまで自分の生活が、それほどまでに原発に頼っていたことすら知りませんでした。半分というのはかなりの割合です。「原発反対」と言っても、実際に原発なしで生活できるのかをきちんと検証しないと説得力がありません。そこで、とりあえずはそれまで使っていた電気代を半減させてみようと思ったんですね。
最初は、使わない電気をこまめに消し、テレビをつけっぱなしにしないといったことから始めたのですが、そんなことでは半減には全くたどり着きません。そこで、電子レンジ、扇風機、こたつ、ホットカーペットなどを一つひとつ捨てていく羽目になりました。それまで「あって当たり前」だったものを捨てるのは、やっぱり勇気がいりましたね。生活スタイルを一つひとつ見直さねばならないわけだから。たとえば私は毎日お弁当を作っていたので、ご飯はまとめて炊いて1食分ずつ冷凍保存することで時間のやりくりをしていたのですが、そんな生活の中で電子レンジを捨てるとなると、たちまち「冷凍ご飯をどうやって解凍すればいいのか」という問題が発生するわけです。どうしたものかと悩み、ふと思いついて、家にあった蒸し器で解凍してみた。そうしたらこれがなんと、ひっくり返るほどおいしかったのです!
掃除機も必需品だと思っていたんですが、かわりに昔ながらの職人さんが作った江戸箒(ほうき)を買って使ってみたら、これがもう本当に快適で! 壁に引っ掛けたほうきをひょいと手に取ってシャッシャッと掃けばすごく心地いい音がして、すぐ終わりです。掃除機をゴロゴロと物置から引っ張り出してきて、コンセントをつなぐというような面倒くささが一切ありません。それまで私は掃除が苦手で、部屋をきれいに保つことがなかなかできずにいたんですが、実は私が苦手だったのは掃除じゃなくて掃除機だったんだと気づいた(笑)。
そういうことが積み重なってくると、これまでなければいけないと思い込んでいたもの、ないと不便で絶対やっていけないと信じて疑わなかったものが、実はそうでもなかったということに気づき始めたんですね。いやむしろ、ないほうが快適なんじゃないかとすら思えてきたのです。そこで、最後には冷蔵庫や洗濯機まで捨てるに至ったという…。
しかし、さすがに冷蔵庫はハードルが高かった! 私は料理が好きで、食材もたくさん蓄えていたほうだったので、冷蔵庫がない生活なんて想像したことすらありませんでした。けれども、実際にやってみたら驚いたことにできちゃったんです。それどころか、慣れてくるとものすごく爽快で。冷蔵庫をなくすとストックがなくなりますから、食材が来ては使い、来ては使い、というサイクルができます。その結果、ものを死蔵させたり腐らせたりということがなくなって、すべての食材が生き生きしていると言いますか、自分の精神も流れていく感じがあってものすごく爽やかなのです。
やがて、「なければいけないものなんてあるのかな」ということが大きな疑問になってきて、そこで「アンプラグド」という言葉が頭に浮かんだのです。電気を使うということは、コンセントを差し込んでプラグにつながれているということです。そうやって便利な生活を享受してきた歴史が、社会の発展の歴史だったんだと思います。でもそうすると、次第にプラグを抜くことが恐ろしくなってくる。「あれば便利」だったはずのものが、いつの間にか「なければやっていけない」というふうに転化していったんじゃないか。
重篤な病気にかかった人が、いろんなチューブにつながれて栄養や薬を入れることで生命を維持している状態を「スパゲッティ症候群」と言います。それは人間の尊厳としてどうなのかという議論があります。現代人はもしかすると、私も含めてみんな、この「スパゲッティ症候群」なんじゃないか。そして私がやってきたことは、そのチューブを1本ずつ、「これは抜いても大丈夫かな? もしかして抜いたら死んじゃうかも?」と思いながら、恐る恐る抜き続けていったようなものだったんじゃないか。でも思い切って抜いてみたら意外にも全然大丈夫だったんです。そして最後には、今まではチューブにつながれてベッドで寝たきりだったのが、むくっと起き上がることができて、さらにはベッドから降りて自由に動き回れるようになった、私は自由になったんです! それは、この便利な世の中に生まれた私にとって初めての感覚だった。
節電していると言うと、我慢をしたり、耐えたり、無理にやっていると思われてしまうんですが、私にとってはそういう今の状態がものすごく自由で快適なんです。だからもし、「電気代は無料ですからいくらでも使っていい」と言われても、私はこの自由を大切にしたいので、きっぱり「いりません」と断言します!
お金がかからず心地よい生活
私は料理が趣味なんですが、冷蔵庫を捨ててから、作るもの、食べるものが劇的に変わりました。なぜかと言うと、保存がきかないので必然的に食材をちょっとしか買えないんですね。その結果、たくさんの材料を使うような凝ったものを作れなくなりました。
お手本にしたのは、冷蔵庫のなかった江戸時代です。とは言っても詳しい文献を調査したりしているわけじゃなくて、好きな時代劇を見て参考にしているだけなんですが(笑)。それにしてもあの時代の食生活は実にシンプル。基本的にはご飯を炊く、おひつに入れる、みそ汁、漬け物、以上。1、2品小さなおかずがつくこともありますが、せいぜいそんなもんなんです。〇〇風〇〇とかみたいなものは、当然ですけれど出てきません。ハンバーグも、グラタンも江戸時代にはないですから。
そんな食生活はつまらないと思う人も多いかもしれません。でも実際にやってみると、これが実にラクで快適なんですよ。年のせいもあると思いますが、日常的にそんなにごちそうを食べたいかと言うと、よくよく考えると実はそうでもなかったんですよね。日本人は結局のところ、ご飯、みそ汁、梅干し、漬け物と干物でもあれば、日常食としてはそれで十分に幸せなんじゃないかと思い始めています。地味な食事をしていると精神が落ち着くせいか、食べ過ぎることもなくて体調もいいんです。
しかし、まさかこんなことになるなんて、自分がいちばん驚いています。私はバブル世代で、ごちそうが大好きだったのです。いろんな雑誌を見たり口コミの情報を集めたりして、いろんな「おいしいもの」を探しては食べ歩いていましたし、レシピ本も30冊ぐらい持っていて、いろんな珍しい料理にもチャレンジしていたのです。でも冷蔵庫を捨ててから、ほとんどの本を人にあげてしまいました。家で食べる料理なんてそんなに難しいことを考える必要はなくて、本を見て作る必要もないということに気づいたんです。
野菜を買っても、せいぜい漬け物にする、塩もみにする、あるいは焼くくらいで、難しいことは全然していません。今日はなにを作ろうかと悩むことも全くなくなり、調理にかかる時間も大幅に減りました。10分程度でなんだかんだとできあがってしまいます。
保存のために「干す」ことが習慣になったことも、料理にかかる負担を大幅に軽くしてくれました。たとえば白菜を1つ買ったら、独り暮らしなのでとても食べきれません。そこで、4分の1使って、あとはベランダに干しておくのです。干すとしなびます。しなびるというのは水分が抜けることですから、味が凝縮してすごくおいしくなるのです。そして調理時間も、とても短くなるのです。塩もみにしても、水分が抜けているからすぐできあがります。揚げても焼いても、水分が抜けているのですぐ火が通ります。煮てもすぐ煮えて、しかも味が濃くておいしいのです。
つまりは干すことで、太陽が半分調理をしてくれているんですよ。あと風の力も大きい。ものを腐らせずに水分を抜く力を風は持っている。要するに、冷蔵庫があったときには全く利用していなかった、偉大な自然の力の存在に気づいたというわけです。この力は「タダ」でなんでもやってくれる。あとは多少のガスの力を使って調理して、単純なものを毎日、毎日食べています。
そしてこうなると、食費も全くかからないんですね。たとえば冬でしたら、白菜や大根など旬のものは巨大な大根1個でだいたい100円です。この大根を干したり煮たりおろしたりといろいろやっているうちに、1週間はおかずを賄えるのです。要するに粗食で旬のものを使って食べていたら、全くお金がかからないのです。だいたい1食200円もいかない。そうすると、夜にお酒を飲んでも食費はせいぜい1日600円くらい。そうなると「食べていくだけ」であれば、月に5万円も稼げばときどき外食もできる。もう十分にリッチなのです。
そうなってみると、家電製品って本当に私たちの暮らしをリッチにしているのかなと。そもそも家電製品ってすごくかさばりますよね。東京で暮らしていると、最もお金がかかるのはなんと言っても家賃です。冷蔵庫とか洗濯機とか掃除機とかテレビとかのために、月々どれだけの家賃を負担してきたかと考えてしまいます。さらに、家電を減らすとものも減る。たとえば洗濯機をなくすと、毎日手で洗うので干す場所も道具もそんなにいりませんし、雨が降ることを考えても下着類もタオルもふきんも3セットあれば十分です。そうすると、ものも収納する場所もいりません。狭い家でも十分広く暮らすことができるというわけです。
暑さや寒さを楽しむ
冷房を使わないようになって、すごく変わったことがありました。冷房があると、ちょっと暑ければクーラーをつけるという選択肢が、まずパッと思い浮かびますよね。でも私はその手段を一切捨てたので、暑さを受け入れるしかない。そうなると、いくら暑くても、単に「うーん、暑いな」と感じるだけなのです。不愉快だと思ってもしようがないですから、そうしていったん暑さを受け入れてしまうと、不愉快なほどの暑さの中にも微妙な涼しさがあることに気づくのです。すごく暑い日に外を歩いていても、むしろ涼しさのほうが目につくんですね。ビルの谷間で風が吹く、日陰に入る。すると、暑さの中にもものすごい変化があることがわかる。
私が最初にそのことに気づいたのは、ある夏の日に京都に行ったときのことでした。もう殺人光線みたいな日光が照りつける日だったんですが、ちょっと時間があったので、とあるお寺に行ってみたんですね。そうしたら、もう本当にびっくりするくらい涼しかったんです。風がフワーッと吹いて、お庭などの造りも含めて風の通りを計算しているので、冷房も何もないのにものすごく爽やかなんです。昔の日本家屋ってすごいなーと思いながら、庭の見える縁側に腰掛けて、風を感じながらずうっと長居をしていました。
ところがですね、驚いたことに、私の横を通り過ぎていく人たちが例外なく、「うわあ、暑い、暑い」とばかり言っているんです。「え?ここは涼しいじゃない」と思ったんですが、誰も「わあ涼しい」とは言わない。顔を真っ赤にして、扇子やうちわをひっきりなしに動かして、ひたすら暑い、暑いと。
それはたぶん、ふだん暑さを退治するもの、つまり冷房という手段を手にしているから。無意識のうちに「暑さはおしなべて敵である」としか考えなくなってしまってるんじゃないかと思ったんですね。それが習慣化されて、暑さの中にある微妙な涼しさに気づけなくなってしまっているんだと思うのです。
その人たちを見たときに、「なんてもったいない。こんな涼しさがあるのに気づかないとは、すごく人生を損している可能性があるんじゃないか」と感じました。それは寒さも一緒です。私は、実は寒さがものすごく苦手です。ですから、震災後の最初の冬に暖房器具なしでやってみようと決めたときに、もう本当に心細くて、唯一の熱源として火鉢を導入しようと考えました。
で、親の家にあった古い火鉢をもらってきたんですけど、もうこれがびっくりするほど温かくもなんともない(笑)。火鉢の真上に手をかざして、やっとその手が温かくなるだけなんです。
けれど、ものすごく寒い冬の朝、勇気を出してベッドから抜けだして、白い息を吐きながら冷たい床を爪先立ちで歩きながら「さあ炭でも起こすか」と心を決めて、コンロでパチパチと爆ぜる炭を眺め、それを火鉢に火を入れるまでの時間が、実にワクワクすると言いますか、本当に楽しいのです。冷たかった火鉢の中で赤々と火が燃えてきたら「やったー!」という感じ。圧倒的な寒さという心細い状態があるからこそ、わずかな熱源が本当に嬉しい。本当にそれは豊かな時間です。
結局、ものがあるとかないというのは相対的なことだと思うのです。たとえば暑い夏に冷房があったら快適だというのは、確かにそうなのです。でも、それは多くのことをべったりと塗り潰してしまって、微妙な涼しさ、微妙な幸せを覆い隠していくのだと感じたのです。それが冷房を止めてみたら、暑さを撃退していたときには見えなかった、ものすごく変化に富んだ豊かな世界があったんですよ実は。私にとっては今、冬の寒さや夏の暑さが人生のものすごく大きな娯楽になっているのです。もう全くお金がかからない娯楽ばっかり増えています(笑)。
捨てていって諦める
先日、50歳で会社を早期退職しました。本当にいろんな人から「どうして?」と驚かれまして、逆にそんなに驚かれるということに驚いたんですが、あえてその理由を一言で説明するとすれば、人生の折り返し地点を過ぎて、これからは人生を「閉じていく」ために、自分の生き方も考え方もギアチェンジしなければいけないと思ったのです。どの会社にも定年退職というものがありますが、定年で辞めるとなると強制的にブツッと時間を区切られる感じですよね。そうなると、心の中ではなんとなくいつまでも「拡大していく」あるいは「現状維持」のイメージでいたのが、突然ゼロに断ち切られる感じになるんじゃないか。それはあまりにも乱暴なギアチェンジじゃないかと思ったのです。
「閉じていく」ことを意識し始めたのは、体調を崩した親の元へ毎週通うようになったことも大きいです。当然のことですが、病気なら治すことはできても老化を治すことはできません。我が親もやはり、行くたびにできないことが増えていく。思うように手が動かない、腰が痛い。できないことや失っていくということを自分の中で受け止めて、なおかつ前向きに生きていくというのは、もう全く持って大変な作業だと実感しています。ですから、いつまでもなにかを欲しいとか、得ていくことばかりを考えるのではなくて、「なくしていく」ということを受け止めるための準備段階として、自分の持っているお金、人間関係、欲も、一つひとつ捨てていって諦めることを始めなければいけない。仕事を辞めて会社員である自分を捨てたのも、その1つなのです。
ですが実際に辞めてみると、捨てたつもりがなんだか新たな世界が開けてくるほうが大きくなってしまって、なぜだか辞める前よりずっと忙しくなっているんですね。ただ収入だけがなくなったという(笑)。でもそれが実に楽しいのです。実はお金と働くということはイコールではなく、お金をもらわずに働くということもたくさんあるなと。家庭の主婦ももちろんそうですし、子どもがお年寄りに対して元気に「こんにちは」ということで、そのお年寄りがすごく元気になる。それだって1つの「働く」ということじゃないでしょうか。
お金を稼いでいなくても、人のためになにかをするということは、働くということ、仕事と考えてもいいのかなという気がしてきたのです。そう思うと、仕事というものが実に自由で楽しいものに思えてきます。お金はもらえなくても、喜んでもらえたり、笑顔が返ってきたり、お返しになにかをもらったり、困ったときに助けてくれたり、いろんなものが返ってくるんですよ。誰かに雇われて給料をもらうということだけが働くということだと考えていた自分が、実に狭い考えに囚われていたんじゃないかと。
幸せの形は人それぞれ違うと思うのです。世間で言われる幸せというのは自分で考えたものではなく、コマーシャリズムが用意したものであることが多いんですよね。「痩せたら幸せになれる」「こんなにきれいになったら幸せになれる」「こんな洋服があったら幸せになれる」「結婚したら幸せになれる」「子どもを産めば幸せになれる」など、ワーワー、ワーワーみんなの耳元でがなり立ててきます。しかしそれはあなたのためではなくて、究極のところ商売のためにそう思わせようとしているんですよ。それ自体は別に悪いことでもなんでもありません。ものを売る立場としては当然のことです。でもそのことにあまりに無自覚に、知らず知らずのうちにそこに人生ごと巻き込まれてしまうと、あれが足りない、これも足りないと、ないものばかりが気になって、不安や不満ばかりが募ってきてしまいます。
私も長い間そんな人生を過ごしてきた気がします。でも節電でプラグを抜き始めたことをきっかけに、いろんなものを捨てていって、今までずっと「これがなきゃやっていけない」と思っていたものを思い切ってやめてみたら、実はこれまで考えてきた幸せの形の外に、これまで見向きもしてこなかったいろんな幸せがあるということに、気づくようになったのだと思います。だから今、とてもワクワクしています。やってみたいこともたくさんある。
今いちばん身につけたいのは、歌と踊り…ですかね(笑)。いや冗談ですけど、いやまるっきり冗談でもなくて、生きていくのに必要なものはなにかと考えたとき、もう私は必要なものはすでに十分持っていることに気づいたので、あとは自分で自分を楽しませるものがあったら完璧かなと。で、伴奏やカラオケなんてなくても自分で歌を歌うことができて、ダンスができたら、それこそ地球のどこにいても自分で自分を楽しませることができる気がするのです。
会社を辞めた直後、かねて念願だったインドに行ったのですけれど、インドではお祈りが歌になっていました。みんながお祈りを朗々と歌えるのです。人によって声の高さも節回しもいろいろなんですけれど、上手とか下手とかいうことではなくて、それがみんなそれぞれに実にチャーミングなんですね。それが本当にうらやましかった。人が生きるのに必要なスキルは、パソコンができるとかTOEICが何点とかいうことではないんじゃないか。それを一つひとつ、これからの人生で探していきたい、身につけていきたいと思っています。
(FM TOKYO「未来授業」2016年4月25日(月)〜4月28日(木)放送より)
(2016年7月1日公開)
https://www.blwisdom.com/linkbusiness/linktime/future/item/10544-202.html
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/688.html