そもそも「ペーパーカンパニー」を作ろうとする挙動自体、
「なんかやましいことでもするの?」と世非難対象となりうるはずだが、
やはり全うな人間のやることではないな、と思うのは、
こうして明るみに出た後で、
「 違法性がない」だとか、「非合法性はない」とか、または「知らなかった」というものまであり、
「使えるものはなんでも使え」という発想が最初から認識されていたということがまるわかりだということであり、よってふてぶてしい言い逃れだと知るところとなるのである。
こうした企業家全体の体質のもとで、よくこれまで全うな経済社会と言えたものだ、
労働社会とはよくやってこられたなというのが正直な感想。
まさに詐欺師養成所のような社会だと思う。
そこに本当の意味で人間的な価値、社会を牽引する”個性を発揮する”「人物」はいなかった(育たなかった)ということだ。
「やましさ」がないとするなら何もつつみ隠さず、
”すべて透明性を確保しろ”
と一括するくらいのすがすがしさがほしいところだ。
本当の国益を担う企業家を自負するものならそうした気概の元に自分を認めることができるのだろう。
政治家も当然そうだ。
宗教家もな。
すべて腐ってしまっている。
ここにあるのは人間性の性根の問題だ。
上記タイトルにあるように、
「立ち読み禁止の本屋で、”座り読みなら問題ないな”と認識するレベル」が、
ずっと容認されてきたというのは、なるほど正確な例えだと思った。
なら、これは著しく人間性が低下したことにより招いた問題だといえる。
「おいおい、そうじゃないだろ」
と釘を刺してやるまともな人間がいなかったということでもある。
これは自己保身にのみ走る人間(”自己中心的”とする言葉は主体性を単に言い表す言葉なので厳密に差別する)だけが社会の運営を取り仕切るようになっているため、
そうした「野放し」が正当性を持ってしまう訳で、
そこには何の自浄作用の効果も期待できない。
今回そうして明るみに出たのだから、以後改正されていくのは当然だが、
堀江貴文や木村太郎などが興奮気味に口すっぱく反対するのを見て、
相変わらず権力志向の人間が何かにしがみつづけるさまは見ていて、
落ちぶれた人間の哀れみをみるようで、しょうもな、と思う。
そもそも、大きな企業の看板だけが、社会経済に必要とされているわけでもなく、
競争力は常に資本の大きなほうに軍配があがるのだから、そんな仕組みはいらない。
結局それは人間的にはサイテーな結果を招くだけ。
小さな研究開発所がいくつも繋がりをもって、
単にそれぞれの求めるベクトルが寄り添うもの同士、そのつど手を組んで、
資本の手など借りずに、自分たちの夢を実現していけばよいだけである。
それには全体がまず、BI制度で、個々人がそれぞれ資金を集めあって手を組んでゆく、
そして同じ夢を実現していくというのがいい。
そうした過程で、自然と、多様な企業形態もまたそこから生まれていくはずである。
そこでの自然と個々人の夢はまた、全体にとって抱く夢として、
ベクトルを共にするはずだし、より自分たちの求めるところに素直に進んでいくことになるはずだ。
そこに驕りたかった指導者など要らないのである。
BI以降は税負担10%など誰もが当然、何の疑念も問題もなく支払えるのだから、
全体的な資本はまた個々人によりまかなわれ、
全体にとって必要と認められた研究開発なら、みなのカンパで支えていければよいだけである。
タイトルや上記にある本屋の立ち読みの例えは、本日のTBSのNスタ内で聞いたもの。