25年前から不正横行 三菱自の“隠蔽体質”作った本当の戦犯
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2016年4月29日 日刊ゲンダイ
三菱自動車・相川社長(右)も“お飾り”だった(C)日刊ゲンダイ
もはやこれまでか。
1991年から25年にわたり、法令とは異なる方法で燃費データを計測していたと発表した三菱自動車。相川哲郎社長は26日の記者会見で「知らなかった」と言い訳していたが、「自ら“お飾り社長”と認めてしまったようなものです」(同社中堅社員)。
相川社長はすでに辞意を固めているともいわれるが、四半世紀前からとなると、本当の“戦犯”の存在が気になる。いったい誰なのか。
「行く着くところは、当時社長だった中村裕一さん(故人)でしょうね」と同社OBが続ける。
「中村さんは89年に社長に就任。90年代前半にパジェロシリーズをヒットさせ、会社を急成長させた。ところが、パジェロ人気にあぐらをかき続けたせいで、業績は下降線に。95年に会長になりましたが、腹心の塚原董久さんを社長に据えて“院政”を敷いた。この前後からです、社内の隠蔽体質が一気に強まったのは。現場の声が経営陣には届かず、都合の悪い情報は徐々に部長クラスで握り潰されるようになっていきました」
その後のドタバタが、転落のすべてを物語っている。塚原氏は翌96年、体調不良と米国セクハラ事件で辞任。後任の木村雄宗氏も翌97年、総会屋利益供与事件で引責辞任。会長の中村氏も、さすがに相談役に退いた。
そのまた後任の河添克彦氏は、2000年に発覚したリコール隠しで同年に引責辞任。08年に業務上過失致死で有罪判決が確定した。
■グループ全体を覆う“闇”
その後は、資本・業務提携を結んでいたダイムラー・クライスラー(現ダイムラー)から外国人社長が送り込まれるなど紆余曲折があり、05年に現会長兼CEOの益子修氏が社長に就任。
「“三菱ご三家”のひとつである三菱商事出身の益子さんに、格下のプロパー社員が物申せるわけがない。隠蔽体質はさらに強まっていった。益子さんは再建のメドを立てたといわれますが、14年に相川さんを社長に据えたのも、相川さんの父親で、『三菱グループの天皇』といわれた三菱重工元会長の賢太郎さんを気遣ったもの。結局、益子さんも上の顔色をうかがうというグループ全体の“呪縛”から抜けられず、結果、このザマです」(前出の同社OB)“プリンス社長”の父、賢太郎氏は発売中の週刊新潮で「(対象車種に)乗っとる人は、そんなに騒いでないと思うんだけどね」などと、他人事のようにのたまっていた。
「現場の情報がトップの耳に入らない。三菱自動車、そしてグループ全体が抱える“闇”を象徴するような発言だと思いますね」(経済ジャーナリスト・岩波拓哉氏)
こびりついた闇をぬぐうのは簡単ではない。