原油価格は下げが一服したが資源価格全般はまだ下落が続いている
あるダンサーが株で巨万の富を築くまで
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160311-00108885-shikiho-bus_all
会社四季報オンライン 3月11日(金)21時16分配信
市場に大波乱を起こした原油価格は、下落にひとまず歯止めがかかった。しかし、原油に限らずコモディティー市場全体が大きく落ち込んでいることに変わりはない。ここ20年間、世界経済はコモディティーを中心に動いてきたと言っても過言ではないため、コモディティー価格の低迷は世界に大きな変化を引き起こす。
資源に頼っているアフリカでは中流階級は大陸全体で2000万人しかいないとされる。資源がもたらす富をテコにこの2000万人は3億人に拡大すると期待されていたが、資源安でその夢も遠のいた。政治にも変化が表れていて、あのネルソン・マンデラが代表を務めた南アフリカの与党、アフリカ民族会議は、今年の地方選挙でヨハンネスブルグなどキーの地域を失うと予想されている。
アフリカだけではなく中東においても大きな変化が起きるだろう。先日のイランの選挙では改革派・穏健派が歴史的な勝利を果たした。イランは経済制裁で原油輸出が制限されていたため、資源安がもたらす影響をどの国よりも早く経験していたことになる。
■ 「How I Made $2,000,000 In The Stock Market (私は株で200万ドル儲けた)」
今月紹介したい本は株式投資をテーマにした書籍の中では世界的な古典と呼べる一冊である。著者はハンガリーから米国に移民したニコラス・ダーバスで、時代は1950年代である。
トップダンサーとして知られるダーバスは妹のジュリアとユニットを組んで踊っていた。彼が株に関心を持つきっかけはカナダのナイトクラブのオーナーから株を買ったことである。その株は、実は当初、買うのではなくダンスパフォーマンスのギャラとしてもらう約束になっていた。
ところがダーバスは都合が悪くなりカナダに行けなくなる。約束を破ることになりクラブオーナーに申し訳ないと思ったダーハスは、ギャラとしてもらうはずだった株を、自分からカネを出して買い上げた。
株を引き出しにしまったまま数カ月が過ぎた。ダーハスは株価をチェックすると大化けしていることに気付く。その株は、カナダの鉱山企業の株だったのだ。いわゆるビギナーズラックだが、彼はこの出来事で株の魅力にとりつかれる。
その後の彼の投資家としての進化は典型的であるが、非常に面白いストーリーでもある。投資家として進化していく過程ではまずテクニカル分析に興味を持つが失敗する。次にファンダメンタル分析を試すがこちらも失敗する。最終的には両方を用いることで成功し、彼は自身のことを「テクノファンダメンタリスト」と名乗り、独自に発見したトレーディング手法のことを「ボックス理論」と呼んだ。
ボックス理論では、株は上下が決まっているボックスの中を移動しているとしたうえで、株価が既存のボックスの天井を超えて新しいレベルにたどり着くと新しいボックスができるとする。もちろん下への動きもしかりである。彼は常にレベルを切り上げている株を選び、逆にレベルを切り下げている株には逆指値の注文を置いて細かい損切りに心がけた。
ダーバスは個別銘柄のファンダメンタル情報も確認したそうだが、パソコンのない時代にあって一種のアルゴリズムを作って機械的にトレードしていたのは間違いない。彼の細かい損切りを今のようなボラティリティーの高い環境で行うのは難しいことから、当時の相場環境は今よりよほど安定していたことがわかる。
彼の投資のスタイルでもう一つ重要な特徴は、必要な情報だけを集めノイズには耳を傾けなかったことである。
ダーバスはダンスのツアーで世界を旅している間も株の取引を続けた。これはインターネットがない時代においては容易なことではない。注目している銘柄の値動きは毎日滞在先のホテルに電信で送らせた。時代は冷戦の真っただ中で電信には意味不明なティッカーや数字がたくさん載っているので、スパイと疑われ大騒ぎになったこともあった。電信なので本当に限られた情報しか来ないが、それでも彼は正しい銘柄選択ができたわけである。
ダーバスいわく「市場で流れている噂を耳にすることができなかったので成功した」。
彼はは単に運がよかっただけで、ブルマーケットにおいてたまたま大化け銘柄を選択したのだという人もいる。しかし、1960年の200万ドルはインフレ調整すると現在の金額で約1700万ドル(約20億円)に相当する。運だけで稼げる額ではない。私はこの本を英語のオリジナル版で読んだが、日本語にも訳されているのでぜひ一読をお勧めする。
エミン・ユルマズ/トルコ・イスタンブール出身。1996年高校3年生の時に国際生物学オリンピックで世界チャンピオンとなり、97年国費留学で来日。1年後に東京大学理科一類に合格、その後同大学院で理学修士を取得。2006年野村証券入社、投資銀行部門、機関投資家営業部門に携わり、16年から複眼経済観測所取締役。
※当記事は、証券投資一般に関する情報の提供を目的としたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。
エミン・ユルマズ