「「メディアの萎縮」は、必ずしも政権への批判記事が根絶されることを意味していない:小田嶋隆氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/19483.html
2016/2/17 晴耕雨読
自身への批判記事を「メディアが萎縮していない」ことの証拠とするこの人の見方からすると、政権批判が根絶されるその瞬間までは言論の自由が保たれていることになる。
→ 高市氏「メディアは萎縮してない」 自分への報道も例に:朝日新聞デジタル https://t.co/MJUkJmRvlF
「メディアの萎縮」は、必ずしも政権への批判記事が根絶されることを意味していない。
政権批判の記事を書くことへの圧力が高まって、批判の舌鋒が弱まれば、「萎縮」はその場所で起こっている。
「萎縮」の有無には程度の大小がある。
0か1かみたいなオール・オア・ナッシングのお話ではない。
絶命する瞬間までは存命しているわけだからオレが今こいつの首を絞めているこの行為は殺人ではない的な
戦前の日本にも政府を批判する人間はいたわけだが、政権批判の言論がかろうじて存在していたからといって、そのことは、戦前の日本において言論が萎縮していなかったことの証拠にはならない。
過去においてシャブを決めていた選手が何人かいたことが、プロ野球の世界で麻薬が自由化されていたことを証明するわけではない。
高市総務省の言い方を敷衍すると、たとえ10個のメディアが萎縮していても萎縮していないメディアが1つあれば、メディアは萎縮していないと結論して良いことになる。
睡眠障害なので寝言しか言えません
> A_T 萎縮しているメディア擁護でしょうか? すべて「政府が悪い」とは思えず、単なるメディア側の怠慢だと思いますが。戦前のように特高があるわけでなし。 すくなくとも小田嶋さんは萎縮してないですし、萎縮しないように矜持を持って生きるメディア人は少なく無いでしょう。
私のような偏屈な個人やニッチな夕刊紙が喚いたところでたいした意味はありません。
メインストリームの商業メディアを一定の程度であれ萎縮させることができれば、社会の言論をコントロールする効果は十分にあがります。
>伊藤 剛 こういうと叩かれそうだけど、いま安倍内閣打倒! 護憲! 反戦平和! 即時脱原発! 等と言ってるひとの多くは、先の大戦中だったら鬼畜米英! 非国民! と言ってたと思っている。 ようは「服従先」が違うだけなんだよ。
何らかの集団的な主張に与することを「服従」と見なす韜晦がアリなのだとして、それでも、戦前に「鬼畜米英」を叫んでいた人々と、いま「反戦平和」を訴えている人々を「無批判な同調者」として同一視する態度はあまりにも粗雑だと思う。
他人がサルにしか見えない人たち、ぐらいな新書の執筆準備にはいるべきかもしれないな
サブタイトルは「他人の頭の中味を信州味噌以上のものとして評価することのできない半可インテリの跳梁について」ぐらい。
5月発売で税抜き価格750円ぐらいでどうだろうか。
「安倍政権打倒」にもグラデーションとバリエーションがある。
「反戦平和」や「護憲」にしたって一枚岩じゃない。
もちろん周囲に流されて同調しているだけの人もたくさんいるのだとは思う。
それでも、戦前に「鬼畜米英」「非国民」と言っていた人たちと彼らを同一視することはできないな
大衆蔑視ほど大衆を魅了する思想はない、という大衆蔑視的言説
自分の砂場に自分の砂山を作ってその山の頂上に立って世間を見下す派の知識人というカテゴリーを提唱したい
胸糞の悪化を緩和するためにちょっと自転車に乗ってくる
安倍政権打倒や反戦平和の主張がお気に召さないのだとして、それならそれで、その主張を掲げている人々の資質を嘲笑するのではなくて、自前の理屈で安倍政権擁護なり戦争歓迎なりの論陣を組み立てにかかる方が建設的だと思いますよ。
余計なお世話ですが。
というよりも、心などというものはもはや老婆の中にしか残っていないのかもしれません。
RT @Kozuka 老婆心は煙たがられながらも一定の敬意は払ってもらっているが、爺の心なんてみんな一顧だにしないよね。
「1984」や「動物農場」の読者の中には、「愚かな大衆」というその前提の部分にひたすら共感している人たちが一定数いて、その彼らは、「無知で従属的で感情に流されやすい愚かな大衆」の姿が活写されていれば、それだけで、どんな物語であれ大好物だったりする。
大衆蔑視ほどインテリを魅了する思想は無い、というのは意味の無い言明で、というのも、そもそもインテリとは大衆を蔑視している人間を指す言葉だからだ、というのはうそ