米哨戒艇がイラン領海を侵犯、兵士が拘束された際、共和党から大統領選後まで解放遅延の要望か
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2016.02.13 03:07:13 櫻井ジャーナル
バラク・オバマ米大統領が一般教書演説を行った1月12日、ペルシャ湾でイラン領海へアメリカ軍の哨戒艇が侵入、10名のアメリカ兵をイラン軍が拘束した。ミスだったとして翌日に解放されているのだが、この哨戒艇には高性能のナビゲーション装置が搭載されていて、ミスとは考え難い。その装置が故障したとも報道されているが、かなり苦しい説明だ。17日にはアメリカとイランとの間で拘束されていた人の交換もあった。
哨戒艇の乗組員が拘束された直後、アメリカでは大統領候補のジェブ・ブッシュなどからバラク・オバマ政権の「弱腰」を批判する声が出ていたが、イランの治安部門を統括しているアリ・シャムハニ海軍少将は、アメリカの共和党から被拘束者の交換を大統領選の後まで延期して欲しいという打診があったと今月11日に語っている。
実は、哨戒艇の問題が起こった直後からアメリカの軍事専門家の間では、大統領選と結びつける見方があった。1980年の大統領選で共和党が行った人質解放遅延工作を連想したのだ。この遅延工作は拙著『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』でも触れている。
1979年1月にイランの国王がエジプトへ脱出、10月にはズビグネフ・ブレジンスキーの要求でジミー・カーター大統領は国王の「一時的な入国」を許可した。その翌月、テヘランのアメリカ大使館へ「ホメイニ師の路線に従うモスレム学生団」なるグループが乱入し、大使館員など52名を人質にとるという事態になる。このグループは革命防衛隊のメンバーだったようだ。大使館側は重要書類の破棄が間に合わず、アメリカが行っていた秘密工作の一端が明るみに出た。
アメリカの大統領選ではカーターが再選を目指す一方、共和党はロナルド・レーガンやジョージ・H・W・ブッシュが有力候補と見られていた。親イスラエル派はカーターがイスラム勢力に甘いと不満で、反カーター・キャンペーンを展開、イラン王制と深く結びついていたデイビッド・ロックフェラーも怒らせていた。
人質事件が引き起こされた翌月にCIAの元オフィサーであるマイルズ・コープランドがイスラエルの情報将校と接触、80年1月にはレーガンと近いマーク・ブライアンをイランへ派遣した。(E・R・コッホ、J・シュペルバー著、佐藤恵子訳『データ・マフィア』工作舎、1998年)人質の解放を大統領選の後まで延期させようと考えたのだ。投票日の直前に解放されると、カーター陣営にとって有利になると考え、それを避けたかったのだ。
ブライアンはレーガンがカリフォルニア州知事だった時代に同州の保険福祉局長を務めた人物だが、ベトナム戦争では軍医として「フェニックス・プログラム」に関係していた。このプログラムは解放戦線側を支持していると見られる地域で農民を皆殺しにしたほか、都市部で爆弾攻撃を仕掛けている。(前掲書)1968年3月の「ソンミ事件(ミライ事件)」はこのプログラムの一環だったと見られている。イランを訪問した際、ブライアンに同行したと言われているのがロバート・マクファーレンだが、後にマクファーレンはイスラエルの協力者だということが判明する。
1980年には共和党やイスラエルの代表がイランの代表でマドリッドやパリなどで秘密会談、実際に人質が解放されたのは1981年1月20日、レーガンの大統領就任式が行われた日だった。
この秘密工作については調査ジャーナリストのロバート・パリーたちも詳しく調査している。1993年5月に記者から「オクトーバー・サプライズはあったのか」と質問されたイスラエルのイツァク・シャミール元首相は「勿論、あった」と答えている。(Robert Parry, "The October Surprise X-Files", The Media Consortium, 1996)
この秘密工作で人質解放遅延の代償として共和党やイスラエルが提示したのがミサイルを含む兵器/武器の提供。イラン側の注文に応えるため、イスラエルはポーランドで入手していたが、まとまった量のカチューシャ・ロケット弾は手に入らなかった。そこで取り引きした相手が朝鮮だ。つまり、1980年代にイスラエルと朝鮮は武器取引でつながっている。内部対立が原因でこうした取り引きの一端は後に「イラン・コントラ事件」という形で表面化した。
今回、共和党は同じことを目論んだのだろうが、失敗した。当時のイランは兵器/武器は王政時代を引き継いでいるのでアメリカ製が基本。アメリカと交渉する必要があった。またアメリカの力は圧倒的だと認識されていて、イランの新体制内にもアメリカとの関係を修復する必要があると考える人がいただろうが、現在は違う。イラン側のアメリカに対する信頼度は大幅に低下する一方、ロシアという選択肢も現れ、イランの自立度は上昇している。今回もかつての「成功体験」でアメリカは失敗した。