第二章 第三節 「殉教」の世界史―イスラムのジハードと中国の刺客、その相似性
≪アメリカの常識は世界の非常識≫
アメリカの暗殺史を見ても、その実行犯たちは、ブース(リンカーンを暗殺)をはじめ、たいてい精神に異常があったと決めつけている。しかし、その「常識」が世界のどこでも通用すると思ったら大間違いである。
テロや暗殺が異常な精神の産物であるとは限らないし、また地球上の人間すべてがテロや暗殺を憎むとも限らないのである。むしろ、それとは反対に、やむにやまれぬテロや暗殺が尊敬される文化だってあるのである。
≪暗殺を肯定した大歴史家―司馬遷≫
古来、中国では刺客は尊敬の対象であった。一種のヒーローである。犯罪者、異常者扱いされるアメリカの暗殺者とは天と地ほどの違いだ。そのことは『史記』における「刺客列伝」の扱いひとつを見ても分かるというものである。
紛れもなく人類が産んだ最高の史家の一人、司馬遷は、刺客たちの生き方を賛美してやまない。「刺客列伝」を一度でも読んだことがあるなら、彼ら刺客が欧米の暗殺者とはあまりに違う存在であることに驚かされるに違いない。
欧米の場合、二つのタイプに分類できる。己の政治的信条を実現するために命をすてて実行するタイプ。「狂信者」である。もう一つはプロの殺し屋である報酬が前提、命は捨てない)。
ところが、「刺客列伝」に登場する6人の主人公は、こうした直接的利益を超越して行動する暗殺者である。始皇帝を暗殺しようとした荊軻(けいか)と並んで、聶政(じょうせい)は昔から「刺客の中の刺客」として中国では尊敬されてきた人物である。
聶政は韓の大臣、侠累(きょうるい)を暗殺し、自身も死んだ。聶政は侠累に何の恨みもなければ、会ったこともない。厳遂(げんすい)という男に頼まれたからであった。代理殺人だが、いっさい報酬らしきものが存在しない。厳遂と彼は親しくもなければ恩があったわけでもない。それなのに彼は自分の命を捨てて、侠累を殺した。
なぜ、欧米人から見れば「クレイジーな暗殺」に中国人は感動するのか。この理由を解き明かしていけば、おのずからイスラムにおける暗殺やテロの位置も理解できる。
≪聶政はいかにして刺客になったか≫
聶政が刺客となって壮烈な死を遂げたのは、何も世間的な名誉心からではない。聶政が求めていたのは単なる名声ではない。彼が欲していたのは、歴史の中に永遠に語り継がれていくことだった。
男子たるもの、かく生きるべし。
その模範を示して歴史に名を刻むことができれば、命なんて何が惜しいだろう。束の間のこの世の富貴など何になろう。中国人にとっての歴史とは、かくも重い存在なのである。
≪「歴史教」とは何か≫
死んで歴史に名を残せば、この世の幸福などかまわない。命だって惜しくない。まさにこの感覚は、宗教に通じるものがある。
中国の「歴史教」もまた、キリスト教、イスラム教、仏教などと同じ構造を持っている。中国における刺客とは、いうなれば「歴史教」の殉教者だったということになる。(刺客ではないが、文天祥の例も)
刺客こそ、正史に名を刻むべき人物である。
このような発想は、ヨーロッパやアメリカではかつて生まれたことがない。ヨーロッパでは暗殺者は歴史の主人公に生りえないのか(ブルータスとシーザーの例)。
その理由は、中国とヨーロッパの歴史観の違いに由来する。中国人は歴史を「普遍的・不変のもの」と考える。ヨーロッパ人は「変転するもの」と考える。 「古(いにしえ)をもって鏡となる」、これが中国人の歴史観である。
≪中国とイスラムの意外な共通点≫
司馬遷の「刺客列伝」は後世に多大な影響を与えた。自らの命を捨ててまで、永遠の大義に身を投じた刺客たちの生き方は、中国人をして感動せしめる。
ところが、その感動を欧米人たちは本質的に理解できない。
ところがところが、その「刺客列伝」に共感を覚えることができる人たちが、中国人の多にもいるのである。
他ならぬムスリムだ。なぜなら、イスラムの歴史観もまた中国と本質的に同じだからである。
≪なぜ、ムスリムたちは死を恐れないのか≫
イスラムの教えが踏みにじられたとき(イラン、パーレビの例)
ムスリムは命を捨ててもかまわないと考える。その姿はまさに中国の刺客と瓜二つである。
ムスリムにおいては、コーランのために命を捨てる。その偉業は永遠に讃えられるだろう。イスラム教を守るために死ねば、歴史の中で永遠に名を刻むだけではない。その人は緑園で、正真正銘、本物の永遠の生命を与えられるのである。
本来のイスラム教はけっして侵略的な宗教ではない。その点、キリスト教とは大違いだ。だが、そのイスラム教徒も、ひとたびアッラーの教えが踏みにじられたり、異教徒の側から攻撃を受けると命が惜しくなくなる。
≪イスラム・テロは「狂気の産物」にあらず≫
≪長い歴史を持つイスラムの過激派たち≫
イスラム教はその本来の教えの中に、いわゆる「過激派」を生み出す土壌を持っている。
マホメットが最終預言者で、コーランこそが最後の啓典である。その理想を守り続けるのがムスリムの義務であり、(それから外れれば)「正道」に戻すには、どんな手段も許されるはずだと考える人が出てくるようになる。イスラム教においては、ごく初期から過激派が存在した。
≪歴代のカリフを次々に暗殺した“イスラム過激派”の元祖―「暗殺教団」(アサシン)≫
≪イスラム法学者だけが「ジハード」を宣告できる≫
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