「「差別する側を追いかけていくと、その先に見えるのは、いつだって為政者の姿である。」:山崎 雅弘氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/18948.html
2015/11/30 晴耕雨読
https://twitter.com/mas__yamazaki
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テロを「カミカゼ」と呼ぶ海外メディアに右派が「一緒にするな」とヒステリー! 自爆テロと特攻は違うのか(リテラ)http://bit.ly/1LG0K1r 「日本国の神聖な特攻とテロを一緒にするな!」
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「特攻とテロは違う 英霊に対する侮辱」
「同じと考えてると言う事は『日本人はテロリストです』と言ってるようなもの。レッテル張りをする左翼はおかしい」
「右派やネット右翼は、自爆テロと特攻を比較しその差異を強調することで、神風特攻隊を美化、戦前・戦中日本を肯定していることにこそ、注目せねばならない」
「右派論壇の文脈では90年代半ばから、特攻隊員の『覚悟』や『精神性』を『公に奉じた』と評価することでナショナリズムを煽動するムーヴメントがあった」
「近年は特に特攻隊を“日本古来の伝統的かつ尊い精神”とし、よもや戦前・戦中日本に立ち戻れと言わんばかりの論が我が物顔で跋扈している」物事を単一面でしか捉えない思考が社会に広がっている。
多面体の対象を複数並べて、両者の間に存在する特定面の類似性を指摘することは、対象が全て一致すると主張する行為とは全く違うが、物事を多面的に捉える訓練を受けておらず、単一面でしか思考できない人間は、特定面の類似性の指摘に対して「違う部分もあるから同じではない!」と感情的に反発する。
自分の死を承知で自爆攻撃を行うイスラム過激派の行動に、第二次大戦期の日本軍の「特攻」との共通点を見出す諸外国の人々は、実質的な類似性に着目している。
日本軍の特攻も「所属する社会体制を守るため、という主観的大義を信じる戦闘員に、生還を前提としない自殺的攻撃を命じる」戦闘行為だった。
「自爆攻撃」も「特攻」も、人命や人権の価値に重きを置く社会では、戦争という緊急事態にあっても、戦闘行為の選択肢から外される。
戦中の日本は、国家体制を守るという主観的大義のためなら、国民の命をどれほど粗末に扱っても問題にされなかった。
現在の世界でも、同種の思考を持つ集団が存在する。
神風特攻隊の出撃開始から二か月後、政府情報局編集発行『週報』の1944年12月8日号に、大本営海軍報道部による「一億の神風隊」と題された記事が掲載されていた。
特攻が軍指導部の命令で始められたという事実は伏せられ、前線兵士の「やむにやまれぬ自発的発案」で始まったかのように説明した。
『戦前回帰』の中で、この記事の一部を転載したが、キーボードを打つ指先が微妙に震え、画面を見ながら呼吸が乱れたのを今でも覚えている。
主観的大義に思考を委ね、独立した個人としての思考を捨てた人間は、ここまで非情で冷酷な嘘の文章を書ける。
この戦争末期の大本営海軍報道部の文章と、論理構造も文体もそっくりな主張内容を、日本会議などの首相周辺の論客が、産経新聞などの首相系メディアで堂々と語るようになっている。
戦前戦中の政治思想や主観的大義に思考を委ねた人間は、人命や人権の価値に重きを置く思想を蛇蝎のごとく嫌い罵倒する。
戦前戦中の日本が、最終的に破滅的敗北という結末を迎え、長い歴史の中で唯一、国の主権を他国に奪われるという「史上最大のダメージと屈辱」を味わったが、それを招いた要因の一つは、外部の視点という客観的思考を捨て、ひたすら「日本の正しさ」から出発する主観的思考で戦争に対処したことだった。
国家神道の政治思想を今でも是認する人間は、「特攻」で死んだ軍人を際限なく賛美することを好むが、自己犠牲への称賛に光を当てれば当てるほど、当時の国家体制の非人道性が影となって見えなくなる。
逆に、特攻という行動を「非人道的」と認めてしまうと、当時の国家体制の非人道性が露呈してしまう。
『戦前回帰』の中で、特攻という軍事行動についても多面的に光を当てて分析したが、国家神道体制の復活を望む人間は、こうした多面的分析を頑なに拒絶する。
あらゆる問題を、「戦前戦中の日本は間違っていなかった」という結論から逆算して説明する。
「特攻隊」と「靖国神社」の関係について(Togetter)http://bit.ly/1Og22rg
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2014年1月に書いた、表題に関連するツイートのまとめ。
特攻や靖国神社を肯定・礼賛する人は、特攻を兵士に命じた当時の国家体制の責任を隠すための「ベール」としてそれを利用する。
安田浩一「『差別』『排斥』はニッポンの娯楽になってしまったのか?」(日刊ゲンダイ)http://bit.ly/21mgHoV
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「在特会は差別のハードルを下げた。そして社会は無自覚にそれを飛び越え、憎悪の連鎖を広げている。もはや在特会など必要としない。つまりそれは、存在感を失くしつつある在特会に代わり、社会そのものが"在特会化"したということだろう」
「差別する側を追いかけていくと、その先に見えるのは、いつだって為政者の姿である。差別的心情は上と下で呼応しながら、排他の気分をつくりだす。そんな社会を私たちは生きている。差別と闘うのか、差別に飲み込まれるのか。社会の力量が試されている」
在特会が差別のハードルを下げた、という指摘は重要。
百田尚樹氏などの首相周辺の人間も、メディアが拡声器として日本全国に伝達することを理解した上で、暴言や恫喝を発信し、暴言や恫喝に対する社会のハードルを力づくで押し下げて社会を荒ませている。
戦後の日本国憲法下の日本社会では、差別や偏見、暴言や恫喝は「良くないこと」とされ、道徳教育でもこれらの「社会を荒ませる言動」はしないようにと子供に教えられた。
憲法を別の物に差し変えたければ、戦後の日本社会で価値を置かれた、人権の尊重や平和主義などにダメージを与えて壊す必要がある。
第二次安倍政権の発足後、以前から社会の片隅あるいは日陰にあった差別や偏見、暴言や恫喝が、国会を含めた社会の中枢あるいは「日の当たる場所」に氾濫し始め、道徳教育も「人権の尊重や平和主義の重視」でなく「愛国心の醸成」へと転換されつつある。
道徳とはそもそも何かという問題は議論されない。
戦後70年間、日本で時間をかけて醸成された価値判断基準を根底から破壊し、人々の政治思想を別の何かに差し替えるためには、まず既存の社会にヒビを入れて「社会を荒ませる」ことが必要だと判断しているのかもしれない。
人々が大事にしてきたものに唾を吐いて傷つけ、もう守る価値がないと思わせる。