大同小異ではなく、一同多異でいこう
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2015-10-17 反戦な家づくり
共産党の国民連合の提案はマスメディアが珍しく(?)盛んに取り上げるので、多くの人が知るところとなり、賛同も寄せられている。
そして、案の定、やる気のない民主党に批判が集まっている。
共産党の提案は、小沢一郎がずっと言い続けてきたことであり、2013年5月には山本太郎が共産党を含めて呼びかけをしたことだ。
このときは、共産党は太郎さんの呼びかけを歯牙にもかけなかったが。
しかし、小沢さんや太郎さんの主張や行動は、よほど奇矯なことをしない限りマスメディアは決して取り上げないので、あたかも共産党が初めて呼びかけたように思われている。
まあそれはいい。
それでも、これまで野党の票を割ることしかしてこなかった共産党が、このような提案に踏み切ることはいいことだ。
たとえそれが、民主党は絶対に飲まないと踏んだ上でのパフォーマンスだったとしても、やはり原則的に提案は正しい。
私が気になるのはむしろ、この提案に対して賛同する声の中に 「小異を捨てて大同につけ」と、大同小異の主張が大きいことだ。
大同小異のワケは無いだろう。
安倍がやっている悪政の数々のほとんどは、実は野田内閣で始められたことだ。
原発、被爆、集団的自衛権、TPP、 そのほかにも数え上げたらキリが無い。
野田は、やり始めたけれどもやりきる根性が無かったので、より厚顔無恥な安倍晋三にバトンタッチさせられたのだ。
野田と安倍は直線でつながっている。
その民主党と連立するにあたって、「大同小異」のワケが無い。
どうみても、「小同大異」である。
共産党にしてもそうだ。
私個人が正しいと思う個別政策は、ほぼ共産党と同じだが、しかし、共産党と「大同」だなどと言われるのは、金輪際ご免被りたい。政策が共通ならば心が通じるというものではない。私は、共産党とはあくまで「大異」の関係だと自覚している。
それでもなお、共産党が提案した国民連合と選挙協力は、原則的に正しい。
それは 「小同大異」ではあるけれども、「一同多異」で、一点だけ共闘して実現しよう、という提案だからだ。
「大異」を捨てるのは、人間をやめるようなものだ。捨ててはいけない。
違うということを、お互いに知りつつ、尊重しつつ、一点だけ実現するまで休戦しようという期間限定の戦術は、きわめて正しい。
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ちまたの議論を見ていると、なんでこんなに頭が単純なの? と不思議になる。
「連立」や「共闘」と、「合併」や「吸収」との違いが、なんで分からないのだろう???
音楽で例えればわかりやすいだろうか。
「連立」はコラボ、「合併」はグループ。
あるコンサートやアルバムを実現するための一時的なコラボが「連立」であり、ずっと同じ音楽を作っていくために一つのグループを作るのが「合併」だ。
グループになるのに音楽観が大きく違っていたら困るだろうが、コラボするのにそんなことは関係ない。
むしろ、音楽観が違う方が、思わぬ効果が生まれたりする。
共産党の提案が、野党は一つの党になろう、ということだったら、たしかに「小異」だろうが「大異」だろうが、捨てることを意味する。
しかし、国民連合は、期間限定、目的限定のコラボレーションである。
大異を残したまま、一点だけ実現しようという提案だ。
繰り返しになるが、これに対して「小異を捨てて大同につこう」というのは、三重に間違っている。
まず、小異では無く大異である。
そして、これは捨ててはいけない。
さらに、国民連合はこれを捨てようという提案ではない。
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まった同じ意味で、国民連合に対する批判もまったくピンぼけである。
右からも左からも、「民主党が共産党と同じになるのはけしからん」 「共産党が民主党と同じになるのはけしからん」 と言い合っている。
申し訳ないが、バカじゃなかろか と思えてならない。
そもそも、同じになる必要は無いし、同じになれという提案でもないし、同じにならなくてもコラボはできる。
国民連合を巡る騒ぎを見ていると、戦後日本人に施された教育の効果をまざまざと見る思いだ。
政治的な思考も訓練もすべてスポイルされ、感情的な判断しかできないようにされてきた日本人。
できるだけ政治を「汚いもの」を思わせて、普通考えれば分かることを分からなくされてきた日本人。
とはいえ、国民がどのような判断をしようがしまいが、批判をしようがしまいが、国民連合は実現しない。
それは、民主党がそもそもそういう党だからだ。
これについては、以前の記事で書いたので繰り返さない。
気長すぎるように思えるかもしれないが、それでも私たちは、民主主義をゼロから、いや大きなマイナスから始めなければならない。
なぜなら、民主主義って何だと問うて、これだと答えられるようなものは、まった持ち合わせていないからだ。
やっとデモを始めたことを、喜ぶ気持ちは大切だが、そこから民主主義までの道のりは遙か遠い。そのことから目を背けてはならない。
70年にわたって実質的な植民地支配をされてきた現実をしっかりと見据え、その大きなマイナスから出発する気概をもたなければ、日本の民主主義は気長どころか永遠に訪れない。
残念ながら、その道程には戦争があるかもしれない、大きな混乱もあるかもしれない。
できるだけの抵抗はするにしても、民主主義が存在しない今の日本で、これを止める術はまだない。
なんとか間に合ってほしいとは思うけれども、そう思い立つのが20年遅かったいう悔恨が心を責める。
バブル崩壊からアジア通貨危機の時代に、せめて今と同じくらいの認識と動きがあれば、20年後の今は少しは民主主義が芽吹いていたかもしれないが、そんな後悔をしていても仕方が無い。
だから、今から20年後に、私たちの孫の世代が世に出て行く頃には、今よりはマシな、民主主義が少しは機能する日本にしておきたい。
そのために、何かが始めるべきか。原則論はこのくらいにして、次の論考からは行動論に話を移していこうと思う。