闘いの現場から何を読み解くか。
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15年09月25日 永田町徒然草
前3回に亘り、「<目撃> 憲法9条と国会は、こう破壊された。」を“連載”した。レポーターではない素人の私が、安保関連法案が“処理”される最後の3日間を、できるだけ現場に行ってそこで行われた演説や行動を見た理由をまず話そう。国会の採決は、極めてデジタルである。可決されたが否か。賛成何票対反対何票というのものだ。
しかし、そのデジタルな結果に至る過程が重要なのである。誰からどのような意見が出され、誰がそれにどう答えたか、そして採決はどのようになされたか。反対する側は、命懸けで行動するのである。否そうでなければならない。国会の規則に従って、多数派がこれを否決することは簡単なことである。しかし、そこに問題あるのだ。ギョッとする人もいると思うが、ガンジーの言葉に「私は多数決原理に反対である」というものがある。この言葉に接して以来、「多数決で決めることは決して万能でない」と私は考えるようになった。
今回政府から提出された安保関連法が憲法に違反するかどうかなど、多数決で果たして決められるのだろうか。憲法が示めしている法理によれば、憲法に違反する法律を国会は制定することができず、仮に国会で制定されたとしても“無効な法律”なのである。この法律によって国政を行うこともできなければ、国民を従わせることもできないのである。
自公“合体”政権が衆参で多数を持っていたとしても、多数決によって無効な法律を作ることは絶対にできないのだ。いくら“丁寧に説明”したからといって、無効な法律はどこまでいっても無効なのである。もしこれを政治的に解決する方法があるとすれば、今回の安保関連法案の是非を争点にして総選挙を行い、国民の過半数がこれを是とした場合のみである。だから、私は永田町徒然草No.1776「総選挙で決着を付けるのが正道」と主張したのである。安倍首相にそんな気概と度量を求めることは無駄であったようだ。
そして安倍首相と自公“合体”政権は、たまたま国会に多数の議席を持っていることをよいことに、極めて乱暴かつファッショ的方法で安保関連法案を“処理”した。これから各処から違憲訴訟が提起され、ここ数年間選挙で安保関連法案の違憲性が争われることになる。極めて大胆に予測すれば、自民党と公明党は、その存立さえ危ぶまれるほど追い込まれるであろう。まず来年の参議院選挙がそうなるであろう。
私は国会に行っただけではない。とても全部の反対行動・抗議行動に参加した訳ではないが、話題となった行動にはほとんど行った。この抗議行動から何を読み解くかは、ひとえに政治的感性による。その現場に立たずして、この抗議行動の意味することを読み解くことはできない。これから選挙協力を含む野党共闘や野党結集が模索されるが、それは今回の抗議行動の現場を読み解かずして決して進まない。大衆の心を鷲掴みにする政治力がなければ、政治的大事は成し遂げられない。
安倍首相がまたとち狂ったことを言い出した。“一億総活躍社会”だとさぁ!?担当大臣まで作って実現するんだってさぁ!? 国民の半数以上がソッポを向いているのに、どうして“一億の心をひとつにする”ことができると言うんだ。こんな安倍首相をまだ支持している人たちが30%以上もいるという。それは、北朝鮮並みのマスメディアのお蔭であろう。あまりこういうことは言いたくないが、まだ安倍内閣を支持している人は、いい加減にしてもらいたい。
このような状況を作っている責任のひとつとして、野党の“不甲斐なさ”があることを率直に言わなければならない。私に言わせれば、民主党とはじめとする野党は、勉強不足である。真剣さが足りない。謙虚さが足りない。努力不足でもある。しかし、耶律楚材の“一利を起こすは、一害を除くに若かず”を肝に銘じて野党共闘に汗を流すことに専念すれば、その中で必ず必要なものが生まれる筈である。野党も正念場にいることを肝に銘じなければならない。これらについてはこれから追々と述べることとする。
今日はこのくらいにしておこう。それでは、また。