石坂泰三氏(左)と土光敏夫氏。いずれも社外から東芝社長に就任し、経営を立て直した名経営者だ
東芝、改革精神に“ゆがみ” 歴代名経営者と正反対の「当期利益至上主義」
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SankeiBiz 2015/8/3 08:15
利益水増し問題で「組織的」な不正の存在が認定され、田中久雄社長ら半数の取締役が辞任する事態に陥った東芝。江戸後期に生まれた創業者の田中久重に始まり、石坂泰三氏、土光敏夫氏ら同社を発展させた名経営者の足跡から、難局を迎えた名門企業が立ち戻るべき原点とは何かを探った。
◆自主性尊重の土光流
調査した第三者委員会の報告書には盛り込まれなかったが、今回の問題には前相談役の西田厚聡氏と前副会長の佐々木則夫氏との対立があったといわれている。佐々木社長時代、西田会長が公然と経営を批判したことが、同社の“ゆがみ”を増幅させたようだ。
東芝の歴史をひもとくと、新旧の社長の対立を契機に見事に再生したことがある。石坂泰三氏は1957年、販売部門出身の岩下文雄氏に社長の座を譲るが、業績が悪化。岩下氏の経営手腕に不満を持った石坂氏は、石川島播磨重工業(現IHI)会長だった土光敏夫氏の招聘(しょうへい)に動いた。土光氏は65年に東芝社長に就任。回想録(私の履歴書)で、「与えられた責務は、減配続きの東芝の立て直しである」と語っている。
2013年、西田氏は佐々木氏を副会長に“棚上げ”し、会長に室町正志氏(現会長兼社長)を就け、社長には田中氏を抜擢(ばってき)。いずれも西田氏に近い人物で、起用が社内抗争を激化させ、今回の問題につながっていったとみられる。対立を次代に持ち込まず、しがらみなく社内の一致をはかった土光改革とは対照的だ。
第三者委の報告書では、「チャレンジ」と言われた過度な目標の達成に向けた損益改善要求が問題の元凶とされた。しかし、日本郵政の西室泰三社長(東芝相談役)は7月22日の会見で、「『チャレンジ・レスポンス』という言葉を最初に使ったのは土光さんだ」と指摘した。土光氏は従業員の自主性を引き出すために、事業部に大幅に権限を委譲。この手法に関して回想録では、「事業部が目標を達成出来なかったとき、『チャレンジ』する。その説明を要求し、議論を呼びかける。そこで、相手はすばやくレスポンスしなければならない」と語っている。
一見、今回問題になったチャレンジと似ているが、どうやら運用面で大きく異なるものだった。土光氏は「仕事の上では、社長も社員も同格なのである。その意識を持つには、ディスカッションするのがいちばんいい」とも振り返っており、議論を通して信頼関係を深めたようだ。今回、チャレンジの達成のために社長が事業部門のトップに圧力をかけた事実が認定されたが、その一方的な手法は土光氏のものとは正反対に見える。「いざなぎ景気」の追い風にも乗り、土光東芝の業績は急回復したという。
回想録には、工場を訪ねた土光氏を従業員が大歓迎し、自宅にまで遊びに来る者もあったと書かれている。「人は能力以上に働かなければならない」という信念を持つ土光氏だったが、従業員の自主性を尊重するか否かという点で、新旧のチャレンジは似て非なるものだった。今回の問題を受けて、経済同友会の小林喜光代表幹事は「組織論ではなく、いかに魂を入れるかが重要」と語っているが、土光氏の経営を振り返ってみたとき、この言葉は示唆に富んでいる。
土光氏はその後、経団連会長を経て、行政改革に奔走。質素な生活が取り上げられ、「メザシの土光さん」と国民的な人気を博した。東芝は今回の問題を受け、9月の臨時株主総会で経営体制を刷新するが、会社を一丸にして再生に向かって進めた土光氏のような手腕が求められている。
土光氏が「尊敬する石坂さんの頼みだから(東芝社長を)お引き受けした」と回想している石坂氏も、第一生命保険社長から東芝の立て直しのために招かれ、1949年に就任した。東芝の再生には、当時の従業員数の2割に相当する約5000人の人員削減が必要だったが、石坂氏は会社の現状を「難しい病気をもった重病人」と例え、「思い切って大手術をするほかない」と全従業員に呼び掛けた。経営陣を結束させ、労働組合幹部の説得には自ら当たって大争議を収めたという。
◆求められる実行力
現在の東芝も、会社の立て直しに向け一定のリストラが不可避とみられる。「選択と集中」を進めるために不採算事業から撤退することになれば、石坂氏のような実行力が求められそうだ。その後、経団連会長を4期12年務めた石坂氏は、「財界総理」と呼ばれる初めての存在になった。
東芝でトップが引責辞任するほどの不祥事は、87年の「ココム(対共産圏輸出調整委員会)違反事件」以来。これは、冷戦中に旧ソ連に対して軍事技術に転用可能な工作機械を輸出し、西側の国際規約を破ったという事件だ。実際に輸出したのは子会社の東芝機械だが、米国の世論による「TOSHIBA」バッシングが議会を巻き込んで過熱。当時の渡里杉一郎社長と佐波正一会長がそろって辞任するに至った。
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■紳士的な社風の弱点露呈
この事件がその後の東芝にどのような影響を与えたかを断定するのは難しい。しかし、東芝は創成期に「人の三井」と言われた三井財閥に入り、土光氏のような人格者に率いられたことで、穏やかで紳士的な社風が特徴となっていた。外交に影響を及ぼすほどの大事件に関与したことで、それまで以上に、模範的であろうとする従業員の育成につながったのかもしれない。
こうした社風は「公家」と言われ、「野武士」とされる日立製作所と対照的とされた。しかし、その東芝に、“異端児”が現れる。2005年に社長に就任し、過度な損益改善要求を始めたといわれる西田氏のことだ。
西田氏は、主に海外で経験を積んでおり、数字へのこだわりが強かった。第三者委員会の報告書には社長時代、業績が悪化したパソコン事業のトップを「こんな数字は恥ずかしくて公表できない」と叱責した様子が記されている。ガツガツと収益を求めるような雰囲気ではなかった東芝社内だが、トップである西田氏の号令に応じ、高い業績目標の達成に向け必死になったようだ。その中で少しずつ、不適切な会計処理による数字合わせを用いてまで、予算をクリアしようとする動きが出てきて、やがて常態化してしまった。
上司の指示に素直に従う「優等生」には、望ましい面がある一方、「当期利益至上主義」に基づいたトップの要求にも応じようとしてしまう。報告書で指摘された「上司の意向に逆らうことができないという社内風土」が醸成されたところに、達成困難な目標の必達を求める社長が現れ、“一線”を超えてしまった−。紳士的な社風の悪い面が、トップによって引き出されてしまったことが、今回の問題につながったとみられる。
「万般の機械考案の依頼に応ず」
東芝140年の歴史は明治初期、東京・銀座にこのような看板を掲げた田中久重に始まる。精妙な構造の時計やからくり人形、日本初の蒸気機関の模型、電話機などを“発明”した田中は「からくり儀右衛門」の異名を取った。東芝はスマートフォンに使われる記憶用半導体などで世界トップクラスの技術を持っており、創業時の進取性はまだ、失われてはいない。本来の力を発揮するためにも、今回の問題を乗り越え、新しい東芝として再生することが求められている。(高橋寛次)