現今の日本政治と悪政支援・公明党への批判論 !
公明党・創価学会は、大ウソを平然と公表 !
ファッショ自民党、飼い犬公明党 !
自公連立前の基本路線と真逆に大変質の公明党 !
T 公明党・創価学会は、黒を白と言いくるめるウソを平然と公表 !
(広原盛明のつれづれ日記:2014-07-21より抜粋・転載)
1)公明党は「補完与党」として「与党利益」を満喫 !
「社公合意」から16年で社会党は壊滅した、「自公連立」から15年の公明党は今後生き残れるか、「責任与党」にたどり着いた公明党の将来、維新と野党再編の行方をめぐって(その29)
自民党と公明党の実質的な連立は「自自公連立政権」の小渕内閣(1999年)に始まるが、自公2党だけの連立政権は小泉内閣の半ば(2003年)からで、以降、第1次安倍内閣(2006年)、福田内閣(2007年)、麻生内閣(2008年)と引き継がれる。
この間、毎年の如く、首相は替わったが、これを支える自公連立の枠組みは微動だにしなかった。公明党は「補完与党」として現世利益(与党利益)を満喫し、その見返りとして自民党への選挙協力を惜しまなかった。
2)公明党は理念を放棄し、ひたすら自民党に追随 !
公明党はまた「周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」(周辺事態法、1999年)および「イラクにおける人道支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」(イラク特措法、2003年)を自民党と共同提案して成立させた。
「補完与党」になってから新しく決定された、公明党綱領(1994年)からは、日本国憲法や憲法9条は、全て姿を消し(1字もない)、代わって「世界に貢献する日本」が、麗々しく掲げられた。
そして、小沢流の「今日、わが国は『経済大国』となり、また世界一の『債権大国』ともなっています。
従来におけるような日本のみの平和や繁栄を求める自国本位主義はもはや許されるところではなく、その経済力や国際的地位にふさわしい『世界の中の日本』の役割を果たすことが求められています」との文面が登場した。
3)公明党は、平和・憲法擁護も放棄、9条改悪閣議に賛成 !
「平和の党=憲法擁護=戦争放棄」を出発点としたはずの公明党がいまや「一国平和主義」の限界を強調し、「積極平和主義=国際進出=世界のなかの日本」を唱える時代が到来したのである。
ここまでくると、9条改憲は、もう「目の前」に来ていると言わねばならない。
2009年総選挙における民主党政権の成立と自公両党の惨敗は、自民はもとより公明にとっても政権を失うことの意味を痛感させたに違いない。
与党に返り咲くこと、それも自民の「補完与党」ではなく「責任与党」として連立政権を組むことが新たな公明党の目標になった。
そして、その悲願が達成されたのが、2012年総選挙での民主政権の壊滅による自公連立政権(第2次安倍内閣)の復活だ。この時点で、公明党はいかなる場合にあっても「与党の位置から離れない」と決意したのではないか。
4)公明党は、「解釈改憲」の「先導部隊」を実行 !
そのことが証明される事態がまもなく起こった。安倍政権が正面から9条改憲を掲げ、その前哨戦として憲法96条の国会発議条件を変えることで改憲のハードルを下げようとの策動を始めた。
しかし、国民の警戒心が強く、強行できないと見るや、今度は集団的自衛権の行使容認を閣議決定するという「解釈改憲」(立憲主義の破壊)に戦略を切り替え、その「先導部隊」としての役割を公明党に与えた。「連立政権の解消」を、最初から封印した公明党は、忠実にその使命を実行した。
「自衛権行使『新3要件』公明が原案、自民案装い、落としどころ」という西日本新聞の大スクープ記事(2014年6月20日)が暴露した舞台裏の事実は驚くべきものだった(公明党は否定できないでいる)。
集団的自衛権の武力行使の基準となる「新3要件」は、与党協議会座長の高村自民党副総裁が提案したものではなくて、実は北側公明党副代表が裏で内閣法制局に原案を作らせ、高村氏に手渡したものだったというのである。
このスクープ記事は、現在の公明党の到達点すなわちこの15年に及ぶ自公連立政権の積み重ねの中で公明党の「保守与党化」が完了したことを余すところなく示している。
公明党は、いまや率先して集団的自衛権の行使容認に走り、自民党をリードするまでの本格的保守政党に成長したのである。
5)創価学会もまた根本的に変質し、保守化・自民党化 !
私は公明党の保守完了化とともに、創価学会もまた根本的に変質したと思う。
創価学会は、これまで「平和を愛し、その実践のために活動する熱心な宗教団体」との外観を装い、与党協議が始まる直前の5月17日には、各紙の質問に対して、わざわざ集団的自衛権の行使容認について「本来、憲法改正手続きを経るべきである。
慎重のうえにも慎重を期した議論によって、歴史の評価に耐えうる賢明な結論を出すことを望む」との文書回答まで出していた。
それが僅か1ヵ月半後の閣議決定の翌日7月2日には、態度を豹変させ、集団的自衛権の行使を可能とする憲法解釈変更の閣議決定について、「公明党が憲法第9条の平和主義を堅持するために努力したことは理解している」、「今後、国民への説明責任が十分果たされるとともに、法整備をはじめ国会審議を通して、平和国家として専守防衛が貫かれることを望む」との180度異なる見解を臆面もなく発表したのである。
6)公明党・創価学会は、黒を白と言いくるめるウソを公表 !
だが、こんな黒を白と言いくるめるような詭弁(ウソ)をいったい誰が信じるというのだろうか。
おそらく創価学会員といえども、公明党が、「平和憲法の担い手」だと言い続けることは、今後難しくなるだろうし、またそれとともに人心が離れていくことも避けがたい。
社会党は、社公合意によって安保・自衛隊問題への態度を一変させて国民の期待を裏切り、自社さ連立政権の解散後は、国民の信頼を失って一挙に壊滅した。
社公合意から社会党が壊滅した総選挙までは僅か16年だ。
公明党が自民党と連立政権を組んでから今年で15年になるが、それと同じことが公明党では起こらないという保証はどこにもない。
U ファッショ自民党、飼い犬公明党、バラバラ日本維新・みんなの党
自公連立前の基本路線と真逆に大変質の公明党 !
(d.hatena.ne.jpより抜粋・転載): 広原盛明のつれづれ日記
★特定秘密保護法案の強行採決に反対する国会周辺の抗議デモ !
特定秘密保護法案の強行採決に反対する国会周辺の抗議デモをテレビで見ていて、半世紀前の安保闘争の光景がよみがえった。
あの時も国会周辺は万余の抗議デモで包囲され(私もその一員として参加していた)、安保反対のシュプレヒコールが怒涛の如く響いていた。
結局のところ安保条約は改定され、日米同盟がその後の日本政治の主軸となったが、国民の声を恐れた自民党政権は、その直後から改憲軍事化路線(岸内閣)から高度経済成長路線(池田内閣)へと政策転換することによってこの危機を切り抜けた。
60年安保闘争の主力は、総評と社共両党からなる統一戦線そして学生運動だった。国会では社会党が、3分の1を超える170近い議席(衆院)を擁しており、強力な議会闘争を展開した。
総評も「むかし軍隊、いま総評」と言われるぐらいの強大な政治的影響力を持っていた。
学生運動も健在で、学生デモは沿道の市民から拍手で迎えられるほどの存在だった。
誰かのセリフではないが、しかし「あれから50年!」である。
社会党は消滅し、国会内の護憲政党は全部合わせても10議席余り(衆院)に激減した。
総評も姿を消し、連合は秘密保護法の「ヒ」も言わない。
学生運動は今や死語と化し、学内では政治ポスターの1枚も見当たらなくなった。
国会を取り巻く抗議デモの光景は同じでも、その担い手はすっかり変わったのだ。
(昔の)革新勢力の端くれを自負する同人ブログ・『リベラル21』は、編集委員会名で11月26日付の「特定秘密保護法案は廃案とせよ」との声明を出し、私も執筆者の一員として署名した。
情けないことに私のできることはその程度で、(京都ではそれなりに反対運動に参加しているものの)もはや国会に連日デモをかけるような体力がなくなったのである。
★秘密保護法反対の動きは多様な国民諸階層・市民諸集団が運動に参加した !
その代わりと言っては何だが、今回の秘密保護法反対の動きは多様な国民諸階層・市民諸集団が運動に参加することで、安保闘争とは質的に異なる新しい政治局面を切り開いたように思える。
数々の団体や組織が反対声明を発表して抗議行動に参加し、その多様で多彩な顔触れは驚くほど広いものだった。
法曹界や言論人は言うに及ばず、芸術文化や学術研究の分野からも多数の人たちが反対と抗議の声を挙げた。
量的にはともかく質的には安保闘争をはるかに超える政治運動・社会運動が組織され展開されたのである。
日頃は「体制追随」との批判が多いマスメディアも、今回ばかりは少し違った。
テレビでお馴染みのキャスターやコメンテイターが挙って立ち上がり、精力的な批判活動を繰り広げた(だがNHKからは、誰も姿を見せず、ニュース9のキャスターなどはまるで他人事のような口調だった)。
新聞各紙も(特定紙を除いて)かってない論陣を張った。
新しい民主主義の担い手があらわれ、次の政治革新に向かっての重層的な政治的・社会的土壌が形成されたのである。
★安倍自民党・本体は、正真正銘の「ファッショ政党」であることを暴露 !
「ファッショ政党」を全国支援の公明党 !
これとは対照的に、政治の舞台での政党の姿は実に見苦しかった(醜悪だった)。
自民党は「アベノミックス」などで粉飾しているが、本体は正真正銘の「ファッショ政党」であることを暴露した。
かっては「右から左まで」といわれた国民政党としての面影は露ほどもなく、いまや自民党は「右ばかり」の極右政党に変貌したのである。
★建前の理念と真逆、公明党の実態は、自民党の忠実な「飼い犬」に過ぎなかった !
一方、公明党は、自民党にブレーキをかける存在などと言っていたが、その実体は自民党の忠実な「飼い犬」に過ぎなかった。それも主人の手を滅多に噛まない従順な飼い犬だ。
自公政権にとっては国民世論も民主主義もすべて死語と化したのである。
一方、日本維新とみんなの党はまるで政党の体をなしていなかった。
本質は極右政党でありながら、政治基盤が弱いために国民の批判を恐れて右往左往したのである。
政治危機の時には政党の本質があからさ
まになると言われるが、即席で作られた「寄せ集め集団」の実態が白日のもとに曝され、政党として統一した行動を取れなかった。
その結果が相次ぐ議場からの「退席戦術」と投票からの「棄権戦術」の連発となり、維新とみんながいったいどこへ行ったのかわからなくなったのである。
★強行採決で秘密保護法を通したが、政治的・社会的には深い手傷を負った !
自民党政権は、安倍首相の「してやったり !」の表情にも見られるごとく、目下、強行作戦に次ぐ強行作戦に終始している。
だが国会では、強行採決で秘密保護法を通したものの、政治的・社会的には深い手傷を負ったことは間違いない。
そして、この手傷は、今後の消費税増税、TPP参加によってさらに広がり「致命傷」に転化していくだろう。
自民党政権は60年安保闘争に政策転換したような「切り札」をもはや持っていない以上、残された道はアメリカ主導の日米同盟の道を進む以外になく、それはやがて、自公政権が消滅する道でもある。
*自公連立前公明党の基本路線
◆ 自民党の一党支配を打破し、新政権軸を目指す !
(1993年7月:石田公明党委員長)
「政治を刷新して、緊張感を持たせる、また、政・官・財の癒着を断ち切るには、どうしても二つの問題が重要になってくる。
1つは“政権交代のシステム”であり、もう1つは“抜本的政治改革”だ」
と主張しました。
◆政権を選択できる、二大政党制をつくりたい !
(1998年8月:浜四津敏子代表)