「報道ステーション」コメンテーターだった古賀茂明氏の降板問題で自民党から聴取されたテレビ朝日。そもそもテレビ局に「言論の自由」は存在しているのか?(画像:テレビ朝日より)
自民党がテレビ局幹部を呼び出したのは本当に「圧力」なのか
http://diamond.jp/articles/-/71372
2015年5月13日 窪田順生 [ノンフィクションライター] ダイヤモンド・オンライン
■NHKとテレ朝幹部を呼びつけた自民党 そもそもテレビに「言論の自由」はあるのか
少し前、自民党がNHKとテレビ朝日の幹部を呼びつけたことを、マスコミ各社が「圧力」だと報じた。NHKは「クローズアップ現代」のヤラセ疑惑だったのだが、物議を醸し出したのがテレ朝だ。
ご存じのように、「報道ステーション」の生放送中に、コメンテーターの古賀茂明氏が自身の降板について、官房長官からの圧力があったなどとぶちまけた件について、自民党の情報通信戦略調査会が対応等の説明を求めたのが、これがマスコミの琴線に触れた。
「言論の自由脅かすと批判も」(共同通信)、「放送法 権力者の道具ではない」(朝日新聞)、「民主国にあるまじき圧力」(琉球新報)、「ファッショの道へとまっしぐら」(日刊ゲンダイ)…無論、当事者であるテレビ局も黙っていない。日本テレビの社長は「極めて異例なこと」として、「圧力」と思われてもしかたがないという見解を示した。
たしかに安倍政権の政策やらに首を傾げる部分は多々ある。だが、マスコミが「我々はえらい弾圧を受けていますよ」という被害者面をしていることにはそれ以上の違和感を抱いている。
ご存じのように、公的性格の強いテレビというのは、放送法(第三条)で「政治的に公平であること」に加えて「報道は事実をまげないですること」が定められている。放送法違反を巡って、過去には国会の証人喚問も、総務省による行政処分もあった。
さらに言えば、「圧力」というのは、自由な言論を封じるために行われるものである。そう考えてテレビというメディアを見ると、「自由な言論」が担保されているとは到底言い難い。今さら、弾圧だ、ファッショだと騒ぐほどの話ではない。テレビ局がなぜ自由でないのか、詳しく見ていこう。
■新聞記者には許されてもテレビマンには許されないこと
たとえば、他の報道機関では当たり前のようにできることが、テレビでは許されない。それを象徴するのが、今回の報道でもたびたび引き合いに出された「椿発言問題」だ。
1993年7月、55年体制が崩壊して、戦後初めて非自民連立政権が誕生することになった歴史的な衆院選が終わってほどなく、テレビ朝日の椿貞良・報道局長(当時)が日本民間放送連盟の放送番組調査会でこんな発言をした。
「反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようとデスクらと話し合った」
第一次安倍政権や民主党政権誕生時の「朝日新聞」のハッスルぶりを思い出していただければ容易に想像できるだろうが、こういう“政権打倒トーク”はマスコミでは日常的に交わされる。新聞記者や週刊誌記者が酒を飲めば、やれどこの大臣がアホだ、首相の思想がヤバいだとかいう話に花が咲く。なかには鼻息荒く「オレが安倍の首をとる」なんてのたまう記者も少なくない。
だが、テレビマンがこれを言ったら「アウト」なのだ。
先ほども触れたように、放送法には「政治的に公平」というルールがあり、これを守るから独占事業者という立場が与えられている。朝日新聞なんかがお題目のように唱える「中立公平」はあくまでスローガンだが、テレビの場合は法的な強制力があるのだ。実際に椿局長は衆院政治改革調査特別委員会で証人喚問され、放送法違反とまではならなかったが、厳重注意となっている。
このようなテレビ特有の“縛り”に加えて、日本の大手マスコミには「記者クラブ」という、もうひとつの制約もある。ご存じのように、大手新聞社や通信社、テレビ局など、一部メディアの記者たちだけが所属する任意組織で、政府や官庁はこちらへ優先的に情報を流すのだが、こちらも放送法と同様に細かなルールがある。
たとえば、何をいつ報じていいか、どのように報じるかを定めた「黒板協定」が有名だ。「権力の監視」なんて胸を張るマスコミが、このような権力側が定めた“縛り”に甘んじているのは、このシステムで自分たちの優位性が保たれているからだ。
■記者クラブという“牧場”で記者たちを“家畜”として囲い込む
クラブにちょこんと座っているだけで自動的にペーパー(発表資料)が送られてくるので、最低限の情報は得ることができる。さらに、クラブ記者はさまざまな取材便宜をはかってもらえるので、クラブ外のジャーナリストやメディアとは比較にならないほど多種多様な情報にアクセスできるのだ。
だが、実はこのシステムの恩恵を記者よりも享受しているのは、なにを隠そう権力側なのだ。
広報窓口を一本化して効率を良くするというのは、表層的なメリットに過ぎない。記者クラブの真の旨味は、大手メディアを閉鎖的なコミュニティに囲い込むことで競争力を奪い、思いのままメディアコントロールをすることにある。
クラブの発表だけを報じていては単なる「官報」になってしまうので、記者たちはクラブ外で高級官僚やら政治家という権力側の人間にアプローチして関係を構築し、独自の情報をリークしてもらう。いわゆる夜討ち朝駆けというやつで、これがクラブ記者たちの取材の差別化となっている。つまり、いかに権力に肉薄するかというのが勝負の分かれ目なのだ。
権力側はこれをよくわかっている。というよりも、逆手にとる。横並びの発表にならされているだけに、「これはあなたにだけ話そう」ともったいぶって情報を流すと記者は喜んでこれに飛びつく。
元高級官僚の高橋洋一氏が「さらば、財務省」(講談社)のなかで、マスコミ記者というのは、何も知識がなく、官僚側が出すペーパーをくれくれとなんの疑いもなく食っている「ヤギ」のような存在だと書いている。この“ジャーナリストの家畜化”に、記者クラブという“牧場”が一役買っているというわけだ。
つまり、自民党が呼び出す遥か遥か大昔から、マスメディア、中でもとりわけテレビ局は、権力側からガチガチに自由を奪われているのだ。
それは今回、呼びつけられた幹部の顔ぶれを見てもわかる。NHKの堂本光副会長は昭和49年に入局後、政治部長、報道局長を歴任してきた。テレ朝の福田俊雄専務も朝日放送報道局報道センター政経担当部長やANNニュースセンター長などを歴任。先ほどの高橋氏の言葉を借りれば、おふたりとも筋金入りの「ヤギ」ということになる。
こういう権力側と二人三脚でやっていた人たちが、自民党に呼ばれたくらいでうろたえるとは考えづらい。萎縮するとかなんとかいう以前に、そもそも権力側が嫌がるところをねちっこくついてきたというイメージもない。
■ヤギ記者と権力のバトルはプロレスの「アングル」に似ている
ずいぶん厳しいと思うかもしれないが、これはなにも私だけが言っているわけではない。国境なき記者団が発表する「世界報道自由度ランキング」で日本は61位。大統領の悪口を書いた産経新聞の記者を起訴した韓国よりも低いし、見上げれば気に食わない記事を書いたジャーナリストをしょっぴくような国がゴロゴロ並んでいる。
これは裏を返せば、日本はジャーナリストを殺したり、監禁をしたりせずとも、きっちりと自由を奪うことができるという権力側にとって非常にありがたいシステムが機能しているということだ。
こういう根本的な問題に光が当たらず、「呼びつけ」やら「官邸からのバッシング」に大騒ぎする。こうなるともはや鈍感を通りこえて、わざとじゃないのかと勘ぐってしまう。
圧力をかけた、かけられたと騒いで、権力とは常に緊張感のある関係だということをアピールすれば、実は自分たちが従順な「ヤギ」であることが国民にバレずにすむ。「権力を厳しく監視するマスコミ」という存在意義も揺らがないので、新聞各社が主張する消費税の軽減税率にも都合がいい。
こういうのをどっかで見たなと記憶をたぐったら、子どもの時に熱狂したプロレスとよく似ていることに気がついた。ご存じのように、プロレスには「アングル」という、レスラー同士の対立を盛り上げて興業を成功に導く筋書きがある。リング上では殺すか、殺されるかみたいな死闘を繰り広げるライバルだが、控え室に戻ると「おつかれ」と挨拶を交わす同僚だったりする。
「報ステ」問題でバチバチやっていても、安倍首相と早河洋テレビ朝日社長は官邸でメシを食う間柄だ。安倍首相は朝日新聞とも犬猿の仲だというが、実際には一部の幹部は交流があって、そのコネで自民党総裁になった時は、どこよりも早く独占インンタビュー掲載を果たしている。
圧力があった、バッシングを受けた……なにやら“壮大なプロレス”を見させられているように思うのは気のせいか。