「原子力の父」正力松太郎と1955年の原子力平和利用博覧会について調べてみた。
まずは正力の略歴から。
正力は、東京帝国大学(今の東大)法科を卒業後、警視庁に入庁、昇進して特高警察の親玉となり、
中国・朝鮮人、無政府主義者、共産主義者などの弾圧、取り締まりを行なっていた。
関東大震災のときの朝鮮人虐殺を扇動、指揮したとも言われている。
順調に昇進していたものの、1927年に皇太子(のちの昭和天皇)の暗殺未遂事件(虎ノ門事件)が起き、
責任を取らされて懲戒免官となった。
そして当時売り上げ不振にあえいでいた読売新聞を乗っ取り、社長に就任した。
左寄りだった読売は、これ以降、極右の警察新聞へと変身、日本の侵略戦争の旗振り役となる。
読売新聞がいまだに極めて国家主義的、強圧的な体質を持っているのも、特高警察の体質を
そのまま受け継いでいるからだろう。
ゴミ売新聞と揶揄する人が多いが、むしろ読売特高警察新聞と呼んだほうがいいかもしれない。
大政翼賛会の総務でもあった正力は、敗戦後、A級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに送られる。
そのまま刑務所にいてくれれば日本も少しはまともになっただろうが、なぜか2年後不起訴となり釈放される。
米国の工作員となることを条件に無罪放免となったのは間違いない。
以降、米国の公文書が示す通り、ポダムという名で長期に渡り米国のためにスパイ・工作活動を行なった。
さて1950年代になり、原発はいよいよ実用化の時代にはいった。
米国は日本に原発技術を売って大儲けしようとしたが、第五福竜丸事件が起き反核・反米意識が高まり、
困難に突き当たってしまった。
そこで、工作員である正力を使って、原子力平和利用キャンペーンを大々的に行なうことにしたのだ。
それが1955年の原子力平和利用博覧会である。原発推進・安全キャンペーンの嚆矢と言ってよい。
何しろA級戦犯で長期刑をくらうところを無罪放免にしてもらったのだから、正力は御主人様の指示通り
東奔西走した。おかげで博覧会は大成功、全国11都市を巡回し、入場者は260万人に達した。
そして正力は政界に乗り出し、強力に原発を推進することになる。
1955年に国会議員に立候補・当選、翌56年、初代原子力委員会委員長、初代科学技術庁長官、国務大臣を歴任。
まさに八面六臂の活躍(暗躍)で原子力を推進、のちに「原子力の父」と呼ばれるようになる。
以下、原子力平和利用博覧会に関する朝日新聞の記事を引用する。
「2011年11月8日、朝日新聞の原発報道における罪の深さについてその2」 (一生活者の哲学的短文集)
http://shibabechi.web.fc2.com/fjouhougen.htm
-----(引用ここから)-----
=== 原子力博に36万人 === (朝日新聞・原発とメディア 24 2011/11/8)
1955(昭和30)年11月1日、東京の日比谷公園で、読売新聞社と米広報庁主催の「原子力平和利用博覧会」が開幕した。
ビキニ事件で高まった原水爆反対の世論を塗り替えるのが米側の狙い。読売新聞社主正力松太郎の側近だった柴田秀利によると、費用は「一切向こう(米国)持ち」だった(柴田「戦後マスコミ回遊記)。
展示の目玉は、実物大の原子炉模型や、人間の手の動きを壁越しにそのまま再現する「マジック・ハンド」など。12月12日までの6週間に36万7669人を集めた。
会場でのアンケートでは、原子力の平和利用が社会の幸福を増進するか、という問いに対し、92%が「増進する」と回答した(12月2日付読売新聞夕刊)。
博覧会で原子力は、「幸福の源」のように理想化された。一方で、米原子力委員会の原子炉開発部長ローレンス・ハフスタドの次の見方が既に一部に伝わっていた。
「原子力はせいぜい普通工場の燃焼室とボイラーを代用するものであり、(略)米国の工業経済に対し革命的な効果をおよぼすことができない」(富士銀行調査時報53年2月号)
博覧会開催中の55年11月、第3次鳩山一郎内閣が発足。2月に国会議員になったばかりの正力が国務大臣として入閣した(日本テレビ社長、読売新聞社主は辞任)。12月に正力は原子力担当となり、直後に原子力基本法など原子力三法が成立した。
正力は朝日新聞(12月21日付)のインタビューに、こう答えている。
「(原子力開発への)反対論がほとんどなくなったのでよかったと思っている。(略)"知識を広める"ということは非常に大切だと思うし、新聞の使命もそういうところにあると思うね」
原子力平和利用博覧会は56年1月以降、名古屋、京都、大阪で開かれ、57年8月までに他の7ヵ所を巡回。中国新聞、西日本新聞、北海道新聞など各地の有力紙が主催、後援した。京都、大阪会場の主催は朝日新聞大阪本社。立教大教授井川充雄(46)が確認した京都での開催に関する米報告書は、共催者に大阪朝日を選んだ理由について「もっとも影響力のある新聞社だから」と説明している。(編集委員・上丸洋一)
-----(引用ここまで)-----
驚くべきことに、この原子力平和利用博覧会は京都、大阪に続いて、翌1956年5月に
広島の平和祈念資料館(通称・原爆資料館)でも開かれた。
平和利用ということで、反対する声を封じ込めてしまったのである。
現在、原発を隠れ蓑に兵器用プルトニウムをこっそり抽出していることを知ったら、
広島・長崎の犠牲者たちはどう思うだろうか?
さて、この原子力平和利用博覧会では興味深い正力の発言が記録に残っている。
「正力松太郎『家庭用として原発を!』、中曽根康弘『原子力温泉として原発を!』−東日本大震災の歴史的位置」
(東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解くーPast and Present 2011/6/17)
https://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/06/17/
-----(引用ここから)-----
原子力開発を推進した中曽根や正力らは、原発の危険性を当初考慮していなかったと思われる。正力は1955年11月に「原子力平和利用博覧会」を開催した が、その際、協力したCIA文書によると、「展示してある小型の原子炉を購入したいので、今すぐ手配しろとほとんど命令を下すかのように正力がいったとする記述さえ出てくる。何に使うのかとたずねると、自宅に持って帰って家庭用の発電に使うと答えた」(有馬哲夫『原発・正力・CIA』 2008年 新潮社 124頁)ということがあったらしい。
中曽根も大同小異であった。1956年における原子力研究所の敷地選定の際、神奈川県横須賀市武山、茨城県東海村、群馬県高崎市、群馬県岩鼻村の四か所が候補に上がった。佐野真一『巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』(1994年 文芸春秋)には、
このうち高崎は、原子力予算を最初に提案した中曽根康弘の地元ということもあって、すさまじい誘致運動が繰り返された。高崎市の町なかには「歓迎原子力研究所」の横断幕がいくつも垂れさがり、誘致促進陳情団が、連日のように、バスを連ねて上京した。原子炉から出るアイソトー プを県内の公衆浴場などに無料で提供すれば、群馬は“原子力温泉”のメッカとして一躍観光化される、というのが、この運動の音頭をとった中曽根の持論だった。(佐野前掲書p550)
と、書かれている。まるで、「ラジウム鉱泉」ののりである。近年、「低放射線ならば人体に有益だ」と提唱した学者がおり、それにのってわざわざ福島まで出向いて「放射線」を浴びて体が良くなった感じがすると述べた代議士がいたが、その歴史的前提なのかもしれない。
-----(引用ここまで)-----
どうも、「原子力の父」は、その名に反して全く原発の仕組みを理解していなかったようである。
原子炉を家庭用ガス湯沸かし器に毛が生えた程度のものと思っていたフシがある。
原発推進仲間の中曽根康弘も五十歩百歩の理解だったようだ。
当時はまだ放射能の危険性についてよくわかっていなかったことは差し置いても、
原発の仕組みを少しでも勉強すれば、家庭用原子炉が簡単にできるわけもないことぐらい
理解できるはずである。
米国側も正力の無知蒙昧ぶりにあきれて、記録に残したのだろう。
いや、無知だから思うように操れて好都合と考えたのかも知れない。
こんな小学生並みの知識・認識で原子力委員会の委員長をやっていたのだから恐れ入る。
危険性や信頼性、コストをろくに検討することもなく、米国の言いなりで原発を強引に推進した結果、
地震の巣の日本に50基以上の原発が建設されてしまった。大事故が起きるのは当たり前である。
日本の原発の歴史を考える際、この「原子力の父」が反国粋主義者や在日外国人に弾圧を加えた
秘密警察出身で、戦後は米国の工作員になり、かつ新聞やテレビ・ラジオを支配して原発を強力に推進し、
しかも原発については基本的な知識すらなかった、ということは極めて重要である。
福島第一原発事故の原因もすべてここに端を発しているのだ。
正力は警察関係者や裏社会に深いつながりがあったのだから、言うことを聞かない組織や人間に対し、
脅迫、恫喝を加えるなど朝飯前だったろう。
東電も当初は原発に対して否定的、消極的だったという。安全性やコストを検討すれば当然である。
しかし1960年代初めを境に原発推進に切り替わった。おそらく大きな圧力が働いたのだろう。
原発導入を渋る会社や首脳陣に対する脅迫があったのかも知れない。
以前の投稿で、御用医学者を遡ると簡単に731関係者に行き着くことを指摘した。
米国に研究成果を提供することを条件に無罪放免となった731関係者の悪魔的精神が、
現在も受け継がれ、現在、福島で壮大な人体実験を行なっている。
政財界でもこの構図は全く同じである。
正力、岸信介、笹川良一、児玉誉士夫といったA級戦犯は、米国の工作員となることを条件に
無罪放免となった。
その悪しき国粋・拝金思想は全く断罪されることもなく子弟や後輩に受け継がれ、
今、日本を破滅へと追いやろうとしている。
祖父・岸信介に心酔する安倍晋三が、米国の言いなりになり軍国主義に走るのには何の不思議もないのだ。
原発の問題も追及すると、正力松太郎に、そして彼ら元A級戦犯が無罪放免と引き換えに築いた
対米隷属体制に行き着く。
この体制に終止符を打たない限り、いくら反・脱原発を叫んだところで何も問題は解決されないし、
日本の真の独立も再生も有り得ないだろう。
(関連リンク)
「『新聞は世界平和の原子力』って?」 (チベット香[ねこのお香や] 2013/8/6)
http://ameblo.jp/nekonookouya/entry-11587195263.html
「近代日本と欧米諸国(4)原子力発電」 (Matrix 2011/1/6)
http://d.hatena.ne.jp/m3953/20110106
「『読売新聞社史考』その2、正力松太郎考、その背後勢力考」 (れんだいこ評論集 2014/4/17)
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/mascomiron/yomiurishinbunco/history2.htm
「原子力発電と正力松太郎、読売新聞、米CIAをめぐる裏面史」 (五十嵐仁の転成仁語 20113/23)
http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2011-03-23