今月7日、イスラム教預言者モハメッドの風刺で有名なフランスの新聞社シャルリー・エブド社がイスラム教徒と思われる男2人に襲撃され、編集長や風刺漫画家など12名の方々が亡くなりました。亡くなられた方々やご家族のことを思うと本当に胸が痛みます。どのような理由にせよ、暴力によって人を傷つけたり命を奪うというやり方は決して許されません。このような事件が二度と起きないよう祈りつつ、事件の背景を考えてみたいと思います。
■預言者モハメッドの風刺漫画を掲載し続けてきた新聞社
報道によると、犯人の男2人は逃走の際に「預言者モハメッドの敵討ちだ」と叫んだといいます。この新聞社は以前からイスラム教で神聖とされている預言者モハメッドの風刺漫画を掲載し続け、火炎瓶を投げいれられたり、反人種差別法で訴追されたりもしている、イスラム教を風刺することについては筋金入りの新聞社だったようです。
このような編集方針を貫いてきた新聞社の真の目的が何なのか、残念ながら私には知るすべはありません。しかし、預言者として崇拝するモハメッドを風刺漫画で嘲笑されてきたフランスのイスラム教徒の方々の反発は容易に想像できます。今回の事件はある意味、起こるべくして起こってしまったともいえるのではないでしょうか。
■幼少から宗教教育を受けるイスラム教徒
シンガポールでは国民の約13%がマレー系イスラム教徒です。イスラム教徒の家庭に生まれた子供たちはほとんどが小学校入学の頃から週末にイスラム教の宗教クラスに通います。ここでは預言者モハメッドが神から啓示されたという聖典コーランの講義やお祈りの仕方などが教えられ、子供たちは日々の生活の中でどうマホメッドの教えを実践していくかを勉強していきます。
大人になってからも宗教と一体のは続きます。一日5回のお祈りは多くのイスラム教徒が行っており、毎週金曜日は礼拝所であるモスクでの祈りと年1度の断食月が教義で義務づけられています。また、大人が生涯を通じて聖典コーランを学ぶ宗教クラスも多くのモスクで定期的に開催されています。私のシンガポールの親友はイスラム教徒ですが、彼女も長年にわたり熱心に宗教クラスに参加していて、イスラム教についてわからないことを聞くと教えてくれたり、即答できないときには宗教クラスの先生に聞いたり自分で調べたりしてくれます。このように多くのイスラム教徒にとって信仰と日常生活は密接に結びついていて、祈りやコーランはなくてはならない大切なものなのです。
■宗教への侮辱とは何なのか?
今回の事件で亡くなられた新聞社の編集長は以前、NHKのインタビューに応えて「イスラム教徒を侮辱するつもりはないが、風刺や批判をする自由は許されるべきだ」という意味のことを話していらっしゃいました。しかし、風刺や批判される人々にとって、どこまでが侮辱で、どこまでがそうでないのかは本人でないとわかりません。
例えば、昨年12月、ミャンマーでニュージーランド人のバーのオーナーが「宗教侮辱罪」で逮捕されました。理由は、仏陀がヘッドフォンをつけているイラストを広告に使い、仏教を侮辱したから。実際にそのイラストを見ましたが、文字通りヘッドフォンをつけている普通の仏像で、私にはただのお洒落なイラストにしか見えませんでした。しかし、熱心な仏教徒の多いミャンマー人々の目には「仏教に対するたいへんな侮辱」と映ったのです。逮捕されたオーナーは「これが仏教に対する侮辱だとは思わなかった。たいへん反省している」と語っているそうです。
もうひとつの例は「Oh my God!」という英語のフレーズです。日本人でもときおり使っている方をみかけますが、キリスト教圏では4文字言葉とまではいかなくてもかなり「品の悪い言葉」と認識されています。理由は旧約聖書のモーセの十戒に「神の名をみだりに口にすることなかれ」という戒めがあり、「God」という言葉を使うこと自体が教えに反すると考えられているからです。ですから、多くの家庭では子供がこのフレーズを使うと親から注意され「my goodness!」や「Oh my!」などに言い換えるように教えます。
このように、いくら本人に悪意はなくても、こと宗教がからむと相手が「侮辱された」「不愉快だ」と思ってしまう場合も少なからずあるのです。
■ほとんどが善良で常識的なイスラム教徒
近年、アルカイーダやタリバンのテロ行為や非常に好戦的なイスラム国の台頭などにより、先進諸国ではイスラム教徒への風当たりが強くなっています。このような国々では、イスラム教徒だというだけで入国審査が厳しくなったり、女性ではヒジャブと呼ばれるスカーフをつけていると白い眼で見られたり、という差別が頻繁に起こっているようです。
しかしごく少数の過激なグループを除き、ほとんどのイスラム教徒はほとんどのキリスト教徒や仏教徒と変わらない、善良で常識をわきまえた人々です。にもかかわらずイスラム教徒であるというだけでいわれのない差別を受け続けていたり、大切に守り、心のよりどころとしている信仰が風刺されたり批判をされたりしていれば、どんなに平静を保とうとしても堪忍袋の緒が切れてしまう、ということもありえます。特に若者の場合は今回の事件のように鬱積した怒りが暴力となって噴出してしまうケースも少なからず出てくるでしょう。それがまたイスラム教徒に対する怒りや差別をうむという悪循環に陥っているように思えてしかたありません。
■言論と表現の自由は他人が大切にしているものを侮辱するためにあるのではない
以前、シンガポールの言論の自由について書きましたが、建国当初からさまざまな宗教や人種の人々が協力し合って国作りをしてきたシンガポールでは、とりわけ宗教や人種に対する言論と表現の自由は厳しく規制されています。仲間内の冗談ではあっても、マスコミを含め公式な場で侮辱的な発言をすることは決して許されません。
今回の事件をただ「言論の自由を暴力で封じる許せない行為」と切り捨て犯人を糾弾するだけで終わらせるのではなく、逆にこの事件を教訓に、自分たちと異なる宗教や信条を尊重し、多様なな信仰や考え方をもつ人々が調和して暮らしていくための「言論と表現の自由」とは何なのかを、もう一度考え直すべき時期に来ているのではないでしょうか。そして二度とこのような事件が起きない社会に変わっていけるよう、願ってやみません。
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