イオンに屈したダイエー 飢餓地獄から小売業日本一、没落の歴史を覆う中内功の呪縛
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140926-00010001-bjournal-bus_all
Business Journal 9月26日(金)6時0分配信
ダイエーの発行済み株式のうち44.15%を保有するイオンは9月24日、ダイエー株主にイオン株を割り当てる株式交換方式で完全子会社化すると発表した。昨年イオンがダイエーの経営権を握るまでの筆頭株主で、現在も4.99%を持つ丸紅と交渉中だという。2014年2月期末のダイエーの個人株主は12万人で、ダイエーは年内に臨時株主総会を開いて3分の2以上の賛成が必要な特別決議を行い、来春に株式交換を実施。東証1部上場も廃止する。
ダイエー系列の「ダイエー」「グルメシティ」の店舗数は約280店(8月末時点)。関東や関西にある店舗は食品スーパーに特化し、北海道と九州の約60店舗は別のイオングループに移管。また、18年度をメドに「ダイエー」の屋号をなくす。
ダイエー創業者の中内功元会長は、1970〜80年代には同社を日本最大の小売業にまで成長させ、流通業界のリーダー的存在として君臨したが、中内氏の原点は飢餓地獄の中から奇跡的に生還したフィリピン・ルソン島での戦争体験にある。かつて日本経済新聞社刊の著書『私の履歴書』で「アブラ虫、みみず、山ヒル…。食べられそうなものは何でも食う」「死ぬ前にもう一度すき焼きを腹いっぱい食べたいと、来る日も来る日も願った。その執念がこの世に私を呼び戻した」と語っているが、戦争とそれに続くマニラでの俘虜体験がエネルギーの源泉になった。
「神戸から2つの大企業が生まれた。ダイエーと山口組だ。どちらも焼け跡から這い上がってナショナルチェーンになった」。これは中内氏の有名なセリフだが、山口組3代目組長の田岡一雄氏も、欲望が渦巻く神戸の闇市から巣立った。焼け跡から出発して流通王にまで駆け上がった中内氏だったが、90年代後半から経営危機が表面化し、産業再生法の適用および産業再生機構からの支援を受けるに至り、その後は筆頭株主となった丸紅に経営権を握られた。
ダイエーはなんとか経営破綻は免れたものの、中内氏は芦屋市六麓荘町、東京・田園調布の邸宅、ダイエーの株式など数百億円といわれた財産は、ことごとく大手銀行に借金のカタとして取られてしまった。最晩年の唯一の収入といえば、自ら創設した流通科学大学の理事長として月々支給される30万円程度の給料だけだった。そして2005年9月19日、中内氏は入院先の神戸の病院で83歳の生涯を閉じた。六麓荘町の家は半年前に人手に渡っていたため、一度も亡骸を自宅に戻すことができず、大阪市此花区の正蓮寺にそのまま搬送され、近親者だけで密葬を済ませた。当時産業再生機構の支援の下で“脱中内”を進めていたダイエーは、社葬を催せる状況になかったが、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊氏、イオンの岡田卓也氏、西友の堤清二氏など、戦後の流通業界の黎明期を築いた人たちが発起人となり、流通関連11団体が合同で同年12月5日、東京・千代田区のホテルニューオータニで「お別れ会」を開いた。ちなみに六麓荘町の家の現在の持ち主は、パチンコ大手のマルハンである。
●V字改革、そして“中内商店”への回帰
「どうかもう一度、オレを男にしてくれ。みんなでオレを助けてくれ」。中内氏は1983年2月期の連結決算で初めて65億円の赤字に転落することが明らかになったとき、東京・浜松町オフィスの14階会議室に集めた幹部社員の前で、床に頭をこすりつけて号泣した。ここから、河島博・副社長を総指揮官とする「V革作戦」が始まる。ダイエーを手術するため、中内氏は当時日本楽器製造(現ヤマハ)社長だった河島氏をスカウトしてきた。
70年代はダイエーの黄金時代だった。大阪・千林店の開店からわずか15年目の72年、年間売上高で百貨店の雄・三越を抜き、小売業日本一に輝いた。すさまじい勢いで首都圏へ攻め上った。新規出店の際に中内氏はオープン前の店舗を必ず巡回し、品揃えが気に入らないと売り場の責任者を怒鳴りつけた。「モヤシが新鮮でない」といってザルごと頭からぶちまけられた野菜売り場の責任者もいた。
そんな強烈なリーダーに率いられたダイエーは80年2月期、初めて小売業で売上高1兆円を達成。次なる目標として4兆円構想を打ち出した。小売業の華である百貨店事業への進出を掲げ、フランスの百貨店オ・プランタンと提携した。百貨店の問屋ルートを確保できないまま、プランタンは神戸三宮、札幌、大阪千日前、そして東京・銀座と立て続けに出店したが、商品力の弱さは致命的だった。V革ではまず、百貨店事業の撤退に着手した。「過去の『ワンマン中内』を知る人には信じられないだろうが、私はこのとき、計画の立案から実行までのすべてを若手に任せた」(前出『私の履歴書』より)
河島氏は若手幹部を指揮して、利益を重視した経営へと軌道修正した。在庫管理を徹底して3年後の86年2月期決算では連結利益を黒字転換させた。V革が成功すると中内氏は第一線に復帰し、ダイエーは元の“中内商店”に戻った。河島氏は、中内氏が再建を引き受けたミシン製造会社リッカーの社長に飛ばされた。ダイエー本体からの事実上の追放である。さらにV革を支えた若手幹部たちは経営中枢から次々と関連会社に出され、多くは退社を余儀なくされた。
そして中内氏がやったことは、長男の潤氏を31歳の若さでダイエー本体の専務に抜擢することだった。「自らの復権と長男・潤を社長にするためのレールづくりに腐心した。これがダイエーが解体される元凶となった」と元役員は証言する。イトーヨーカ堂のオーナー、伊藤雅俊氏もこの時期、副社長の鈴木敏文氏を中心とする業務改革に取り組んでいた。成果が上がると伊藤氏は鈴木氏にバトンタッチし、伊藤氏は経営の第一線から退いた。さらに後継者とみられていた長男も退社し、その後、イトーヨーカ堂を擁するセブン&アイ・ホールディングスは日本最大の流通グループに成長した。危機に直面した2人のオーナーの対応の違いが、両社の運命の分かれ目となった。
編集部