藤原鎌足の娘、すなわち藤原不比等の妹が、唐の第三代皇帝・高宗の后になったと、能【海人】の台本に書いてある。また、香川県さぬき市の志度町には同様の物語が【海女の玉取り伝説】として遺っている。
しかも、第三代皇帝・高宗の后から鎌足没後に追善の宝物が贈られたことを考え合わせると、その后が則天武后であり、鎌足の娘は、高宗の崩御後に登位した武周の皇帝だったことになる。
◆海女の玉取り伝説<志度町<四国新聞社
https://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/densetsu/1/
時は千三百余年前、天智天皇のころ。★藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁いでいた娘は父の追善のため、三つの宝物を贈った。
しかし、都への船が志度浦にさしかかると、三つの宝物のうち「面向不背(めんこうふはい)の玉」が竜神に奪われてしまった。 鎌足の子の不比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度へ。海女と契り、一子房前をもうけた。不比等は数年後、素性を明かし、玉の奪還を海女に頼む。
◆能【海人】
http://www.city.nabari.lg.jp/hp/page000013000/hpg000012989.htm
房前の父である★淡海公(藤原不比等)の妹が唐土高宗皇帝の后になられ、藤原一門を供養する寺である興福寺へ三つの宝を送られた。しかしその内の一つの明珠がこの沖にて龍神に取られてしまった。淡海公は身をやつしてこの浦に来て、海人に玉を取り戻してもらうため、海人乙女と契りを結んで一人の子供(今の房前の大臣)を設けたのだと。
http://www.syuneikai.net/ama.htm
シテ「今の大臣淡海公の御妹は。もろこしの高宗皇帝の后に立ち給う。かの后の御氏寺なればとて。興福寺へ三つの宝を送らるる。花原磐泗浜石。面向不背の玉。ふたつの宝は京着し。名珠はこの沖にて龍神にとらる。大臣御身をやつし。かの玉をかずかせんが為にあま乙女と契りをこめ。一人の御子を儲け給う。今の房前の大臣とかや。
http://japanese.hix05.com/Noh/5/yokyoku501.ama.html
シテ詞「今の★大臣淡海公の御妹は。唐土高宗皇帝の后に立たせ給ふ。されば其御氏寺なればとて。興福寺へ三つの宝を渡さるゝ。華原磐{くわげんけい}泗濱石{しひんせき}。面向不背の珠。二つの宝は京着し。明珠はこの沖にて龍宮へ取られしを。大臣御身をやつし此浦に下り給ひ。いやしきあま乙女と契をこめ。一人の御子を設く。いまの房前大臣これなり。
◆則天武后 立后 永徽6年(655年11月上旬)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9#.E7.AB.8B.E5.90.8E
◆藤原鎌足 死没 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E9%8E%8C%E8%B6%B3
◆武周皇帝(則天武后) 在位 690年10月16日 - 705年2月22日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%87%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%90%8E#.E7.99.BB.E4.BD.8D
■こりゃぁ大変だ。中国と戦争しちゃダメだダメだ。中国皇室のお母さんは日本人女性だったんじゃないか。親戚だぁ。